簡単銅版画講座(一)

簡単に言えば銅板に絵を彫ります。そして彫ったところへインクを詰めて紙に刷りとります。二枚目を刷るには又、インクを詰めて又刷ります。これで銅版画のイメージが掴めたでしょうか?これで分かれば話は早い。
では最初から。
当然、銅板に彫ります。1ミリ〜1.5ミリくらいの厚さの銅板です。いやいや、剛の者は鉄板に彫ったっていい。かたいよ〜。アルミ板に彫っても取りあえず銅版画といいます。こだわる人はアルミ版画とか鉄版画と言ったってよいです。より正確になります。銅は程よい硬さで彫りやすいからです。むしろ金属としては柔らかいです。でも完成したら潰れないようにメッキをかけるから大丈夫。潰れないように?ん?何が?

彫ったところへインクを詰めて刷る方式。凹版です。学生時代、彫刻刀なんかで彫って年賀状を作ったゴム版や木版は凸版です。出っ張ったところへインクを乗せてバレンで刷る。日本版画の伝統に世界に誇れる浮世絵というのがあります。木版になります。浮世絵においては髪の毛一本さえも彫り分けるのには驚きです。写楽や歌麿いいですね。

凸版があり凹版があるなら平版もあります。リトグラフというのがそうです。これは水と油の反発する性質を利用してインクを乗せる方式です。表面に水の浮いたところは油性のインクは付きません。現在のオフセット印刷はリトグラフの発達したものです。

蛇足ながら孔版というのもあります。孔があいている版を通して下の紙にインクを押し出してつける方式です。スクリーン印刷といいます。ガリ版刷りもそうです。

では銅版画講座へ戻ります。
銅版画を刷るには彫った溝にインクを詰めこんで表面をきれいにふき取ります。拭きにも工夫が要ります。寒冷沙や人絹を使います。彫られていないところはまるでインクが付かないようにふき取ります。油性のインクですから可能です。そのようにインクを調整します。それでインクは凹んだ部分にだけ残る。

さて、凹んだ部分に詰めたインクを紙に刷り取るにはどうしたらいいか?バレンでは刷れません。刷るにはプレス機を使います。1トンのプレス機。プレート(銅版を乗せるところ)にインクを詰めた銅版を乗せます。上に湿らせた版画用紙をおきます。その上にフェルトかラシャ布を被せてプレス機の鋼鉄のローラーにくぐらせます。強力な圧力をかけられた紙は銅版の凹んだところへ食い込むようにインクを刷りとってきます。プレスの圧力で刷るという訳です。前に絵が完成されたら銅版にメッキをかけると言ったのはこの圧力に対抗するためです。もう一つはカラーのインクが剥き出しの銅と反応して色が変わらなくするためのものでもあります。

銅版画を普通エッチングと言いますが通称です。
エッチングは技法の一つです。硝酸を使って腐食する方法のことです。銅の表面にニスを薄く塗ります。そのまま硝酸液に漬けても銅は傷つかずそのままです。ニードルという針のついた道具(鉛筆のような形)でそのニスを剥がすようにして線で絵を描きます。絵を描き終わるとそのまま硝酸液へ漬けます。ニスを剥がした部分だけが腐食されて彫られます。そのとき、わずかに毒ガスが出ます。腐食液に塩化第二鉄という液体を使えば毒はでません。腐食銅版画においてはもう一つアクアチントという技法を多用します。銅板に松脂の粉を均等に撒きます。これを版の下から熱して松脂粉末を溶かして銅板へ定着させます。松脂はニスと同じような働きをしますから、硝酸に漬けるとその隙間が腐食されます。広い空間を灰色や真っ黒にしたいときに使います。いずれにしても私は薬品が嫌いなのであまりこの方法では作りません。この技法で有名な作家にレンブラントがいます。

そのほかにも技法がいくつかあります。
要は拭き取った時にインクが溜まるような凹んだ溝を作ればよいわけですから、散弾銃で銅板へ向かってぶっぱなしてもへこみは出来る訳ですからそんな作家も過去にはいた様です。硝酸の方法が発明されて一般的になる以前は彫刻刀で直彫りするというのが一般的でした。

「エングレービング」と言います。
そもそも、銅版画は家具や武具なんかの金属に家紋や絵の彫刻を施していた彫金家たちがたまたま発見した技法でした。よって18世紀あたりまではじか彫りの技法がもっぱらです。熟練の彫り師は専用の彫刻刀で1ミリの間に線を5〜6本はゆうに彫ります。ちなみに、大蔵省造幣局では今でもお札の原版をこの技法で作ります。夏目漱石も聖徳太子もこの技法で作られました。良く見ると細い線だけで描かれているはずです。じか彫りで際立って優れた作家にデューラーがいます。15世紀の巨匠です。私の作品でいえばモノクロームの作品で線の見えるのが全てそうです。「汽車」なんかはとても細かく彫っています。

他にも「ドライポイント」と言って鋼鉄の針や小刀で力任せに傷を付けてゆく方法があります。切り傷のまくれににじみのようなインクの溜まりが出来て味わい深い絵ができます。池田満寿夫が有名でしょうか。

「メゾチント」の技法の説明は難しいのですが、先ほどの金属のまくれですが、金属を傷つける
と溝の縁がピョっと尖りますよね。そのまくれを利用するという技法なんですが、ロッカーという道具で銅板の全面にくまなくまくれを施してしまう。それが絵を描く前の製版なのですが。それだけで十日間みっちり。版が大きくなればなるほど手間がかかって嫌になってしまう。版を整備するだけでそうです。その銅版に黒インクを詰めて刷るとビロードの絵肌の黒が得られます。ではどう絵を作るかというと、そのまくれを削ってつるつるにすると刷った時にまっ白がえられます。
まくれを半分潰すとグレーの諧調が。それは拭き取った時にまくれにひっかっかって銅版にインクが残るからです。潰し加減によって絵を作る訳です。スクレーパーという道具で削ってバニッシャーという道具で潰して磨きます。この技法で銅板を4版使って夫々マゼンダ・イエロー・シアン・ブラックのインクで刷ればそれぞれの色が混ざり合ってカラー印刷が出来ると言う訳です。
この銅版画の技法が後のグラビア印刷の原理となります。じつに味わい深い技法です。むしろ黒白だけの方が魅力的かなあ。フランス語でマニュエル・ノワール(黒の技法)と言われるほど漆黒の深い黒が魅力的です。長谷川潔・浜口陽三という代表作家がいます。私の作品で言えば「囚われの人生」「硝子の夢」「緋牡丹」「花飾り」「ワインカラーの女」「RoseTatoo2」などなどです。

他にもこまごました技法はありますが、要は平らな金属板にインクの溜まりをどう残すかと言うことにつきます。なるべく同じように毎回刷れたほうが良い訳です。ただし、必要条件ではありません。版を介在させて絵を作れば版画という訳です。一点しか作れない版画。あります。

版画にとって複数刷れると言うことは本質的なものではないという考え方があります。逆説のようですが、そう言いきったところで進めるのも一考です。何かの材質を介在させてインクを定着させるといった間接的表現方法を講ずれば版画という訳です。間接的であるが故の不自由さや偶然性、それに物の表面を刷りとるとかいった迫り方のほうが版画の面白みでもある訳です。その方が版画表現を生き生きとさせるかも知れません。ある作家はトロロアオイに三椏・こうぞを解かして持ち歩き、ゆかしきお寺やお城の石段や岩や墓石の表面を刷りとるといった作業を繰り返しております。拓本をもっと思想的に煮詰めた仕事でしょうか。ただ、このような迫り方も追求してゆくと直ぐゆき詰まります。アイディアはそうそう無いもんです。アイデアが勝負の版画芸術でしょうか。

版画にはもう一つ「鋳型」という考え方。これは当然に手工業的経済性ということからくるのですが、「型」という意味こそが版画の本質だという人もいる訳です。つまり、複数性。果たして100枚200枚のエディッション(刷り枚数)がどのような意味をもつものやら。いずにしても一点一点仕上げて行くアナログで手作りの世界です。ところが「型」という考え方でいえばコンピューターで作るデジタルCGもとりあえず版画であろうということが出来るわけです。それでそれで美術館での展覧会なんかにもデジタルCGの作品がそろそろ出てきました。

アナログかデジタルか?コンピューターか手作りのものか?版画という分野にとって求められているものがどの方向なのかはとんと見当はつきません。結局は作品であり作家の個性につきるのでしょうか?

1960年代、アメリカの作家アンディ・ウォーホルは大量消費社会、情報化社会のもたらす感性の画一化の予感をモンローの顔の反復やキャンベル・スープの反復に託して、近代芸術の謳歌していた様々な個性の表現の死を予言した。いかに個性や自由を標榜しようとも一方的な情報の押し付けに管理された複製人間の社会は到来する。それは、今にして思えば電脳社会の幕開けの予感であった。微細に観察すれぱ無限の多様性に見えたそれぞれの人間の個性の瞬きは俯瞰して見れば大河の流れに似て、たかだか幾種類かの分類ファイルに収められ管理され、そっとデジタルな記号に置き変えられてゆく。

いかにして自己を表現するのか?
いつの頃からか現代人全ての課題となりました。そこが旨くいかなくなるといろんな精神疾患を引き起す。犯罪者も又しかりだと言ってよい。近代美術の謳歌したテーゼと言えば一言で言えばかけがえのない個性です。作品はその作家達の醸し出す人間的ドラマの結晶のようなものであり、むしろ関心の焦点は表現する主体の自我のドラマそのものにあったといっていい。一つだに同じものとてない個性。自由を求めてさ迷える魂の軌跡。いかに生きるべきか?さまよえる魂はいかにして救われるのか?

ゴッホの苦悩、クレーの無垢、ムンクの絶望、セザンヌの懐疑、ロートレックの孤独、マチスの激情、ピカソの純真、言葉の数だけ作家のファイルは埋まるが、果たして彼らは救われたか?

ゴッホ・・癲癇および分裂症。発作の為ピストル自殺。享年三十七才。
クレー・・不治の病、皮膚硬化症にて死の恐怖と終生闘う。
ムンク・・妄想性の精神病。終生、幻覚妄想に悩む。
セザンヌ・・パラノイヤの一種と思われるが発病らしきものは特に無し。
ロートレック・・小人病のため畸形。貴族の生まれながら娼家に棲息する。

近代絵画史に燦然と輝く異形の者達は、だれもが天使に導かれた聖人の如くにきらきらと輝く光があった。限り無く生活破綻者に近い日々、まさしく気のふれた非日常を駆け抜けてゆき天才と呼ばれて若くして死ぬのが絵描きの人生。
「君ねえ。大成功を収めて大金持ちになった絵描きを求めているのは投機家だけではないのかね?やはり常人が出来ない生き方をして欲しいものだねえ。」
芸術家に課せられた型通りの生き方が今もって不変であるならば、芸術家の末路なんて哀れなもんだと決まったものだった。むしろそれこそが芸術家の栄光だと思いたまえ。彼等はそのように教えている。彼等の苦悩はまさしく現代人の苦悩を先取りしたものに他ならない。奇矯で偏屈な芸術家のドラマを必死で演じる事がなければ畢竟逞しい芸術など創造することは出来はすまい。そして心も又満たされる事もあるまいと思うのだ。そんな幻想に執り付かれながら生き急ぎの男はとうに五十を過ぎてしまった。悔いは残る。遠くで響く祭り大鼓の音を聞きながらいつも私は胸騒ぎがする。何に向かって進んでいるのかが分からない。

結局、版画の技法のことなんかどうでもいいことなのだ。