私が初めて驚嘆を持って出会った銅版画家はハンス・ベルメールである。若い頃、絵の修行に神田神保町にあった教場へ数ヶ月間通ったことがあった。
その折りには古本屋を一回りするのが常であったが、ある古本屋の小さなウインドウにベルメールの「プッペ」という本が飾ってあって、手にとって捲ってみるや否やAテン神経にドーパミンがドバーと走った。当時、貧乏生活の中では一冊の本に2万円の大金を投じるには躊躇せざるを得ないような状態であったが、しかし、高すぎていっこうに売れようとしない本を3ヶ月間指をくわえて見ていた末に我慢しきれなくなって買い求めた。その後数ヶ月間、即席ラーメン生活を余儀なくされたのだが、まあ覚悟の上だった。その2万円の本が私に与えた影響は計り知れなかった。
で?「プッペ」とはいかなる本なのか?
当時、いや今でもそうなのだが、自意識の中にはぐれ者という意識があって、その意識は常に異端気取りを演じていたものだが、それ故に奇妙で歪つな存在にたまらなく惹かれるようなところがあった。
「プッペ」とは訳せば「人形」だが、死とエロスにまみれた写真集で開くやいなや衝撃を受けたのは死とエロスの本質を見ただけではなく逸脱を求める人間の快感原則の一部をも覗き見たような気がした。
人形の題の如くにもぎ取られた頭部や腹部や大腿部は石膏で作られた彫刻とも言えるものであったが荒々しいサディズムを含む部位への偏愛は妖しい程の甘味な作品である。画家ハンス・ベルメールが構築した解剖学的欲望の産物は人体局部のフェティッシユである。所有の愛と抑圧された死の願望をないまぜに禁断の愛に心底溺れる孤独者の企み。禁止された愛の成就にかける悲しくも美しい犯罪者の微笑みは、やがて至る快楽殺人の予感を暗示していた。
彼は明らかに犯罪者だ。ハンス・ベルメールの殺人願望の手口は巧妙に仕組まれたものだ。次の様な手順である。
まず頭部を切り離し石膏で型取りする。次は脚部を切り離してトルソーと脚部を石膏にとる。球形に膨れている腹部は恐らく胎児がいる為だろう。腹部と瞥部の丸みこそエロティシズムの根源でもある。心ゆくまで弄んだ上、同様に型取りされる。型取りされた夫々の人体部位は袋に詰められ手押し車に乗せられて森の中へと運ばれたのだった。彼は渾身の注意を払ってバラバラ殺人事件のように人体石膏を叢の上へと並べてゆく。自分の腹部に置かれた眠る少女の顔には首切られた者の胱惚感が浮かぶ。腹部から生え出したような脚部。胎児を含んだ球体の腹部から大腿部と脚部が二対づつ伸びる首無しの人体もある。切り刻んだ人体各部を弄びながら彼はカメラのシャッターを押すと同時に体に恍惚の電流が走った。まるで、検死報告書の現場写真を撮るかの様に草叢の上の肢体をカメラの中へ収めてゆく。鑑識係りの冷静さと殺人者の極度に興奮した顔を覗かせて殺人遊戯は続けられたのだった。
この殺人遊戯の写真集に因ってハンス・ベルメールはパリのシュールレアリスト達の間で絶賛を浴びる事となった。そして、続けて秀逸な銅版画を発表し続ける。「眼球譚」「マダム・エドワルダ」「道徳小論」などの悩ましい版画集は驚嘆に値する。またまた若き日の私の食生活を乱す元となった。
私はこのハンス・ベルメールの作品に刺激されて2つの銅版画を彫ることとなる。「犯罪学」と「草むらの変」である。その作品はある保守的な芸術団体にて賞を貰うこととなり、それが縁でその会とお付き合いするようになった。