『月姫』二次創作長編小説

「MEA CULPA」





いやしくも理性的動物をもって任じているものに、
かような恐るべき極悪の所行が可能だとすれば、理性の堕落は、
あるいは獣性よりもかえって恐ろしいのではないかということを、彼は惧れたのだ。
だからして彼は、われわれはむしろ理性の代りに、なにか生来の悪を助長するような
特質だけをもっているものに相違ない・・・・・・と独り思い込んでしまったらしかった。

―――ジョナサン・スウィフト『ガリヴァ旅行記』



“To err is man,to forgive divine”

―――Alexander Pope




第六章


 ショット・コロン。
 いつも脳裏に浮かぶのは、そんな言葉だ。
 微粒弾(ダスト)でも鳥弾(バード・ショット)でもかまわないが、散弾銃を撃った際、素人は散弾が平面的に広がり、一斉に獲物に襲いかかるものだと思ってしまう。
 だが実際には、射出された散弾は円錐状に近い、立体的な拡がりを見せる。そして、鳥のように小さな標的を、数百発の散弾によって構成された円錐の中にとらえたとしても、命中しているのはほんの数発なのだ。
 同じことが、ネロの獣達にもいえた。
 たとえ666匹の獣を同時に放ち、俺に向かわせたとしても、いちどきに俺に攻撃できるのはせいぜい数体にすぎない。いち早くそれを察知し、こちらの制空圏に到達するはしから打ち落としていけば、どうということはない。
 コツを、もうひとつ―――ネロの獣達は、下はカラスから、上はブルドーザー級の蟹もどきまでレパートリーが豊富だが、それを意識することはない。
 ただ“点”としてとらえるのだ。文字通りの“点”として。
 各々の獣の形を認識することには気を払わず、ただ奴らの死の“点”のみを捕捉する。あとは、各“点”との距離をはかり、リズムよく突いていけば、それで事足りるのだ。
 無数の点のみで満たされた空間―――それこそショットガンの弾幕(パターン)の中に突っ込んでしまったような空間の中で、俺はナイフを振るい続ける。突くたびに、ネロの獣達は一匹、また一匹と消滅していく。すでに、軽く百体は撃破した。
 ネロも、巧くなっていた。闇雲に獣どもをけしかけるのではなく、数百の獣を、よく統率された軍隊のように自在に操っている。それぞれのサイズや攻撃力、移動速度を考慮に入れた、見事な陣形を組んで。今のネロは、“混沌”というより、優れた戦術家だ。
 それでも、俺の圧倒的優勢は動かない。ネロがいかなる指揮、いかなる戦術をとろうとも、肝心の俺にたどりついた順に、獣どもは溶けるように消えていくのだ。これでは、確かに手の打ちようがない。
 ネロが焦れた。四方八方から襲いかからせていた獣達をいったん、瞬時に収束し、今度は俺を包み込むように、左右から突進させる。
 それじゃ駄目だ。
 つぶやいて、地を蹴る。
 正面には、手薄になったネロ本陣を守る数体のでかぶつがいたが、そいつらの脇をすり抜け、本陣の手前に着地する。
 ネロと眼が合った。俺と奴をへだてる獣は、もういない。
 再び跳躍。三分の一ぐらいまで“欠けて”しまいながらも、なお反撃しようとするネロ本体の肩を飛び越しながら、すれちがいざまに“点”を突く―――あの時と同じように。
 “ネロ”は消滅した。
 同時に“点”のみに満たされた空間が、一瞬にして消えていく。
 戻ってきたのは、現実の世界―――早朝のボルゲーゼ公園。ヴァチカンから川ひとつへだてた向こうにある、緑豊かな場所。
 この時間特有の、静寂と冷気。人の気配はない。鳥のさえずりすら聞こえない。
 ためていた息を、音を立てて吐き出した。
 毎朝の習慣―――幻想の戦い。イメージトレーニングというには、あまりにリアリティがありすぎ、本物の鍛錬にしては、あまりに観念的だ。
 ようは、毎夜の“会話”の応用である。俺の脳内の、ロアの記憶の中にあるデータをもとにして、仮想敵としてのネロを創り出し、戦う。
 それが、毎朝繰り返している、この行為だ。
 自らを鍛えている、という意識は、今となってはあまりない。そんなことをしなくとも、俺と戦って勝てる個体は、この地上にもう存在しないといっていい。
 それでも、俺は(どんなにひどい二日酔いの朝でも)この習慣は欠かさない。
 幻想の中での戦いは、夜の“会話”と同じく、俺の精神の均衡を保つためという色合いが強い―――現実の死徒達はあまりに脆弱で、俺を退屈させるばかりだ。
 それよりも、脳内の強者達と戦っていた方が、なんぼか面白味がある。飽くなき戦闘意欲を満たすことができる。
 現世には何もない。
 首を振った。ろくに汗もかいていないのに、てのひらで顔をぬぐった。
 数年前までは、少しはましだった。
 頭痛もこれほどひどくなかったし、手応えのある敵にも恵まれた。脳が真っ白になるような殺戮の快楽で、全てを忘却の彼方に追いやることができた。俺は、それなりに満たされていた。
 しかし、今やそれも失われている。十年にわたって狩り尽くした結果、もう俺を満足させるような死徒は、ほとんどいなくなってしまった。
 現実世界で唯一の慰めであった化物狩りすら、他のもろもろのことと同様、過去の幻想がそれに取ってかわってしまった。
 世界は空虚だ。見ている俺が空虚だから。
 何を求めて強くなったのか。今はそれすら思い出せない。十年前のあの時から、俺は何を求めて、ひたすらに鍛え、戦い続けてきたのか。
 何も求めていなかった。
 おそらくはそうなのだろう。何も求めなかったからこそ、俺は十年もの間、何とか生きてこれたのだ。
 何かが欲しいと思わなかったから。何の希望も持たなかったから。現世に俺の求めるものがあると、絶対に考えようとしなかったから。
 全てに背を向けていたから、俺は生きていられる―――それは、あらゆることから目をそらし、逃げてきたということなのだが。
 逃避の代償は大きかった。十年を経た今、現世の俺に残されているものといえば、魔術と秘薬の限りを尽くして強化された肉体と・・・・・・限界に瀕した脳だけだった。
 自分をごまかしてでも、世界とともに歩もうとしなかった俺は、文字通り全てを喪った。
 だが他にどうすればよかったのだ。
 手近な木の幹に、拳を叩きつけた。鈍い音と衝撃。幹に拳の跡が深く、穿たれる。
 舞い落ちる、幾枚かの緑葉―――それを見て、反射的に身体が動いた。
 右手がウエスト・ホルスターにのびる。マニューリンのリボルバー。抜きざまに、腰だめで六連射。
 六枚の落葉の真ん中を、357マグナムが正確に撃ち抜いた。
 スイングアウト/スピードロッダー/排莢/装填―――再び六連射。
 弾痕をつけた木の葉が、計十二枚、地に落ちた。
『銃を使え。ナイフに頼るな』
 俺に訓練をほどこす最初の日に、ジョゼッペは言った。
『無数にいる雑魚を排除するために、いちいち脳細胞を浪費することもない。・・・・・・弾体の概念武装化についてはもう、めどがたっている。お前の“眼”は、肝腎な時だけ使うようにすればいい・・・・・・』
 確かに奴の言う通りではあった。俺はジョゼッペの指導で銃火器の扱いを学び、仕事ではそちらを中心に使った。“死”を視るのは可能な限り控えた。
 おかげで、十年間、何とか脳を保たせることはできた―――それが良かったかどうかは別の話だが。
 手にした銃を、ホルスターに戻した。お遊びは、これでおしまいだ。
 目を閉じて深呼吸―――雑念を振り払う。
 “シエル”を呼び出した。
 さしたる時間もかからず、俺の目の前にシエルのイメージが像を結ぶ。
 昨夜見た、ぶざまな肉の塊じゃない。俺の記憶の中で、今なお生きているシエルだ。俺の記憶の中で、最も強靭で、最も気高く、最も美しいシエル。
 俺のシエル。
 俺は笑った。鏡で見なくとも、その笑みがひどく苦いものであることが分かった。
 ナイフを抜く。だが、眼鏡ははずさない―――そのまま、間合いをつめていく。
 “シエル”が飛び離れ、俺から距離をとる。
 俺は無性に嬉しくなった。
 このシエルはちゃんと分かっている。俺の手の届く範囲にいる生命体は、絶対に死から逃れ得ない―――神の摂理を越えた、その事実を。
 俺はナイフを手に追いすがる。シエルはさらに逃げる。
 猿のごとき動きで樹上に跳び上がり、たちまち、シエルは地上から十メートル近い位置にまで達した。そこから、地べたにいる俺を嘲笑うように、枝々を飛び移りながら黒鍵を投げつけてくる。
 樹上から降りそそぐ、黒鍵の雨。木の間を駆け抜けて回避する。これだけ遮蔽物がある場所なら、狙い撃ちにはできない。
 しかしシエルもさる者、疾駆する俺の移動ルートを予測して、的確な一打を撃ち込んでくる。俺はさらにその裏をかこうと、ジグザグに樹木の間を縫って走る。
 俺の方からは手は出せない。シエルは常に、地上十メートルの位置を維持している。
 手の届かないシエル―――なんたる皮肉。俺が求めるものは、何だって手が届かない。
 馬鹿なことを。
 舌打ちした。思考を戦闘モードに切り替えなおす。
 シエルの戦術は見えすいている。俺が手を出せない高所から、ひたすら得意の飛び道具をあびせる。俺が焦れるのを待つ。俺が隙を見せるのを待つ。隙を見せた時に、必殺の一撃を見舞う。
 見えすいた―――しかし、それだけに確実な策。少なくとも、このままでは俺は、鼠のように追いつめられるのを待っているだけだ。
 シエルがさらにプレッシャーをかけてきた。通常の、鉄甲作用を伴った黒鍵投げに、火葬式典のおまけがつく。地面に着弾したはしから、そのあたりが燃え上がる。
 木が、下生えが、たちまち炎に包まれる。火の回りが速い。
 これで地の利は消滅したが、俺はあわてなかった。周囲が火の海になっていたとしても、そこでパニックを起こすのは愚の骨頂だ。こういう時こそ、冷静さと―――殺意をとぎすまさねばならない。
 火の手を避け、次々と場所を移しながら、好機を待つ。
 炎で追い立てられる俺が、反撃不能と判断したのか、シエルはあまり移動しなくなった。足場のいい所を選び、そこから黒鍵を投げてくる。
 仕かけ時だ。
 火の海が広がっていく。逃げ場所はもう残り少ない。
 そこでわざと、走る速度を落とす―――シエルが俺を容易に捕捉できるように。
 果たして、シエルは俺の手に乗った。
 狙いをつけやすい、一番高い樹のてっぺんで足を止め、そこからありったけの黒鍵を投げつけてくる。
 待っていたのはこの瞬間だった。
 地を蹴った。大きく方向転換。シエルに向けて、一直線にひた走る。今まで逃げ回っていた俺が、いきなり自らに向け突進してくるという事態に、シエルはとっさに対処できない。
 そこで初めて、眼鏡をはずす。シエルが足場にしている大木の、隣にある木。その脇を駆け抜けざまに、“線”を断つ。
 樹幹を完全破壊された木が、ゆっくりとかしぎ、倒れていく―――シエルの乗っている木に向けて。
 俺は倒れゆく木の幹に飛び乗った。ななめに倒れていく幹の上を疾走する。じゃまな枝を刈り飛ばしながら、猛スピードで高みに登っていく。
 下から七分目あたりの位置まで達したところで、跳躍した。
 飛ぶ俺の目の前にはシエルがいた。周囲から大きく突き出た大木の頂点で、逃げられなくなっている。即座に飛び移れるような枝は、近くにはない。
 それでもなお、跳んで逃れようとするシエル―――だが、遅すぎる。
 “点”と“線”の連なりを、一太刀できれいになで斬る。
 シエルの首がすっ飛んだ。数秒遅れで、身体の方もくずおれ、樹上からまっさかさまに落ちていく。
 “シエル”は消滅した。
 今まで“シエル”が立っていた枝に着地する。が、その枝が俺の体重に耐えかねて折れた。あわてて、別の枝をひっつかむ―――俺はいつまでたっても間抜けのままらしい。
 懸垂の要領で、つかんだ枝の上によじ登り、太い枝の根元に腰を落ち着けた。
 一息ついてから、下を見おろす。
 木は本当に倒れていた。
 先程より大きな舌打ち。
 悪い兆候だ。いよいよ、現実と幻想の区別がつかなくなってきた。
 以前なら、イメージ通りに肉体を動かしはしても、実際に何かの“死”を断つようなことはしなかった。練習は、あくまで練習だ。第一、日々の訓練で脳細胞を浪費するのは馬鹿げている。
 今まで、俺の脳も肉体も、それを理解していたはずだった。
 だが、今日は違う。俺は実際に大木の“死”を視て、それを断ち切った。そのうち、こういったことは日常化し・・・・・・俺はうかうか訓練もできなくなるだろう。
 樹上から、唾を吐いた。考えたところで、どうなるものでもない。
 遅かれ早かれ、俺の精神は崩壊する。そうなったところで、何だというんだ? 壁に詰め物をした病院で、のんびり余生を送るだけだ―――幸福な、夢だけを見て。
 気の抜けた笑い声がもれた。
 何故生きる。何故死なない。何故すがる。
 知ったことか。腹の中で一喝し、内省を断ち切った。
 いつまでも枝の上にいても仕方ないので、倒れた木をつたって地上に降りた。
 時間を見る。そろそろ、早朝とはいえぬ時間になっていた。
 今日のノルマは、あと一人。手早く片づけて、引き上げるとしよう。
 足を軽く開いて直立。みたび目を閉じ、本日一番の集中力で意識を真空に保つ。
 あいつを呼び出す。
 何年たとうと、この瞬間には胸が高鳴る。
 何年たとうと、この瞬間には身体が震える。
 むしろ年を追うごとに、この瞬間こそが真実だと思えてくる―――
 ゆっくりと、目を開けた。
 輝く朝の光を、その身にまといつかせて―――あいつが立っていた。
 まばゆいプラチナブロンド。紅い瞳。白いハイネックのセーターに、半端な丈のスカート。黒いローファーとストッキング―――野暮ったい身なりのお姫様。
 だが、その野暮ったさが嬉しかった。変わってないことが嬉しかった。幻想の中で、あいつが未だに、何物にも汚されていないことが、本当に嬉しかった。
 周囲の全てが、恐るべき無情さで変化していく中で、この女だけは変わらない。
 真理。現実などくそくらえ。
 思わず、微笑んだ。“アルクェイド”も笑みを返した。吸血種にふさわしからざる朝陽の中で、何の屈託もない、真っ白な笑顔を浮かべたあいつは、泣きたくなるほどきれいだった。
 微笑みながら、ナイフを抜く。それに合わせるように、“アルクェイド”が一歩退く。相変わらず、何が嬉しいんだか、にこにこ笑ったままで。
 語りかけた。
『始めようじゃないか、アルクェイド』
 ゆっくりと、腰を落とす。 
『俺達の、一番好きなことを―――』
 それを合図に、真横に跳んだ。
 同時に、あいつが音の壁をぶち破らんばかりの勢いで、俺が今までいた空間を走り抜けていく。回避がほんのわずか遅ければ、遠野志貴のピューレができあがっていたところだ。
 俺をとらそこねたアルクェイドは、勢いあまって二十メートルほど行き過ぎてから、ぴたりと動きを止める。俺に無防備な背中を向けたままで。
 一拍おいて、陳腐なホラー映画の吸血鬼よろしく、ひどくのろくさい動きでこちらに向き直る。
 すべてがはっきり見える。
 即座に第二撃は来ない。そう判断し、眼鏡をはずした。
 ひびわれる世界―――その中で、求めていた亀裂はすぐに見つかった。目の前の地べたにある、ひときわ大きな“点”と“線”の連なり。
 “地脈”―――教会流にいえば『邪な土(アンホーリー・ソイル)』。アルクェイドを最強たらしめている、ここら一帯の自然の心臓部。
 アルクェイドは、自然の万物より無尽蔵のエネルギーを吸い上げ、活力を得ている。そしてその限りにおいては、彼女は完全な不死であり、無敵の存在なのだ。初手で“地脈”を死に至らしめ、この連鎖を断つことこそが、真祖殺しの定石といっていい。
 地べたの亀裂に、迷いなくナイフを突き立てる。
 “地脈”は死んだ。世界からの活力の供給を断たれたアルクェイドが、俺をにらむ。その顔に走る、無数の“死”―――紅い瞳は、今や金色に変じていた。
 俺はせせら笑った。
 今さら、魔眼もないもんだ。それも、この俺に。お前が“突然変異の化物”と呼んだ、この俺に。
 今の俺には、空想具現化も魔眼も通用しない。俺を殺したかったら、この身を力任せにぶっ潰すしかないんだぜ、アルクェイド。
 腰だめのまま、すり足で後退する。無闇に飛び跳ねる愚は犯さない―――空中にいるところを狙われたら、ひとたまりもない。
 七歩目で、あいつがつっかかってきた。しかし、それを予測してた俺は、向こうの挙動の瞬間には攻撃の軌道を読んで、すでに安全な位置に避難している。
 再び攻撃が空振りに終わり、動きを止めるアルクェイド―――と思いきや、今度は振り向くのももどかしく、そのまま飛びかかってくる。
 それも予測済み。アルクェイドにしてみれば、せいいっぱいの奇襲なのかもしれないが、俺から見れば子供のいたずら程度の発想だ。
 みたび俺のいない空間を、あいつは猛然と駆け抜けていく。立ち止まる位置とタイミングまで読めたし、それに合わせて一撃をくわえれば斃せたが・・・・・・そうはしなかった。
 代わりに、さとすように語りかける。
『何度やっても同じだよ、アルクェイド』
 俺は首を振った。
 アルクェイドは確かに強い―――ただし、そいつは単に性能面での話だ。
 圧倒的な力を持ちながら、その使いどころとなると、全く分かっちゃいない。だからこうして、能力では劣るはずの俺に、いいようにあしらわれてしまう。
 ようするに、戦いの駆け引きというものを、まるで知らないのだ。一撃であらゆる敵を粉砕しうる攻撃力を持っていようと、攻撃パターンがこうも単調では、当たりっこない。静から動、動から静のリズムもはっきりしすぎていて、簡単に見切ることができる。
 妙な哀しみを感じた。
 アルクェイド―――真祖の誇る究極兵器。
 だが、肝心の作り手が、あまりにお人よしすぎた。俺に言わせりゃ、ボーイスカウトか救世軍並みだ。彼ら自身も、ぎりぎりの戦いを経験することのない、並ぶ者なき強者だったからだろう。
 苦もなく敵を斃せるほど強いから、考えない。工夫しない。俺達人間のように、奸智や詐術で相手を出し抜こうとする発想が、まったくない。
 そんな真祖達がアルクェイドにプログラムした戦闘技術は、彼らの常識の範疇にとどまっていた―――すなわち、子供だましもいいところだ。
 アルクェイド自身に付与された異常な高性能が、それに輪をかけた。
 幾多の戦いの中で、己を磨こうにも、それに値する敵など存在しなかった。教えられた通りにやれば事足りたお姫様は、極限の戦いを知ることができなかった―――俺と違って。
 その差がいま、もろに出ている。遠野志貴という、人間の悪意の生んだ最高の殺戮機械を相手に、手も足も出ない。
 かわいそうなお姫様。
 あいつが持っていたのは、破壊の意志と、とてつもない暴力だけだった。
 それ以外には、借り物の知識と技術―――あとはせいぜい、極上の美貌ぐらいしか持っていなかったのだ。
 あいつは知らなかった。この世界には、真祖よりも邪悪で狡猾な生き物がいることを。
 あいつは知らなかった。この世界には、彼女の常識を上回る、最も危険な戦闘生命体が存在することを。
 何も知らないままで、非情きわまりないこの世界に放り出されたあいつは、汚れ仕事を死ぬほどさせられたあげく、心身ともに手ひどく痛めつけられて、今は眠りについている―――全ての憂いを忘れさせてくれる、優しい幻想に包まれて。
 かわいそうなアルクェイド。
 俺は伝えたい。お前に伝えてやりたい。
 この十年で、俺がどれほどの死線を越えてきたか。どれほどに己を鍛え、死闘を重ねて強くなったか。
 この十年で、俺は本来の己を取り戻し・・・・・・無慈悲な世界のすべてから、お前を護れるだけの力を得たことを、お前に伝えたい。
 今ならば、お前を護れる。あの時、俺が今ほど強靭だったのなら、ネロもロアも物の数ではない。お前に、傷ひとつつけさせやしない。
 お前をあらゆる苦痛と哀しみから遠ざけ、血と殺戮とは無縁の世界で、ずっと笑っていられるようにしてやれる。
 俺があの時、これだけ強かったら、絶対にお前を護ってやれたのに―――
 妄念にすぎない。
 結局これも、俺お得意の埒もない幻想でしかない。現実には、すべて終わってしまったことだ。
 だがもし、俺が強くあらんと願った理由があったとすれば、それはこの悔恨の念以外にはありえないだろう。己の無力のために、あいつを喪ってしまった後悔こそが、俺を最強の存在に仕立て上げた―――まったくの無意味だったが。
 すべてが最初から喪われていた。
 俺は笑った。声に出して笑った。皮肉な話だなんて陳腐な言葉を、使う気にもならなかった。
 アルクェイドはまだ無謀な突撃を続けている。もう何度目になるだろうか。
 またかわした。数センチ横を駆け抜けていく、白い颶風―――その柔らかい香りを、かいだ気がした。
 突撃を終えたアルクェイドが、また動きを止める。それに合わせて腰の拳銃を抜き、三連射。
 弾丸が狙いあまたずアルクェイドの“点”に命中する。着弾の衝撃で、つんのめるお姫様。ダメージはほとんどない―――“点”は刃物で突かなきゃ意味はないし、そもそも(概念武装化されてるとはいえ)357マグナム程度で、真祖の姫君は斃せない。
 単なる意思表示―――俺はいつでも、お前を殺せる。
 振り向いたアルクェイドの顔は、凄まじい憤怒と屈辱の念に満ちていた。
 穢された純白。
 なんて美しく、ぞくぞくさせてくれる表情なんだろう。俺ははしたないほどに興奮した。
 俺の欲情もおかまいなしに、さらに勢いを増し、周囲の木々をぶっちらばしつつ迫るアルクェイド。動きがますます粗くなり、精妙さを欠いている。俺はやすやす逃れた―――鬼さんこちら。
 そんな調子で、追っかけっこをしばらく続ける。頭痛がしてきたので、途中で眼鏡をかけた。煙草でも喫おうかと思ったが、それじゃあまりにあいつが気の毒だ。
 攻撃してはかわされを繰り返すうちに、アルクェイドの表情に変化が生じてくる。
 顔だけでなく、全身から発散していた怒気がみるみる失せていく。代わって、とまどいとあせり―――そしてそれはすぐに、恐怖と絶望へと変わる。
 かわいそうに。
 あいつは、こんな事態を経験したことがないのだ。
 常に弱者を敵とし、圧倒的な力でそいつをひねり潰すことしかしてこなかったお姫様は、自分よりはるかに高度に完成された戦闘機械を相手に、どうしていいか分からなくなっている。生まれてこのかた味わったことがないであろう、無力感に襲われている。
 それでも、アルクェイドは戦うことをやめない。今にも泣き出しそうなのに、なおも俺に向かってくる―――あいつは、それしか知らないから。
 俺はかわし続ける。迷子の子供のようにおびえ、不安にかられているあいつを、(真っ赤な水たまりになるのを覚悟で)抱きとめてやりたいという衝動と戦いながら。
 だが、肥大しきった俺の戦闘本能が、それに歯止めをかける―――畜生、理性のたがよりもよっぽどあてになる。
 昔を思い出した。
 子供の頃、シキと一緒に秋葉をさんざんからかって、追いかけてくる彼女から逃げ回ったことがある―――いかにも子供らしい、残酷ないたずら。
 最初は怒って俺達を追った秋葉も、自分の脚力では捕まえることが不可能と分かると、ついにはその場に座り込んで、しくしく泣き出してしまった。
 あの時の罪悪感といったらなかった。未だに俺とシキは、あの時はお前の方が悪かったんだと、責任のなすり合いをしてるぐらいだ。
 その時と同じだった。もう、戦いと呼べる状態ではなくなっている。ただ、アルクェイドをいいようにいたぶっているだけ。
 いつでも殺せるのに、それを引き伸ばし続けるのは、傲慢を通り越して悪趣味だ。
 終わりにしよう。
 声には出さず、唇だけを動かした。アルクェイドが、最後の突撃をかけてくる。それを同じ調子で避けながら、眼鏡をはずしてナイフを手にする。
 攻撃を終え、動きを止めるアルクェイド―――そこで襲いかかった。“点”と“線”だけに、全神経を集中する。
 十七分割。
 寸分たがわず、あの時と同じラインを斬る。俺達が、初めて出会った時のように。
 “アルクェイド”が消えた。リフレインする喪失感―――俺の全身をがっちりとらえる、現実の魔手。
 異様なほどの倦怠感をおぼえながら、息をついた。無味乾燥な現世が戻ってくる。陽が、さらに高くなっていた。
 そこで、背後から拍手が響いた。
 俺は反射的に銃を抜き、振り返りざまに銃口を向ける。
「噂には聞いてましたけど・・・・・・まさかここまでとは思いませんでした」
 冷たいフランス語―――シエル。人を食った笑みを浮かべて、俺のうしろに立っていた。向けられた銃口には、何ら反応を示さない。
「朝から何の用だ」
 銃をしまい、向き直った。
 シエルは、昨日と違って尼僧服を着ている。ゆったりとしたつくりのその衣装も、発達しすぎた肉体の圧力に耐えかね、引き裂かれそうになっている―――シエルは生涯、既製服を着ることをあきらめた方がいい。
 俺の質問を無視し、シエルは“アルクェイド”の断片のあるあたりを見ていた。
「しかしまあ、十年以上経つというのに・・・・・・」
 口元に冷笑を浮かべながら、言葉をそこでいったん切り、俺に向きなおる。
本当に執念深いんですね、志貴」
 そこで言葉を切り、いやらしい含み笑いをもらす。その声は、嘲笑と呼ぶにもあまりに悪意に満ちていた―――あの男が、俺の過去への妄執を嗤う時と同じ声。
 シエルはすべてを見ていたのだ。俺が仮想の中でアルクェイドと戦い、その身をかつてと同じように刻んだ一幕を。誰もいない公園で、俺が演じる一人芝居を見ただけで、この女はその意味を完全に悟った。
 たいした売女だ。
 全身の血が冷たくなるのを感じた。
 急速にわきあがってきたのは、羞恥ではない。シエルになら、俺の虚しい独り遊びを見られてもよかった。俺が何故そんなことをするのか、彼女はよく分かっているからだ。
 こみあげてきたものは―――憤怒だった。
 よく分かっているにもかかわらず、シエルはそれを嘲笑っている。俺が後生大事にかかえてきた幻影―――あの日々を共有しているはずのシエルが。
 赦せないのはその事実だ。
 爆発寸前の憤怒を抑えつつ、俺は顎をしゃくった。先程の“シエル”の残骸に向けて。
「言っておくが・・・・・・今の俺はその程度じゃすまさんぞ」
 シエルが俺が示した方向ではなく、自分の“生首”が落ちているあたりに目をやった。予想通り、俺と“シエル”との戦いも見ていたようだ。
「でしょうね。・・・・・・今の私は、あんなにいい動きはとてもできませんし」
 肩をすくめるシエル。俺は手ぶりでその言葉を否定した。
「そういう意味じゃねえ」
 けげんそうな表情で、シエルがこちらに向き直り―――俺が浮かべる、あの笑みに直面する。
「お前は殺しゃしねえよ。手足を切り落とし、顔についてる全部をぶっ潰して、便所のインテリアにしてやる。そして毎日、教会のサディストどもがお前にしたことがお遊びに思えるぐらいのメニューで、お前をいたぶり続けてやるよ」
 妙に浮かれた口調でまくしたてた。実際、そのぐらいのことはしでかしかねないほどのエネルギーを、俺の怒りは持っていた。
 教訓―――無為と鬱屈は、人間を容易に性倒錯者に変える。
 俺の言葉に、シエルは身を震わせた。そして、自らを強く両腕で抱きしめる―――尼僧服の胸の部分(今気づいたが、おっそろしく薄い素材だ)が、本当に破けそうになった。
「そんな、志貴・・・・・・ひどい」
 消え入りそうな声でつぶやくと、シエルはぽろぽろ涙をこぼす。トラウマを刺激され、おびえる女―――上々の役作り。
「わたし・・・・・・私にそんな・・・・・・」
 すすり泣くシエル。俺は笑顔のままだった。
 にやつきながら、手近な木の幹をぶっ叩く。
「カット」
 その言葉で、シエルは演技を中止した。手早く涙をぬぐいとると、ちろりと舌を出す。女優シエルは、コケティッシュな妖精の仮面をつけなおした。
「・・・・・・ちょっと、わざとらしかったですか?」
 俺は鼻を鳴らした。あまりの変わり身の早さに、怒っているのが馬鹿馬鹿しく思えてきたのか、憤怒はあっさり鎮まった。
「ちょっとどころじゃなかったがな。・・・・・・だから、何の用なんだ」
 質問をくりかえすと、ようやくシエルはそれに応じた。
「猊下がお呼びですよ、志貴。・・・・・・あなた、電話はどうしたんです?」
 コートのポケットに手をやると、いつもそこにおさまっているべき携帯電話はなかった。そういえば、昨日の朝に握りつぶして以来、そのままだったのだ。
「ぶっ壊れた」
 その一言ですまし、歩き出した。シエルがそれに続く。
「車が見当たりませんでしたけど・・・・・・まさかそちらも?」
「ああ。工場に預けてある」
 あきれたようなため息が、ななめうしろから聞こえた―――やはりわざとらしい響き。
「物を壊すのは、仕事の時で充分でしょう?」
 俺の横に来て、そんな皮肉を口にする。
「電話はともかく、車は壊されたんだ」
 言ってから、しまったと思った。昨日の馬鹿げた顛末は、話したいことじゃない。
「壊されたって・・・・・・誰にです」
「別にいいだろ、誰だって」
 話を打ち切り、歩みを速める。シエルが歩調を合わせる―――ぺらぺらの尼僧服の上からでも、その脚がやたら長く、べらぼうに肉づきがいいことが分かる。
「気になります。教えてくださいよ」
「脚、太いよな、お前」
 思いつきの言葉で話をそらす。シエルがひどい、と言ってむくれてから、すぐににやりと笑った。
「推測ですけどね―――女の子じゃないんですか、志貴の車を壊したのは? それも、志貴好みの、とっても可愛い女の子」
 知らず、俺は音を立てて歯ぎしりしていた。まったくもって畜生だ、この女は。
 シエルは女・・・・・・キャルのことを知っている。そして、昨日の乱痴気騒ぎのことも。
 知っていながら、馬鹿げた質問をくりかえし、まわりくどいやり方で、俺をそちらに誘導していった。
「・・・・・・知ってたんなら、訊くんじゃねえ」
「何のことです? 私はただ、推測を口にしてるだけですよ。志貴が、昨日可愛い女の子に会って・・・・・・ひょっとしたら、恋に目覚めたりしたんじゃないかなって」
 シエル―――戦闘技術が衰えたぶん、嫌がらせは巧くなっている。
 マグナムもかくやという勢いで、唾を地面に向け吐き棄てた。
「俺はお前ほどとち狂ってるわけじゃない。そこまで趣味が悪いわけでもない」
 俺の言葉に、シエルは一瞬表情を失った。
 数拍の間のあと、その唇がゆっくりとひん曲がる。白面に浮かび上がる、ぞっとするほど醜い表情―――シエルはあの男の仮面をつけた。狂気と憎悪が人間のかたちをとった、あの男の仮面を。
「趣味が悪くない?」
 心底、嬉しそうな声。邪悪な喜びに満ちたその声までも、あの男に酷似していた。
 表情だけにはとどまらず、シエルは声高に笑い始める。その笑いに、いつもの作為性はない。
 それは本心からの嘲笑だった。シエルは腹の底から、俺を嘲笑っていた。
「趣味が悪くないですって? ・・・・・・最悪じゃないですか、志貴の趣味は!」
 シエルは哄笑し、涙すら浮かべていた。
「言ってごらんなさいな、志貴・・・・・・あの日、あなたが求めたのはいったい誰なんです? 十年にもわたって、あなたが焦がれているのは、いったい何者なんです?」
 殺せ。
「人間、いや、まっとうな生物とすらいえない、異形の、穢れて、ゆがんだ存在・・・・・本当にいい趣味ですね、志貴」
 シエルは笑い続ける。俺の全身にアドレナリンが駆け巡り、視界が狭く、鮮明になっていくのに合わせるように、笑い声は高まっていく。
 殺せ。この女を刻め。
 それはもはや、怒りではなかった。
 俺の前で、そんなことを言った奴を―――アルクェイドを穢した奴を、絶対に生かしてはおけぬという・・・・・・細胞レヴェルの、根源的な義務感。
 意識しないうちに、ナイフを手にしていた。
 意識しないうちに、間合いをつめていた。
 眼鏡を取ることなく、シエルの“死”を見出し、それを断とうと―――
 シエルはまだ笑っていた。
 俺が“死”そのものとなって迫っているのに。瞬きひとつしたあとには、自分は死んでいるというのに、シエルは笑っていた。甲高い哄笑が、俺の耳朶にわんわん響く。
 そして、ナイフが一条の銀光となって“線”に達そうとした瞬間、シエルははじめて俺を直視した。
 仮面じゃない。
 シエルはなおも笑顔だった。しかしそれは、先程の笑顔とは、まったく質が違う。
 哄笑はいつのまにかやんでいて―――優しくて、どこかはかなげで、泣いているようにも見える笑み。
 いつか、どこかで――いつもの幻想の中かもしれない――見た笑み。
「どうして、止めちゃうんですか?」
 なんだか、残念そうな声。
 我に返ると、俺のナイフは“線”から一ミリずれたところで止まっている。シエルの首の皮一枚のところで。真っ白い首筋から流れる赤い血が、ひどくエロティックだった。
 夢から覚めたような気分―――今の今までシエルを殺そうとしていたことに、実感がわかない。気づいたら、刃をのどに押しつけていた。そんな感じだった。殺意の残滓・・・・・・いつもの頭痛すら、感じていない。
 肩をすくめた。てのひらの中でナイフを一回転させ、逆手に握りなおす。そしてそれを左脇の鞘におさめた。化物どもを殺したあとに、幾度となく繰り返してきた動き。
「死にたがってる奴を殺すのは、性に合わねえ」
 呼吸は落ち着いている。右手の指二本でシエルの喉首の血をすくいとり、口に運んだ。錆めいた味が、温かく口中にひろがる。
 人間の血。汚れた血。
「本当に、趣味が悪いんだから・・・・・・」
 言いつつ、シエルは妙に嬉しそうだった。
 そして自らも血を指にとり、それを舐める。舌の先端から奥に向け、舐めるというより塗りつけるような、緩慢で・・・・・・淫猥な指使い。
 その動きに気をとられた瞬間に、シエルがなめらかに動いた。
 やおら俺に抱きつくと、唇を合わせ―――たっぷりと己の血をのせた舌を、俺の口腔にさしいれた。血にまみれた舌が、俺の舌といわず歯茎といわず這いまわり、血を塗りたくってはぬぐいとる。
 血生臭いキス―――俺達二人には似合いだった。
 俺は動かなかった。応じるでもなく、抵抗するでもなく、ただされるがままになっていた。手だけは、シエルの頭と顎にそえておく―――何か妙な動きをした瞬間には、頚骨をへし折ることができるように。
 血の味が、唾液に洗い流されてなくなった頃合で、シエルは俺の唇を貪るのをやめた。
 俺は何も感じなかった。湿った粘膜の感触だけが、何かの痕のように残っている。
「・・・・・・いつまで、俺をたぶらかしゃ気がすむんだ?」
 未だ俺の首に腕をからめているシエルに、訊いた。
「死が二人を分かつまで、ですよ」
 明るく笑って、シエルは身を離した。何事もなかったように、歩くのを再開する。
 煙草をくわえ、火をつけた。紫煙が、シエルの痕跡を押し流していく。
「ずいぶんと、訓練されているですね」
 歩き出そうとしたところで、シエルがそんなことを言った。先程のキスの際、俺がシエルをいつでも殺せるよう、構えていたことだろう。
「・・・・・・そりゃ、な。いつまでもあの頃みたいに、潜在能力だけに頼ってるわけにもいかねえだろ。死徒だって、ぼんやり立って俺に“点”を突かれるのを待ってるような間抜けばかりじゃない。“点”を突く以外の技術だって、習得しなきゃならん。・・・・・・“挿入”の前には“前戯”が付き物だろ?」
「あまり、品のない例えですね」
「お前に言われたかねえ。・・・・・・もっとも、化物殺しのことだけ考えるんなら、本当に必要なのか、疑問に思えるもんも多かったけどよ」
 俺は苦笑した。ローマに来てから、ジョゼッペに叩き込まれた技術の数々―――それを思い出したのだ。
 銃火器や爆発物の取り扱いのみならず、格闘技や銃剣術を中心とした体技、そして旧埋葬機関の殺し屋どもが想像もしないような技能―――パラシュート降下やスキューバダイビング、ザイルを使った登山や懸垂降下(ラペリング)、野外でのサヴァイバル技術、果ては装甲車両の運転や光学通信までやらされた。
 この分野に関しては無知だった俺でも、それが埋葬機関の伝統的なものではなく、いわゆる特殊部隊―――人殺しの専門家たちのための訓練であることは分かった。
 だいぶ後になって知ったことだが、ジョゼッペは長らく海軍特殊部隊(コムスビン)に所属しており、その後憲兵隊(カラビニエリ)で国内テロの摘発に従事していた時に、法王庁からスカウトを受けたらしい。
 そういう経歴の持ち主であった奴が、このおとぎ話の世界のやり方はてんから相手にせず、自分のよく知る方法論を堅持しようと決意したことは、想像に難くない。
「・・・・・・それで、実際に役に立ったんですか?」
 その話を聞いたシエルが、半ばあきれ顔で訊いた。
「思ってたよりな。あの時と違って、化物どもは自分からのこのこ来たりしねえ。まず、殺す前にこっちから、探し出してやらないとな。ただでさえ、俺の仕事は政治的にややこしい地域が多いんだ。そういう場所で、現地の連中と面倒を起こさないように仕事をやるには、人間向けの技術が、どうしても必要になってくるんだよ」
 シエルが、はっ、と感心とも嘲笑ともつかない息を吐いた。
「私達は、そういうことはおかまいなしにやってましたからね」
 旧埋葬機関の連中―――一皮むけば、統率されていない、野卑な殺し屋の寄せ集め。ただ化物をぶち殺すためだけに存在し、それ以外の要素には目もくれない蛮人ども。
 俺達よりはましだが。
「まあ、そこは単にやり方の違いだろうがな」
 そう言って、お茶を濁した。
 おかまいなしのシエル―――間抜けな高校生、自分がどれほど常軌を逸した怪物かに、まるで気づいていない高校生をたぶらかし、いいように使うことも辞さなかったシエル。
 その仮面を見せつけられるのは、もうたくさんだった。
「でも猊下のやり方が、より優れていたのは私も認めますけどね。事実、私達がなしえなかった二十七祖の粛清も、ほぼ成し遂げたわけですし」
 そこで、足を止めた。
「物事には限度ってものがある」
 知らず口から出た俺の言葉は、自分でも意外に思うほどの怒気が含まれていた。
「あの野郎は・・・・・・ジョゼッペは本当に、限度ってやつを考えなかった。それどころか、わざとそうしてるようなところさえあった」
 シエルが沈黙した。顔をよせ、少し語調を落として続ける。
「今になって思うに、奴はこの世界・・・・・・お前らの棲んでいる、このオカルトじみた世界を、頭から馬鹿にしているようなところがあった。お前やナルバレック、それから二十七祖・・・・・・そういう連中のやり方を、こけにしたいだけなんじゃないかと思うようなことを、よくやっていた」
「お話が、見えないんですけど」
 眉をひそめるシエル。たいぶ落ち着いてきた俺は、ひょいと肩をすくめる―――畜生、あの野郎の癖とそっくりじゃないか。
「ちょっと古い話なんだが」
 そう前置きして、覚えている限りで、いちばん象徴的なエピソードを挙げた。


 (またしても名前を忘れたが)二十七祖のひとりに、とてつもない迷宮を作り上げ、そこに篭城して出てこない奴がいた。
 そいつを殺すために、法王庁から何人もの刺客が送られたが、誰一人帰ってこなかった―――その迷宮はあまりに複雑(一説によれば、製作者本人も迷子になっているらしい)かつ、危険に満ちていたために。
 最終的には、その死徒を始末する任を、ジョゼッペが負ったわけだが・・・・・・その時に奴がとった手段というのが、いやはやとんでもないものだった。
 手始めに、地球をぶち割れるほど大量の指向性爆薬と、どこかから動員してきた作業員、さらにはジョゼッペの手下の殺し屋達が、ありったけ集められた。
 そして作戦開始の日の夜明けから、まずは爆薬が人海戦術でセッティングされ、その死徒ご自慢の迷宮を、地表から地下に向け、順ぐりに爆破していったのだ。
 それがひたすら繰り返され、迷宮が深く巨大な竪穴と化したところで、とどめとばかりに登場したのは、ナパームを満載したヘリコプター。
 あの頃は、本当に予算が豊富だったもんだ。
 朝から晩までそんな調子で、日がな爆音が響く中、出番待ちの俺は、轟音ととも崩れ去る迷宮を見下ろしながら、オキーフとカードをしたり、“オセロウ”をおちょくったり、イリナに卑猥な日本語を教えたりしてすごしていた。
 やがてそれらにも飽きて寝ていたら、陣頭で指揮をとっていたジョゼッペ(あの時は珍しく野戦服を着ていた)が、血相を変えてすっ飛んできて、狂ったように俺の尻を蹴飛ばした―――さすがに、それはまずかったらしい。
 何もかもが馬鹿げていて懐かしい。
 思えばあれが、新生埋葬機関のフルメンバーが参加した、最後の作戦だった。戦いを重ねるうちに、あの日、俺とともに戦った者達も、一人減り、二人減りして、最終的には数人になってしまった。
 そして夜半すぎ、あまりに無軌道な振る舞いに、さすがに耐えられなくなったのか、肝心の死徒が、完全に破壊されたねぐらから飛び出してきた。
 そこでそいつを待っていたのは、サーチライトの光と―――この事態を予測して待機していた、イリナ率いる狙撃班の対戦車ライフル。
 ろくに事態も把握できないうちに、無数の50口径弾をまともに喰らった哀れな死徒に、俺のナイフが引導をわたしてやった。
 慈悲というものがこの世にあるのならば、あれこそまさしく慈悲と呼ぶべきだろう。


「・・・・・・ほとんど笑い話ですね」
 なかなか、気のきいたコメントだ。
「ま、面白かったのは確かだけどな。・・・・・・だが、いくらなんでも、あれはやりすぎだ」
 そこで、シエルの頬を軽く叩く。
「奴にくらべりゃ、お前らはずっとまっとうだったんだ。少なくとも、死徒達にも分かるやり方で、やってたわけだからな」
 苦笑して、そう結んだ。
「“目的のために手段を選ばず”ということではなくて? ・・・・・・別に、死徒のやり方に合わせる義理はないんですから、できるだけ合理的な手段をとる方が、理屈にあっていると思いますけど」
 俺は首を振った。分かっちゃいない。シエルはまったく分かっちゃいない。
「あれは合理主義なんてもんじゃない。化物どもを殺すことは、本当の意味での目的じゃなくて、ただ、ただ・・・・・・否定したかっただけだろう」
「何を?」
「分からん」
 結局のところ、ジョゼッペが何をしたいのか、俺にだってよく分からない。
 その一件からもうかがえるように、奴の行動は、時おり合理主義を通り越して、糞リアリズムか、はたまた狂気の沙汰の領域に突入してしまうこともしばしばだった。
「うまく言えないが・・・・・・どんな世界にも、その世界なりのルールがある」
 考え考え、俺はしゃべる。
「法律とか、倫理とか、教条とは違う・・・・・・ルールだ。裁定者も罪刑も存在しないが、その世界にいる以上、守らねばならない“法”―――お前達の世界にも、それはある。少なくとも、俺はそう思ってる」
 シエルは何も言わない。笑うでもなく、怒るでもなく、神妙な顔をして聞いている。
「奴は、そのルールを無視した・・・・・・いや、知っていて、あえてそれを破ろうとした。叩き潰そうとした。化物を殺すのは、二の次だったように見えた。奴はいつもお前達の世界の“ルール”を否定し、めちゃめちゃにして・・・・・・俺はそれには本当に腹が立った
 また肩をすくめ、声だけで笑った。
「何言ってるのか、自分でも分からなくなってきたよ。・・・・・・忘れてくれ」
 シエルは俺の笑いにつきあわなかった。虚ろともいえる無表情のまま近づいてきて、俺の唇に、指の先をあてる。
「そういうところ・・・・・・猊下にそっくりですね、志貴」
 腹を殴られたような衝撃―――確かに俺の言い草は、己のゆがんだ“法と秩序”を絶対視する、奴の言動と酷似していた。
 怒ることすら忘れている俺に向け、シエルはにっこり笑う。
 またあの笑顔。
「でも―――私はすごく、嬉しかったんですよ」
 あてられた二本の指が、紅をさす時のように俺の口唇のラインをなぞる。何故かこの動きには、シエルのあらゆる所作にただよっていた性的なものが、一切感じられなかった。
「本当に嬉しかった。志貴が、私達の世界を選んでくれたこと。私達のいる、この世界を受け容れて―――愛してくれたこと。・・・・・・何もかもがねじれてしまったけど、それだけが私の救いなんです」
 言い終え、シエルはすすりあげた。眼に涙はない―――だが、シエルは泣いている。
 何かがひどくずれている。
 唇にあてられた指を、そっとのける。
「俺はただ・・・・・・ここしかいられる場所がなかっただけだ。俺・・・・・・俺達みたいな生き物を許容する世界は、ここしかなかった。だから、ここにいる。他の、どこへも行かない。行くことが出来ない。俺はここにいて、ここで死ぬ」
 充分です、とささやいて、シエルは笑う―――やっぱり泣き顔にしか見えない。
 シエルの言葉は、嘘とは思えなかった。俺の言葉も、何ら欺瞞は含めなかった。
 だがやはり違う。
 消えることのない、奇妙な違和感―――言葉にすればするほど、それが増していくように思われた。
 シエルに背を向けて、歩き出した。

 ―――あの男は、我々の世界をこよなく愛している。
    愛すれども、愛し方は知らぬ。まったく知らぬ。
    なれば否定する。なれば憎む。なればこそ、破壊する。


 いつか、脳内のネロが言っていたことを、思い出した。

 ―――彼も、分かっていながら、無いものを探しまわってるくちだね。

 ロアは、そう言った。

 ―――いかれた畜生だな。でも、あれこそ人間だろ?

 シキは、そう言った。
 何故かあの三人は、奴を妙に気に入っているように思う―――理由は分かりきっていた。分かりたくなかったが。
 奴もまた、己のいるべき場所、生きていくべき世界について、選択を迫られた瞬間はあったのだろうか。
 俺のように、自らが他の世界では生きていけない存在だと、悟ったのか。
 俺のように、しがらみや自分の意思を打ち消すほどに強烈な衝動が、否応なく奴にこの世界を選ばせたのか。
 あるいは虚無だけか。
 首を振った。ジョゼッペのことを推し量ったところで、どうなるものでもない。俺は自分の、崩れゆく脳細胞の心配でもしているべきなのだ。
「さ、急ぎましょう」
 いつのまにか横に来ていたシエルが、俺の腕をとった。
「急ぐこともないだろ。ジョゼッペは逃げやしねえ。・・・・・・なんなら、ここで一日中、お前とやりまくるのも悪くない」
「大声で人を呼びますよ」
 言いつつ、まんざらでもなさそうに、シエルが笑う。
「誰も来やしねえよ。・・・・・・ここにゃ結界が張ってあるしな」
 それは本当だ。ここを、毎朝の訓練場所として使うために、普通の人間が立ち入れないようにしてある―――シエルなら、とっくに気づいていただろうが。
「そうもいきませんよ。“00(ゼロゼーロ)”が今、ローマに戻ってますからね。彼ならこの中に入れるでしょう?」
「あの畜生、来てやがったのか。・・・・・・まあ、いたとしても、あいつがお前を助けに来るとは思えんが」
 “00”―――ここに結界をほどこした張本人。“オセロウ”亡きあとの、埋葬機関ナンバーワンの魔術師にして、最悪(ナンバーテン)の変態野郎。
「ま、私もあの人に助けられるぐらいなら、志貴のおもちゃにされる方がずっとましですけどね」
 ひどい言われようだ。それに関しちゃ俺も同意見だが。
 舌打ちする。きっと、庁舎に行ったら、あのくそったれと顔を合わすことになりそうだ。考えるだけでも反吐が出そうだった。
「そんな顔しないで。さあ」
 その事実により、さらに足取りが重くなる俺を、シエルはぐいぐい引っぱっていく。俺はほとんど引きずられるようにして、公園の出口に向かう。
「私の車で行きましょう。・・・・・・放っておくと、勝手によそへ行っちゃいそうですからね、志貴は」
 俺の腕をかかえるようにして、シエルは言う。妙にはなやいだ声。顔はどこまでも屈託がなかった。
 空を見上げる。青空には雲ひとつなく、木漏れ日が目に痛い。
 陽光から目をそらし、自分と腕を組んで歩く女の横顔に視線を落とす。
「・・・・・・シエル」
「はい?」
 呼びかけに応じ、立ち止まるシエル。急に止まるものだから、つかまれていた俺の腕は、脇固めの変形のような形でひねられ、思わず声をあげた。
「ああ、ごめんなさい」
 しれっとした顔で、シエルは言う。悪びれない態度から見て、明らかに故意だ―――俺の二の腕に、さっきから思いきり胸を押しつけているのと同様に。
「肩がはずれるとこだったじゃねえか、この売女(グワヨ)」
 つかまれていた腕を振りほどく。痛みと弾力が遠のく。
「“執行者”にしては、やわな言い草ですこと。・・・・・・で、何です?」
 肩をさすりながら、シエルを見る。あの笑みはいまや影もなく、顔にはかすかな冷笑だけ―――いつものごとく、本当につかみどころのない女だ。
 ちょっと間をおいてから、訊いた。
「今日みたいな・・・・・・晴れの日は好きか?」
 冷笑が消えた。仮面がはがれ落ちた顔には、デスマスクを思わせる無表情。
 だがそれも一瞬だった。我に返ったのか、ゆっくりと眉をひそめ、不可解とも、侮蔑ともとれる表情を作る。
 見事なアドリブ。ブラヴォー。
「どうして、そんなことを?」
 俺は答えなかった。それに対する答えを、持ち合わせていなかった。ただ、肩だけをすくめる。
 俺自身、何故こんな間抜けな質問をしたのか、不思議に思ったくらいだ。好きな体位でも訊いた方が、まだしも気がきいている。
 こちらがいっこうに応じる様子を見せないでいると、声を出してため息をつき、仕方なさそうに答える。
「あんまり好きじゃありませんね、正直。・・・・・・あなたは?」
「うんざりするよ、太陽の下にいると」
 顔を見合わせる。互いに、次の言葉を待つ―――もう言葉が必要ないことを分かっていながら。
 無言のまま、シエルが笑った。つられて俺も相好をくずした。
 言葉はいらない。俺達は分かっていた。
 陽光を避けた、知る者のない日陰の中で、似たもの同士で貪りあって死んでいく―――夜の世界に生きる種族。
 俺達はそういう生き物なのだ。
 夜の闇こそ己が領域とする俺たちにとって、太陽の下ほど、場違いに感じる場所はない。自らが狩り殺す、吸血種と同様に。
 俺達は再び身を寄せて、歩き続けた。無慈悲な太陽から、互いを護り合うように。
「・・・・・・でも、彼女には陽の光が似合ってましたよね、とても」
 ぽつりと、シエルが言う―――誰のことをさした言葉かは、訊くまでもない。
 その通りだった。
 真祖に力を与える、うら寂しい月光より・・・・・・明るい陽光の方が、アルクェイドにはふさわしかった。太陽の下で笑っている時が、あいつは一番きれいに見えた。
 まぶたの裏で、アルクェイドが踊る。白い陽光をまとったあいつは、きらきら輝きながら、無垢な笑顔を俺に向けている。くるくると楽しげに踊る純白の像は、これまでにないほど、はかなく、遠く感じた。
 俺は闇からそれを見ていた。
 白昼夢を断ち切り、正面を見すえながら、俺は言った。
「あいつは、きっと―――最初から俺達と違う場所にいたんだ
 口の中に、苦いものがこみあげてくる。自らの言葉が含む寒々しいものに、俺は身震いした。シエルが強く、俺の身体を抱く。その暖かさに、負けてしまいそうだった。
 寄りそいながら、公園を出た。
 公園脇のデル・コルソ通り―――道路ぞいに駐めてある、ぼろっちいルノー5ターボ。シエルはドアを開け、俺を助手席に座らせた。母親が我が子にしてやるように。
 シエルが運転席に座し、イグニッションキーを取り出すのを待って、声をかけた。
「笑い話をしよう、シエル」
 今度は、シエルは“どうして”とは訊かなかった、無言でうなずき、エンジンをかける。
「俺が訓練を受けた、最後の日の話だ」


『お前は完成した』
 その日の朝、ジョゼッペはとうとつに宣言した。
『いまや何者もお前を斃すことはできない。いかなる能力を持つ死徒であっても、お前がひとたび殺意を持てば、逃れることはかなわん。単体としては、お前は最強といっていい。・・・・・・だが』
 奴はそこで言葉を切り、足元に置いた木箱を蹴った。
『今のままでは、お前が絶対に勝てぬものが存在する。・・・・・・これより、それに勝つための手段を教える』
 言って、奴は木箱を、足で俺の方に押し出した。
 俺はてっきり、真祖殺しの秘法、はたまたそれすらも凌駕する超越的存在をも殺しうる、法王庁謹製の新兵器でも授けられるのかと期待して、その木箱を開けた。
 中に入っていたのは、黒く長い、円筒状の金属塊―――それが何であるかは、すぐに分かった。
『・・・・・・スティンガーじゃねえか』
 そう、木箱におさめられていたのは、米国製携帯用ミサイル―――FIM92A“スティンガー”だった。
 そこで、ジョゼッペの言わんとすることに、俺は気づいた。
『まさか、俺が“絶対に勝てない存在”ってのは・・・・・・』
 ジョゼッペはにこりともせず、うなずいた。
『お前の思っている通りだ』
 あきれて声も出ない俺をよそに、奴は“絶対に勝てない存在”―――戦闘ヘリを地対空ミサイルで撃墜する方法を、俺に伝授した。
 確かに、真祖よりもよっぽどやっかいな敵ではある。いくら俺とて、上空から回転機銃で掃射されては、なすすべがない。
 だがやはり、何となく釈然としなかった俺は、訓練の終わり際、奴に皮肉を言った。
『これだけじゃ不足だろ。・・・・・・ボタンひとつで世界を吹っ飛ばせる奴には、俺だって勝てやしねえからな』
 その皮肉に、ジョゼッペは怒らなかった。それどころか、真面目な顔でうなずき、対策を立てよう、と請け合った。
 翌日、ジョゼッペは一通のマニラ封筒を俺に渡した。
 中に入っていたのは、とあるアメリカのベンチャー企業の商品紹介のパンフレット。
 そこには、こう書かれていた―――“あなたの自宅にも核シェルターを!”


「・・・・・・結局、それが本気だったのか冗談だったのか、未だに分からねえけどな」
 語り終え、横のシエルを見やると、彼女は無言でシフトをくり返し、運転に集中している。かなり荒っぽい走り―――コーナリングのたびに、ミシュランのタイヤが悲痛な鳴き声をあげていた。
 前に視線を戻す。別に、笑いを期待して語った話じゃない―――ただ、何かをしゃべらずにはいられなかった。
「・・・・・・志貴」
 ターボラグを左足ブレーキで殺しながら、シエルは言う。車体の過激なアクションとは裏腹に、彼女の声は平坦で、うつろともいえる響きだった。
 呼び声に応じてそちらを向いた瞬間に、俺の頭に、右腕が巻きついてきた。声を上げる間もなく、胸元に抱き寄せられる。
「強く・・・・・・強くなったんですね・・・・・・」
 俺の髪をなで、シエルは耳元でそっとささやいた。
 シエルに抱かれながら、それが運転中のできごとであることも忘れて、俺は思った。
 強くなるということは、何かを得ることじゃない。
 何かを失うことなのだ。

 


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