少女考

少女という存在が、私の気持ちの有り様に大きく影響している現状況下において、
少女という存在は一体いかなる存在であるのか、
そして、少女と社会との関わりがいかなるものになっているのかといった、
少女という存在に関する思索を私はせざるを得ない。
ここでは「少女考」と題打って、私の少女に対する思索を思うままに書きたいと思う。

第三回〜第六回

第九回(8月6日)
少女という存在ほど、私の心を動かす存在はない。私が男だからだろうか。それもあるだろう。しかし、それ以上に存在がドラマティックなものであることが、その理由であると思う。他のいかなる年の者よりも、ずっと躍動に満ちた存在が、少女というものではないだろうか。
しかし、少女を題材の中心とした物語は、さほど多くない。多くの物語では、少女は物語を組みたてる材料の1つでしかない。決まりきった登場人物設定は、ただ読者の歓心を買うためになされ、ただ「お約束」にしたがって行動するだけである。
期待される少女像と、現実を生きる少女たち。そこには埋め様のない溝が存在し、それを認めた上で、それでも少女たちの本質を見据え、描こうとするだけの作家がいないせいに違いない。
彼女たちの姿を捉えきるには、彼女たちに純粋さを求めるのではなく、見る者の方が純粋な、透徹した視点でもって見なければならないのだ。
私に、それが出来ているのかと問われれば、否と答えるより他ないが、少なくとも私は自身の分を弁えていることを理解しているし、私が彼女たちに投影しているものが私の幻想にすぎないことも知っているのであり、そうであるならば、少なくとも彼女たちの本質により近づいているのではないかというささやかな自信を抱くことは許していただけることだと思う。
少女の内に存在する躍動感は、若さ、幼さに因っている部分もあるが、私にはそれだけではないと思われる。少女たちの躍動感、ドラマティックな性質は、彼女たちの自己完結性に起因しているのではないかと考えるのである。
彼女たちが、自己の中に排他的な世界を強く持つほど、自己の世界を完結させ、かつ自己の世界により高度な物語を生み出すのである。己の抱えている諸問題を、世間一般の水準に照らし合わせて判断するのではなく、あくまで自己の基準によって判断することで、主人公たる自身の活躍が劇的なものになり、その軌跡がサーガとなるのである。
そして、そのサーガの構築は、間違いなく幼さの特権なのである。私はそういったサーガを構築していく姿を否定するつもりも非難するつもりもない。何故なら、それこそが少女たちを少女たちとして成り立たせているからである。
彼女たちが、純粋に自己完結的なサーガを構築すればするほど、彼女たちの魅力となり、また第3者の立場から彼女たちを観察するとき、実に興味深い結果が得られると思われるからである。
第八回(6月24日)
少女という存在は、果たしてロマンティックなものなのだろうかと問うとき、幾人か少女に知り合いがいる者であれば、すぐさま否と答えるであろう。夢見るような、恋に憧れる。少女、乙女を形容する言葉は、その多くがとてもロマンティックな響きを持ったものであるのだが、実際のところはそうではない。そうであることを期待される中で、それを束縛と感じ、ゆえに尚更、現実的なものになっているのではないだろうか。
現実的で、計算高く、周囲との心的な駆け引きをしながら生きている少女たちが、もしロマンティックな存在であったなら、彼女たちの人間関係はすぐさま崩壊するに違いない。そうであるにもかかわらず、何故、少女という存在はロマンティックであることを期待されたのだろう。
一つには、古典的英雄譚の中では常に少女は、囚われの姫君として登場していることがあるだろう。戦いは男の仕事であり、少女たちはただ「王子様」が助けに来てくれることを「夢見る」だけでよかったのだ。常に守られる側に存在している少女、無力な姫君には、夢想する以外何ができただろうか。
そして、そのような物語によって醸成された「ロマンティックな」男たちの幻想が、少女たちの可愛らしい外見と、幼い行動に投影されているのである。しかも、なお性質の悪いことに、そのような幻想を確立するに十分な量の物語が存在しているがゆえに、幻想世界の住人である「少女」は、あまりにも「生き生きとして」いるのだ。
勿論、少女たちがロマンティックな一面を持っているということを否定するつもりには毛頭ない。ある種の事柄に対してはとてもロマンティックであり、夢の世界を作り上げ、現実の社会に期待として投影する。その作用は、男たちが少女に対してするものとまったく同じ物である。
他者との折り合い、他者からの反応に対して敏感な少女たちというのは、実のところ大人よりも社交性があって、実に複雑な社会を持ち、その中を巧みに潜り抜けて生きているように、私には思える。親や教師、先輩や友人、異性同性といった、いくつもの異なる視点・評価基準によって常に監視される中にあっては、彼女たちはどこまでも現実的で計算高くなければならないのである。
第七回(6月17日)
少女と言う言葉を聞いたとき、私は「清純さ」という言葉を連想する。しかし、透明感があって、澄んで愛らしく、穢れなき存在。それに対する言葉が「清純さ」であるならば、少女たちは決して「清純」ではいられないだろう。
幼い故に残酷で、絶対的価値基準である己の世界を持ち、内と外を峻別して、慈悲深くも冷徹にもなれる存在。それはその意味で、透明感があるかもしれないが、少なくとも「清純」ではない。
少女に求められる「清純さ」。それは「清純派アイドル」のような外見的表面的な性質によるものではなく、より典雅な、高潔な魂の表出として求められるものなのであろう。少女とは、ゆくゆくは子を産み、育てていくことを期待され、それゆえに神性が認められ、ときとして神々の代理人ともなりえたのだ。そして、その文脈でとらえるならば、私たちの感覚で考えれば、少女という存在は「清純さ」から直に導き出される中性的な性質はなく、性というものを意識しながら、しかし完全にそれを内側に取りこむことなく存在している中途半端な状態にあるのである。そして、潔癖さと淫靡さが巧みに混ざり合うことで、植えつけられた倫理観から反発する大人達とは異なる性への態度が生み出され、その両極端な精神が絶えず揺れながらバランスを取りつづけるところに、少女の魅力が生まれるのである。したがって、「清純さ」は少女の魅力の一側面にすぎないことを、私はここで認識せざるを得ない。(ただしこのことが、すなわち少女たちをして、とりわけ性を意識させるような仕草や恰好をさせることに没頭して、およそセンスのない写真集やグラビアをばら撒くだけの者たちの態度を、些かも肯定するものではないことは、特に強調しておきたい)
ある局面において、世界を揺り動かすことのできるヒロインとしての少女は「清純」であるのだが、その「清純さ」は絶望の淵にあっても、泥まみれになり、血だらけになったとしても、なお毅然と頭をあげていられる、その不羈の精神の在り様に由来するのである。つまり、前述したことをもう一度繰り返すならば、あくまで「高潔さ」がより幼い形で世に表出するとき、そこに「清純さ」が存在するのである。
とするならば、余計に、おそらく私の知る少女たちは「清純」ではないということになるが、それは彼女たちが本質的に「清純」でないのではなく、ただそれを私が認識する機会に恵まれないだけなのである。本当に僅かな時間、一瞬の煌きとして少女たちの「清純さ」が私の眼前に姿を現すとき、彼女たちは大体において不当なものごとへの怒りに瞳を燃え上がらせ、ピンと背筋を伸ばして、自己の周囲へと強く抗議をしているのである。