春光会異聞その10−夢か現か幻か
神崎西堂。あの千年木の風間俊樹さんの一番弟子の神崎さんです。彼は相変わらずあの祠の中で風間さんと人生の話や絵の話をしています。風間さんは案の定、ご自分の死んだことなどご存じなかった。今では自分の身の上に起きた出来事に関して薄々は気付いているそうですが、相変わらずあの木の中に住んでいるという話です。実にお元気だと。いやもう、笑ってしまうほど元気なのだという。
「いえいえ、彼の姿は幻でなんかじゃあありませんよ。触ればちゃんとした生身の体ですし、お土産の中村屋のあんパンは二つや三つはすっかりたいらげるし、生きている人間と少しも変わりゃあしません。私は、そのことがほんとに嬉しくて、今まで遠慮して伺えなかった芸術の奥深い神髄とやらをやっと聞く事が出来て何とも楽しみでなりません。」
神崎さんはそう言います。
「君ねえ。美しいという言葉だが、心が空(うつ)になりましょう。その空っぽになった空間にすっと奇(く)すしきものが入ってくる。けったいなものやね。だから心が洗われるように感動する訳やね。だから、芸術家は今まで誰もが一度も見たこともない光景を表すべきなんだよねえ。それが美に携わる絵描きの任務ってもんじゃないかい。ねえ、神崎君。」
「確かにそうです。しかし、それが難しい。ややもすると絵描き自身、じっくり湧き起こる感動を待ちかねて、いつもの手順で描くこともありますからねえ。やはり、瞑想か何か描く前にはそんな心構えも要りますねえ。」
「私は木そのものになります。」
「木の気分ですか?」
「フン。木そのものやね。まず、臍(へそ)の下あたりの丹田に意識を集中する。それに呼吸法が大事だ。多めにやる。酸素過多の状態。しばらくすると体が浮いてきます。それから頭のてっぺんからつま先まで意識を念ずると体の分子が、粉々になって空気に溶けて消えてゆきますから、私の分子が木と同化するのが分かりますよ。君ねえ、千年木の細胞一つ一つの中に蓄積されている記憶たるや相当なものです。驚嘆すべきものだねえ。」
「フ〜ム。昔からの瞑想法の一つですね。木そのものになれますか?」
「ならなきゃあ駄目ですね。木そのものになって描く。俗っぽく言うとそれが思想ですね。日本ではその思想がありません。木が風に吹かれてざわざわと揺れる。花びらがはらはらと散った。こんなものは情緒というものです。木だって風に逆らって揺れている場合もあるわけです。そこには木の意志だってあるわけだから。花びらだって散りたくないといってしがみついている花びらもありますよ。まあ聞いてご覧なさい。いえ、その花びらにです。ハラハラと散るのはあなたの意志でありましょうか?それとも誰かの意地悪な意志に因ってでありましょうか?とね。いえいえ、それは、私の宿命でございますから。遠く彼方の超越的な不可思議な力の故でございましょう。決して恨みに思うものではございません。そんなお答えが返って参りましょう。ははは・・・。そのものになったつもりで、そのものの立場で描く。それが思想というもんです。私なんぞ木に同化しちゃいますから。フフフ・・・。面白いですよ。」
「いやあ、だから風間さんの木は神々しいんだ。木の意志と言うより宇宙の意志、神の意志を感じますねえ。ところで木に同化した気分はどんなもんなのかお聞きしたいなあ?」
「ハハハ・・・。無我の境地といいたいところだが、悔恨と諦念の気分だなあ。動けないストレスたるや相当なものですねえ。木だって動きたい。自由にはばたきたいという希望で一杯ですから、せめてもの天に向かって葉を広げるのはそのせいです。彼らだって天から神が降りてくるのをじっと待っています。この木は降りているんですよ。神が。ヘッヘッヘ。いるんですよ。神が。ヘッヘッヘ。」
神崎さんは相変わらずの風間さんの悪戯っぽい話しぶりに嬉しそうに相づちを打つのでした。そして、神崎さんも思想としての絵画を描きたいと切に思うのでした。神崎さんは長年培ってきたアカデミズムの絵を風間さんの忠告であっさりと捨てたことがあった。どちらかというと寓意やカリカチャーといった古風な絵作くりで精魂込めた細密描写で見せるといった方法論で描いていた絵だが、抑制的に描く彼の作品は出来の良い歌劇の一場面の様な格調の高い作品だった。寓意的な絵で知られるルネサンス期の画家、ボッチチェルリの「プリマベーラ(春)」を一ひねりも二ひねりも捻って、ねじり切ったような作品であった。山羊さんのプリマがソプラノでコロラチューラ。若さを反映して饒舌な絵であったが、画壇でも確かな描写力と現代的な風刺の面白さで評価された絵であった。その絵画方法論をあっさり捨てた。多くの画家がアカデミズムで獲得した絵画方法論に一生拘り続けることから言えば希有のことである。風間さんの神崎さんへの忠告は神の言葉より威力があった。要は他人が描いたような絵は描くなという忠告に過ぎなかったのだが、神崎さんの心にはナイフがぐさりと心臓を射抜いたのだった。そして、神崎さんが辿り着いた絵というのは子供の落書きのような絵であった。プリミティーブといえばプリミティーブ。風間さんからは「良」の採点を貰ったから合格だったのだろう。面白い評価の仕方をした。
「ハハハ・・・。これはいい。赤ん坊が子宮の壁に描いたような落書きでげすな。うんうん。いいですよ。こりゃあ。つまりはこれは遺伝子DNAの記憶でげすな。うんうん、こざかしい意識を一端、放下しなはりましたんかい。よしよし。これからが楽しみだ。ハハハ・・・。」
神崎さんは以後、この言葉を指針に描いてきた。しかし、毎日のようにこの祠に風間さんを訪ねて来るのは、風間さんとお話する事が嬉しくてしょうがなかったからだけではなく、神崎さんは最近、少し行き詰まりを感じていたのだった。いつまでも子宮の中で落書きをしていていいのだろうか?そんな疑問がふと頭の中に浮かぶことがある。
「そうでやんすねえ。赤ん坊というのは、宇宙の中に唯我独尊。神のごとくに彷徨って暗黒宇宙の隅から隅まで旅をしてまんねんよ。数十億年の時間も旅して来まんねんよ。時間も空間もひとっ飛びや。まるで太古の海に命が生れた時を再現するかの様に羊水の海に一つの生命がやって来て、やがてアメーバとなり魚となり両性類となり爬虫類となって人間へと辿り着く。まあ、ゆうたらこれで四十数億年でおまっせ。この宇宙の中で全能の神の如くにブカプカ浮いて、たゆたう様にこの世界がただ一人の者で満たされていた時代を経て十月の後、劇的な変化を遂げる。胎児が経験するこの世で初めての痛ましい事件。暗い産道に押し漬されながら糞の如く捻り出されて異次元の世界へと唯我独尊の地位から転落する。
その記憶がもしあるとするならば、さぞかし辛い思い出に違いない。反対に言えば、この世にこれほどの解放感があるだろうか?さてさて、子宮の中を遡るか、出てくるか?それが問題やね?ハハハ・・・。」
江戸っ子の風間さんが関西風な言葉遣いになるときは要注意。神崎さんはいつも集中して聞くのだった。
「遡ったら?どうなりますか?」
「ハハハ・・。魚になりなはれ。鳥になりなはれ。恐竜になりなはれ。さっき言いましたやろ。木になる方法。それでおまっせ。ククク・・。」
神崎さんは喉に突き刺さった骨がすっかりとれたように微笑んだ。なんという至福の微笑みだったのでしょう。
毎日、楽しそうに出かけていく神崎さんを見て様子がおかしいというので、密かに後を付けたお子さんが目にしたものは、大きな木の祠の中で独り楽しそうに誰かとお話をしている姿を目撃して、まるで初恋の人とでも会っているかのような、あんな嬉しそうなお父さんの笑い顔を見たことがなかったから声も掛けずにそっと帰って来たそうな。
神崎西堂。会員ナンバー408。 埼玉県所沢市在住。男性。 55才。