仇討ちの背景

 兄弟の仇討ちは、最後に五郎が頼朝の宿所を襲うという異常な事件に発展しました。そこでこれは単なる仇討ちではなく、兄弟を利用した頼朝暗殺計画だったという推測がなされています。

 平家が壇ノ浦に沈み、義経も滅び、奥州藤原氏も倒れ、後白河法皇が崩御し、建久3(1192)年、頼朝は征夷大将軍になりました。しかし、御家人は決して一枚岩ではありませんでした。兄弟の仇工藤祐経は頼朝の重臣でしたが、彼は比較的新しく頼朝にとりたてられました。東国出身ですが京都での生活が長く、貴族趣味の頼朝に気に入られていました。古くから頼朝に仕えていた武人タイプの御家人たちは祐経を妬んでいました。というわけで、反頼朝・反祐経勢力が曽我兄弟の仇討ちを利用して頼朝・祐経の殺害を図ったという説が登場するわけです。仇討ちのあと、頼朝の弟範頼が謀叛の嫌疑をかけられて伊豆に流され、古くから頼朝に仕えていた大庭景義、岡崎義実が出家します。出家とは失脚を意味する場合もありました。仇討ち後の一連のできごとが頼朝・祐経暗殺計画説の根拠になっています。

 さらに極端な説もあります。それは北条時政が暗殺計画の首謀者だったというものです。北条時政が五郎時致の烏帽子親(時致の「時」は時政の「時」)だったことが根拠のひとつです。北条時政の娘政子は頼朝の妻であり、時政が頼朝暗殺を企てていたというのはかなり破天荒な説です。


もどる

「曽我物語ゆかりの地」トップページへ