春光会異聞9−ローズベルベットに包まれて

頭髪を剃り頭からつま先まで白塗りの裸体を曝し、いも虫が蠢くようにゆっくりと手足を動かし、舞台の中央までの3メートルをゆうに三十分かけて歩いた演技のクライマックスは、ゆっくりと天に届けとばかり伸びきり、月に向かって指さす姿。天上天下唯我独尊の見得を切った顔は笑っているのか?それとも泣いているのか?さしずめ、あれは、柑橘の葉に蠢く芋虫が晴れてアゲハチョウになるということなのか?それとも、歌舞伎の出をいかにも暗黒舞踏風に変容しただけのものなのか?いやはや団十郎気取りの姿は圧巻だった。暗黒舞踏派の舞台のことである。暗黒とはよく言ったもので暗い闇への憧憬はタナトスへの指向である。それは同時に心層の奥深く力づくで押さえつけた無意識帝国の水面への浮上である。社会に忍び寄る退廃の影といってもよい。進化の前兆の病という言い方も出来る。
その歪んだ真珠(barroco)の熱病に浮かされ、一時、その演劇活動に夢中になっていた高塚響も、その時代の熱が冷めてゆくに従って本格的に本業の絵描きの世界に舞い戻った一人である。彼は、天才の自意識から逃れる事が出来ずに、幾度か抜擢された舞台の演技のようにやむなく天に向かって激しく屹立していた。藤岡月也とは版画の修行時代、競い合い助け合ってやってきた仲間である。志を同じくして行動を共にしてきた一番古い友であった。
「俺達は天才だよねえ。こんな凄い絵を描いている奴なんて他にいるかい?俺達だけだよねえ?ねえ、俺達だけだよねえ?」
口癖のような言葉で慰め合っていたが、決して冗談等ではなかった。
「いつの日にか俺が天才だという事を世間に見せ付けてやるからな。覚えていろよ。それにしても、連中の絵はどうしてつまんないんだ?」
高塚は常に豪語して周りの絵を攻撃せずにはおかなかった。あくまでも荒ぶる魂は協調性の何たるかを知らず、心は乱反射のごとく激しく彷徨い歩いていた。そんな苦しい自意識地獄に嵌まりこんだのも決して誰の責任というものではなかった。若き日の罠に嵌っただけである。それとも資質であったろうか?一度嵌まれば抜け出すことさえも困難になる。もし、そこから抜け出すことを欲するなら挫折の連続の苦しい時期を忍耐と共に歩き続けなければならない。さもなくば狂気を抱えて天才を演じ続けるか。そのどちらかである。
彼の常軌を逸した傲慢さは、青春期のある時期、誰もが通る通過儀礼のようなものであり青春期特有の自意識の重さであったから、幾分かは差し引いて貰えたものの、三十才を越して尚そうであれば、苦笑を通り越してやはり腹立たしいような顰蹙を買った。しかし、彼にはそうせずにはいられぬ程の情念のほとばしりがあった。悠長な事などやっていられない。直裁なのだ。世間に認められたいというせつなる欲求があったから彼の行くところ行くところ怨念のなすり合いになり狂乱の自意識の張り合いになった。ルサンチマンの深さは並のものではなかった。頭の良い弁舌の立つ男であったから相手を攻撃する言葉も憎悪する感情も途切れることはなかった。
そして、自分を差し置いて認められてゆく者達を決して許すことができなかった。いつもつんのめる様に歩いていたのは騒ぐ心のせいだったのだろう。赤い溜息をつきながら背中で青く苦しそうに息をしていた。何かの栄誉を獲得した友の会場へ出かけていっては、判で押した様に決まって喧嘩を仕掛けるのは、やるせなき嫉妬には違いなかったが、その事さえも彼は気付いていなかった。自意識地獄の中をさ迷う友は何時もいらだちの中に居て、今にもはち切れそうであつた。

その彼が殺されたという報が月也の耳に入ったのは秋もたけなわの頃だった。東村山の警察から、その事について聞きたい事があるので出頭して欲しいと連絡が入った。
「えっ?私は容疑者の一人ですか?」
「いえいえ、単なる参考人です。一番親しかったというものですから。」
しかし、響とは月也が春光会会員になって間もない頃に親しい友人が催おしてくれた個展兼祝賀パーティーの席上で、お目出とうの乾杯の舌の音も乾かぬ内に鬱憤をぶつけて来て、もう修復もままならない仲になっていた。
「お前の絵はよく見ると下手くそだなあ。イメージが稚拙なんだよ。ただおどろおどろしいだけのあり来たりの物まね。ミケランジェロやロダンの地獄に及びもしない。内容が浅いんだよ。こんな絵でよくも会員になったもんだ。恥ずかしいよ。俺はこんな絵なんか絶対認めないからな。」
拾て台詞を残したまま、ひと荒れしてパーティーを去った。天才の彼としては先を越されたのが寂しかったのだろう。慰め合ったいつもの口癖の言葉とは裏腹に一転しての別れの言葉になった。

そして高塚響は、それから数ヶ月後、酒場と家との間にある栗畑の真中で絞殺死体となって発見されたのである。月也と仲間が彼のアトリエへ遊びに行った折りに、何度も悪戯して栗盗人をした栗畑であった。栗のいがが両目の上から踏み付けられるように刺さっていたという。そして、傍には一輪の深紅の薔薇が。明かに怨恨による殺人事件と見られたのである。そして、周りの状況から犯人は女性であろうと見られた。何故なら、辺り一面にはハイヒールの靴痕が無数につき、彼の下半身には明らかな遂情の痕跡があったという。酒場ではよく酔って喧嘩をしていたそうだ。アル中との評判で出入り禁止の酒場で、土下座をしてまでの訴えに亭主が情をかけたのが仇になったという。店の包丁を持ち出しての大立回りの末、酩酊寸前で帰路へつく途中の出来事だったそうな。警察の調べでは彼がその酒場で大立回りを演じた相手は、ここ数年間だけでも何と百名を越えていたという。それに以前の演劇時代からの曰く因縁のある容疑者を加えると、何とゆうに二百名を越えるリストになったという。

大騒ぎが一段落した凍てつくような寒い日に、藤岡月也は、やんちゃ坊主をあやすようにして一緒に生活をしていた年上の奥さんに会いに行った。亭主が子供だからという理由から子供を産むのを諦めていたから、独りぼっちになってしまった。彼を弔う為というより、何かと親しかった奥さんを慰めるためである。その日、月也は彼についての驚くような話を聞いた。
「彼は、親から受け継いだ病と闘っていました。遺伝病の一つです。」
「ほう?遺伝病?始めて聞きます。」
「それは、遺伝子の中にその因子があれば、四十才を越えては生きられないという病ですが、彼のお父さんもお兄さんも四十才を越えたところで発病しました。彼が発病するかは五分五分でしたが、恐らく発病したでしょう。私達が子供を作らなかったのもそのことと関係があります。」
「なるほど。彼の荒ぶる魂も、そのことが影響していましたか?」
「はい。恐らくはそうだと思います。」
月也は高塚響のいらだちの謎が少しは解けたと思った。奥様は正座を崩さず淡々とした口調で話を続けていった。
「彼は、あなたのこと好きだったのよねえ。とても。貴方だけは特別だったから。」
フッと奥様の顔が上気してほころんだ。
「フ〜ム。私が春光会会員になるまでは随分しっくりいっていたし、親友の一人として気を許しながら交わっていたように思います。」
「独り取り残されたようで寂しかったんですわ。そんな気持ちの整理の付かないときには彼は必ず喧嘩をふっかけるんですのよ。」
「ははは・・・。分かっていますよ。何度も見ていますから。でもそんなときには一時的にも離れた方がいいですから。」
「彼が死んでから、出されなかった手紙が数十通も出て参りましたわ。宛名書きは女性の名前ですが、何となくですが、あなたに書かれた手紙のような気がしますの。内容は全て恋心を綴ったものですわ。」
「私に対しての恋心?フ〜ム。」
奥さんは仏壇の引き出しから手紙の束を取り出して寂しそうな愁いの顔で月也に向かって差し出した。フッと手が触れたとき線香とは違った動物が相手を誘うときに出すあの匂いがした。
「宜しければ、お読みになります?」
「先ほど、拝見させていただきましたがアトリエはそのままなんですね?彼の机で読ませていただきたいのですがよろしいですか?」
頷く後れ毛を背に一人、半地下のアトリエに入ると以前見慣れていた物達が迎えてくれた。猿の頭蓋骨がある。鹿の角と大腿骨がある。人体標本もある。そして部屋の真ん中には一トンの鉄の塊であるグランドプレス機がある。戸棚の中では彼が長年に渡って集めた趣味的なオブジェが青白い燐光を放って存在を主張していた。彼が、惹かれるままに集めたものは、ある共通点を示している。自然の法則によって造られた調和のとれた完全なる形態。など一つもありはしない。薄紅色の美しい秩序を突然浸食するカオスの青。いずれも稲妻の閃光を被弾して深い手傷を負ったもの達ばかりだ。神のくしゃみによって出来た歪んだ真珠(barroco)。波の悪戯によって出来た歪な貝殻の数々。水晶玉の幾つかも完全な球など一つだにない。彼はよくそれで過去未来を占ったというが、果たして、どれだけ正確に占えたと言うのか?枯れ葉に至ってはわくら葉しかない。蛾の幼虫は芸術家だぜと彼は言った。苦労の年月を忍ばせる深い傷を持つ流木。鉱石の数々は宇宙生成の痕跡を留めて、醜い肌を残しながらも一部宝石のように美しい片鱗を現して内に閉じこめられた光の粒子が時々シャワーのようにこぼれ落ちた。破綻こそ美しい。月也にとっても絵心をそそられる魅力的なオブジェの群だった。そして、彼が慈しむように作り上げた鋼鉄の彫刻刀がよく手入れが行き届いて直ぐにでも仕事が出来るように机の上に並べて置かれていた。このアトリエこそ彼が密かに行っていた錬金術の実験室なのだった。確かに彼は銅片を金に変えることに成功していた。しかも純度999の純金だと月也は思う。

彼の紡ぎだした世界も又、虫眼鏡を必要とする奇妙な世界だった。二十センチ四方のモノクロームの風景画だがよく見ると、その画面の中では一ミリにも満たない群像が数百人も蠢いていた。草木はたなびき雲は流れる微細な風景の中で息を詰めるように彫り上げた一ミリの人物達は草の陰や葉っばの陰で縦横無尽に暴れ回っていた。しかも彼等は素裸で、しかも彼等の多くは虫眼鏡で拡大しても分らぬ程下半身を露わに剥きだし、しとどに淫液を滴らせていた。果ては欲情しては男女の見境もなく盛んに淫な行為に耽っていた。ピカビカに磨き上げられた銅板の上を小気味良く鋭利な刃物で切り刻んでいく手法は彼の危うい欲望を刺激すると同時にサディスティックな気分を満足させた。そして製作においては途方もないマゾヒスティクな忍耐を強いられる。彼の気質の面目躍如の観があった。月也は目の前に掛けられている彼の絵を見ながら武者震いをするかのように手紙の一通を封書から取り出した。

前略、
あなたのことを知った日からもう忘れることが出来ません。こんなに長く付き合っていたというのに、あなたがそんなにも美しい女性であるとは少しも気付きませんでした。何という迂闊なことでしたでしょう。何気なく頬寄せる機会など幾度となくあったような気がするのですが、余りにも近すぎて、ふと芳る香水の匂いにも震いつくことさえ考えられませんでした。今は違います。あなたの余りにも美しいお姿を拝見して私の心の中が激変を起こし、あなたのことで頭の中がいっぱいになって押しつぶされそうでなりません。もう貴方のためなら死んでもよい。貴方に殺されたなら私は法悦の中で歓喜に悶えて死んでいくことでしょう。もし、願わくば夜空の下で貴方を抱いて狂いたい。いつものところでいつまでも待っています。
美奈子様へ                 貴方の奴隷より

一通目を読み終わった頃、奥様はこだわりの強い彼が外国から取り寄せたというコーヒーを煎れてアトリエに入ってきた。
「宜しかったら、お飲みになりませんか。」
コーヒーの強い香りとブランディーの香りがアトリエの隅々に漂った。
「で?奥様はどうしてこの手紙が私に宛てたものと?」
「ええ、何となくですわ。そんな気がするだけですの。」
「しかし、仮に想像だとしても、やはり女性に向けて書かれている。失礼ですがこの美奈子さんにお心当たりは?」
「ええ、あります。他にも多々ございますわ。貴方のおっしゃる通りですの。でも、この手紙はきっと貴方へ向けたものですわ。女の勘ですの。」
「フ〜ム。」
「で?手紙の文面通り殺されたと?そして殺したのは私?」
「ホホホ・・・。それは分かりませんわ。ホホホ・・。」
妖しく目が光り、艶めかしいそぶりで本当におかしそうに高らかに笑った。そのソプラノのような笑い声に頭がくらくらしたと思ったら、彼女の顔が目の前にあった。自然に接吻をすると、二人抱き合ったままアトリエの床に崩れ落ちた。激しい抱擁の末に月也はいつしか気が遠くなるのを感じた。
どのくらい経ったのだろう?目覚めたソファーの傍らには裸の女が月也の頭を愛しそうに撫でながら笑っていた。
「やはり、女の方とではいけませんのね?」
月也は夢うつつの中で誰かの声を聞いていた。
「今となっては、どうでも宜しいんですのよ。私には分かるんですの。彼があのような死に方を選んだのも望み通りだったっていうことを。それに私ではもう包み込むことなど出来なくなっていましたから。ほら、見て。この傷だらけの体。彼もやっと安らかな涅槃の境地に辿り着いたことでしょう。きっとそうでしょう。本望だったと思いますわ。さぞ法悦にむせんでいたことでしょう。分かりますわ。私には。」
ソファーに敷かれたローズベルベットに包まれながら、月也は朦朧とした意識の中で女の言葉を聞いていた。

繁華街の奥まったビルの二階にある秘密のクラブ「エルザの店」からハイヒールの足下も危なげに女が一人獲物を探す女豹の光る目をしながらネオン街へと繰り出した。
「よお、マリー。ローズベルベットのマリー。いつもながら艶やかで綺麗だぜ。お客をとる気なら世話するぜい。」
ポン引きに声をかけられて、笑い顔で振り向いたマリーの顔は、藤岡月也の面影にどこか似ていた。馴染みの連中にひとしきりからかい声をかけられて、ローズベルベットのマリーは大きく尻を振りながらネオンの中へと消えて行った。

藤岡 月也  会員ナンバー553  世田谷区在住。 男性。 34才。
高塚 響              東村山市在住。 男性。 37才。