春光会異聞15−乞食修行
ん?アレは何だろう?向ける視線の先に黄色いハンカチが。いやタンポポ?こんな都会の真ん中でビルの谷間のコンクリートの隙間にへばりつくように咲いているのか?ん?宙に舞った。飛んでる?何だモンシロチョウか?いや天に向かって上がっていった。火の玉?ん?誰かが旅立ったのか?今?どうりで彼はひときわ大きな声で念仏を唱えていたのか?
いつも買い物に来る駅前に佇んでいる行乞の僧が祈っている。周りはまるで気づきもしない。目立つ存在であろうと思われるのに都会の喧噪と無関心がそれを阻んでいた。それとも彼等の修行の中に路傍の石と同じように己の存在の息吹を消して風景の一部となって溶け込んでいく修行があったのだろうか?気づいたのはまずは親子連れの子供達だがまるで胡散臭い者でも見るかのように遠ざけられた。僧は人込みの中で穴があいたようにポツンと取り残されていた。私はあえて僧に近づいていくと会釈するようなしぐさをして托鉢の中に硬貨を入れる時に素早く托鉢の中身を伺って見ると、お札と共にいくばくかの硬貨の山を見つけてホッと胸を捺で下ろした。合せて僧の顔を盗み見たが俯いたままの無表情だった。色槌せた衣が修行の苦労の跡を忍ばせて日溜りの匂いがする。朝からずっと立っていると言う。しかし、見ていた時間の間には、ゆうに数万人という人が彼の前を行き来したが、一人だに僧の傍に立ち寄る者とて居なかった。以前、動物園の入口で見た大道芸人の幾重にも取り囲んだ人だかりとは雲泥の差だった。馬鹿面下げて通り過ぎる奴を少しでも呪い殺して見ろってんだ。それ位やらないと奴等は自分の馬鹿さ加減を決して分るもんか?天誅を加えろ!修行僧の心の中はこの世を嘆いているのだろうか?それとも誰も振り返らないこの世の無常に修行の手応えを感じ、硬貨一枚を頼りに仏心の体現者としての修行に恍惚としているのだろうか?世の中なんてそんなもんさ。他人のことなんか知ったことではないのさ。だからお勤めお勤め。お勤めをこなして帰ろうよ。それに、腹が減ったら目の前の立ち食い蕎麦屋で蕎麦でも食おうじやないか。絶望に神経が病んで夢が枯れ野を駆け巡る事にならないように。
ところで、お馴染みの修行僧だが、ある日ばったりと見なくなったと思ったら、今日よく立ち寄ったらしい立ち食い蕎麦屋に寄ってみると奇妙な噂が立っていた。修行僧ではなかったということだ。よれよれの僧衣といい脚伴に手甲、草履といい深編み笠をかぶった姿はてっきり僧呂以外の何者でもなかったが、乞食の行の途中胸を押えて蹲ったところを救急車で病院に運ばれて、身寄りに連絡の為、出処を調べたところ僧とは偽りだつたという事であった。何でも以前、立派な芸術団体に所属する絵描きさんであったが、50を越した頃、絵描きに嫌気をさして妻と子供を捨てて出奔したということが分かった。
「罰が当たって死んだんだって?絵描きのくせに坊主を騙るからだよ。可哀相に。」
「人気作家だったって言ってたっけ?元々東京の人だったらしいよ。」
「そう言えぱ、僧というには余りにも貧相な顔でしたねえ?それにしても本物のこじきだったとはびっくりしましたねえ。」
「本物のお乞食さんなら警察官が追っ払うからねえ。しょうがなかったんだよねえ。生活の知恵だよねえ。何でも調査に来たお巡りさんの言うことには都会の修行僧の中には偽物が多いんだってさ。」
真面目くさった蕎麦屋の親父や愛想のいい女将はそう噂をしていた。
「しかし、本物、贋物と言いますけど何を以てそう言うのかねえ?托鉢を持って修行しているのは同じじゃあありませんかねえ?」
「そう言えば、本当の念仏のようではありましたけどねえ…。声も渋くてお調子も良かった。やっばり、あれは本物の坊主だよ。」
「そうなんですよ。警察の方でも、よくよく調べてみたら高野山の高僧だったという話ですよ。全国行脚日本一の呵闇梨だったって。艶々していたれど七十は越えていたんだってさ。偉いじやないですか。高野山にいれば何不自由のない高僧ですよ。人の上に立つ者は違いますねえ。立派な人だよ。」
その時、私は悔しかったものだからそんな咄瑳の嘘を吹聴したが、よくよく考えて見れば本当の話だったかも知れない。蕎麦屋を出てから近くのお寺にお参りして薬師如来に手を合わせてお祈りをした。それから茜色に染まった夕暮れの空を見ながら家路へと急いだ。
その後、気になって、その時、後始末をしてくれたお巡りさんにしつこく伺ったところ懐には嘆きともつかず遺書ともつかぬ一文を大事そうに持っていたということだった。
「燃え盛るような人生があって、静かに黙考する人生があって、やがてはらはらと落ちる枯れ葉のように朽ちてゆく。昨日のように鮮明に覚えている父の死を看取ってから幾年経ったのだろう。ろくでもない息子は激しく父に背いて何か誇らしく輝かしい人生を歩いていたつもりだった。何のことはない周りに心配を振りまきながらの絵描きの人生。風に吹かれて流れてきただけの吹き溜まりの人生だった。悲しみを目に湛えながらじっと息子の幾末を見守っていた父は落胆を一度も口に出すこともなく無言のまま逝った。厳しい父の目が小鳥の目をしているのに気付いたのはその時だった。同じ事は同じような形で繰り返される。やがて放蕩息子も父となりかって自分が行ったように成長した子供達の反乱に出会う。破局というのは、いつどんなかたちで一つの家を襲ってくるのだろう?ある日、男は自分のいるべき居場所をよそに発見する。男は妻や子にそっと頭を下げたが、そのやむにやまれぬ熱情に駆られて不意に家を出た。ひどく慌ただしい家出だったね、と妻や子供達は笑い合って許してくれただろうか?もしも、この男がどこかの路傍でのたれ死にするようなことがあったとしたら、男はやっと本望の人生を手に入れたと伝えていただけないだろうか。」
黒岩 順蘭。会員ナンバー389。東京都出身。男性
六十三才。