シャガール
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「ねえ、ご覧なさいな。恋人同士が抱き合いながら空を飛んでるなんて、何て素敵なんでしょう。ねえ、奥様。分かりますわよねえ。空を飛びながら接吻なんて、愛し合う二人は、まるで空飛ぶ気分なのね。」
「ほんとにシャガールの絵って詩情豊かで夢があって素敵ですわねえ。」
日本でのシャガールの人気たるや、ここまで楽天主義になれるならいっそほのぼのいたします。夢のような牧歌的な風景。帰り来ぬ青春のような。いやいや、もっと遡って幸せな時を過ごした少年の日の原風景。あの懐かしい故郷の街並みや素朴な人々。野原へ寝ころびながら空を見上げて想う。山のかなたの空遠く、あの白い雲のようにぷかぷか浮かんで幸せ探し。はたまた鳥になって自由に空を飛べたらいい。なんという快感。なんという解放感。素朴にそう思えた時期。しかし、それは同時に足下の不自由さと生きにくさの証でもある。それは又、因って立つ大地の喪失への不安感でもある。国を追われた者達の喪失感であり、悲しみである。フワフワと当て所無く宙に彷徨うデラシネ。一つのイメージはいつもアンビヴァレンツな感情を裏腹にもつ。喜びと悲しみと。希望と絶望と。無限の自由を求める心とその背中合わせに同居する不自由さと。
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シャガールは、1887年白ロシア(現在のベラルーシ共和国)のヴィテブスクに、ユダヤ人一家の長男として生まれる。ほぼ1世紀にわたる彼の生涯は、第一次世界大戦、ロシア革命、第二次世界大戦という20世紀の激動の時代を生き抜いて来た。ナチスによるユダヤ人迫害を含め民族のデラシネのような悲惨な現実と共に生きてきた。
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制約の伴ったがんじがらめの現実原則がある。それは、どのようにしても逃れようのない制約である。重力であり、自然の法則であり、はたまた、法律であり、諸々の約束事などである。それは人間の自由を求める心の前に立ちふさがり羽ばたく心を無惨にもうち砕く。殊に、国・民族・土着性などの制約から心は自由に逃れることができない。それは、あたかも過去の思い出となかなか決別できないように自らの歴史とは決別が出来ない。
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過去の生い立ちの歴史や重力に制約を受けないということは、自由であることの快感であり憧れでもある。あらゆる制約を逃れ、この世界をひたすら我がものに染めたいと願う快感原則においては、自由と奔放さと逸脱に満ち満ちている。そこは夢の中の出来事のようでもある。空飛ぶことも変身さえも自由である。しかし、だからといって快感原則の領域が自由奔放の麗しき世界であるとは限らない。この何でもありの解放区には同時に逸脱した想念の群が詰まっている。邪悪でこの上もない破廉恥な輩の住処でもある。食べてしまいたいほど好き。果たして人肉を食らいたいという願望は認められるのか?何事もそう簡単にはいかない。夢の中の出来事のように仮に空を飛べたとしてもその飛行は容易に失墜する。例え血まみれスープの満腹感に浸っていたとしても、忍び寄るトラウマの影はある。無意識の領域はしばしば暗黒の暗闇を含んでいる。それは私であって私ではない。他者でありカオスである。それらの無意識的集合のいくつかは、その民族の罪の意識であり満たされなかった願望の痕跡(トラウマ)を含んでいる。
ある民族の千年の悲しみを語ることは私には出来ないにしても、想像することは出来なくもない。民族の歴史を縦に流れる大河。彼岸と此岸にクロスする橋。時間と空間の十字路に展開するのは満たされなかった欲望の夢。泡沫の夢なのである。