春光会異聞17−初恋
森の上で羽を大きく広げてトンビがくるりと輪をかいている。獲物を見つけたのか、それとも巣に帰るところなのか、トンビはピューヒョロロと鳴きながら一体何を考えている?風はヒュルヒュルと吹いて黒い森はそのたびにザワザワと揺れて呼吸をしていた。森は一体何を考えている?ん?光っている?黒い森の入口あたりで青い蛍光色を放ちながら光る物体が動いている。何だろう?あれは?羽を広げるように膨れあがったり細くなったり、ゆっくりと形を変えて動いている。蛍かぶよかなんかの光る虫の集団が群をなして飛んでいるのだろうか?はて?首を傾げて空を見上げると森が燃えているように真っ赤に染まっていた。落雷を被弾して森の入り口が燃えたのは先日の嵐の晩のことだ。私が故郷へ足を踏み入れた途端に嵐になった。稲妻の閃光とともに凄まじい轟音と地鳴りがしたという。そこは20メートル四方にわたって焼けこげていた。被弾した木は途中から縦に真っ二つに裂け、倒れた梢は黒こげとなって森の入り口を塞ぐように横たわっていた。青い光は二つに裂けた木の周りを包んでいる。その中心には祈りを捧げる少女がいた。やがて少女は花を振りまきながら青い光と共にその祈りを天に届けとばかり黒い森を上に向かって羽ばたくようにゆっくりと昇っていった。黒い森はしばし鎮魂の祈りに包まれていた。
空に真赤な雲のいろ。玻璃(はり)に真赤な酒の色。なんでこの身が悲しかろ。空に真赤な雲のいろ。
白秋
20年ぶりに生まれ故郷に帰ってみれば地区整理があったせいか町並みは大幅に変わっていた。懐かしく思い出す人も会いたい人ももういない。お寺の用事で故郷に来て子供の頃よく来ていた川岸に立ってみれば川向こうの森だけはあい変わらずどっしりと構えていた。土手の斜面の草むらに腰を下ろして森を見ていると子供の頃を思い出す。ふと川下の方から私をめがけて心なしか尻尾を振りながら一匹の犬が近づいてくる。私の傍をその犬は意識しながら通り過ぎて止まった。そして私に向かって振り向いてニッと笑ったのだ。なんと間抜けな顔の犬なんだろう。片方の目の周りが黒い。まるで福笑いを失敗したような顔じゃないか?この犬は向こうの方で自分の尻尾を追いかけて15分もくるくる回っていた馬鹿犬だ。ただこの愛嬌のある顔は誰かに似ている?誰だったか?私はそばにあった棒きれを握りしめて投げつけようとした途端、
「その犬を打つのは止めておくれ。それは死んだ父さんの魂なの。私にはその笑い方でよく分かるの。」
いつ現れたのか老婦人が大声で叫んで犬を追いかけるように急ぎ足で歩いていった。
「父さん?ご主人のことか?犬が間抜けなら飼い主まで間抜けだ。馬鹿馬鹿しい。」
先ほどの老婦人はご主人が亡くなって少し気がふれているのかもしれないなとそう思った。そこまで思われるなんて幸せなご主人だ。私の父母もそんな仲の良い夫婦だったと懐かしく思い出す。
この川も昔と違って随分整備されてきれいになった。子供の頃にはこの土手のあたりは雑然と林があっただけだ。川全体に大きな岩が至る所に突き出していて流水の水面からいくつもの頭を出していた。何時の頃の夏だったか?無数のチョウチョがその岩場で水を飲む為なのかそれとも交尾をする為なのかびっしりと集まって戯れるように舞っていた。水面が光を浴びてきらきらと輝きあたかもチョウチョは川に産卵しきらきら輝く光と共に生まれてくると錯覚しそうな光景であった。その時、水面に尾をたたきつけて跳ね上がった鯉が川面に留まっている蝶を一飲みにしたのを見た。川といわず森といわずチョウチョの大群が異常発生して飛び交っていた夏の思い出である。子供の頃には途方もなく大きな川だという印象があったが、大人になってみればちょっと泳げば渡れる川のように見える。川幅はそうとうあるものの流れている水幅はその半分程もなく、川の中程を使って流れているに過ぎなかった。この川にはフナとはやと鮎がいた。そうそうウナギも良く捕れた。川下の方へいくと川中の岩場に陣取って釣り人がよく釣り糸を垂らしていた。大雨や台風の頃を除いて水嵩が川岸まで満たすことはなかった。岸に向かっては岩がごつごつあって所々に林や雑草が生い茂っていた。この川の水深は淵のところでは深く水の流れは速かった。岩にぶつかった流水は大きな渦巻きを起こしていたから子供が泳いで渡るには危険すぎた。今でも水泳禁止の立て看板が立っている。ところが見ている間に、つい先ほど川上に向かって駆けていったあの間抜けな犬が岩場にぶつかりながら流されてきたのだ。ぶつかるたびに何度もはい上がるのを試みながら。見ている間にやっと川下の方の岩場にはい上がった。ぶるぶると震えて水滴を切っている。私はもしかするとあの老婦人も流されてくるのではないかと恐れて見ていたが、そんなことは起こらなかったのでホッと安堵した。
黒い森は町の川向こうにあって、森の手前には川に沿って集落が細く並んでいた。現在では多少薄らいだが子供の頃には、こちら側の町の家並みに比べて向こう岸の家々はおそろしく貧しいということが誰の目にも分かった。夏の終わりには真っ赤に燃える曼珠沙華の群生と貧しい家のたたずまいがどこか別世界を思わせて印象的だった。川向の集落へ行くには町の入り口まで街道を2キロ下ったところにある橋を渡るか、町の出口まで2キロ上ったところにある橋を渡るかどちらかである。いずれも目の前の集落や森の入り口に行くには随分迂回して行くしかなかった。少年の日には川向こうには決して行ってはならないという暗黙の了解があった。そして黒い森へも決して入っては行けない。そんな有無を言わせない掟を聞かされていた。街道沿いのこちらの町より川向こうの人々は何となく異形の者が多かったし、生活水準が低いことは見て直ぐに分かったからよく理解できた。彼らは貧乏で柄が悪くて町の者が部落に入り込んだが最後大事なものをとられたり傷つけられたりするのだという噂は絶えなかった。少年の日に明確に知らされた不合理で不条理な社会に対する恐れとおののき。当時、川向こうの人達の何人かは不法に占拠して住んでいるという噂がもっぱらだった。そして黒い森に入り込んだ町の者達の悲惨な事件は引きも切らずに聞かされていたから、少年少女達は川向こうへ行くことなど決してなかった。
ふと背後の空から爆音が聞こえてくる。空を見上げるときらりと何かが光った。後頭部の方から一直線の真っ白い軌跡を残しながら向かいの森に吸い込まれていくようにジェット機が消えて行った。森の中へ消えてゆく一筋のジェット雲を目で追いながら、散ってぼやけて消えていくのを眺めていた。そうだ。少年の日にもセスナ機がよくビラをまいて通り過ぎて行ったっけ。何時間もセスナ機を追いかけて広告ビラを夢中で集めて走っているうちに小川にはまってずぶぬれになったことを思い出した。そうそう、少年達の間で広告ビラで紙飛行機を折って飛ばすのが流行ったことがある。紙飛行機の名人が川向こうの部落に住んでいたことは忘れない。遊び仲間の一人だ。彼の作った紙飛行機は風に乗ってどこまでもどこまでも飛んでいくのだった。彼は他にも凧揚げや独楽回しなどの遊びに長けていた。小学6年生というのに病的に背が小さくて、彼の家族は全員が皆小人だと言われて蔑まれていた。同級生の彼とは隣の少女も加えた3人組でよく一緒に遊んだ。私と彼女は町の掟を何度も破って黒い森に連れて行って貰ったことがある。3人で秘密の隠れ家にこっそりと誰にも姿を見られないように注意をしてよく行った。春には花を摘み、夏にはカブトムシやクワガタを遊び相手のお礼にと持ってくるのだった。秋には森の収穫、それは柿、栗、むくの実、アケビなどだったが森の隠れ家で随分満喫したものだ。私の方からはそのお返しにとお小遣いで買ったあめ玉を一つずつそっと分けてあげた。彼の喜びようと言ったら異常なほどだった。しかし、その3人組のきらきらした濃密な関係もそう長くは続かなかった。一人は直ぐに親戚に引き取られていったし、もう一人もあたふたと引っ越していった。二人ともある日瞬間に私の目の前から消えていった。
昔住んでいた我が家の跡は土木会社の資材置き場になっていた。その隣の家も同じで立派な家屋敷は跡形もなくなりダンプトラックが数台止まっていた。隣の家の少女は2才年下で体が弱く学校も休みがちだった。少女はよく縦笛を吹いていた。裕福で音楽好きな一家は休日の日などは縦笛とハーモニカとオルガンの合奏を良くしていた。彼女が学校へ行けるときなどはいつも付き添って行った。彼女の目がウサギの目をしているのに気づいたのは縦笛を吹いたときだった。目が赤かったのは病気のせいだったのだろう。私は秋祭りの日に小さな白いウサギを親にねだって買い求めた。そっと隣の少女の名前を付けて庭の隅で飼っていた。ところがその年の暮れ隣の家の気配が一瞬にして消えた。雨戸が不自然に閉まったままになり人声も聞かれなくなった。町の噂では夜逃げをしたということだったが詳しいことは分からなかった。その後、債権者と称する者達がその家を荒らしていったからそうなんだろう。数日後、庭の隅においていたウサギ小屋の金網が破られて白いウサギがいなくなっていた。少年の日に芽生えたあの憧憬のような淡い恋心。ほのかな恋心が相手の胸に届いたかどうかは分からない。掴んでも掴んでも手の内から逃げ去ってゆく青い鳥。そして、やがて来る唐突な別れ。その喪失感。少年の心に残る甘く美しい少女との思い出。その胸の締め付けられるような懐かしさはどこからくるものなのか?空になったウサギ小屋に残されたピンクのリボンと真っ赤な血。リボンは耳に結んでいたものだ。少年の雪のように白い心が社会の泥水に浸食されてゆく予感。少年は無惨な死骸を目にしないだけにかえってこの世に百鬼夜行のうごめく闇の深さを感じてどうしょうもなくぶるぶると震えた。
もしも、私の肉体が滅びることによって、密かに思い続けている人は一体どうなってしまうのでしょうか?その時、その彼女の存在も私の肉体と共に一緒に死んでしまうのでしょうか?ふと、そんな馬鹿げた想念が頭をよぎる。例え私が死んだとしても決して彼女の面影が消えることがないように私は渾身の力を込めて手だてを施した。私のような取るに足りない男の命などさして惜しいとは思わないが、心の中に住んでいる彼女の存在が消えることだけは許すことが出来なかった。鏡を見るまでもなく私も随分年を取ってしまった。若い頃、周りから秀才と呼ばれ、君の病気なんか大きくなって僕がきっと直してあげるよと希望に溢れて目指していた道はあまりにも立派で健全すぎて能わなかった。遺伝子の中に蠢くひたすら死に向かって傾斜してゆく揺れる心がそれになるのをどうしても恥ずかしがった。私は他人とうまく話が出来なかったし付き合いもうまく出来なかった。何時しか私はうつむき加減に端へ端へと歩いていくのが習い性となり、やがて片隅の目立たないところでひっそりとやれる絵描きの道を見つけだした。表現行為に難ある者に限って表現者へと辿り着くのは逆説ではない。会話やお付き合いの上級者はそもそもそれ自体で満たされている。彼らが自己を表現するために不安にさいなまれることなどあったろうか?私は心に夢魔を抱えていた分、私の生きていることの正当性をどこかで吐き出さざるを得なかった。絵を描くことだけが私の存在証明のようなものだった。しかし、表現者の道は経済的に苦しかった。せめて口を糊するための仕事も併せてせざるを得なかった。やがて時も過ぎ見過ぎ世過ぎの中でこれこそ天職だと思えた絵の世界も才能ゆえにままならず挫折の思い深く今では悶々と嘆き悲しむ状態である。果たしてこれで正解だったのだろうか?私はどこから来てどこへ行くのでしょうか?本当の自分を探しあぐねてここまで来てしまった。本当の自分?ん?いったい本当の自分はどこにいるのでしょうか?今まで都会の暮らしの中で忙しさにかまけて祈ることさえすっかり忘れてしまっていたのに、ここに立っていると子供の頃、黒い森に向かって泣きそうな自分をいつも訴えていた姿が蘇る。私は黒い森を畏れ信じていた。今ここに立って来し方を振り返ってこう祈るのだった。希望に溢れていた少年の頃に戻れるならどんなに素晴らしいことかと。青春時代に見失った本当の私の行方をあなたは知りませんか?もしも、森のどこかで迷いながら彷徨っている二十歳の私を見かけたら早く自分のおうちへ帰るようにとそう忠告してくれませんか?年老いた今の私がとても会いたがっていたと・・。
「先日、お話になった森の精霊といいますか天使の光景は幻覚のようなものだということはお分かりになっているのですね?」
「はい、何となくそう思っています。お酒も飲んでいましたから。しかし、確かにあの時に見たんです。本当に見たんです。」
「ええ分かってますよ。空に真赤な雲のいろ。あれは愛唱歌なんですか?次に酒の色とありますね。土手に座ってほろ酔い気分でいたわけですね。」
「はあ、懐かしくて一日中座っていました。」
「なるほど。お酒で気分もほぐれて夢見心地なんですね。そこで思い出に耽って。他人が見えないものが見えたとしても不思議ではないと思います。その幻覚を呼び起こすようなきっかけをお聞きしたいのです。例えば、天使はお隣の少女なんでしょうか?」
白衣を着た人がメモを取りながら机を挟んで聞き取りをしている。
「はい、その天使は子供の頃、隣に住んでいた少女だったように思います。今でも私の心の中に住んでいます。」
「仲良し3人組の一人で初恋の少女というわけですね。」
「はい。ある日ふっと消えていったから、もしかすると隣の少女というのは森の精霊だったのではないかと?私は子供の頃から黒い森には精霊がいるものとばかり思っていましたから。子供の頃にはあの森の精霊にお願いするといつも助けてくれました。例えば運動会の前日なんか森に向かって手を合わせて祈ったものです。徒競走では一位になれますようにって。試験の前日も祈りました。そうすると叶えてくれるんです。それに黒い森が大きく割れたり赤く燃えたりしたのを見たのも2度や3度ではないですから。」
「フ〜ム。子供の頃からですか?願いを叶えてくれた?森がですか?それに割れたり燃えたりするんですか?フ〜ム?天使を見たのは初めてですって?声は何度もお聞きになった?フ〜ム?お隣に2才下の少女がいたというのは確かなんですね?」
「それは確かです。その少女が幻想であったということはありません。いつも一緒に遊んでいたのですから。」
「それから犬が笑った話も幻覚だと?」
「はい、おかしな話でしょう?しかし、あの老婦人の顔には見覚えがあるんです。私の母の顔にどこか似ていましたっけ。」
「ほう?では犬の顔はお父さんに似ていましたか?多分、その犬はとても心に残っている人の変わり身だと思うのですがねえ。心当たりはありましょうか?」
「ははは・・・。私の父にですか。ははは・・・。父の顔にねえ?いや、どちらかといえば私の父は小鳥のような優しい目をしていましたから。あんな間抜けな目ではなかった。似てないですねえ。ははは・・・。ははは・・・。」
彼は思いだしながら、しばらくは笑いが止まらなかった。
「それに上流からもう一度あの犬が流れてきましたよねえ。間抜けな顔をした犬。あれも幻覚だと疑っていらっしゃる?犬は誰なんでしょうかねえ?ようく考えると思い出せると思うのですが。」
「しかし、あの犬の顔は誰だったのかなあ?のどまで出てるんだけど・・・。もしかすると子供の時に見た記憶かなあ?」
「黒い森を子供の頃から何度も見つめていたんですよね。数十回といわず数百回もですね。子供の時の記憶をだぶらせて思い出していたということも考えられるということですね?帰郷したときに見たんではなくて?」
「うんうん。それはあるかも知れないです。」
「ところで20年ぶりに郷里にお帰りになったということは事実なんでしょうか?」
「それは事実だと思う。」「思う?」
「いやいや、それは事実です。お寺さんに永代供養のお願いとお金を納めに行ったのですから。それは間違いない。」
何とも記憶が曖昧になってきたと医者は思った。彼は意識の混濁をしきりと訴えている。日常の生活にも支障が出始めているらしい。
「私は後年、故郷の川向こうの部落に住んでいた小人症の同級生に奇しくも会ったことがあるんです。といっても遠くでこっそり姿を見ただけですが。何だか気後れしてどうしても会いには行けなかった。相変わらず背は小さかったですがね。」
と彼はぼそっと言った。「それに隣に住んでいた少女の噂を同じ頃に聞きました。」
「ほう?小人症の同級生というと川向こうの友達ですね?仲良し3人組の一人。どこでお会いになったのですか?故郷で?」
「東京です。上野の美術館でお会いしました。春光会の展覧会ですね。びっくりしましたねえ。彼は絵描きになっていましたから。」
「そう言えば貴方も絵描きさんでしたね。」
「へへへ、同業といいましても私は家内と一緒に食堂を営みながらの食えない絵描きです。公簿展に出品しましても入選したり落選したりでもう才能にはかないません。いつまで経っても素人に毛の生えたような絵描きにしかなれなくて。いえ、何回か賞は戴いたこともあるのですよ。しかし、いまだぺーぺーの会友にしかなれませんでした。ところが彼は堂々たる春光会会員で人気作家になっていました。比べものになりませんやね。ははは。いや〜。たいそうな出世だと思いましたねえ。今では日本のロートレックと呼ばれています。極貧で壊れそうな家に住んでいた一家でしたがねえ。学校の成績なんかまるで出来なかったのにねえ。というより虐められるので殆ど学校にはこなかった。我が家は戦後没落はしましたがもともと庄屋の家でしたから、川向こうの家を見ては哀れんでいたのですがねえ。今ではまったく逆転もいいところです。ははは・・・。お恥ずかしい話です。」
そう言うと彼は肩を丸めて恥ずかしそうに口笑しながら小さくなった。
「会員である彼が昔の同級生だと知ったときから気が抜けて私は絵を描くことをやめてしまいました。もう食堂の親父で十分です。」
「ほう?筆を折られた?そこまで気落ちしたというのは何でしょう?才能に対する落胆みたいなものですか?それともプライドみたいなものがいたたまれなくなったというのもございましょうか?」
「はい、そんなことも影響してます。要は生きる気力がなくなったというのが一番大きいですね。もう一生絵は描くまいとその時決心しました。そのあたりからお酒が毎日手放せなくなってしまいました。3年前のことです。」
「フ〜ム。絵をお止めになったのは残念な話ですねえ。それに生きる気力を奪った出来事がもう一つありそうですね。そこが幻覚や無気力のキーワードになってましょうか?大事なことです。お聞かせ下さい。」
「ウム。それは自分でもわからないなあ。もともと私はそんな気質ですから。」
「お隣の少女のことですが?貴方の初恋の相手ですよね。やはりお会いになったのでしょうか?」
「いえ、逢ってはいません。噂を聞いただけです。その後の彼女の噂をね。」
「ほう?どんな噂なんです?」
「いえ、それは言えませんね。」
「えっ?」
「言えません。それは。」
彼はそう言うなり涙を流し始めて、白い病室の中で、その慟哭は延々と止まる事がなかった。
彼が亡くなったその年の春、上野の森ではいつものように春光展が開催された。その展覧会の最高賞である春光会賞に名うての強敵を押しのけて「初恋」と題された赤い目をした天使の絵が選ばれた。黒い森を背景に赤い目をした少女が口から花を振りまきながら空中に浮かんでいた。傍に蝶や小鳥や可愛い動物たちを従えて、今にも天に昇っていく最中であった。ウルトラマリーンの空には無数の星が煌めいていた。評には、日本の作家の手になるかくも純粋な聖性の風景を見るのは珍しい。汚れなき魂が聖なる風となって吹いている。漂っているのはアニミズムの精霊であるが、初恋と題されたのは作家の絶対的な思い出なのだろう。この春光会賞によって彼はこの年、春光会会員に推挙されたのである。ところがその後、本人が亡くなっていることが分かり会員推挙の取り消しを協議する会議の折りに一度決定したものを取り消してはならぬと小さい体を張って頑強に会員推挙を支持した者がいたそうな。
高梨 百郎。 会員ナンバー621 神奈川県在住。 男性。 54才(没)。