ひまわり探偵局 作者自身によるモトネタ解説

「ひまわり探偵局」のモトネタ解説ページです。本来こういうものを作者自らやるというのは、顰蹙ものというか、そもそも禁じ手であることは重々承知しております。しかしながら、世間をぐうるり見回しても、こんな酔狂なことに時間を割いてくれる人はいそうもないので、いっそ作者がやってしまえ!と、開き直ってしまったわけであります。なにしろ、作者によるモトネタばらしですから、情報の精度は折り紙つきです。
 ……とかいいつつ、なにぶん原稿をUPしてから時間がたっているので、すっかりモトネタを忘れてしまっている場合があるやもしれません。その点は、まあ、なんというか、そういう人間だということで、ひらにご容赦を……ハ、ハ、ハ。

 要するに見切り発車なので、内容のほうはチビチビ更新していければ、とルーズに考えてます。


第一話  伝言――さよなら、風雲児

P8 
「はあ……甘露ですねえ」
 甘露とは、サンスクリット語アムリタの訳語。アムリタは、死を意味する言葉「ムリタ」の否定語で、すなわち不死≠表す。具体的には、不死をもたらす飲み物を指し、また、それを飲むことによってもたらされる至上の法悦境を指す。ヴェーダによれば、神に捧げる酒ソーマがそれにあたるという。ギリシャ神話の「ネクタル」に当たると考えれば、分かりやすいのではないだろうか。中国では、天子が優れた政治を行う前ぶれに甘い雨が降るといわれ、これを「甘露」と呼んだ。ちなみに、「こみっくパーティー」や「うたわれるもの」で知られるゲームクリエイターといえば「、甘露樹(あまづゆたつき)氏である。

P9
アッサムのセカンド・フラッシュ
 インドで英国人が本格的な茶葉の生産を開始したのは、アッサムの地だったといわれる。濃厚で芳醇な味わいを特長とするアッサム紅茶は、それゆえ、もっともミルクティーに適した紅茶として紹介されることが多いが、その力強い味わいを心ゆくまで堪能するなら、ぜひストレートで。ちなみに「セカンド・フラッシュ」とは夏摘み(二番摘み)紅茶のことで、本来、ダージリンなどインド北東部を産地とする紅茶にのみ使われる言葉である。新鮮なフレーバーがウリのファースト・フラッシュ(春摘み紅茶)に対して、より深い茶葉本来の味を楽しむことができる。

ギンガムチェック
「ギンガム」という言葉を最初におぼえたのは、小学生のころ読んだ、ウェブスター「あしながおじさん」によってだったと思う。孤児のジュディは、お仕着せのギンガム服がいやでいやでたまらない。ジュディにとってギンガム服は、施し≠竍善意≠ニいう名の拘束の象徴であり、孤児としての惨めな境遇の象徴そのものだったのだ。

P10
ムーミン
 ここで言及されているアニメの「ムーミン」とは、さんきちさんの年齢から考えれば、1990年からテレビ東京系列で放映されていた「楽しいムーミン一家」とするのが自然だが、オヤジを自認するさんきちさんがあえて「昔」と断わっているからには、Aプロ&虫プロ版の旧作を指していると考えてよろしい。若い人にとっては、ムーミンの声=高山みなみかもしれないが、オヤジ世代の多くは、ムーミンといえば、故岸田今日子さんの声が浮かぶように洗脳されてしまっている。同様に、ここでさんきちさんが想起しているムーミンパパ≠焉A故高木均さんが声をあてた旧作のムーミンパパのイメージで考えてもらいたい。
 原作者のトーベ・ヤンソンには、イメージがちがいすぎる、と嫌われた旧作「ムーミン」だが、これは、原作にまだなじみのなかった当時の視聴者に合わせるためのいたしかたない措置だった。その点についての賛否はあるだろうが、制作スタッフには、放送作家時代の井上ひさしらが加わっており(主題歌の作詞も井上氏)、作品のクオリティは決して低いものではなかったし、原作の幻想的な雰囲気を伝える佳作も多かった。なにより、ムーミンを日本人なら誰でも知っているキャラクター≠ノ押し上げた功績は、はかりしれないほど大きい。
 
マンゾーニ
 アレッサンドロ・マンゾーニ(1785〜1873)。19世紀ロマン主義を代表するイタリアの作家・詩人。日本では、名前のみ知られている巨匠だったが、現在、小説の代表作「婚約者(いいなづけ)」は、平川 祐弘による訳で文庫化されている(河出文庫)。でも、ちょっと高い。ちなみに、「いいなづけ」というネーミングの酒粕漬を発見したが、マンゾーニとはぜんぜん関係ないだろう。

P12
赤いのがナントカ専用
 もちろん、少佐専用である。

太陽の塔
 1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のシンボルとして建造された三つの顔を持つ塔。制作者は、近年人気の復活がいちじるしい魂の芸術家・岡本太郎である。「太陽の塔」のネーミングは、この塔が、お祭り広場(設計は丹下健三)の屋根を突き破るようにデザインされていたため、石原慎太郎『太陽の季節』の障子破り≠ゥら連想したもの、らしい。岡本太郎の制作した大型オブジェは、都庁・旧丸の内庁舎(あ、これも丹下先生の設計だった)の陶板レリーフのように、取り壊された施設と運命をともにしたものが少なくないが、太陽の塔は、万博公園の主≠ニして今も健在である。
 
水飲み鳥
 人を食ったような顔をした鳥が、水を飲みながらいつまでも揺れ続ける不思議なおもちゃ。平和鳥、ハッピーバードなどともいうらしい。実はその動きは、けっこうすごい原理にもとづいている(科学オンチの作者はうまく説明できないので、こちらを参照されたい)。なかなかあなどれない科学実験おもちゃ。

P14
『絶滅哺乳類図鑑』
 こちらを参照されたい。とてもほしい本だが、高すぎて作者には買えない(;´д`)

和菓子 技とこつ
 こちらを参照されたい。なにしろ饅頭の皮の厚さの比率まで(!)載っているプロ仕様の和菓子本です。本格的=素人に手が出ない、のではなく、本格的だからこそ初心者が見てもすごく分かりやすい、という見本のような本。もちろん、見ているだけで楽しいです。

うずらちゃんのかくれんぼ
 こちらを参照されたい。公開されたホームビデオの中で、愛子様が読んでいて話題になった絵本。ただし、陽向先生は皇室フリークというわけではない。単に子ども向けの本が好きなのである。ちなみに、陽向先生の好きな絵本には、『はらぺこあおむし』(エリック・カール)、『かいじゅうたちのいるところ』(センダック)、『ケンはへっちゃら』(谷川俊太郎/作・和田誠/絵)、『おにたのぼうし』(あまんきみこ/作・岩崎ちひろ/絵)、『かたあしだちょうのエルフ』(おのきがく)『つきよのかいじゅう』(長新太)『ももいろのきりん』(中川李枝子/作・中川宗弥 /絵)『はじめてのおつかい』(筒井 頼子)などがある。

ハチミツとクローバー
 最初、「ハチクロ」と聞いて、ハチとクロという二頭の犬の話かと思った(うそ)。個人的には、花本先生に思い入れが強いです。実を言うと、まだ最終巻を読んでなかったりする……。

P15
ムーミンパパは、若いころは大冒険家だった
ムーミンパパの思い出』(講談社)を参照されたい。ムンパッパ(高木均ふうに)。

ライナスの毛布
 チャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』(スヌーピーのマンガ、と言ったほうがたぶん分かりやすい)に登場する男の子ライナスが、いつも肌身はなさず抱いている毛布(ブランケット)のこと。転じて、それを持っていれば心が落ちつく大切なもの。
P16
くちなし、という確かなにかの歌にあった花の名
 もちろん、渡哲也が歌った『くちなしの花』である。2番の歌詞に♪くちなしの雨の 雨の別れが〜とあるので、やはり雨の季節の歌なのである。

P18
ドアのカウベル
 カウベル、と聞いて筆者が真っ先に思い出してしまうのは、『少女革命ウテナ』第16話「しあわせのカウベル」である。七実メインのシナリオには、閑話休題的なぶっ飛んだ話が多いが、その中でもインパクという点ではこの回が最高。

田舎の純喫茶
 田舎の純喫茶、と言われて陽向先生がまず思いうかべたのは、たがみよしひさ『軽井沢シンドローム』に登場する「ら・くか」であった。ちなみに、『軽シン』には、みるく≠ニいう女性が登場するが、その昔、清里がミーハーなお嬢さんたちの聖地だったころ、ガイドブックに必ず紹介されている「ミルク」という喫茶店があった。この「ミルク」とひまわり探偵局のイメージがぴったり重なったので、陽向先生は大喜びしたのだった。(喫茶店ミルクは、道路拡幅による休業などを経て、現在は、「パスタと肴morimoto」として営業をしている)

 ところで、純喫茶、というのも不思議な言葉である。純喫茶の反対は、不純喫茶だろうか。というと、ノーパン喫茶や同伴喫茶のことだろうか――なんて考えていたら、下世話なネタというのはだれでも思いつくらしく、教えて!gooの「純喫茶ってなんですか?」という質問にも、同じような発想の解答が多くて笑った。ちなみに、純喫茶でない喫茶店は、「特殊喫茶」というらしい。では、特殊喫茶とは何かというと、お酒を出す喫茶店のことなのである。つまり、純喫茶とは、なんのことはない、お酒を置かない、純粋にコーヒーや紅茶を飲ませる店なのだ。
 戦前から戦後にかけて、カフェー≠竍喫茶≠ニ名乗る店の多くは、酒を出したり女給が接客をしたりするお水′n統の店だった。それに対し、「うちは、本当にコーヒーや紅茶しか出しません」という店を区別する意味で、「純喫茶」という呼称が生まれたらしい。私見では、「純喫茶」という呼び名が隆盛を極めたのは、若者たちが喫茶店に入り浸った昭和30〜40年代ではないかと思う。そのころの純喫茶の「純」には、純文学の「純」と同じステータスがあり、一段高級な退嬰的スノビズムの匂いがあったのではないか。つまりそれは、喫茶店という場所が、時代の神話性を帯びた、今よりもずっと特殊な場所だったということを意味する。一杯のコーヒーによって提供される無為な時間と立ちこめる紫煙の中で、若者たちは、自分たちに課せられた同時代性≠ニいう名の倦怠を共有しあっていたのだ。(そういえば、一昔前まで田舎では、喫茶店というと不良≠フイメージが強い場所であり、、フツーの中高生が立ち寄ってはいけない場所だった)
 しかし、いつしか若者たちが去り、喫茶店は時代の恩寵を失った。それとともに、「純喫茶」という言葉の色彩も褪せていったのだろう。たとえコーヒーしか飲ませなくても、ドトールやスタバが「純喫茶」と呼ばれることはない。かつての「純喫茶」で確かに売られていたはずのもの――コーヒーや紅茶以外の何か――が、もはやそこには存在しないのである。(→参照のこと

弁護士バッジ
 弁護士のバッジは、純銀で金メッキが施されている。ひまわりは曇ることのない正義≠フ象徴で、正確には、その中心に公正≠表す天秤が刻まれている。ちなみに、弁護士バッジがひまわりをかたどったものであることを初めて知ったのは、’75年のTVドラマ「ひまわりの詩」によってだった(と思う……)。ところで、このドラマの主題歌は、ひまわりのイメージとはぜんぜん合わない、クレープの「無縁坂」なのだった。

P26
遺言(いごん)
 日常的な言葉としては「ゆいごん」と読むが、法的な分野では「いごん」と読むのが一般的。光原百合さんの『遠い約束』を参照されたし。

P32
ミネルヴァのフクロウは黄昏になって飛び立つ
 ヘーゲルは知らなくても『法の哲学』の序にあるこの言葉だけは知っている、という人は多い。しかし、その解釈となると、また様々である。一方では、、学術研究は文明の暮れどき、つまり衰退期になってようやくかたちをなすもの、すなわち、学問は永遠に時代の後追いをすることしかできない、という自戒と諦念のこもった比喩だとされるが、これを、文明衰退の闇の中にこそ新しい文化の種子がまかれ、次なる時代の夜明けを準備しているのだ、と前向きに解釈する向きもある。まるで正反対の解釈のようだが、筆者は、どちらかを間違い≠ニして退ける立場をとらない。なぜなら、ヘーゲルは、時代の最後尾を追いかけるのが学問、と考えても、だから学問は無力、とは考えなかったからだ。そうではなく、学問の限界を認識するところからしか学問の探求ははじまらない、とヘーゲルは言っているのである。己のなす術(すべ)の限界を認識しながら、それでもなお、深さを増していく闇のその先へ羽ばたくことこそ、ミネルヴァ=文明の使いであるフクロウの決意なのだ。