田中一村論
今日2002年2月24日NHKの日曜美術館「田中一村 亜熱帯の理想郷」を見ながら田中一村作品集(昭和60年刊)を繰りながら書く。
絵の修業時代、あまたの巨匠の展覧会を飽きるほど見たが、巷間名画といわれる絵はそれなりに血となり肉となって残っているものの、一際深く心に残る作家達の絵がある。それは決まって異端と呼ばれ夢破れて思いのかなわなかった作家達の絵である。何かにつけて思い出すのは我が身と照らし合わせての感傷なのか、それとも根っからの異議申し立て人の性癖なのか、関根正二、村山塊多、甲斐庄楠音、田中一村などの画家達である。で?ふと田中一村の東京での最初の展覧会に興奮を持って駆けつけたことを思い出した。そして、芸術家の才能の発露は人それぞれ様々だということを思い知らされる。
初めてこの異端の画家が全国的に紹介されたのは日曜美術館「黒潮の画譜〜異端の画家田中一村」の放映によってである。1984年のことである。私はたまたまその番組を見ていた。その一年後だったか?東京の日本橋のデパートで「田中一村展」が開催されたように記憶している。私はその頃、ある芸術団体に所属していてめぼしい画家の展覧会など見尽くしていて展覧会に出かけるのは食傷気味のところであったが、家内と二人で興奮気味に駆け付けたことを覚えている。まずはその生き方に参ってしまっていて絵を見る前から泣きたいような気分にさせられていた。会場は熱かった。そして打ちのめされた。取るに足らない情報さえ飛び交うこの情報化社会において、この画業にしてよくもまあ情報の網の目から漏れていたことの不思議さを思う。それはとりもなおさずその奥にある画家の生き方の凄さを感じさせるからである。彼は悟りを目指す修行僧のようである。私にとっては幾度と無くあこがれた世界だった。というのはつい数年前までは私も都会のジャングルの片隅で独り部屋にこもりながら私の画業にいそしんでいた。孤独な作業。一心不乱に憑かれたように。狂気に近いほどかも知れなかった。ふと振り返れば潤いのない寂しい人生だ。このままストイックに修行僧のように生きていくか?それとも女と愛のまねごとでもしながらゆっくり行くか?絵描きの生活は楽ではなく概ね貧乏暮らしを余儀なくさせられることを考えれば独りで行くことの選択は真っ先に考えざるをえない。これは随分迷った。迷った末に安易な誘惑に負けてしまったという話になるのか?それとも人間らしい感情を取り戻したという話になるのか?まあ、同じ事ではあるのですが女と愛の巣を築きながら流れとして、やがては家族を希求するようになる。独りで行く選択は多分、天才願望・異端願望・自殺願望・その他諸々のマージナルな極みを目指した生き方に恐らくはなる。こうゆう危ない生き方に追い込んでいく選択も選択の一つとして確かにあった。ほんとに迷った。二兎追うものは一兎も得ずということではなく、一方が成り立てば一方は成り立たないというレベルのものだ。まあ、何かを選ぶ行為は何かを捨てる行為でもあるわけですから選んだ人生に肯定半分悔いが半分なのは世の習い、私は取り逃がしたもう一つの人生を歩んだ一村に思いを馳せながら感慨に耽っていた。
そして思い出したようにメールだけで芸術を語り会う匿名の友人・怪人マムさんへ次のようなメールをする。
アルチュール・ランボーのように十代で偉業を成し遂げ、母国のサロンで天才現ると噂になっていた頃には、とうに彼は砂漠の商人であった。「母さん、今日は僅かのお金にしかなりませんでした。明日はもっと儲けがあるように頑張りたいと思います。母さんには僅かですが送ります。母さん。」もはや「詩」というものをまったく失っていた彼は病のためやがて片足を失い若くしてのたれ死ぬ。時代より早く、自分の意識をも素早く飛び越して遠くへ行ってしまったランボー。スキゾフレニーの面白みはそこにある。
で?もう一つの人生。何か一つに拘り続けたパラノイヤの人生。
日本画家。若き日、秀才の名をほしいままに、でも荒ぶる魂の辿りつく果て、流れ流れて年老いて独り奄美の島のほったて小屋で倒れます。傍には自分で栽培した野菜とごはんを煮こんだ作りかけのおじやが独り分残されていたという。確か、NHK鹿児島放送局の記者が探し出した作家だと思ったが?最初の展覧会を見て、究極の絵描きの姿に感動し、しばし考え込みました。宜しければ意識の片隅にでも。もしどこかで読むことがありましたら、泣いてください。 白翔
怪人マムさんからのメールの返事だ。
渋谷の古本屋で見つけました。「神を描いた男・田中一村」小林照幸・中央公論社1996ですね。この場合の神はノロの神らしい。神は細部に宿る。奄美のアダンの実,ビロウジュの葉に、クワズイモの花に,見出した神を描いた画家としての田中一村を同じ奄美余所者組の陶芸家の宮崎鉄太郎の視点から書いている。一村に関する絵画論がもっと展開されていたらと思いますがそれなりに読ませます。これよりも南日本新聞社の「アダンの画帳 田中一村伝」(小学館)の方がしっかりまた淡々と彼の生涯を追っていて力作です。NHKの編集した「黒潮の画譜・田村一村作品集」には昭和22年の青龍社展に入選した(白い花)があり、彼の絵の非凡さが対象選択の非凡さに依拠している所がわかる。それが博物画の伝統というか系譜と言うものかもしれない。またそれが彼をして奄美に住まわせしめた理由だろう。「銀河見ゆ フクロー聞ゆ ねむの花」(注、一村の句)
「神々の深き欲望」を2,3ヶ月前にレンタルビデオで見直したのを思い出しました。これから大雪の肘折に怪人マム
そして又メールにて返事。
白翔です。「アダンの画帳 田中一村伝・・小学館」を手に入れました。「五十二年九月十一日朝、戸田さんは菜園に出てみて不審に思った。すでに日が高いのに、朝の早い一村がまだ起きていず、雨戸が閉まったままになっていた。胸さわざを覚えた戸田さんは、田中さん、田中さんと雨戸をたたいてみたが、返事がなく異変に気づいた。戸田さんは、毎朝この菜園に出て、一村とあいさつを交わすのを楽しみにしていた。異変は、午前八時二十分、名瀬署の浦上派出所に届けられた。検視の結果、死因は心不全、前日(十一日)の午後七時ごろ死亡したものと推定された。六十九才だった。一村は、四畳半の部屋に、頭を西に向けてうつ伏せに倒れていた。伸ばした右手の先には包丁が置かれ、左手は胸に当てられていた。畳に置いた板の上には、きざんだキャベッとすりばちがあり、鉢の中にはすりつぶした野菜が残っていた。かすかに下唇をかんだ無念そうな表情のあとが残ってはいたが、苦しんだ様子もなく、端正な死に顔には安らかさが漂ってていた。だれにも見とられなかったが、奄美の豊かな自然に抱きとられていったような、きれいな最後だった。生と死を分ける境界の線も、自らの手で鮮やかに引いてみせたような印象があった。」(アダンの画帳 田中一村伝 小学館)より
「銀河の果て、西国浄土の涅槃へと、フクロウの声聞きながらねむの花。 白翔」
「田中さんは、実に心のきゅらな(美しい)神様のような人じゃった。」荒ぶる魂が辿り着いた安寧の境地。果たして?
「一村は手元にあったピカソの絵を語り始めた。(ゴンゴラのイラスト)のページを開いていた。女性の肖像をデッサン風に描いた絵だった。女性の鼻は、金くぎのような線が一本引いてあるだけだった。一村はその鼻の部分を指さしていった。この線はすばらしいですね。この鼻の線一本で絵が生きている。こんな美しい女性像を見たことがありますか。宮崎氏には、何の変哲もない、曲がった一本の線にしか見えなかった。ただ、この髪の毛の線が一本、どうも気に入りません」と付け加えた。ピカソ画集を閉じると、一村は改めて座り直した。きょうはお許しを得て、絵の批評をさせていただきます。といい、新聞のカラー写真を広げた。正座した一村の目は鋭い光を帯びてきた。全身の血管が浮かび上がった。宮崎様、この絵から波の音が聞こえますか?開口一番、大きく鋭い声でいい放った。岩の上から垂れる潮は、まるで水道のじや口をひねったようで、勢いがありません。波も自然の姿とは違っています。これは波が退くときの絵です。絵と題名が合っていません。東山は、こんな絵を納めて恥ずかしくないのでしょうか?と一気に喋った。一村は日ごろから考えていたらしい批評を、語気も鋭く具体的に語りだした。宮崎氏は、大家の作品をこれほどはっきりと批評する一村の気迫に圧倒された。そして一村は最後に、きょうは、勝手な評言をさせていただきました。どうもありがとうございました。と頭を深く下げた。語り終えた一村は、胸のつかえがとれたというふうな表情だった。絵を、芸術を、思いのたけ語りたい様子だった。宮崎氏には、孤独の中で苦闘を重ねる一村の心情が切々と伝わってきた。」(アダンの画帳 田中一村伝 小学館)より
同級生だった東山魁夷の絵は一村にとっては偽物と映ったのだろう。一村の言を待つまでもなく、国民画家、求道者、「東山魁夷」の絵を静かに見つめ直すとよい。なんと甘ったるいナルシシストの絵であることよ。あからさまな求道者。この偽物め。一言あるのはなにも一村ばかりではあるまい。荒ぶる魂がいかに安寧の境地に達したとて、彼の生き方のすべてが静かな静かなしかし天地をひっくり返すような告発としてある。根源的な告発者「田中一村」一体全体、芸術家の存在意義とは?引き受けなければならない運命とは? 白翔
地球上で我物顔に謳歌していた恐竜達が何かの異変でふっと姿を消した時、洞穴の中で小さくなってひっそりと生き長らえていた哺乳類の先祖が地球のヘゲモニーを握り始める。時代はいつも何かの異変をきっかけに正統と異端との主役交代をすることがある。
「世が世であるならばあの人お殿様なんでしょう?ほれ、ご町内の生活保護を受けているあのご老人。」
そんな噂のように時代の方向が変わりさえしなければ後々に天才と謳われた芸術家達の死屍累々。時代は偶然にも又必然にも急に進路を変える。その狭間の中で消えて行った天才達の名がもはや人々の噂にのぼることは無い。その中には善意の者もいればろくでもない者もいる。歴史の支配・審判というのは時間差があるから駄作を山ほど描いていたにもかかわらず当時のアカデミーの中心へとすんなり滑り込んで権力を握っていた者達もいたのだった。そして滑稽にも体制と共にファシストのように思う存分権力を行使していた者もいた。ちょいと政治力でもあればチョロイもんだぜ、絵描きなんて。ははは・・・。ろくでも無い作品を描いていたにもかかわらずという評価は後々付けられたものである。当時としては歴史上かってないほどの最高傑作を描いていた大作家であったことは間違い無い。その反面、認められることもなく清貧のうちに死んでいった者達も大勢いる。ある朝、突然に評価の基準がかわり天才として発見される。ことも稀にある。作品や記録が残っていたとしたらだが・・・。至近の例では「田中一村」のように。ある朝、突然に、嵐のように。それはそれは歴史の気まぐれの審判は非情でござりまちゅ。
修行僧のような画家 田中一村。奄美一村逆光菩薩。やがて無我にて候や?
菩薩(ボーディーサットバ)とは悟りを求めようと決心した人のいいである。悟りとは生死を解脱してやがて涅槃へ至る道。そして一村は自力本願から他力本願への道へと辿り始める。
そもそも一村は若くして南画の名手として名をあげる。
田中一村の人となりは昭和60年発刊の田中一村作品集に掲載のNHKディレクターの松元邦暉氏の書かれたものが一番纏まっているかと思う。一村の手紙と共にめぼしいものを引用しながら追いかけてみたい。
「7才の時に児童画の天皇賞を授賞した。父にとっては自慢の息子だったらしい。米邨という画号を貰い南画の得意な早熟な少年だったらしい。19才で国民新聞社講堂で田中米邨画伯奉賛会が催された。その紹介文から想像するに、画商達が南画界の新人として売り出そうとした気配は読みとれる。絵に関しての一村の姿勢だが、直線的とある。目をかっと見開き、血管を青々と膨らませて、格闘でもしているように画布へ向かう姿は、見るものを夢中にさせずにはおかなかった。援助を惜しまぬ理解者も少なくなかった。しかし、彼にとっては絵は人生の目的であって、収入の道具ではなかった。理解者であっても絵を手放すときは、きまって後味の悪い思いがしたらしい。あるときなど、十数本の掛け軸を回収して全部焼き捨ててしまった。」(カッコ内は松元邦暉氏による)
一村は絵を売ることを「外道」と断じてはばからなかった。「売ろうという心が先立てば、どうしても素人にわかりやすい、妥協した絵になってしまいます。絵を描くときは、世界一の絵を描く気概こそ必要なのだ、と考えていた。」(アダンの画帳、田中一村伝より)
南画の画境とは文人趣味的な画法で、技巧性よりもその気韻・風雅を尊び、その折々の心の境地を自由気ままに表現しようとする独特な芸術である。言ってみれば文人の余技、刺身のつま。まるで大人騙しの落書きではないか?形骸化した形式主義のお手本を丸写しにしたような修練には我慢が出来ん。私はお習字のお稽古をしているのではないのだ。どこに新しい創造性があるというのだろう?思う存分技巧を凝らし絵描きとして極北を目指していた一村の精神の飢餓感は南画では満たされることはない。燃えさかるような煩悩の一村にはその境地はそぐわない。常に偽物の絵を描いているのではないか?といった違和感が頭を持ち上げるのである。画壇に評価された南画の絵が一村の心の叫びではないことなど誰よりも自分が一番良く知っている。幼い頃よりの手習いの小手先の才能に過ぎないことを。一村の心は苛立ち、荒れた生活を送るようになる。
「一村さんは絵のことになると別人のようになりました。と多くの人が証言する。絵は一村にとっては絶対的なもので、全存在をかけた闘いを意味していたらしい。だから、絵のことで議論が始まると、もう只では済まなかった。一村の議論は容赦がなく激越だったゆえ、絶交!の最後通牒を投げつけて幕が閉じたらしい。」(カッコ内は松元邦暉氏による)
一村が川端龍子と衝突して青龍社を去ったのもそういう事情だったらしい。昭和22年 39才、(白い花)で青龍社入選とあるから、中央画壇と縁を切るのはまもなくのことになる。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/shiroihana.htm
未熟な芸術家ほど自惚れが強く自信過剰である。これは真実である。芸術家の自信に満ちた天才意識ほど鼻につくものはない。それは狂気と裏腹のところがある。天才と狂気は紙一重と言われる所以である。彼らの中から後々、才能として脚光を浴びるものはいないとは言わないがほんの希である。彼の唯我独尊の美意識がやすやすと受け入れられることはないから彼の認められなかったときの挫折の落ち込みほど悲惨で目を背けたくなるものもない。もうそれは躁鬱病のように病と言ってよい。
「何故、私の絵が落選するような憂き目にあうのか?そんな馬鹿な。」
といった憤慨など公募展においては日常茶飯事のことである。あからさまなもめ事だってよくあることだ。一村が青龍展で「白い花」が入選した翌年、金泥をふんだんに使った自信作「曙光」が落選する。かわりに参考作品として出品しておいた「波」が入選したのであるが、一村はどうしても納得できなかった。
「なぜ曙光ではなく波なのですか。あなたの目は節穴ですか。だいたい人の作品を酒を飲みながら見るとは無礼じゃあないですか。」(アダンの画帳田中一村伝より)
曙光とは夜明けにさす太陽の光。わずかに見えた希望のきざし。一村はその絵の革新性に絶対の自信をもってつけた題名である。(2004年の段階でこの絵の題名は「秋晴れ」だという資料もある。一村亡き後、絵を整理した人の仮題なのかも知れない。同じ絵である。金箔の地に農家のたたずまいと共に落雷に撃たれて折れた木が中途から細い梢を一斉に出して天に向かって今にも伸びようとする墨絵である。その木に引っかけて干された数本の大根に白と緑の色がそこだけ鮮やかにさしてあって妙に生々しく吊されている。筆者には「曙光」という題名の方がぴったり来るのだが・・・?)当然ながら落選するような絵とは思えない。一村にしてみれば青龍展を天に導いていく作品のはずだった。師は嫉妬したのか?疑心暗鬼が渦巻き、彼の心の中には整理しようもない混沌と怒りがこみ上げてくる。潔癖と言うべきか性格的欠陥と言うべきか、一村は黙すことができない。そして、主催者の川端龍子に対して最後の言葉をとうとう口に出してしまう。絶交!自意識の重さに躓きそうな青春期ならいざ知らず、もはや若気の至りとはいえない不惑の年の出来事である。またしても潰えた希望の光に一村は耐えられなかった。そして自分自身をなおさら孤独の淵へと追い込んでゆく。
そんな煩悩を振り切るにはゴーギャンが全てを捨ててタヒチに旅立ったように一村も全てを捨てて南の島へ逃げるように移り住む。不惑の年から十年後。五十才にして無一物。奄美へ渡る。奄美に渡ってきたことの意味を知人への手紙でこう語る。
「いま私の全神経は、絵に向いています。さわられても、叩かれたように驚きます。実に楽しく絵をかいています。絵が楽しくなると正反対に、私の言動は狂人に近くなります。オランダのゴッホも、フランスのセザンヌも、執筆中の夏目漱石も、画室に於ける横山大観先生も、狂人同様であったことを想起して下さい。いま私が、この南の島に来ているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修行や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。....皆様は、私が一人ならば、何とか絵を売って、この南の島で生活して行くだろうと、簡単に考えていらっしゃる様ですが、未知の風景、植物、動物を調査し、写生し、絵に構成し、それを画の水準まで高めた上にさらに自分で売る程の精力の余裕が、私にあると思し召されて居るのでしょうか。私には猿回しや旅芸人のような生活力はありません。きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。千葉寺で米を買う金がなく、スイトンのゆで汁から丼(どんぶり)を洗った水まで、姉と一緒に飲んで勉強したことを思い出し、泣きました。」(昭和三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)
重大な決意をもって来たことが伺える。最後の絵の闘いにかける一村の決意がよく分かる。逃避や隠遁のかけらもない。私が本当に描きたい絵とは何だ?そこにあるのは真っ正面からの挑戦である。絵が描けることが本当に楽しそうである。しかし、生活は困窮し画業では懊悩する。プライドが高ければ高いほど懊悩は深い。その気高く尊い意志も苦しさ故に堕ちてゆきそうである。しかし、堕ちたところで懊悩は益々深くなるのみである。何度も試みて煮え湯を飲まされたところだ。
「ある知人は絵描きはパトロンがなければ駄目だと決めています。東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」(三十四年三月、中島義貞氏あての手紙)
病に倒れ生活に追われて美術学校さえも止めざるを得なかった一村の悔しさにあふれた言葉である。中央画壇に認められない悲しみとそこで活躍し出世してゆく同級生の名。胸をかきむしる一村のその対局にはいつも東山魁夷の名があった。
一村の絵に対する姿勢は若い頃から一貫しているように思う。気高さと潔癖性と向上心には妥協というものがない。結局、この姿勢を死ぬまで貫くことになる。絵描きにとって挫折無くしては向上することが出来ない。挫折感は自分の描いた絵に対しての不満という状態で表れる。プライドの高い絵描きほどこの傾向は強いが、挫折の多さをもって屈折というなかれ。屈折とは心のねじまがりなのであって停滞である。一村の長年の雌伏は雄飛する為の抑圧期である。長すぎるほどの抑圧。それはいつの日にかイマジネーションが限界状況を突破していくための溜なのである。はぐれものに特徴的な屈折が一村の生き方の中に認められるとは私は思わない。身を持ち崩すどころか益々天に向かって屹立している。むしろ一貫してあるのは一直線の向上心と一途な孤高の精神である。まるで狂気のように。ゆえに変わり者というそしりは免れ得ない。
一村にとって何故奄美なのか?この答えを出すにはなかなか難しい。
まずは見知らぬ土地で心機一転環境を変えて出直したい。それは同時に新しいモチーフに出会えるという望みもある。暖かい南の島であれば生活費も安くつくという目論見もあったろうか?白々しいと思いながら取りあえずその答えを書いてみたが、恐らく全部違う。文明の煩わしさに背を向けて熱帯のユートピアを目指したゴーギャンに継いだということもあったのかも知れない。これも違う。南の島だったらどこだって良かったかも知れない。北の果てということだってありうる。たまたま辿り着いたというのが正解だろうが、正確に言えばやはり追われているのだ。ひしひしと押し寄せてくる何者かに追われている。知らず知らずのうちについには端っこに辿り着いたのだ。よくぞここまできたもんだ。漂泊の思いが頭をかすめたかもしれない。だから一村ははたと気付いて大いなる覚悟をするのである。「私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。」・・・・もはや逃れるところはどこにもない!無論、頼る者さえ誰もいない。「きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。」
よって、どれだけ奄美の気候や習俗に感心があったのかは分からない。彼はユタや土地の伝承ネリヤカナヤの理想郷を研究しに来た民俗学者などではないのだ。ましてやビロウやソテツを調べに来た植物学者でもない。本土に過去を捨ててきた男。奄美に己を拾いに来た絵描きである。死に場所を求めに来たかというとそれも又少し違う。繰り返すが一村の手紙にあるとおり絵描きとしての充実した濃密な時間を取り戻しに来たのである。それはかってないほどの精神の高みに自分の心を持っていけるかどうかという試みである。絵描きにとってこの試みはたやすくはない。因みに多くの画家が実に多くの画家がこの試みのためにフランス留学を希望し都会のジャングルで孤独になりたがる。絵画の本場である土地で心機一転勉強を。それに本場のモチーフに出会えるという望みもある。伝説のパリの異邦人のように。南の島よりずっとハクがつく。見返りの利益のそろばんをしっかりとはじいたとて、都会のジャングルの誘惑に負けてしまって抱いた大望も砕け散り、目的を成し遂げた成功者はほんの少数だと聞く。脱落者の多くは絵描きにもなれずパリの片隅をさまよい歩いているそうな。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/adan.htm
アダンの木は全ての生命に恵みをもたらしてくれる南国の太陽がよく似合う。実は甘く丘ヤドカリにとっても恵みの木だ。ただ一村の描くアダンの木は孤独に振るえている。そして空は暗雲が立ちこめる。底抜けに明るい南国の光などはどこにもない。一村の代表作には南国のぎらぎらと照りつける日の光は見つけだせないのである。不思議な話だ。よって奄美の照りつける強い日差しや土地の習俗・宗教などに一村がどれほど影響を受けたかは分からない。奄美に決死の覚悟で渡りよそ者として一線を画していた一村がむざむざと奄美の習俗にどっぷりと浸かることなど私は信じられない。求道一直線頑迷居士の一村の気質から言ってそのタイプではない。熱帯の色とりどりの魚を描いたのは太陽の鮮やかな色に反応したからだが、物珍しさが先行して絵としては散漫で成功していない。絵描きとしてはどうしても手を出したくなる鮮やかな色であるのはよく分かる。何度か挑戦して恐らく満足はしなかったと思う。
もしも一村が50代で死んでいたならば田中一村という画家はあなたの記憶には残っていない筈である。もしも奄美に来ていなければ?という問いにも触れなければ不公平にもなろう。奄美の人に怒られる。その濃密な画面は奄美の杜でこそ到達できた世界だと言うことは出来るだろう。奄美の杜なればこそ対象を凝視する力が神懸かり的になれた。奄美のアニミズムの伝承がその導入部を果たしてくれたこともあるかも知れない。
「クワズイモとソテツ」の作品はむせかえるような生命力が横溢し南国独特のものである。この絵はじっくりとよく考えられて濃密に描いてある。この絵の構図と密度には不足というものがない。そして過ぎたるもない。一村も満足したに違いない。一村はこの作品によって確かな手応えを得た。
一村にとっての本物の絵を描くことこそ苦しい煩悩を浄化してゆくことにほかならない。自分にとっての本物の絵を描くことなくしては彼に救いは訪れてこない。この自分にとってということが厄介なのである。他人からの賞讃はあまり意味をなさない。飢餓感と達成感。不足と満足のいたちごっこは止まるところを知らない。この人類を発展させてきた究極の原動力を幸福の源泉と捉えるか不幸をもたらす迷妄と捉えるかは人それぞれに一筋縄ではいかない。少なくとも一村は飢えこそ私を高みに連れて行ってくれるものと信じこんだ餓鬼であり冥府魔道に踏み込んだ狼なのである。
「 狂った狼 死神先生 これは近頃の私のアダ名です。」(昭和四十八年二月五日 一村の手紙より)
やがて一村は奄美の大自然の中に魂のよりどころを見つけだす。おおらかな自然の懐の中でこそ困難にも耐えられる。南国の温もりの中でこそ孤独の寒さに耐えられる。奄美の杜は母の温もりにも似てガキの心にほのぼのとした明かりを灯してくれるのである。一村は亜熱帯の濃密な自然のいきぶきの中に闘いの場所を見つける。
母の胎内にも似た杜の中でマラリヤ熱に浮かされるように孤独の寒さに震えていた。杜の中というのは昼間でも薄暗く霊魂の気配がするものだ。むせかえるような草いきれと鳥の鳴き声、むっとするような風が吹いたと思うと首筋がひやっとしたり、耳のそばを物の怪がよぎるような気配がしたと思うと木の陰でぺたぺたと何かが歩く音がする。一村は草の上に独りうずくまる。360度の視覚が植物で覆われ、上空だって木々や葉に覆われて見えない。一村は剣を振りかざし杜の中で飛び交う百鬼夜行と格闘することになる。求めなければ見えないものに向かって。ドン・キホーテのように。
50才を過ぎた私にとっては一村の修行は懐かしい思いに駆られる。小学生の頃、講談本から引き継がれた剣豪小説というものに夢中になったことを思い出す。マンガにも映画にもなった。宮本武蔵、佐々木小次郎、柳生十兵衛、その他無名の剣豪達の修行の様子を胸躍らせて読んだりした記憶を思い起こさせる。何年も何年も岩と対決し、燕を見つめ、ある日、見切るときが来る。その時、「見えた!」と叫びながら岩を燕を真っ二つにするのである。
一体彼らは凝視の末に何を見たのか?対象の周りに巻き起こる陽炎のような現象はもの自体から立ち現れるものの神髄に他ならない。そこを見切って岩をも切るのである。コマの一つに「岩になりきらなければ岩は切ることはできぬ。」という台詞があったかどうか?剣の極意の帰結はいつも神秘主義の雲の中だが、凝視し対峙することによって己を虚しゅうして「もの」になりきることこそ剣の極意なり。嘘か真かよく分からないが、まことに禅的な態度である。
私には田中一村という絵描きの生き方がそれらの剣豪の生き方と重なるのである。道一筋の禁欲的な生き方。いかに生きるべきか?このテーゼが死の観念をぶつけることなしに成り立たないとするならば、「死中生あり」、死を覚悟することなしに生の活路は開くことはできない。艱難辛苦を我に与えたまえ。両者が重なるのは体質も考え方も目指したものも似ているのだろう。やはり一村は死を意識しながら死に向かって生きている。お通を振り切る宮本武蔵のように一村にも愛しき女の影がない。食い詰めていたとはいえ、凛々しい美男子の一村に手鍋下げても寄り添おうという女の一人や二人いてもおかしくはないのだが、求めることを潔しとしない。愛の物語としては寂しい人生である。西洋の食い詰め絵描き達には決まってむさぼる女の影がある。女と酒に溺れることこそミューズの神を掴んだごとく愛の物語を紬出す。エロスの愛も絵画において外すことの出来ないテーマである。彼らは人物表現の中にもろもろの感情を込めて描くのである。しかし、奥義を求める剣豪や悟りを求める修行僧が女の情を振り切ることなど最初の試練だったはずである。人恋しさを封印する。でなければ負けてしまう。一村の絵に人物の影がなかった理由もここらあたりにありそうだ。一村にとって軟弱な愛の物語はとんと見えない世界であった。
一村はもともと凝視の人である。あくまでも対決姿勢を鮮明にものの本質を分析し理解し浮き上がらせながら描く人であった。若い頃は溶け合うことなんか考えることすら出来ない。妥協なんか一切知らない。南画を嫌悪した理由もそこにある。奄美に渡ってきた辺りから見つめたものと対話するようになる。それに画面全体に目が行き届くように余裕が出てくる。木や岩や葉っぱを思い入れたっぷりに人間化するのはアニミズムの思想だが、そこで問題になるのは考える主体である自我の行方である。果たして、葉っぱと同じになった私はあるのか?物質化される自己。はらはらと散る枯れ葉を見てセンチメンタルな感情になるのはそのことに触れる為だが、その作業無くしては不公平であり自然の均衡を欠くことになる。宇宙との合一こそ東洋の智慧である。一村は果たして奄美の杜の中で宇宙との一体感をなしえたのか?
一村は朝から杜の中で座り込みながら一心不乱に対象を凝視し続ける。コントラストの強い真昼の太陽が過ぎてやがて黄昏時になるとようやく精神の集中力が高まってくる。枯れ尾花凝らして見れば幽霊かな。ましてや逆光で見つめればこれ以上霊魂の飛び交う濃密な状況はない。この状況こそ一村の待っていた時である。黄昏時こそ神懸かりになるための一村の儀式のようなものだったかもしれない。奄美ではビロウが神木なのだそうだ。天の神がビロウを伝って地上へ降りるという。そんな伝承が導火線となってあの墨絵のようなビロウの連作を描かせたのだろうか?実はこのような設問はつまらないと思っている。一村は奄美を描きに来たのでも、南国の風物を描きに来たのでもない。そんな観光客のような絵描きなど論ずるには当たらないのだ。一村がクリやくぬぎ林に居ればそれを使って彼の表現をやるし、花畑にいればそれを使って彼の表現をするだけである。対象がひまわりであろうが夕顔であろうがなんであれ彼の描きたい心象風景に到達する。いずれにしろ始めにイメージありき。無意識の原風景がまず始めにあるのが真実である。
実は絵描きの誰もが自分の描きたい絵にたどり着けるとは限らない。なんとも心細い話だが、世事に囚われて絵を描くとそうなる。立身出世や他人からの賞賛によってたやすくねじ曲がってゆく。そうでなくとも一直線の一村にして数十年の歳月と押さえに押さえた抑圧がイメージの進展には必要だった。自分自身を見失っても辿り着けない。一村はそこを振り切った。己の深層の無意識的な記憶を求めて深く沈潜する。やがて単なる写実ではない形而上学的世界の展開へと突入する。対象としての面白さを突き抜けて神秘主義的領域まで踏み込んでいく。それは一村の人生の中で脈々と培われてきた美意識の原風景のようなものに他ならない。恐らくこの世とはいかなるものぞという問いに答えうる結論に辿り着く。凝視の作家が真に癒されるのはこのときである。想像力のカタルシス。幻想のエクスタシー。日々の生活の困窮に耐えても尚いられる理由はここにある。「きょうは、山からヨモギを取ってきて、スイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。」
作家の内部を醸成してゆくイメージの進展は、ある日突然に飛躍する。心境の変化と言ってもよいし、自己探求の結果と言ってもよい。多くは時代の科学や哲学の進歩に歩調をあわせる。例えば、顕微鏡や望遠鏡などの光学器機の発明がそれを促進させることがある。今までみたこともない驚くような映像の体験によって視覚的経験は飛躍的な広がりを持ち、目に見えるものの窓口を多元的にするのである。そこでもたらされるイメージはモローやルドンなどの象徴主義派の想像力を刺激して、彼らの内的感覚と魂を揺さぶるのである。当時、印象派の画家たちの全盛期で、彼らはキャンバスを戸外へ持ち出し光が作り出す一瞬の光景を視覚的にとらえようとして、光の乱舞に戯れその光学理論に夢中になるのである。ところが、ルドンは目に見える現実だけをとらえようとした印象派を否定する。ルドンの「私自身」よりきらきらする言葉を抜粋する。
「彼らは事物にただ寄生し、ひたすら視覚的な分野にその芸術をはぐくんでいるにすぎない。それを超越するものについては、いわば目をつぶってしまったのである。」
「暗示的な芸術というものは頭に浮かぶ線のリズムと闇との神秘的な戯れによってうまれるのです。」
「黒を尊重せねばならない。何ものも黒を汚すことはできない。黒は目を喜ばせないし、いかなる官能をも呼び起こさない。しかし、それはパレットやプリズムの美しい色彩よりもはるかに優れた精神の代弁者なのだ。」
人間の内部に広がる無意識のイメージに目を向けたルドンの言葉である。象徴主義派の文学者ユイスマンスはルドンについて次のように賞賛した。
「それらの絵は想像もつかないような様々な幻を紡ぎだしていた。体の真ん中が人間の顔になっている恐ろしい蜘蛛。恐怖の夢に深く入り込んでいた。それらの多くは絵画の限界を突破し、きわめて独創的な幻想、病的で錯乱した幻想を創作した。」
合理主義の時代と呼ばれた19世紀の時代において、輝く近代の光に対して不合理な心の闇の部分をも併せて見つめたルドンの創作態度こそ現代に繋がるものに他ならない。むしろ不合理な暗闇の部分が大きく口を開けさらに浮上してきたのが現代である。もはや現代においては脳天気に目に見えるものを描くことなど無意味になりつつあるのだろう。目に見える全宇宙は、像と記号の倉庫であって、それが意味を持ち、価値を持つのは想像力の働きによる。すべてのものを自分の精神で照らしだし、それを他の精神に反映させることだ。一村が奄美の南国の太陽を追いかけなかった理由はここにある。
一村の原風景の中には熱帯の輝くような原色の色はなかった。最後の方の絵ではむしろ熱帯の色をきっぱりと捨てる。墨絵のような絵に辿り着くとは狂気の天才の到達点はこれだから面白い。墨に五彩あり。多分、南画をものしたときの墨と筆遣いの感触が蘇ってきたと言うべきであろう。腕にしみこんだ三つ子の魂が無駄になることなど何一つない。あれほど満たされなかった墨痕の匂いが南国の黄昏の杜の中で、まるで形を変えて表れる。あくまでも一村の描こうとしていたものは、思いの丈に技巧を凝らした濃密な画面である。絵描きの関心はいつもどこでもこのことだ。この画面の濃密さは凝視の濃密さによる精神の高まりによってしか得られないものだ。かっと目を開き血管を浮き上がらせながら絵筆を握る。その時、一村の血中濃度は最高を示しくらくらと倒れそうになる。若い頃からの一村の画面に向かう態度であるが齢60にして血中濃度をやっと精神にまで凝縮することが出来た。いやはや、芸術とはなんと時間的・精神的浪費の集積であることよ。同時に危険な闘いでもある。69才で脳血栓で倒れるまでよくもったと思う。その事についての面白い記述がある。
「対象となるものの全体を大まかに写生致します。それから、細部や明暗を丹念にスケッチしましてから、顔彩や水彩絵具、墨を用いてデッサンしてゆきます。自分が納得するまで、繰り返しデッサンをしますが、対象によっては数年間かかることもございます。そして、ようやく絵絹に向かいますが、中心を決めなければなりません。中心は絵の命です。ですから、中心を決めるのには、最低でも八時間はかかるものでございます。左目で三時間半、画布を凝視致します。もちろん、ただ見ているのではなく、構図を何百通りも考えてゆくのでございます。こうしておれば、神経が集中してまいりまして、血圧が上がってまいります。血圧が高くなるのは、画家として当たり前のことでございます。血圧が上がるようでなければ、いい絵は描けません。左目で見つめたあとは一時間ほど、冷水で額を冷やして神経を和らげます。そして、今度は右目で同じように三時間半、見つめ、構図を考えてまいります。こうしてようやく中心が決まりまして筆で第一点を打つことができ、線を引くことができるのでございます。画布に向かって絵筆を握っているときは尋常ではない緊張感と集中力が必要です。一瞬たりとも気を抜くことは許されません」(小林照幸「神を描いた男・田中一村」中公文庫1999、25p)
一村の微妙な薄墨の世界の荘厳さはこの世のものとは言い難い。彼岸の世界が鮮やかな原色の花々が咲き誇る天国と見るのは一村にとっては違っていた。一村ならずとも多くは薄墨の静かな世界だと感ずる方が多いのではなかろうか?色即是空。空即是色。の空(無)というイメージが墨絵の世界を感じさせる。あんなにむせかえるような生命力のクワズイモだってお釈迦様の傍らに咲いている蓮の花に見えてくるから不思議です。一村は杜の中で己の卑小さにうずくまりながら、光にすかして西の彼方に手を合わせたんだろうと思う。ご来光に手を合わせるように夕暮れ時にも夕日の茜空に向かって手を合わせる習慣は昔にはあったように思う。
夕焼けこやけで日が暮れてやまのお寺の鐘が鳴る。
お手手つないで皆かえろ、カラスと一緒に帰りましょ。
生きとしいけるものが皆帰ってゆく西国浄土に向かってである。
NHKの日曜美術館「田中一村 亜熱帯の理想郷」においてはネリヤカナヤの理想郷が提出されたが、無理矢理の感は否めなかった。
「奄美では海のかなたの永遠の神の国をネリヤカナヤと呼ぶ。人は死ぬとその魂だけがネリヤカナヤに行き、姿をチョウに変えて戻ってくると伝えられる。奄美ではチョウは死者の生まれ変わりだと言う。奄美の古い伝承である。」番組でのネリヤカナヤの説明としてこうあります。「夕暮れ時は人の住む世界と海の向こうにある理想郷とが結びつく時間と考えられていた。奄美の人々は夕暮れ時にいっそうネリヤカナヤへのあこがれを持つのでしょう。」フ〜ム?なんだかぴったりこない。一村の描いた世界は大乗的に包含して言えば理想郷と言うより彼岸の世界であろう。煩悩を一つ一つ克服し心が清められて辿り着く世界。到達点は西国浄土の涅槃の世界だろう。一村の修行僧のような生き方を見ていると、この言葉以外にあるまいと私は思う。杜の中でビロウの葉を透かして遙か無限の三千世界を見つめたときに阿弥陀如来の救いの光がさしてきたといった方がぴったり来る。
ところが?
次のような疑問が湧く。自然への合一、ものへの同化というなら、一村のこれ程までの細部への拘りは必要なのだろうか?という疑問である。宇宙と溶け合うからといってもものの境界が無くなり区別が無くなるはずもない。それに細部への感心さえも凝視する眼の質によって密度は相対的なものにすぎない。例えば写真に比べれば細部の省略は多い。例えばヤン・ファン・エイクに比べればおおざっぱである。こんな具合である。神は細部に宿るといった場合の神とは創造主のことである。神はあらゆるものを隅々まで差別化・細分化して作り給うた。15世紀のベルギーの画家ヤン・ファン・エイクが画面の隅々までも克明に描いたのは神を具現化しようとしたものだ。見えるはずのない世界をあたかも写し取るように克明に描いたのは、存在する物は全て神の創造物であるということを示すためであった。神の手と神の目を持つ男。それがこの画家の異名であった。「アルノルフィーニの肖像」という仰天するような名作が残っている。
アニミズム復権としてのものと精神の交感を思想的に煮詰めていったのはシュールレアリスト達であった。溶けだした時計はダリの精神の反映だが強引に押しつけられたものだ。マックス・エルンストはデカルコマニーという偶然的な手法を通じて宇宙との合一を目指したが彼の心境が己を虚しくしてといった態度であったとは信じ難い。ハンス・ベルメールは自分の作り出した人形をあたかも恋人のように偏愛する。もはや人形はものではない。彼も又、無私の人というより強烈な自我は暴力的ですらある。見つめる自我と対象との関係は様々である。西洋合理主義による近代的自我とは概ね批判的・対立的・暴力的な視線を持つ。あくまでも対象は対象である。西洋の彼らに比べれば一村の荒ぶる魂といえどもずっと東洋的であり、自力本願を目指す坊主のようである。対象を見つめる眼が優しい。一村のアダンの木の作品をそっと見よう。そこには不安に立ちすくむ孤独な存在がある。クワズイモの作品もうねるような生命力を主張する存在がある。いずれも一村はものそのものに入り込んでしまった。もはや見つめる対象を鏡に己自身をみているのである。一村の見つめたアカショウビンはただのアカショウビンではない。思い入れたっぷりに象徴的色合いがこびりついている。ビロウだってソテツだって何かの化身なのである。いつしか一村は己を虚しゅうして無我の境地へ入っていった。やがて視線は夕暮れの西の空を見つめ始めるころから他力本願への道を希求し始めたのではなかったかと思う。その時、画面は無限の深さを獲得したように思う。
一村の用いた縦長の画面について言及しておきたい。恐らく掛け軸へ仕立てることのイメージが日本画家である一村の頭にあったのだろう。この縦長の画面には横長の画面での遠近法で醸し出す悠久の広さの表現には向いていない。滝の長さを表現するにはぴったりだが、海の広さを表現するには不適切な画面である。「井の中の蛙大海を知らず。」一村の若い頃のようだが、実はこの後があるのだという。つまり、「井の中の蛙大海を知らず。ただ、空の深さを(青さ)を知るのみ。」一村が杜の中で木々や葉っぱの透き間から覗いた空の無限の深さを画面に描きこんだのはその深さを知ったときからだった。この時の一村の存在はわずかな隙間を通して外の様子を伺い知る胎児のようである。希望と不安をないまぜに肌を透かして舞い込んでくるやわらかい光を感じながら異次元の世界へ飛び出ることを夢見ている。救いは光の彼方から。光の来るあの先に救い主は鎮座ましましておわします。独断と偏見に強引さを振り掛けて言うなら、一村はすがるように他力本願への道を知ったときから黄昏逆光菩薩と私が名付けた一村独特の絵の構図が決まったと言って良い。広さの感覚はこの世にしめる己の大きさに反比例する。もし悟りの中で己の卑小さを発見したとき、この世界は無限の大きさに思えてくる。深さの感覚は直感で言えば罪と罰の意識に対応すると言ったらおかしいだろうか?罰と癒し。天国と地獄。此岸と彼岸。銀河の果ての涅槃までのその距離感こそ深さの感覚なのである。思索しても届かないほどの無限の深さは時間の因子でもある。縦長の画面には極北にいる超越的な存在を暗示させてより宗教的である。彼は井の中の蛙のように今ここにあることを悔いている。我が身の非力を悔いている。それに地平線が画面の下の方にあればあるほど寄って立つ大地は不安で揺れ動き、天にまします神や仏の微動だにしない存在を希求する。地平線は彼の目の位置であり、心の位置である。一村が杜の中でうずくまりながら見つめたものはまず物(もの)そのものであり霊(もの)の蠢きである。そして気配の流れであり神秘の行方である。その先にはこの世の救い主の姿がある。天よ!我に力を与えたまえ!我を救いたまえ!一村の祈りが聞こえてくる。
ちなみに奄美に渡る前の絵を掲載しておきたい。前の方へ掲載した「白い花」はやはり孤独な鳥のデビューを描いてまさしく優れて一村であるが初々しく固い。対象にまつわる霊(もの)の揺らぎがまだ立ち現れていない。昭和31年作の尾長の作品も同じく冗漫で吹き抜けてゆく風が見えない。木の葉を透かして見る無限の広がりの発見がいかに大事だったのかがよく分かる。
http://members.jcom.home.ne.jp/kakushou/a/31onaga.htm
次のユリと岩の上の小鳥(昭和36年)は奄美に渡って直ぐの作品である。なんと密度のないことよ。風景に馴染めずに白々としている。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/yuri.htm
「先生の御書信、拝見致しました。私の手紙と先生のとすれ違いとなったらしいですね。前便にて申し述べ足らぬところを申し上げ、私の今の立場と気持ちを御諒察願いたいと存じます。紬工場で、五年働きました。紬絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者といわれる程働いて、六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に70パーセントを注ぎこんで、私の絵かきの一生の最後の絵を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
画壇のすう勢も、見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず、只自分の良心の納得行くまで描いて居ます。一枚に二カ月位かかり、三カ年で二十枚はとても出来ません。私の絵の最終決定版の絵が、ヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、画の正道であるとも邪道であるとも、何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく、私の良心を納得させる為にやったのですから...。千葉時代を思い出します。常に飢えに駆り立てられて、心にもない絵をパンの為に描き、稀に良心的に描いたものは却って非難された。私の今度の絵を最も見せたい第一の人は、私のためにその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の絵の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の友に見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に分かれの挨拶なのでございますから...。そして、その絵は全部、又奄美に持ち帰るつもりであるのです。私は、この南の島で職工として朽ちることで満足なのです。私は紬絹染色工として生活します。もし七十の齢を保って健康であったら、その時は又絵をかきましょうと思います。当奄美の私の生活は、耕作して野菜は自給しておりますので、一、二月の農閑期以外は家を離れることができません。一軒家の一人暮らしですから、上葉の時は、所帯は全部荷造りして家主に預けて出かけるのですから引越しも同様で、簡単には出かけられないのです。昭和四十五年と四十六年と又工場で働いて三十万円程個展の費用の準備して上葉する計画なのです。個展は、昭和四十七年二月の予定。作品は運搬に便利な様に、全部捲ける状態にしてありますから、わざわざ千葉まで御出で下さらずとも、私が全作品を捧げて、たとえ大雪の日であろうとも、岐阜の尊宅へお伺いして御覧に入れますから、どうかのんびりと養生されて御待ち下さい。」(スケッチブックに残された手紙の下書きより)
「この手紙が書かれたのは一九六〇年代後半である。高度成長期、六〇万円の貯金などあっという間にどこかへ消えた。また紬工場に舞い戻って働いた。そして、一九七五年(昭和五〇年)までに十数点の作品を描きあげた。奄美での16年の苦闘の総決算であり、一村の言う絵描きの一生の最後の絵がそれだけの数である。心血を注いだ一群の作品を一村は閻魔大王への土産品だと、別な手紙には書いている。」(カッコ内は松元邦暉氏による)
いつの頃からか一村は飢駆我という文字を篆刻した。飢えが我をかき立てるという意味である。極北を目指した絵描きの飢餓状態はあの閻魔大王の土産品を描きあげた頃には幾分かは緩和したのであろうが、業のような不足感が全て埋まることは恐らくはない。しかし、その最後の作品の出来は一村の心を癒すだけのものはあったのではなかろうか?その到達した絵の結果によって迷いや嫉妬やあらゆる煩悩が清らかになり、軽くなってゆくのである。一村の画室での裸の写真が残っているが全く無駄な贅肉のないきれいな体をしている。それは端から見れば赤貧洗うがごとしの生活であるけれども、無駄な物は何一ついらないといった決意を示しているように思える。瞳もキラキラと輝き、きれいな体ときれいな心と清貧心を洗われるがごとし。裸であっても描くときは居住まいを正しきちんと正座をして描いたという。これが作画に向かう一村の姿勢である。日本画家の多くが静かで瞑想をする坊主のような感じがするのだが、とりわけ一村の姿には仏教的な雰囲気がする。
「私は気の狂った一匹狼で満足です。先生、私は絵と対座して居る時は、勇気はコンコンと泉の様に沸き、生気が体内に漲るのを覚えます。絵を離れるや、深い溜息と身ぶるいと、何者かに胸部を抱きすくめられた様な胸苦しさに、甚しい不整脈となり不安妄想のとりことなります。先生、私はフッと死神が傍らに待機して居る様な気がしてなりません。先生より私の方が先に死ぬかもしれない。いや、私の方がたしかに先に死ぬ。そしたら三途の川のほとりで先生をお待ちします。先生がなかなか来られなかったら、私の方からお迎えに出ます。」(昭和四十八年二月五日)
血圧による体の不調を訴えている。血中濃度を上げて描くという一村独特の画布に向かう姿勢に支障が出始めているのでしょう。もうこの頃には最後を飾る絵・・閻魔大王への土産は大半は描いた後であろう。死の覚悟をし始めている。
銀河見ゆ フクロー聞ゆ ねむの花
一村の句である。私には次のように聞こえてならない。
銀河の果て、西国浄土の涅槃へと、フクロウの声聞きながらねむの花。
昭和51年 脳血栓。
昭和52年 没。69才
「五十二年九月十一日朝、戸田さんは菜園に出てみて不審に思った。すでに日が高いのに、朝の早い一村がまだ起きていず、雨戸が閉まったままになっていた。胸さわざを覚えた戸田さんは、田中さん、田中さんと雨戸をたたいてみたが、返事がなく異変に気づいた。戸田さんは、毎朝この菜園に出て、一村とあいさつを交わすのを楽しみにしていた。異変は、午前八時二十分、名瀬署の浦上派出所に届けられた。検視の結果、死因は心不全、前日(十一日)の午後七時ごろ死亡したものと推定された。六十九才だった。一村は、四畳半の部屋に、頭を西に向けてうつ伏せに倒れていた。伸ばした右手の先には包丁が置かれ、左手は胸に当てられていた。畳に置いた板の上には、きざんだキャベッとすりばちがあり、鉢の中にはすりつぶした野菜が残っていた。かすかに下唇をかんだ無念そうな表情のあとが残ってはいたが、苦しんだ様子もなく、端正な死に顔には安らかさが漂ってていた。だれにも見とられなかったが、奄美の豊かな自然に抱きとられていったような、きれいな最後だった。生と死を分ける境界の線も、自らの手で鮮やかに引いてみせたような印象があった。」(アダンの画帳 田中一村伝より)
ビロウとアカショウビン。
まるでスポットライトに浮かび上がったようなアカショウビン。この世の主役は何と堂々としていることよ。一村は己の姿をアカショウビンの孤独で気高い姿に投影する。無名の魂は無名の魂に響く。一村の魂は木枯らしに舞い落ちる枯れ葉の一枚となって空を飛んでいくのだろう。
http://members.jcom.home.ne.jp/a/akashoubin.htm
ガジュマルにトラフズク。
このトラフズクの威厳も立派なものだ。この画面では左下隅に人なつっこく描かれた磯ヒヨドリも又一村なのかも知れない。ハマユウだってガジュマルだって単なる自然ではない。擬人化され霊魂の宿る木や花や鳥なのである。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/mimizuku.htm
クワズイモとソテツ。
むせかえるような生命観。水平線には弧島が見える。この絵によって一村は勝負の勝ちを確信する。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/kuwazuimo.htm
草花と蝶。
繊細で優美な線で描かれた作品である。奄美の四季を凝縮した作品は息をのむほど繊細だ。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/chou.htm
ソテツ残照。
夕暮れ時は寂しそう。沈みゆく夕日に浮かび上がるソテツのシルエット。夕日の沈む彼方には煩悩を沈めてくれる涅槃がある。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/sotetu.htm
奄美の杜(1)ビロウとネズミモチとコンロンカ
あくまでも墨絵に近い静かな絵である。僅かに差した花の色が美しい。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/konronka.htm
奄美の杜(3)ビロウとハマユウ。
逆光に浮かび上がる影の世界は神秘的で荘厳な空間である。このモノクロームに近い作品にはやはり死が漂う。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/hanayuu.htm
奄美の杜(8)ビロウとブーゲンビリヤ。
辿り着いたこの幽玄の世界はたまりませんね。墨絵のように静かな微妙な世界。花が咲き蝶が舞い果実が実る。最小限の色を差して、色即是空、空即是色。西国浄土の世界とはいかばかりかという薄墨の微妙な世界に辿り着く。
http://members.jcom.home.ne.jp/hakushou/a/bu-genbirea.htm
この三作は泣きたいほどに美しい。いやいや全部か?
そして少し前に書いた一村についての感慨を繰り返すことにしましょう。私は彼の生きようというか死に方さえも絵描きとして最高の生き方ではなかったかとつくづくそう思うようになっています。染色工場で半年稼いで半年を作画に当てるような貧しい暮らしや、流れ流れて奄美のほったて小屋で倒れたことを、荒ブル魂の行き着く果てと称して、「うらびれて ひたぶるに うらがなし」そんな哀惜を込て見つめていたけれど、恐らくこの感慨は間違っていたと思う。先生先生ともてはやされ何不自由のない絵画三昧の東山魁夷への批評も負け惜しみや妬みなどではないということがよくわかる。確かに魁夷とは同級生だったわけだから何かと意識はしたには違いないが、作家たるもの自尊心に揺らぎなどあろう筈もなく、魁夷の作品が俗にまみれた甘ったるい偽者の絵だという一村の感慨には確かなものがあったんだと思う。無名の魂こそ無名の魂に響く。よく似た絵描きにゴッホがいる。ゴーギャンではなくゴッホの方である。恐らく、日本人が一番好きな画家だと思うのだが、ゴッホも又、無私の人であった。ゴッホも生きている間に認められることもなく幾度となく孤独と絶望を訴えて、耐え難い孤独を癒すには自分を捨てるしかなかった。牧師を目指すほどの自己放棄の精神は脳内麻薬の止めのきかない増殖を鎮める抑止力のようなものであった。職能として絵を描くことではなく、絵を描くことが生きること。絵を描くということがどうゆうことなのかこの二人によってまざまざと教えられる。大いなる奄美の天地の狭間に抱かれて描き、フクロウの声を聞きながら眠についた一村の人生はこの上もなく豪華で悠々たる命ではなかったかと思えてならない。一村自身ある悟りには到達していたのではないかと思う。無名の魂は無名の魂に響いて、やがて一村の名は深く大衆の心にゴッホに並んで記憶されるはずである。
田中一村略年プロフィール
1908年 明治41年7月22日、栃木県下都賀郡栃木町に田中弥吉、セイの六人兄弟の長男として生まれる。本名孝。父は稲村の号を持つ仏像彫刻家。
1911年 大正一年 4歳。東京麹町に移住し、その後二十九年間東京で育つ。七歳のとき、児童画展で文部大臣賞をもらう。父は喜んで「米邨」の号を与えた。
1921年 大正10年 13歳。芝中学に授業料免除の特待生として入学。学業のかたわら南画の研究に熱中した。根をつめすぎて結核を患い、房州小湊に転地療養。
1926年 大正15年 18歳。東京美術学校日本画家に入学。同期生に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三、山田伸吾らがいた。結核が再発し、また父の病気も重なりわずか三ヶ月で中退。
1928年 昭和3年 母セイ(43歳)逝去。弟実(15歳)逝去。
1931年 昭和6年 23歳。自分の進むべき画道をはっきりと示す作品に一人の賛成者もなく、支持者と絶縁する。生活費を稼ぐために帯留や根付、木魚など細工物を作る。
1935年 昭和10年 父弥吉52歳逝去。弟明(20歳)逝去。
1938年 昭和13年 30歳。東京を離れ、千葉市千葉寺に、姉喜美子、妹房子、祖母スエの4人で移住。農業で自給を図りながら絵に専念する。この頃、親類の川村幾三氏の座禅会で、柳澤利喜雄氏や岡田藤助氏など。何人か終生の友を得る。
1947年 昭和21年 39歳。号を「米邨」から「柳一村」と改め、川端龍子の主催する第19回青龍展に「白い花」が公募展初入選。しかし翌年の20回展では、自信作の「曙光」より、参考作が入選という評価に、川端龍子と意見衝突し決別となる。
1955年 昭和30年 四国、九州を旅行。種子島、トカラまで足を伸ばし、南海の自然に魅了される。
1958年 昭和33年 50歳。12月13日、初めて奄美の地に第一歩をしるす。屋仁川の梅の屋に宿を借り、各地を回る。写生帖は数冊にものぼった。和光園では、患者の肉親の肖像画を写真をもとに誠意を込めて描き大変喜ばれた。
1961年 昭和36年 千葉の友人、岡田藤助氏に依頼されて襖絵を政策、準備しながら奄美でのスケッチをもとに描いてる絵を見た岡田夫人はその絵の変化に驚いた。岡田夫妻の紹介で見合いし、一時は結婚を決意するが、生涯を一村の絵にささげてきた姉喜美子の気持ちを思い自ら破棄し、再び奄美へ戻る。
1962年 昭和37年 54歳。名瀬市有屋に借家し、生活費をかせぐために大熊の紬工場に摺り込み染色工として働き始める。
1965年 昭和40年 姉喜美子(60歳)逝去。遺骨を抱いて奄美に帰る。毎朝、本茶峠の往復12キロの歩行訓練が日課となる。
1967年 昭和42年 59歳。5年間働いた紬工場をやめ、絵を描く生活に入る。
1970年 昭和45年 62歳。再び紬工場で働き、2年後にはやめてまた絵に専念する。本茶
峠で歩行中、めまいに襲われ3メートル下に転落。その後失神をくり返す。奄美焼窯元、宮崎鉄太郎と知り合う。
1976年 昭和51年 68歳。夏、畑仕事中脳血栓で倒れ入院。妹房子連絡を受けて奄美へ来る。千葉の肉親に、奄美での作品を託す。
1977年 昭和52年 体調がやや回復。宮崎氏からホテルのロビーで個展を提案。一村喜んで
受け入れ、作品を集めるため千葉に行き、肉親や友人に奄美での作品を披露しまた持ち帰る。9月1日。区画整理のため、16年間住んだ家を立ち退き、近くに一軒家を借りる。
9月11日。 夕食のための野菜を刻んでいた最中心不全で倒れ午後七時ごろ、69歳の生涯を終える。
1979年 昭和54年 名瀬市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」(11月30日〜12月2日)が開かれ、市民に大きな感動と驚きを与える。
1984年 昭和59年 NHKテレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜?異端の画家田中一村」全国放映。「南日本新聞」に中野惇夫記者が「アダンの画帖」連載。
1986年 昭和63年 笠利町立歴史民族資料館にて「田中一村展」(7月1012月16日)開催。これを機に、毎年メイジツのよ月11日に一村忌が有屋の終焉の地にて行われる。
1993年 平成5年 中学校と高校の教科書に「エビ素描」と「クワズイモ」が採用される。9月、田中一村終焉の家屋が、有屋橋のたもとの私有地に移転保存。11月20日〜11月28日、奄美博物館にて「奄美に残る田中一村遺作展」を開催。
引用「奄美に残る田中一村遺作覧」平成5年11月20日〜11月28日奄美博物館(名瀬市)