春光会異聞14−彷徨える魂
花の赤星か、赤星の花か、と言われるようになるまでには10年かかった。それでも若くして超特急の出世。ただ今、売り出し中の新進画家である。しなやかな筆致、優雅なものの捉え方でデッサンの名手だと評判をとった。特に牡丹が評判がいい。次に薔薇。春には花の取材に明け暮れて花前線に沿って全国を動くこともある。片手にスケッチブックを持って近くのバラ園へは盛りの時は毎日通う。そのあと本屋か図書館へ立寄り一休みする。そしてアトリエへ帰ってきては予定の仕事を始めるのが日課となっている。五月から描き始めた二十種類の薔薇の花が完成するまで約半年間、すでに秋になっていた。編集部の花房さんにやっと手渡して散歩しながらの打ち合わせの時、珍事が起きた。
「一人けなげに咲く コスモスの花か?こんなにも可憐だったかなあ?まじまじと近くで見るのは久し振りだねえ?コスモスは滅多に描かないからねえ。この花はあんまり好きじゃあないんだ。」
一緒に歩いていた花房さんは蹟きそうになって彼に向かって怪訝化な顔をした。
「えっ?ははは?先程まで公園の花壇に咲くコスモスの群れを眺めてしきりと感心していたじゃないですか?今度スケッチに来ようとまで言ったんですよ?」
「何だって?それっていつのこと?」
「はは・・・。ご冗談ばっかり。だってつい先程のことじゃあないですか?」
二人はあわてて公園の花壇へ駆け戻りコスモスの花の群れを見詰め直したが、何故その時の記憶がとぎれたのか彼には分からなかった。小一時間もいたというのだ。ベンチに腰掛けて花の匂いさえ嗅いでいたという。手に取ってコスモスの花の歌さえ小声で歌っていたというのだ。単なる物忘れではない。彼の記憶装置がクラッシュして飛んだのだ。考え事でもしていたというには少し重傷だ。
「心配ですねえ。先生のことは。このところ頻繁ですから。」
と花房さんは哀れむようにそう言った。その時、じっと見詰めていたコスモスの花の群れの中からヌッと顔が現れるのが赤星には見えた。
「幻だな?」
益々酷くなるなと彼は苦笑をした。
「先日は一体何だったのだろうか?」と思い出せる記憶を辿りながら呆然とする。「誰だって驚くさ。ふふ・・・。」吐き出すように言った。覚えのないホテルの一室でふと目を覚ますと厚化粧の女が隣にいた。女が誰だか分からない。見覚えのない女だ。連れ立って泊まったらしい。多少は飲んだかも知れないが、意識を失うほどの量ではないことは体が証明していた。二日酔いの気配もない。彼には女を誘ったこともホテルに連れ立って来たことも記憶がなかった。ただ目を覚ますと女と抱き合って寝ていたのだ。ただ彼自身自分が誰であるかはまだ分かったのは救いだった。女とそそくさと別れて自分の家に戻ってこれたものの、もし、それさえも失われたとすればどうなる?記憶喪失者か?しまった!女はこのことをどう理解しているのかを聞き忘れた。単なる街を流している女ではなさそうだったが・・・?何か曰くありげな女だった。名前は?ん?涼子とだけしかしらない。恐らくもう二度と会うこともあるまい?「ん?女は私のことを知っているのだろうか?まさか私の恋人だというわけでもあるまい?」
冷や汗の出る底知れぬ思いは年を重ねる毎に益々酷くなる。それに、お酒が入るときまって記憶の連続性がとぎれてとびとびになる。呆けが始まったにしては若すぎる。自分でもそれは違うような気がする。心の奥深く分裂が始まったような気がするのだ。多重人格者?もう一人の自分がいる。もう一人の自分が蠢きだした。彼にはそんな気がした。
「待てよ。」と思う。何かの拍子に胸の奥の方から黒い塊が突き上げてくる。遠い記憶の中で赤い血の匂いが鼻を掠めるのはいったい何だ?。何かを押込めて縫い合せた赤い痕跡の膨らみから沸々とマグマのように吹き上げてくる悪夢の様なものはいった何だろうか?彼は、自分の記憶の隙間をジグソーパスルを埋める様な面持ちで深い迷宮の渦巻きに巻き込まれながら下降していた。喉まで出かかったが思い出せない記憶の空白。それは遠い幼き頃の満たされなかった悔恨の記憶の様でもあり、もっと遡って言えば血の系譜に染みこんだ先祖の狂乱の記憶の様でもあり、それとも・・・前世の記憶か?そうか?前世の記憶だ。彼はとびとびの記憶を辿りながら結論に至る。
「確かに私は何度か殺されている。2度?ん?3度?そうだ。2度か3度殺された記憶がある。馬鹿馬鹿しい話だが、その時の恐怖と痛みの痕跡が確かにある。フ〜ム?それは夢の中の出来事かもしれない。そう、夢の中の出来事かも・・・。」
彼にはその後、多重人格者の様相を呈し始める。それを初めて気付いたのは新婚間もない奥さんであるが、その不可解さに恐れをなして編集者の花房さんの元へ相談を持ちかけたのだった。様子がおかしいとの電話で駆け付けてみると、暗い部屋の片隅で人形を抱きすくめながらじっと動かずにいる彼を発見した。月光に照らされた横顔は遠く彼方を見詰めながら何かぶつぶつと独言を口走った。
「水子の霊が浮かんでる。・・・・。」
ん?女になったのか?ん?女に変身している。最初の印象で花房さんはそう思った。その夜いらい、彼は時折来る眩暈の発作や幻覚や幻聴に悩まされながら一点を見詰めてあらぬ事を口走る事が多くなったという。そんな発作も月のものの様にあるきまった夜にやって来る。満月の夜と満ち欠けの月の夜と星月夜と。
彼が魂の漂泊を始めてからしばらくして花房さんは気付いた事がある。彼に憑依して来る者達の、うっすらとした輪郭が見えつつあった。黒い装東を纏った異界の物の化の仕業のように、いずこからかふいにやって来る見知らぬ訪問者達はひたすら我が身のドラマを演じて何かを訴えているように見える。ひとしきり呪誼の言葉を訴えてはいつしか異界の空へ去ってゆく。決まって三人の人物の影がちらつく。
満月の夜やってくる一人は古代の巫女だと名乗った。女は満月の空に静かに祈って未来の吉兆を占う。世界の終末に関する事もあるし誰かの先行きに関する事もある。驚くべき内容を含む事もあるし項末な事もある。中でも凶事のご託宣はよく的中するように花房さんは思った。
もう一人、満ち欠けの月の夜やってくるのは中世の白拍子の風情。女は上弦の月に向かって激しく舞う。我が身を通り過ぎていった男達への未練を謡う。まるで能舞台を見るようだが、やがてあらゆる淫らな行為を仕掛けてきて花房さんを悩ませる。
三人目は、キラキラ輝く星月夜になるときまって現れる言葉少なの自暴自棄の男がいる。絵を描いていた男らしい。彼が出現したときは一晩中、殴り描きのようにキャンバスに絵を描いていく。速射砲のように描いてゆく。なるほど、赤星の前世は絵描きなのかと花房さんは納得をしたほどだった。
花の赤星が35才の誕生日を迎えた頃、花房さんはある変化に気付き始めていた。星月夜にやってくるその殴り描きの男が少しずつ赤星に同化し始めているのを。やがて赤星がひまわりの花を描いたときにぴんとくるものがあった。燃え立つような筆致。渦巻き?ん?見たことがある?誰かの絵に酷似している。ゴッホの絵じゃないか?ゴッホの絵にそっくりだ。いやもっと荒々しくエネルギーに満ちたものだ。まるでフォルムをエネルギーの塊と捉えている。カオスに近づいてフォルムの秩序を失っている。それだけにゴッホの絵よりもっと強烈な印象がする。赤星の優しいフォルムが消え都会的なしゃれたセンスが消えた。
「私の感想ですが、最近の赤星先生の絵が美しいとはどうしても思えないのですが?今までと同じように花を描いていると言うのですが、くすんだ描き殴りの絵はそんな風には見えなくて、何だか渦巻きだけを描いてある様で目眩がするんです。間違っているでしょうか?」
支持を受けていた三十台女性の中からやがてそんな評判が立つようになると日本での人気に急速に陰りが出てきた。今まで競って買い求めてくれたコレクターからも敬遠され始めた。そのことをきっかけに絵の勉強を始めからしたいと言い出して、赤星は吸い寄せられるように渡仏する事になる。赤星がフランスへ移住してから花房さんはあることが気になって仕方がなかった。ゴッホのバイオグラフィーを確かめる。ん?三十七才か?もうじきではないか?花房さんの顔は曇った。何故なら満月の夜にやってくる古代の巫女のご託宣に次のようなものがあったからだった。
「カラスの群れ飛ぶ麦畑は不吉。そばに寄るとき星月夜は溶け合ってたちまち雲に隠れる。悲しみの星赤く燃えて落つ。全てはカオスへと帰す。」
赤星月也。 会員ナンバー497。 フランス・オーヴェール在住にて。 男性。 37才(没)