01-展覧会の絵
上野の杜が冬の眠りから覚めてようやく春の陽射しがさし始めた頃、我々の芸術団体は展覧会の開催に向けての準備が動き出していた。
外では、春欄万のいい陽気でやがて来る花の宴へ向けて桜の花が静かに咲き始めていた。車の往来の激しい喧騒の道から坂道をゆっくり公園の方へと上がって桜並木を突き抜けると美術館はある。その桜の樹の下には死体が埋まっていると言ったのは誰だったか?確かにこの時期、夕暮れの桜並木の下を通る時には白い花明りの寂しさと共に、そんな妖気を誘うような胸騒ぎがするのである。私は何年もの間、毎年、春になると花盛りの樹の下での乱痴気騒ぎを横目に、この美術館へはよく足を運んだものだった。美術館で開催されるある会の公募展を通じ落胆したり喜んだり、重たい額を脇に抱えて酒宴の傍らを足速やに通り過ぎたこともあった。手は痩れるように痛かった。会員になるまでは、悲喜交々の思いで満開の桜の花を見詰めていた。
ねがわくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ 歌人西行
この季節になると浮かれる気分とてなく、どこか割切れないような煽られる春の妙な気分になった。いつも通ったこの美術館の地下室では外の陽気さとは裏腹に、中に入ると剥き出しのコンクリートの壁がひんやりとして湿った黴臭い匂いと油絵の具のアマニ油の匂いとで死んだ物達の匂いがするのだ。このすえた匂いは随分憧れていたが、中に入って見れば老人の死臭の様な匂いで、恐らく居並ぶ保守的な絵画団体の衰退の匂いだと思った。この地下では画集を作る為の写真撮影で東京に住んでいる会員は忙しくて大変だった。春のさ中に美術館の薄暗い地下で作品の撮影や審査の準備をしていると、出品されてきた百号キャンバスの一つ一つは命をかけた作家達の一年間の総決算には違い無かったのだが、その百号キャンベスの群れが手垢にまみれたゴミの山の様に思えてきてまるでゴミの廃棄場の真中にいる様な気分であった。真白いキャンバスの群れなら清々しいが、作家の情念が籠もったぶんだけ厄介なものは無いと思った。膨れ上がって今にも破裂しそうな情念の塊は人間の活動が停止した夜の美術館の地下で青白い炎を吹き上げて燃え出して来るのである。皆が寝静まった深夜の地下室では圧倒する裸婦の群れが少年少女や紳士達に向かってよからぬ悪戯を仕掛けていた。マネキン人形も時計もメリーゴーランドもおもちやの兵隊もカタカタと一緒に動き出し、さながらカーニバルのようであったという。幾人かの警備員の談として伝わっている。
例え全身全霊を傾けた作品であったとしても、会場でどんなに愛想を振り撒いたキンンバスの主人公であったとしても、展覧会より引き取られた直後にはもう殆どの作品が誰からも見向きもされないばかりか、廃棄される運命にあることを美術館に出入りする者達は哀れんでいた。全精力を傾けた多くのキャンバスの行方は恐らく夢の島だろう。天才達の夢の跡は無残なものだった。それだけに夢への執着は深い。尽きせぬ思いは天躯けて夜空の月を射抜き、果せぬ恨みは海の底へ黒い澱みとなってしずかに沈んでいく。美術館の地下にはいくつかの首括りの伝説があるという。
何かがおかしい、この美術館の中の様子が少し変だと言う風聞がたった。
「いえねえ。俺の絵だけどねえ出品した時とは少し変わつているんだよ。誰かが悪戯して汚してんだよ。」
「そんな馬鹿な話はないでしょう?ははは・・・。」
「いや、何か違ってるんだよ。俺はこんなに下手じやねえ。」
「はは…。会場に並ぶとそう見えるんですよ。ここで見ると本当にあらが分るから誰もが言うんだから。自惚れってもんですよ。」
「馬鹿やろう。何ぬかしやがるんでい。」
ところが憤満やるかたない様子で抗議をして来るのは一人ではなかった。皆が皆、出品した時の絵と展示された時の絵が少しだけだが違っているというのだ。絵に大事な精気が抜き取られているという。誰かが賞を取るのを妨害する為に悪戯でもしているに違いないと言い出す始末であった。同じような事件はこの五年の間たて続けに起こっていた。
ある会員だがここ十年もの間いつも同じように自画像を百号キャンバスに大きく描いてくる作家がいた。決まって絵筆とパレットを持った自画像であったが、年々自我の追及が深くなってくるように見うけられた。一見すれば精進の賜物だと取れるのだが、私はその会員の絵を見る度に年毎に益々異様な感じに囚われるのであった。それにしても、よくもまあこれ程までに自我に拘り続けて画布の上に乗せる作業が出来るもんだと思い、その執念に驚くのである。彼の関心は社会の全ての物から隔絶されて己一人に向けられていた。
「ナルシシズムってもんじやあないね。こりやあ。ゴッホの死ぬ間際みたいにねえ。取り憑かれているんだよ。」
「ほう?そんな噂のある先生ですか?詳しくご存知ですか?この先生の事を。それにこの会に出品して以来自画像しか描いた事がないそうですね?」
「ウン。自分勝手で変わった人だとは聞いているけどねえ。何でもご自分の内に閉籠もると他が見えなくなるらしい。何年も前にスキャンダラスな事件を起こしたらしい。」
一心不乱に呆けるようにこちらを見詰めている自画像がふと動いたように見えた。
素人が見たのでは恐らくその年毎の変化の程は分るまい。余程の批評家ですらこの作家の追及の姿勢に拍手を贈ったと思うのだが、毎年関心を持って見ていた私の目にはこの変化の兆候にただならぬものを感じていた。出品作品に対しての悪戯の件であるが、私はその犯人は彼の自画像だということがすぐに分った。その自画像が夜中の晩に絵から抜け出て悪戯をしていることを。
彼の怨念はそれ位の事など容易くやってしまうだろう。現に私の調査では、悪戯される絵は決まってその自画像の前でさんざん悪態をついていった会員の絵に限られるという事実をつかんでいた。そうそう、自画像の前で私と二人、老人について特に悪口でもないがひとしきり噂話をした会員の絵には、それは裸婦を描いた品の良い作品であったが、その愛しき人の顔の目の下にそっと隈が描き加えられていたそうな。その会員が首をかしげることしきり。
私はその事はきっと内緒にして公表するようなことはしなかったが、展覧会の会期中の何時か、美術館の会場で自画像を描いた自分のキャンバスを前にしてじっと対面をしていっこうに立ち去ろうとしなかったその老人を見かけた時には、さすがにハッと胸をつかれる思いがしたのである。よれよれになったコール天の上下を着て、杖をついて体の方は弱っている様子であったが眼光は鋭くじっと鏡を見るように自分を睨みつけていた。私は胸騒ぎが治まらずに、一時間程じっと動かない彼の姿に付き合っていたが、やがて大きく肩を落とすように溜息をつき落胆するように背を丸めてすごすごと帰っていった。皺くちゃの目にはうっすらと涙が溜つているように私には見えた。
「先生。事務所ではお酒の用意もありますので、一寸お寄りになりませんか?他の先生方もほろ酔い気分で大勢いますから。」
「ハアー?いやいや…。お酒…なんか…ちょっとね。」
何とも弱々しいかすれた声で振返ったその目は焦点が合わずに宙空をさ迷いながら足取りもおぼつかなくヨタヨタと歩いていった。
「先生の絵は年毎に凄みが増してくるのでご立派だなあと皆で噂しております。どうぞお元気でご精進下さいませ。」
「ハアー?ハハハ…。有難う、皆さんに宜しく…。ハアー。」
榊原小二郎。会員ナンバー228。多摩地区在住。男性。七十六才。
その一年後、この芸術団体の会報に互助会からのお知らせが回ったそうな。
「春光会会員、榊原小二郎氏はこの四月一日、七十七才の目出度き誕生日の日、多摩地区のある老人ホームにて死去。原因は縊死。ご冥福をお祈りいたします。辺り一面真っ白になるほど花びらが舞い散っていたそうです。合掌。」