「安宅」と「勧進帳」



安宅の関付近に飾られた弁慶の像


天保11(1840)年、市川海老蔵(7代目団十郎)は能「安宅」を歌舞伎に翻案し、歌舞伎「勧進帳」として初演しました。「安宅」と「勧進帳」はどのような点が異なるのでしょうか。

まず結論 ← 2006年3月9日、新着情報
歌舞伎では弁慶が富樫の情に訴えます。能では、弁慶が自分たちは真の山伏だと言い張り、疑うなら仏罰が下るであろうと迫り、とうとう押し切って関を通過してしまいます。

その1
歌舞伎では、義経は最初から強力の姿をしていますが、能ではそうではありません。一行の合議によって義経を強力姿にすることが決まります。

その2
能では、弁慶が勧進帳を読みあげたあと、ワキの謡いで「関の人びと肝を消し、恐れをなして通しけり」という文句がありますが、歌舞伎はこれがなく山伏問答が入ります。能が書かれた中世に比べて、歌舞伎がつくられた江戸時代には勧進帳がもつ宗教的な力が失われた点が台詞の違いに表れています。

その3
歌舞伎では、弁慶が勧進帳を読みあげた後、「山伏問答」があります。弁慶たちを疑っている富樫は、山伏についていろいろと質問し、一行が本物の山伏かどうか確かめようとします。山伏が武装している理由、装束のいわれなどを質問します。この「山伏問答」は能にはありません。

その4
歌舞伎では、強力を疑った富樫に対して、弁慶は、強力と荷物を預けてゆくから好きなように糾明せよ、そうでなければこの場で強力を殺そうと提案します。
この時点で富樫は強力が義経であると確信しつつも、弁慶の態度に感動し、彼らを通します。能にはこの場面がありません。江戸時代の人びとには山伏の力に対する実感がなく、能とは異なる要素を加える必要があったといわれています。

その5
関をこえて程へだたったところで義経一行が安堵しています。ここで、能には歌舞伎にはない次の台詞があります。
「げにや現在の果を見て過去未来を知るといふこと、今に知られて身の上に、憂き年月の如月や、下の十日のけふの難を、逃れつるこそ不思議なれ、たださながらに十余人、夢の覚めたるここちして、互に面を合はせつつ、泣くばかりなる有様かな。」
この部分は歌舞伎にはなく、歌舞伎はこのような無常感をとらなかったといわれています。

その6
富樫が従者に酒をもたせて再登場する場面、歌舞伎では「人の情けの杯を、受けて心をとゞむとかや」となっていますが、能では「人の情けの杯に、浮けて心を取らんとや」となっており、罠であると断定しています。

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