能楽論・能の歴史など


入門書より一歩進んだ本です。



石黒吉次郎「世阿弥の樹木思想」『専修国文』72号(2003年1月) 2008年7月31日、新着情報 
世阿弥が樹木をどう扱っているかを紹介した論文です。「松風」が亡霊のすみかを塚ではなく松の木としているのは観阿弥にはない世阿弥の趣向である点、「八島」の最後の部分に高い松の木がある(高松との掛け詞にもなっている)点、「忠度」では桜の木と平忠度が一体となっている点などが指摘されています。

安田登『ワキから見る能世界』NHK出版(生活人新書)、2006年  
ワキ方能楽師が書いた本です。ワキは幽霊(シテ)に出会うのですが、他の人には見えない幽霊がなぜワキ方にだけ見えるのかという疑問を提示し、その答えを論じています。その答えが、ワキは非人情の旅をしているということです。非人情の旅のルールが3つ紹介されています。

茂山千之丞『狂言役−ひねくれ半代記』岩波新書、1987年 
狂言役者の自伝です。興味深い記事がたくさん出てきます。隅田川の渡しの場で、旅人たちが次々に一踊りする「乗合船」、関所を通るときに一芸をしなければならない「安宅の珍関」など狂言役者が藤山寛美、桂米朝、大村崑らと共演した例などが紹介されています。

山崎有一郎(聞き手:三浦裕子)『昭和能楽黄金期(山崎有一郎が語る名人たち)』檜書店、2006年 
 
横浜能楽堂館長山崎有一郎氏が戦前の能の名人たちについて語ったものです。巻末に、戦前東京の能楽堂マップと名人年表が付されています。年表に登場する名人は以下のとおりです。
  野村萬斎(初世、文久2−昭和13)    茂山千作(2世、元治元−昭和25)
  野村又三郎(11世、慶応元−昭和20)  梅若万三郎(初世、明治元−昭和21)
  宝生 新(明治3−昭和19)         金剛右京(明治5−昭和11)
  喜多六平太(14世、明治7−昭和46)   川崎九淵(明治7−昭和36)
  松本 長(明治10−昭和10)        梅若 実(2世、明治11−昭和34)
  野口兼資(明治12−昭和28)        善竹弥五郎(明治16−昭和40)
  観世華雪(明治17−昭和34)        橋岡久太郎(初世、明治17−昭和38)
  観世喜之(初世、明治18−昭和15)    櫻間弓川(明治22−昭和32)
  島田巳久馬(明治22−昭和29)       近藤乾三(明治23−昭和639
  幸 祥光(明治25−昭和52)         柿本豊次(明治26−平成元)
  吉見嘉樹(明治26−昭和44)        観世左近(24世、明治28−昭和14)
  茂山忠三郎(3世、明治28−昭和34)   亀井俊雄(明治29−昭和44)
  幸宣佳(明治29−昭和52)          櫻間道雄(明治30−昭和58)
  後藤得三(明治30−平成3)         山本東次郎(3世、明治31−昭和39)
  野村万蔵(6世、明治31−昭和53)     松本兼三(明治32−昭和55)
  瀬尾乃武(明治32−平成9)         宝生重英(明治33−昭和49)
  喜多 実(明治33−昭和61)         三宅藤九郎(9世、明治34−平成2)
  津村紀三子(明治35−昭和49)       安福春雄(明治40−昭和58)
  宝生弥一(明治41−昭和60)        櫻間金太郎(大正5−平成3)
  橋岡久馬(大正12−平成16)         観世寿夫(大正14−昭和53)

王冬蘭『能における「中国」』東方書店、2005年 
能には、「邯鄲」「楊貴妃」など中国を題材にしたものがあります。それらについて論じた本です。章立ては以下のようになっています。
 第1章 中国題材の能と能楽論
 第2章 能「呂后」と『前漢書平話』
 第3章 慶長九年豊国社臨時祭の新作能「孫思■」の出典
 第4章 能「楊貴妃」の典拠
 第5章 中国の怪異譚を原典とする近世の謡曲について
 第6章 猩々イメージの変遷
 第7章 能における元曲影響説

日本では猩々物が多数つくられました(この本によれば27曲)が、中国では現在にいたるまで舞台化はされていないとのことです。

内藤高『明治の音(西洋人が聴いた近代日本)』中公新書、2005年
鎖国が終わったあとの日本には、多くの欧米人が訪れ、日本独自の音に興味・関心をいだきました。どのような人が、どのような興味・関心をいだいたのかを紹介した本です。主に扱われているのは次の5人です。
 ・イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(1831-1904)

  ・エドワード・モース(1838-1925)−大森貝塚の研究で有名
  ・フランスの作家ピエール・ロチ(1850-1923)
  ・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲、1850-1904)
 ・
フランス大使ポール・クローデル(1868-1955)
他にも
フランスの文学者エドモン・ド・ゴンクール(1822-96)などが紹介されています。ゴンクールは熱心なジャポニスト(日本愛好家)でしたが、能に拒否反応しか示しませんでした。「不協和音」「和声がない」とかいっていたそうです。バードは長く引き延ばされる母音に嫌悪感をいだいていました。 2001年、能はユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に登録されました。このような変化はなぜおきたのでしょうか。相撲も、ペリー一行は飢えた野獣のようだといっていたのに、現在では大相撲の海外巡業は大歓迎されます。

小山弘志編『日本の古典芸能における演出』岩波書店、2004年
冒頭に、佐々木健一、徳丸吉彦、服部幸雄、小山弘志、松岡心平による座談会「演出的なるもの」が置かれ、以下次のようになっています。
 ・松岡心平「能における演出」

  ・小山弘志「狂言の演出」
  ・服部幸雄「歌舞伎の演出」
  ・山田庄一「文楽の演出」
 ・
徳丸吉彦「日本音楽における演出」
 ジャネット・ゴフ「能を見る眼」
 ・佐々木健一「演出の現象学」

編者の小山弘志は、小学館の「新編日本古典文学全集」のうち、第58・59巻の『謡曲集』1・2の校注・訳を担当しています。座談会の司会である松岡心平は橋の会(現能楽観世座)の中心人物です。能を担当しているゴフは、「弱法師」を題材にして、現在の日本にも生きている夕焼け信仰を紹介し、また、能が現在の商業演劇よりもリアルな例として、人間の記憶力に着目しています。その例が思い出と場所との結びつきです。「弱法師」の俊徳丸は、かつて見た場所を覚えています。六条御息所の霊は、かつて光源氏が訪ねてきた野宮から離れられません。実盛は、名誉にこだわり、かつて討死した加賀の篠原に執着をもっています。こうした人間の深層意識については現代の商業演劇より能のほうがリアルだと述べています。

天野文雄『能に憑かれた権力者(秀吉能楽愛好記』講談社、1997年
秀吉は、麾下の武将に能を舞わせ、自らも舞い、能楽師への配当米制度をはじめるなど能楽愛好者として知られています。秀吉の能楽愛好ぶりとその歴史的意義を紹介した本です。興味深かったのは豊公能に関する章です。秀吉は自分の事績をもとにして新作能をつくらせました。それが豊公能です。これは秀吉をほめたたえるだけの軽薄なものかと思っていましたが、さにあらず。『吉野詣』『高野参詣』『柴田』は文辞を見ても趣向という点でもなかなかよくできているとのことです。あとがきに「能楽関係の一般読者向けの本といえば、いわゆる入門書的なものが圧倒的に多いのだが、そこに近年の能楽研究の成果が盛り込まれることはきわめてまれである。また、そうした入門書的な本は、進展著しい能楽研究の現状にうといがゆえに、旧来の伝統的な能楽観に依拠している場合が多く、その分、現代の日本人の能に対する理解は、ますます表面的で部分的で保守的な方向に向かっているように思われる」という指摘がありますが、何となくそのとおりのような気がします。

横浜能楽連盟編『お能と横浜』かなしん出版、1998年
横浜能楽連盟創立50周年を記念して出版された本です。横浜における能の歴史、横浜能楽堂建設の経緯がおもな内容ですが、第1章「現代に生きる能−明治・大正期から現代に至る能楽界」(山崎有一郎執筆)が、明治以降の能の歴史を要領よくまとめてあって便利です。昭和21年に文化庁が発足させた芸術祭には能楽界も活発に参加したが、コンクール形式による懸賞金制度が批判の的になったとのことです。西洋音楽ではコンクールが登竜門として定着しているのだから、能にもコンクールがあってよいように思います。大平定雄「横浜能楽堂建設の経過」によれば、建設のための署名運動は横浜スタジアム建設運動を参考にしたそうです。高度に洗練された美意識をもつ能も大衆的な基盤なしには成り立たないようです。

松岡心平編『世阿弥を語れば』岩波書店、2003年
編者が11人の識者と能について語り合った対談集です。11人とは、大岡信、横道萬里雄、水原紫苑、松岡正剛、多木浩二、渡辺保、丸谷才一、多田富雄、渡邊守章、観世栄夫、土屋恵一郎です。 世阿弥だけでなく、元雅や禅竹についても語られており、土屋は世阿弥を美化することの危険性を指摘しつつ、元雅や禅竹がもっている世界の異様さのほうが能としてのエネルギーが大きいと説きます。また土屋は修羅物について触れ、戦争で死んだ人を過剰に美化することに元雅が疑問を抱いていたのではないかと問題を提起しています。一般向けの本では世阿弥の占める比重が圧倒的なので、本書のような書物が出版されるのは喜ばしいことです。

梅若猶彦『能楽への招待』岩波新書、2003年
書名からは初心者向けの本のような印象を受けますが、内容はかなり高度です。能においては、所作のような外面に出てくる動きよりも演者の内面の操作が重要であることを指摘しています。大きな動きよりも小さな動き、小さな動きよりも動かないことのほうが内面の力が大きく、見所に強い印象を与えられると述べています。このことを知ってしまったすぐれた能楽師は、大きく華やかな動きを嫌う傾向にあるといいます。

天野文雄『現代能楽講義』大阪大学出版会、2004年
入門書のコーナーに入れようかとも思いましたが、能の歴史、詞章の解釈など、かなりつっこんだ内容なのでこちらのコーナーにしました。私が今まで読んだ一般向けの本のなかでは、いちばん興味深かったです。たとえば、江戸時代に勧進能を見た人物が、「構内の騒々しき事いはんかたなく、只がやがやと何いふやら、言説さらに分り兼、太夫始の悪口雑言、其外役人見物までも、思ひ思ひの珍言奇語、勝手次第の大混雑」と記録していることが紹介されています。また、著者は、「たった一度の「申し合わせ」で上演を迎える現在のありかたは、能のすばらしさなどと称賛されることではなく、先人の工夫のうえに安住した一種の惰性ともいえるのではないだろうか」と疑問を投げかけています。これと同じことをプロの能楽師が言うのを聞いたことがあります。「この能1曲の主題はなにか」という視角の必要性も説かれています。自分の能楽観を点検するのによい本です。

柳沢新治『横からみた能・狂言』能楽書林、2001年
著者が『能楽タイムズ』に連載した文章その他を収録した本です。著者は、NHKで邦楽・郷土芸能・劇場中継番組(おもに能・狂言)を担当していた人で、能楽師や能楽研究者があまり言わないこともはっきり書いていて爽快感があります。たとえば、「役柄と演者の年齢のギャップを感じる場合は多い。面をつけていればそれほど違和感はないが、直面の『小袖曽我』『夜討曽我』『放下僧』など兄弟の役を親子や伯父甥で演ずる例がしばしばあり、兄が光頭や白髪なのに弟が成人したばかりというのはどうも妙なものだと思う」と述べています。あるいは初心者に観能を勧めるに際しても、「能なら何でもよいというわけではないことです。やたらに長い能、難解な能、見巧者向きの、動きがなくてとっつきにくい、いわゆる退屈能もあ」るとはっきり指摘しています。また、かつてと違い謡が教養の一部ではなくなった点についても、「敵はカラオケ、手ごわい相手である」というリアルな認識をしています。著者自らがつくった新作能、新作狂言の詞章も収録されており、能「荒城の月」と狂言「藤吉郎の縁談」はおもしろいです。

河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会、1978年
演劇は地域・時代によって千差万別ですが、各種演劇が共通にもつ、他の芸術とは異なる演劇の特質をさぐろうとした本です。日本の演劇についても、簡素化の方向に向かった能と派手な演出をとりいれた歌舞伎とに共通する日本演劇の特質、他国の演劇にはない特質をつきとめようとしています。「日本演劇は明治時代にフェノロサによってその独自性が注目されて以来、能の象徴性、文楽・歌舞伎のもつバロック性、花道や回り舞台のもつ超近代リアリズム性などにより、外国の作家や演出家にすくなからぬ影響をもたらしてきた」という指摘も興味深いです。能楽関係者では、梅若実(初世)、野口兼資らのことばが引用されています。

渡邊守章、渡辺保『現代における伝統演劇』放送大学教育振興会、2002年
能・狂言、文楽、歌舞伎、京劇について論じた放送大学教材です。フランスにおいて、ラシーヌやコルネイユが古典とされていることの意味と、日本で能・狂言、文楽、歌舞伎が古典とされていることの意味との違いを指摘しています。また、次のように述べており、素人が普段から疑問に思っていることが専門家のあいだでも話題になっていることがわかりました。「最近でこそ、ようやくスーパーの字幕で訳文あるいは抄訳を入れることが、能・狂言、文楽、歌舞伎についても行われるようになりだしたし、これはオペラ劇場における字幕の普及と連関しているのだが、やはり言葉が分からないことから生じる受容の偏りについては、専門家が本気で分析すべき時にさしかかっている。」

三宅晶子『世阿弥は天才である(能と出会うための一種の手引書)』草思社、1995年
タイトルは「世阿弥」となっていますが、世阿弥以外についての記述も豊富にあり、しかもそれが興味深いです。たとえば、「隅田川」に関連して、「元雅は信仰だけでは人間は救われないと考えていたのであろうか」という疑問を提示しています。また、能の見どころについても述べていて、「道成 寺」の最大の魅力は、鐘が再び上がって蛇体の女が姿を現す場面だと指摘しています。プロの能楽師も三宅氏の著作はおもしろいといっています。

田代慶一郎『夢幻能』朝日選書、1994年
「夢幻能」ということばが誕生して、まだ80年にも満たないことをこの本を読んで初めて知りました。この本は、具体的な作品例を用いて夢幻能を分析しています。『井筒』についていえば、ワキが在原寺に着いたのは真昼のはずであるとか、『松風』には「夢も跡なく夜も明けて」とあり、一連のできごとがワキの夢であることを示しているとか、詞章を細かく分析しており、何となくストーリーを追っているだけの私などは感心するばかりです。

渡辺保『能のドラマツルギー(友枝喜久夫仕舞百番日記)』角川ソフィア文庫、2002年(原著は1995年)
喜多流能楽師友枝喜久夫は目が不自由になり、1991年をもって引退しました。 しかし、喜久夫は前年から稽古舞台で定期的に謡・仕舞を定期的に行ってお り、引退後もこれは続けられ、白洲正子や著者渡辺保らが鑑賞していました。 著者は喜久夫の仕舞を見るたびに一番一番ノートをとりましたが、それにも とづいて書かれたのがこの本です。「杜若」に関してシテ(里の女=杜若の 精)は三河の国八ッ橋の娼婦だという指摘をはじめ、入門書にはない視点が多数あり楽しめます。著者はこの本の冒頭で、最近の能を見てもあまり感動することがないと述べています。ところが、同じころ書かれた横道萬里雄・小林貢『能・狂言』(1996年)は、近年能役者の芸が向上したと書いてあり、このような対比も興味深いです。

増田正造『能の表現(その逆説の美学)』中公新書、1971年
日本文化が散ることをふまえた文化であるのに対して、西洋文化は散らすまいとつとめる文化であると指摘したり、近松門左衛門が目指したものと能が目指したものとの対比を試みたり、興味深い本です。世阿弥の伝書が学界に紹介されたのは、明治時代末期であったという、初心者があまり気づかない事実も書かれており、自分の世阿弥観・能楽観が揺さぶられます。

戸井田道三『観阿弥と世阿弥』岩波新書、1969年
複式夢幻能をワキの夢とするのはあまりに合理的すぎると指摘しています。私たちは、現代人の感覚で中世の作品を見すぎているかもしれません。そんなことを考えさせられる本です。

観世寿夫『心より心に伝ふる花』白水社、1979年
観世寿夫は戦後を代表する能楽師であるばかりでなく、著作も多数におよび著作集が発行されています。寿夫の著作のなかで読むならこれだと某能楽師に勧められた本です。この本によれば、戦前の能楽師のなかには詞章の意味などわかる必要はないと豪語した方もいらっしゃるそうで、能とはいかなる芸術かを考えさせてくれる本です。詞章の字数(「7・5」とか「6・4」とか)を克明に分析しており、意外なほど数量的な把握もしています。平成20年、角川学芸出版より文庫化されました。

林屋辰三郎『歌舞伎以前』岩波新書、1954年
世阿弥は一方では民衆の人気を心配し、一方では貴族に受けいれられることを目指すという矛盾したことをやっていましたが、人々はなぜそのことを正面切って指摘しないのか疑問を呈しています。桃山時代の上演曲目の統計も紹介しており、史料的制約があるにせよ、どのような能が好まれたがわかります。

横浜能楽堂編『能楽史事件簿』岩波書店、2000年
豊臣秀吉が舞っているときに居眠りをして折檻を受けた観世太夫の話など能にまつわる事件が紹介されています。能の上演所要時間に関する記述もあり、能の歴史がいかにおもしろいかを教えてくる本です。

横道萬里雄・小林貢『能・狂言』岩波書店、1996年
20世紀の能・狂言の歴史を紹介した本です。戦後は他のジャンルとの交流がさかんになりますが、シェーンベルクのマイム「月とピエロ」をオペラ歌手と能楽師がいっしょに上演した話など、観世寿夫存命中の一種独特な雰囲気が伝わってきます。金剛右京による家元断絶宣言や梅若問題もわかりやすく説明されています。

ドナルド・キーン著、吉田健一、松宮史朗訳『能・文楽・歌舞伎』講談社学術文庫、2001年
知日家であり、『日本文学史』のような大著もあり、近年では『明治天皇』が話題になったドナルド・キーンの過去の著作の新訳や近年の講演を収録した本です。アリストテレスは、劇には始まりと発展と結末があると述べたが、能の登場人物は多くの場合すでに死んでいると指摘し、西洋的尺度で能をはかることの無意味さを説いています。また、能の詞章を台本ではなく文学作品としてアメリカの学生に読ませた経験も紹介しています。

土屋恵一郎『能(現在の芸術のために)』岩波書店、2001年(原著は1989年)
連歌のための辞書である『源氏寄合』について能楽研究家竹本幹夫氏が、「野宮」をめぐって「原典ではなく、野宮のイメージと密接に結びついた寄合語によって構成されており、・・・様々な言葉が響き合う縁語的な関係によって、『野宮』の作品世界を情緒面から支えているわけである」と述べているとのことです。馬場あき子の、謡曲は、一種の整理の文学という指摘、村井康彦の、日本の芸術における当座性の指摘と合わせて読むとおもしろいです。土屋氏が仕舞を習っているとき、先生から、「扇をもった手を前へもっていって正面を指す時、そこに鉄の棒があってそれに扇が当たり、もうそこから扇が前へいかないのを感じていなければいけない。扇ががちっと鉄の棒に当たっているんだ」と教えられたそうです。だれでも同じことを注意されるものだと感じました。


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