屋島山頂の詩碑
詩は、イギリスの詩人エドマンド・ブランデン氏が昭和24(1949)年に屋島を訪れて印象を書いたものです。訳文は同氏の東京大学在職中に教えを受けた、当時香川県英語研究会長・高松第一高等学校長であった岡崎氏によるものです(向かって右が英文、左が訳文と解説)。
「弓流し」も屋島の合戦の有名なエピソードです。 シテ「その時何とかしたりけん、判官弓を取り落し。波にゆられて流れしに、 地「その折しもは引く汐にて、はるかに遠く流れゆくを、 シテ「敵に弓を取られじと、駒を浪間に泳がせて、敵船近くなりしほどに、 地「敵はこれを見しよりも、船を寄せ熊手に掛けて、すでに危く見え給ひしに、 シテ「されども熊手を切り払ひ、つひに弓を取り返し、もとの渚にうち上がれば、 地「その時兼房申すやう、口惜しの御振舞やな、渡辺にて 景時が申ししもこれにてこそ候へ、たとひ千金を延べたる 御弓なりとも、御命には替へ給ふべきかと、涙を流し申し ければ、判官これをきこしめし、いやとよ弓を惜むにあらず、 地「義経源平に、弓矢を取つて私なし、しかれども、 佳名はいまだ半ならず、さればこの弓を、敵に取られ義 経は、小兵なりと言はれんは、無念の次第なるべし、よし それ故に討たれんは、力なし義経が、運の極めと思ふべし、 さらずは敵に渡さじとて、波に引かるる弓取の、名は末代 にあらずやと、語り給へば兼房、さてそのほかの人までも、 皆感涙を流しけり。 シテ「知者は惑はず、 地「勇者は恐れずの、弥猛心の梓弓、敵には取り伝 へじと、惜しむは名のため、惜しまぬは一命なれば、身を 捨ててこそ後記にも、佳名を留むべき、弓筆の跡なるべけれ。 〔詞章は、小山弘志・佐藤健一郎校注・訳『謡曲集』1(『新編日本古典文学全集』58、小学館、1997年〕
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