「村上隆 芸術起業論」 から





p35
マルセルデュシャンが便器にサインすると、どうして作品になったのでしょうか。既成の便器の形は変わらないのに生まれた価値はなんなのでしょうか。それが、「観念」や「概念」なのです。これこそ価値の源泉でありブランドの本質であり、芸術作品の評価になることなのです。くりかえしますが、認められたのは、観念や概念の部分なのです。西洋の芸術の世界で真の価値として評価されるものは「素材のよさ」でも「多大な努力」でもありません。
p41
ぼくは、自分の作品が理解される窓口を増やすために、自分や作品を見られる頻度を増やすことを心がけています。媒体に出る。人にさらす機会を増やす。大勢の人から査定してもらう。ヒットというのは、コミュニケーションの最大化に成功した結果です。
p45
絵画は紙や布に絵の具を乗せた痕跡です。痕跡自体に価値なんてありません。価値のないものに「人間の想像力をふくらませる」という価値が加えられているのです。つまり、芸術とは、想像力をふくらませるための起爆剤が、いくつも仕掛けられていなければならないのです。
p47
バブル経済の絶頂期、日本の美術館は世界でもトップクラスでお金を使っていましたが、買い集めた作品が将来にも価値がなければ意味がないのです。価値があり続ける作品を見抜くためには、様々な知恵や助言を吸収すべきです。美術の歴史や市場で価値を持てない作品は、個人の趣味以外の価値が見いだせませんから。
p50
つまり芸術作品はコミュニケーションを成立させられるかどうかが勝負です。
p52
芸術で未来を開拓したいのならば芸術の状況を客観的に見なければならないのですが、日本では客観的に作品を判断する「批評」が存在していません。これは、大きな問題です。
p53
芸術作品は自己満足であってはならない。価値観の違いを乗り越えてでも理解してもらおうという客観性こそが大切なことなのです。価値観の違う人にも話しかけなければ、未来は何も変わらない。そういう世界共通の当然の話が、若いアーティストの頭から抜けている…
p77
歴史に残るのは、革命を起こした作品だけです。アレンジメントでは生き残ることができません。もちろんアレンジメントの革命もありますし、映画界ではスピルバーグはアレンジの革命家だからこそ生き残れているのでしょうけど「考え方」や「ものを作る発想」を練りあげなければ最終的には生き残れないのですよね。
p78
「赤ひげ」のカメラの移動がいくらすごくとも、そういうものは後世の技術で追いつけてしまえるものです。技術で追いつけないところに黒澤監督の個性や魅力があるのですから、芸術においても、技術ではなくて考え方に力を注ぐべきだと思います。
p79
美術の世界の価値は、「その作品から、歴史が展開するかどうか」で決まります。ロバート・キャパが撮った「崩れ落ちる兵士」がやらせかどうかはともあれ、その一枚で歴史が変わったのだから、本物でも贋物でも作品そのものは重要なのです。
p80
大事なのは入口をつくることであり、入口を作った人こそが美術の世界で讃えられるものなのです。
p83
海外のキュレーターが興味を持ってくれても海外の美術館には説明できない作品ばかり。部分的なきらめきがあっても欧米の美術史における文脈づけが弱ければ、外国に渡っていくパワーにおいてはぜんぜん不足しているのです。
p85
アメリカでの成功の秘訣は明確です。人のやらないことをやること。
p88
たとえば欧米の美術市場における芸術作品の制作の必然性には「自分自身のアイデンティティを発見して、制作の動機づけにする」ということがあります。これは欧米の美術における決まりごとのようなものです。「欧米美術史および自国の美術史の中でどのあたりの芸術が自分の作品と相対化させられるのかをプレゼンテーションすること」も重要とされています。これをふまえなければ芸術作品として認められないならそうすべきなのです。
p91
人の人生とはつまりブランドの基本なのです。
p104〜105
北斎は欧米の世界では高く評価されていますが、生前の日本では町絵師の域を脱しませんでした。天才が空白状態の中で作るものは歴史を変える可能性があるのですけども、水準が高すぎたり時代の先に行きすぎたりしているために、リアルタイムでは正当な評価を受けられないかもしれないのです。
p109
海外の美術の世界は「すごい」と思われるかどうかが勝負の焦点になっています。お客さんが期待するポイントは、「新しいゲームの提案があるか」「欧米美術史の新解釈があるか」「確信犯的ルール破りはあるか」といずれも現行のルールに根ざしています。
p140
作品を意味づけるために芸術の世界でやることは、決まっています。世界共通のルールというものがあるのです。「世界で唯一の自分を発見し、その核心を歴史と相対化させつつ、発表すること」これだけです。
p144
「自分の興味を究明する」「好きなように生きている」この二つは、かなり違うことです。芸術をやりたい若い人特有のよくないところがあるのですが、それは、みんなが「修行なんて必要ない」と信じているところです。
p148
儲かるからといってただたくさん描かせていてはだめでしょう。90年代のロンドンのアートシーンで生き残ったのはダミアン・ハースト一人だけでした。多くのギャラリストは「儲かるから」という理由でアーティストを急がせて過剰供給したけど、最後は売れ残りがダブついて業界から作品が消えてゆくことになりました。
p149
株式市場と同じです。作品製作の傍らで時代のリアリティを検索し続けることも大事ですよね。つまり…生き残るのだ、という情熱が不可欠なのです。
p154
戦後の美術の世界では「醤油くささ」の隠蔽と外国料理の模倣に明け暮れたようなものです。欧米人になりすまそうとするから、ますます評価されなくなったのでしょう。
p158
一生の間、歴史を学習し続ければ、どんどん自由になれる。これは当たり前のことです。芸術の世界だけでなく、どの業界にもどの分野にも特有の文脈がありますが、文脈の歴史のひきだしを開けたり閉めたりすること」が、価値や流行を生みだします。
p159
ところが小さな個人のドラマが抽象絵画に乗せられたら、誰も理解してくれません。芸術家は歴史を学ぶべきなのです。どういう作品が人々と接点が多いのか。どういう作品が人々と接点が少ないのか。
p167
芸術で最も重要な問題は「いかに新しい表現を探しあてられるか」に尽きます。新しい表現を探しあてられた人は長く尊敬され讃えられますが、発見に至るまでの冒険の途中には苦悶はつきものです。
p185
作品には、一人の人間の考えのほとんどを封じこめることができます。その意味では作品は未来に託す最高のタイムカプセルでしょう。
p189
そんなふうに、欧米の芸術の世界では、ルールとの関係性における「挑戦の痕跡」こそが重んじられるというリアリティがあるのです。欧米におけるアートはルールのあるゲームなのです。
p193
表現の世界では、みんなが、実現不可能なことに夢をはせては挑戦を続けています。アイルトン・セナが超えられない時間の壁に突入していくような種類の挑戦です。ぎりぎりまでやらないと、ものが見えてこない世界。
p194
表現の世界の地獄は、前に進むほかに道はありません。足を突っ込んでいながら「アチチチ」とすぐ足を抜く姿勢は意味がありません。入ったのならば、先に進んでいかなければならないのです。
p197
怒りはぼくを動かしています。不満なのです。表現しきれていない不完全な感じがいつもあるのですが、最近はそういう感触が大事なのかもしれないと思うようになりました。ベートーベンは、耳が聞こえなくなりました。ゴッホは、絵が売れずにおかしくなりました。どちらも本人の主観ではずっと不幸だろうし、そんなに何かが達成できたなんて思っていないはずで、だからこそ作品を作り続けることができたわけです。
p199
「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ、と言っていたのは毛沢東です」宮崎駿さんはよくこう言いますけど、本当にそうですよね。
p206
周囲におもねった瞬間から、作品は鮮度が落ちるんです。だから料理と似ていますよね。鮮度がとても大事なんです。
p215
おもしろさにも、イヤなことにも、かならず原因があるわけです。感性の原点に辿りつけるように自分を磨くと、わかる時が来ます。
p225
やはり自分のための茫洋な自由の中からではなく、目的に合う設定を作りこまなければ、他人には届かないものになってしまうのだと思います。
p229
作品からは「自分の信じる何かに隷属する」という姿勢が伝わる。デュシャンにしてもウォーホールにしても名もなき人足ですからね。残るのは作品であって人物ではありません。作品の中に凝縮された考え方が残るもので、それ以外の余分なものは必要ないと言いますか…
p238
否定や批判がないと、「今」という時にぴったり合いすぎていることになります。それでは未来が作れません。極端なこともやって、批判も含めて包み込むような大きな作品にしないと、表現の現場、例えば美術館などは沸かないんですよね。
p244
芸術は人が造る。人を超えていこうとする芸術は、超えるが故に超人的なる行為の集積が必然であり、そのモチベーション、環境をケアし続けるには「マネー」は〈なくてよいもの〉ではないのです。時間も心も兌換できうるに足るきっかけの一つとして、蔑んではいけないツールなのです。



以上、 「村上隆 芸術起業論」 より抜粋(2006.8.14)