春光会異聞16−塾経営
「ところで今日は絵画の起源というお話をしましょう。その後で話し合いでもいたしましょうか?いかがでしょうか?」
絵画塾を主催している小山内勝はいつものように講義を始めだした。
「リンゴがここにあるでしょう?私の目の前に。見えますか?見えないですか?」
「わしゃあ、みえんぞ。リンゴなんか見えん。」
「ははは・・・。見えない人はここで終わりです。好きなことでもやっていてください。見えた人だけ次の話に進みます。」
「こらまた、どうゆうこっちゃ?ねえ?なんも見えんだろ?ねえ?」
塾生の一人が反抗的な態度でちゃちを入れた。小山内はいつものことのように笑いながら続ける。
「これをイメージと言います。リンゴのイメージ。見えてる人はこのリンゴを食べることだって出来る訳です。多分、少しは腹の足しになるんだと思いますよ。人間は他の動物と違ってイメージの操作がいかようにも出来るわけです。これを象徴(シンボル)作用と言うのですが、このイメージなくしては言葉が生まれません。リンゴという言葉からリンゴのイメージが浮かばないと言葉として成立しません。いいですか?例えばラスコーの洞窟にはいやに写実的な牛のイメージが描かれている。人間なんかはむしろ記号のレベルですが、牛だけしっかり描かれている。彼らの命の糧ですから美味しそうなビフテキというわけですね。そこまでリアリスチックに描くということは意味があるんだと思います。つまり描くことでもはや手に入ったという操作をしているのかも知れないわけです。つまり、獲得という意味ですね。所有と言っても良い。多分、呪術師かなんかが毎日の収穫の占いに使うんだろう。今日は3頭捕れる。3回触ったから。呪術師のご託宣が降りるわけです。となれば、日が暮れても尚3頭捕るまでは皆で頑張るわけです。そして3頭しとめて満足して帰ってくる。あの呪術師の言うことを聞いておけば間違いないね、とこうなる訳です。呪術・占いといったものは希望や現実の先取りとしての一種の仮想現実による達成ということがあるんだと思う。今はやりのヴァーチャル・リアリティというやつですね。
もう一つ、牛の絵に混じってやたらと手形なんかが洞窟の壁に付けてある。偶然についたという訳でなく、あたかも(私がつけた)という形でついている。まあ、存在証明というか生きている証としての自己証明ですね。実はこの二つの出来事がまさしく絵画の起源と言って良い訳です。」
「詰まらん話だ。いや、わしは何もそんなことをするなんぞ聞いとらんぞ。聞いとらん。」
同じ塾生が又ちゃちを入れた。
「加茂君ですね。それでは何かご希望のことなんかありますか?」
「いや、ない。」
「それでは居眠りをしてても良いですから後ろで何かしていて下さい。」
「君がやって来て何かわしに用事があるのじゃあなかったのかな?」
「いいえ。ここは美術教室なんですよ。いつものようにあなたはお勉強しにやってきたんではないのですか?」
「ああ、そうそう。こりゃあ失敬。孫達と家族一緒に来たんだね。今日は楽しいピクニックじゃった。」
「ほう?ご家族と一緒に来たのですか?お孫さん達と?ところでおいくつなんですか?」
「わしか?おんとし82じゃ。」
「ははは・・・。加茂君はいつもながらご冗談がきつい。私には二十五歳の青年にしか見えませんがねえ?」
「わしの名は加茂ではないぞ。断じて違う。」
「う〜ん?困りましたですねえ。どうしましょう。それにここにはピクニックにきたのですか?ご自分が何の為にここに来ているのか分ってらっしやいますか?」
「うんうん。遠き日の夢、帰り来ぬ青春というところじゃね。ふぁふぁふぁ・・。ここは学校かね?遊園地じゃろ?」
「貴方は何でここにいるのか理解していないようですね?」
「夢の中ということ?」
「今、ここに居るのは夢の中なんですか?」
「いや、それは君がそう言ったじやあないですか?」
「いつ、私が夢の中だと言いましたか?」
「あいやあ。やりきれんのお。ここに来てからずっとその事を話して来たのじゃあなかろうか…?」
「つまり、今ここに居るのは夢の中だと思っているんだね?」
「あのなあ。わしは特功隊で死んだんだよ。ずっと昔になっ。いやいや、違う、違う。死んだのは誰だったっけ?いやいや。君にはもう説明しただろう。歌を歌ったということを話しただろう?…歌を歌ったこと…ダンスも踊つた…それに気分は上々だ。…そうだ。これは皆あいつの魂胆じゃあないのか?」
「あいつとは誰のことですか?」
「何てこと言うんだろ。あいつの話しをずつとしてるんじやあないか?あいつのことを。あいつの声が聞こえてくるだろう?」
「フ〜ム?つまり、あいつとは誰なんでしょうねえ?難しいなあ。」
「ふぁふぁふぁ…。君は何度話したって分らん奴だねえ。あいやあ。やりきれんのう。あいつはあいつだよ。」
「ははは・・・。分かりました。分かりましたよ。あいつですね?そうか?あいつだね?」
「ふぁふぁふぁ・・・・。やっと分かったかね。ふぁふぁふぁ・・・・。」
「加茂茂樹君というのですが。来てからもう五年になります。春光会に毎年出品していて毎回入選くらいまでは果たす生徒なんですが、もう一歩詰めきれない。なかなか不思議な絵を描く奴でねえ。君も見たことがあるだろう。いつもでっかいネズミやニワトリに追われている男の絵を描いている。そこいらに生えている葉っぱより小さい男を描く。寓意として描いていると思うのだが、ドイツの笑い話を思い起こさせて好きな作品なんです。自分のことを米粒のように卑小な人間だと思っている男がいる。やがて本物の米粒だと思い込み出したことから治療のために精神病院に入れられる。その男は毎日病院の庭に放し飼いになっているニワトリが怖くてしょうがない。米粒である自分をついばみに来るといって逃げ回っている。ある期間が過ぎて、やがて快方へと向かう。それを観察していた院長はそろそろ退院しても良いという判断を下す。ようやく退院の日になって元気に送り出したところ、院長室へその男が叫びながら舞い戻ってくる。門の所にニワトリが仁王立ちで陣取っていて怖くて出ていけないと言う。貴方は米粒ではないと分かったはずではないですかと院長は諭す。男は答えてこう言うのです。自分は分かっていると。自分は分かっているのだが、あのニワトリが果たしてそのことを分かっているのかどうか。それが怖くて出ていけない。そういう笑い話ですが、そんな情景をいつも描いています。」
「確かに少し病的な絵だね。最も全ての作家の絵というのは病的だと言って過言ではないがね。それが個性というもんだろう。」
「最近は時々、他の人格になって教室に現れるのが気がかりになっている。どうもお芝居というには真に迫りすぎているから扱いに困ってるんだ。」
「パフォーマンスをしているのか?さもなくば分裂症の発病だね。」
「やはりそう思うかね?しかし、発病によって事件を起こされると大変だなあ。」
小山内は絵画塾を主催して25年経つがこんな奇妙な生徒は初めてだと言った。私は時々小山内の鬱憤晴らしのおつき合いをして朝まで飲み明かす。この塾では絵画の実技を教えることの他に分不相応なほど大々的な展覧会を毎年開催する。そして定期的に絵画理論なども講義することもある。気の向いたときには近くの森へ生徒を集めて実験などをすることもあって、枯れ葉に埋もれて自然の一部となって数時間も死んだ振りをするのだ。大地に埋もれて癒されるそうな。はたまた教室を暗くして念写の実験をすることもある。そんな変わった授業だけがおもしろ半分にマスコミに取り上げられたことがある。
ある日、彼は教室の2階からスーパーマンだと叫んで空に向かって飛んだのである。いえ、例の加茂君ではなく塾の主催者、小山内勝が飛んだのである。それは塾を経営するに当たっての積もりに積もった借財が返せずに破産宣告を受けた翌日のことであった。
で?どうなった?かというと、現在この破産者を快く引き受ける病院もなくたらい回しにされているそうな。
ん?これを書いている間中、「ラ・ボエーム」が頭の中で鳴っているのがあなたには聞こえますか?シャルル・アズナブールの歌声が。とても古臭いシャンソンなんですが。あなたには聞こえますよね?
小山内勝 会員ナンバー429 世田谷区在 男性 五十八才
加茂茂樹 会友ナンバー1104 世田谷区在 男性 二十五才