このページでは、楽器としてのヴァイオリン、ヴァイオリンの教材や教育メソッドなど、ヴァイオリンに直結したトピックに関して私の考えていることを記述してみます。

目次

1. スズキメソッドの問題点と課題


1. スズキメソッドの問題点と課題

 エッセイコーナー(音楽編)の『伝道者としての演奏家』のトピックでは、プロ演奏家にせよ、アマチュア演奏家にせよ、コンサートにおいて演奏家が取り組むべき課題は大きく分けると次の3つではないかということを申し上げました。すなわち、

(1)その楽器をどう弾くか
(2)その作品をどう弾くか
(3)演奏家として聴衆に何を伝えるか

の3つです。

 そして多くのアマチュア演奏家のコンサートにおける実際を観察すると、上の(1)と(2)で手一杯であり、(3)の演奏家として聴衆に何を伝えるか、という課題には意識が行き届いていない、という現状があるのではないか、という主張をしました。上に挙げた(1)その楽器をどう弾くか、(2)その作品をどう弾くか、(3)演奏家として聴衆に何を伝えるか、という3つの課題は、どれも演奏家(公開演奏のステージでお客さんのために演奏する人、という意味)が取り組む課題として必須であると思われます。このうちどれが欠けてもそれは特異なことです。そして多くのアマチュア演奏家のコンサートにおける実際を観察すると、上の(1)と(2)で手一杯であり、(3)の課題には意識が行き届いていない、という現状があるものとしますと、それはやはり特異なことであると言わざるを得ません。しかしこういったアマチュア演奏家の場合でも、(2)の「その作品をどう弾くか」という音楽的な課題にそれなりに熱心に取り組んでいる現状があることは救いでもあります。このため、アマチュア演奏家の演奏活動への取り組みは、音楽芸術の享受者である聴衆が置き去りにされている、といういびつな構造を内包しているものの、そのアプローチはかろうじて「音楽への取り組み」となりえているのです。

 ところが、ここに(2)の「その作品をどう弾くか」という課題への取り組みすらも省略する、あるいはできるだけ簡便に済ます方向へと向かい、「手っ取り早く楽器を弾けるようになる…」ということのみをもっぱら達成目標とする教育メソッドが現実にはあるのです。それが「スズキメソッド」です。私は実は「スズキメソッド」を詳しく知っているわけではありません。にもかかわらずスズキメソッド」についてなんらかのコメントを発するのは、僭越さを含むものかもしれません。だが逆に、スズキメソッドを運営する側(例えば「才能教育研究会」など)に、このメソッドがどういうメソッドなのかを外部に情報開示し、説明責任を果たす努力が不足しているように思えてならないのです。

 私はこの「スズキメソッドの問題点と課題」という論考を発表するに先立って、スズキメソッドのことを知るためにかなりの努力をしたつもりです。ところが「才能教育研究会」の公式ホームページや、わずかながら入手可能な出版物を通じても、その発信メッセージには、いわば「大本営発表」的な傾向が観察されます。つまり、自分の都合のいいところだけを体のいい言葉で表明し、都合の悪いところや問題含みのところは隠蔽するか、さもなくばうやむやに済ませているように観察されるのです。「才能教育研究会」としては、そのような意図は全くないのかもしれません。もしそうだとすると、これは「スズキメソッド」のどういう点について説明責任を果たすことが最も要請されているのかに関して、「才能教育研究会」と私との間に大きな認識ギャップが存在する、ということだと思います。この論考がそのような認識ギャップを多少なりとも埋めることに役立つことを祈るばかりです。

 さて、私はかなり前から、「スズキメソッド」に関する学術的な研究資料がないかどうか探しました。その結果、なんとか入手できたのが、ある書籍の中の言及、一つのウェブサイト、及び一つの「紀要」です(下記【参考資料】参照)。こういった「スズキメソッド」に関する情報収集をしていて気がついたことがあります。それは、ヴァイオリン教師の方々から、このメソッドについての客観性のある言論がほとんど全く存在しないということです。上記の【参考資料】として挙げている書籍とウェブサイトにおける言論は、どちらも少なくともヴァイオリン教師というよりは、ピアノ教師に近い人からの言論です。ヴァイオリン教師の業界は、それほど大きな業界を形成しているわけではないでしょうが、しかしスズキメソッドではない普通の教育メソッド(なにが普通の教育メソッドかは議論の余地がありますが、要するに音楽大学のヴァイオリン科を卒業した人が、生徒を音楽教室や自宅に通わせて行っているような通常の教育メソッド)で教育しているヴァイオリン教師の方々は相当数いらっしゃるはずです。ところが、そういった普通の教育メソッドでヴァイオリン教育をしている教師の方々から、スズキメソッドについての客観性のある言論が、ほとんど全く存在しないということは、わたしにとっては非常な驚きです。

 さて、これらの参考資料を通じて見えてくる「スズキメソッド」の本質は、私にとって、「耳からの学習を通じてヴァイオリンという楽器の演奏技術を手っ取り早く習得することをめざした楽器演奏トレーニングメソッド」とでも言うより他はないと考えられるものです。このことを典型的に示すスズキメソッドの教材の一部分が下記の信州大学教育学部紀要『スズキ・メソードの現在と課題』の中に紹介されています。

 この資料の中には、ヴァイオリン学習の比較的初期の段階にある生徒用にアレンジされた「ちょうちょ」というなじみのある曲の演奏譜の実例が掲載され、紹介されています。その楽譜は、イ長調で書かれ、最初の出だしの音はE線の開放弦となっています。そして下記に示すような「楽譜の表記」が音符の列に並行して併記されているのです。ただし「対応する歌詞」、「対応する音名」は、当ホームページをご覧の皆さんの理解のために私が付記したもので、主題の演奏譜には記されていません。

 対応する歌詞 (ちょうちょ、ちょうちょ、 菜の葉にとまれ)
 対応する音名 (ミ  ドドー レ シシー ラシ ド レミ ミ ミ)
 楽譜の表記  (E  2 2   3 1 1   A 1 2 3E E E)

 これを見てお分かりのように、スズキメソッドの一部の教材では、楽譜の音符の表記に並行するようにして運指のための指番号が記されており、スズキメソッドの学習者は、ドレミ唱法を通じての譜読みの訓練は省略し、(楽譜→運指→演奏)という動作経路にしたがって演奏技術のうちの運指のトレーニングをすることになるのです。すなわちここでは、「楽譜を読む」ということは、楽譜の中に順次登場する音符に対応した指番号を瞬時に読み取り、その指番号情報に従って運指する、といういわば簡略化され、矮小化された動作プロセスに置き換えられており、ヴァイオリンの指板上で運指することがすなわちヴァイオリン演奏の目指す「ゴール」であるかのように認識されているのです。

 上にご紹介した部分は、スズキメソッドに関してなされている様々な検討項目のうちのごく一部にすぎません。これ以外に、上記の信州大学教育学部紀要『スズキ・メソードの現在と課題』の中には、例えば模範演奏を繰り返し聴き、その模範演奏をそっくり真似る学習をつうじてヴァイオリンの演奏技術を習得する、というプロセスに対する批判的検討などもなされています。そこには、「演奏を聴く」ということの中には、演奏芸術を鑑賞する、という独自の目的があり、そっくり真似ることの対象として繰り返し聴くということには、演奏芸術を鑑賞する、という本来の目的をゆがめる要素は混入しないのか、という問題提起がなされています。同様な問題提起は、【参考資料】の書籍、『日本人の音楽教育』の中でも展開されています。

 こういった「スズキメソッド」に関する断片的ではあるが、その教育メソッドとしてのきわめて特異な性格をうかがわせるに十分である情報のいくつかに接するうちに、私は「スズキメソッド」が目指しているものの極端な単純性に疑問をいだかないではいられません。例えば上にご紹介した「ちょうちょ」というなじみのある曲の演奏譜の部分では、その教材の編纂者の側の意見、すなわち鈴木鎮一氏の意見として、「(読譜では、)指→頭脳→演奏の能力が優れていること、譜を見ればすぐ指がわかることが必要で、音名→頭脳→指→頭脳→演奏では遅い」という見解が紹介されているのです。たしかにこの「ヴァイオリンの指板上での運指方法を手っ取り早く習得すること」を目指すのであれば、この方法は「早い」かもしれません。だがなんのために早く習得する必要があるのでしょうか。

 ここで、私たちはあらためて音楽は芸術であり、音楽すること(すなわち学ぶこと、演奏すること、鑑賞すること等)とは、音楽という芸術を創造し、享受することである、ということを思い起こす必要があります。ヴァイオリンの指板上での運指方法を手っ取り早く習得することによって、一体どのような芸術が創造できるというのでしょう。もしできたとしてもそれは芸術としてきわめて貧弱なものにとどまってしまうのではないでしょうか。おそらくこの演奏技術の習得過程の簡便化と平易化を追求する思想の背景には、生徒の中に「落ちこぼれ」をつくらない、ということを過大に重要視するスズキメソッドの教育理念があるものと推察されます。すなわち、「譜面を読む」ということに含まれる様々な要素、たとえば、作曲者がどのような時代背景のもとでこの作品を作曲したかとか、作曲者がこの作品に託したイマジネーションはどのようなものであったか、といったことを読み取るなど、学習者の音楽的教養や精神の成熟等が要求される側面はできるだけ割愛し、「だれもが手っ取り早く譜読みというものを習得する」ということを目指したものと推察されるのです。

 上記の紀要『スズキ・メソードの現在と課題』では、これがまとめられるに先立って、現在才能教育研究会の会長である豊田耕兒氏を含む識者らによって「感性を育てる幼年期の音楽教育〜鈴木メソードから何を学ぶか〜」というテーマでシンポジウムが行われたことが報告されています。そしてこのシンポジウムの基調講演において、豊田耕兒氏は、「音楽教育には人間の感性と精神と知性とを育てる作用効果がある。そしてこの音楽教育が持つ優れた教育効果を十分に活用するためには、音楽を鑑賞するだけでは不十分で、学習者が自ら演奏を学ぶ必要がある。この演奏を学ぶプロセスで『落ちこぼれ』をつくらないことが人類愛にみちた態度であり、スズキメソッドはまさにそのようなメソッドである。」という趣旨の発言をしていることが報告されています。この豊田氏の発言からも、演奏を学ぶプロセスで『落ちこぼれ』をつくらないようにするために、演奏技術の習得過程はできるだけ簡便でわかり易いものにしなければならない、という方法上の理念があるらしいことが推察されるのです。

 だがその演奏技術の習得過程の簡便化と平易化という、表面的なメリットと引換えに、音楽(作品)を芸術として演奏し、その創造と享受のプロセスを普遍性のある豊かな喜びとみずみずしい感動が伴うものにする、という本来の目的が忘れ去られているのではないでしょうか。そして、「芸術」という本質的なエッセンスが失われた単なる身体運動としての「楽器演奏」には、もはや人間の感性と精神と知性とを育てる教育効果など期待すべくもないのではないでしょうか。

 さて、以上の考察から浮かび上がってくるスズキメソッドの課題を4点ほど指摘してみたい。まず第1点。これまでの考察は、もっぱらスズキメソッドでヴァイオリンの演奏技術を学ぶ生徒が、このメソッドで本当に所望の効果を上げられるのか、という観点に立った考察ですが、スズキメソッドの教育組織、すなわち「才能教育研究会」では、内部で教師も養成しているのです。つまり、才能教育の教育プロセスを通じてヴァイオリンの演奏技術を習得し、所定の課程を修了した人が、今度は教師となって、スズキメソッドにしたがって生徒を教えるのです。すると、ここに、スズキメソッドの所定の課程を修了して教師としてふるまっている人は、音楽教育にたずさわる人としての基礎的な資質を十分有しているといえるのかという問題があるのです。

 ロナルド・カヴァイエ、西山志風著『日本人の音楽教育』の中では、「一般に、いかなるメソッドでも、それを正しくもちいて教えるということはそれほど容易なことではない、もし、あるメソッドが、いちじるしく柔軟性を欠いた教師によって、盲目的にもちいられたならば、そのメソッドは生徒にとって有害なものになりうる。」ということが指摘されています。いや、上記の著作でも、豊かなイマジネーションと個々の生徒の特性にたいする対応力の柔軟性とを兼ね備えた教師がこの「スズキメソッド」をもちいて教育した場合は、それなりの効果が期待できる、ということが書かれています。これらのことは、「スズキメソッド」というものが教育メソッドとして生きるも死ぬも、教師の資質いかんに大きく依存している、ということを示していると言えるでしょう。であるならば、才能教育研究会としては、実際に生徒にレッスンを授ける場面で、スズキメソッドが「生きる」ようなレッスンができる資質を十分もった教師が育成されるような仕組みを担保することが、教育機関としての責任になるのではないでしょうか。

 第2点。上記のロナルド・カヴァイエ、西山志風著『日本人の音楽教育』の中では、「スズキメソッドは基本的には子供や年齢の低い人のためのメソッドである」ということが主張されています。このことは、「才能教育研究会」の公式ホームページの中で紹介されている「座談会」の出席者のひとりも同様な発言をしているので、まず間違いないと考えられます。すると、このことは、「スズキメソッド」は、生徒の年齢が高くなるにつれて、しだいに有効性が失われていく、ということを意味しています。もっと詳しくいうと、生徒がヴァイオリン教育を継続していくうちに、その生徒の学びのステージは次第に高いステージへと移行し、スズキメソッドは高い学びのステージにある生徒には次第に対応できなくなる、ということを意味しているわけです。

 このことは実証的にも十分推察できることです。たとえば「才能教育研究会」の公式ホームページによると、才能教育研究会の会長である豊田耕兒氏は、ライン室内楽団第一コンサートマスター、グリュミオー弦楽四重奏団メンバー、ベルリン放送交響楽団の第一コンサートマスターを17年間勤め、ベルギー、ヴァロニー夏期国際アカデミーのヴァイオリン講師、草津夏期国際アカデミーの音楽監督、及び群馬交響楽団音楽監督を歴任し、また21年間に亘りベルリン国立芸術大学ヴァイオリン科教授を勤めた、とあります。こういった素晴らしいキャリアからも、豊田氏は申し分のない立派な音楽家であるということが認められます。そして豊田氏のような立派な音楽家が、スズキメソッドのような単純な教育メソッドだけで育成できるはずがない、ということは常識から考えて明らかです。

 すると、まずスズキメソッドでは、生徒の学びの発展段階のうち、どのステージまでなら請け負えるのかを明らかにすることです。目標は豊田氏まではいかなくとも、少なくとも「ヴァイオリン音楽を音楽として演奏できるヴァイオリン奏者」といえるレベル(アマチュアでもかまわないものとします)まで到達するには、学びのステージの発展過程のどこかで「スズキメソッド」にいわば「見切り」をつけ、スズキメソッドがもっている限界を補完し、肩代わりしうる教育メソッドに移行しなければならない、と考えられます。では、どの段階で移行するのがもっとも妥当なのか、教育学的見地から明らかにする必要があると考えられます。

 第3点。上記のように、生徒の学びのステージの発展過程のどこかで、スズキメソッドから通常の教育メソッドに移行しなければならないものとしますと、ここにスズキメソッドの相対的有効性をきちんと検証する必要もあります。例えばここに、幼少期の数年だけはスズキメソッドで教育を受け、その年数でスズキメソッドには見切りをつけ、その後はスズキメソッドがもっている限界を補完し、肩代わりしうる教育メソッドで教育を受けるプロセスを、仮に「メソッドA」とします。これに対して、最初からスズキメソッドではないこれまで伝統的に行われてきた普通のメソッドで教育を受け、スズキメソッドによる教育過程は含まないプロセスを「メソッドB」とします。両者の通算教育年数その他の条件は、同一であるものとします。さて、スズキメソッドを生徒の幼少期に取り入れた「メソッドA」は、スズキメソッドの教育過程を含まない「メソッドB」に対してなんらかのアドバンテージがあるのでしょうか。上のロナルド・カヴァイエ、西山志風著『日本人の音楽教育』の中の主張に関連して、「スズキメソッド」というものが教育メソッドとして生きるも死ぬも、教師の資質いかんに大きく依存している、という見解を紹介しました。もし、この見解が妥当なものであり、しかも、スズキメソッドを生徒の幼少期に取り入れた「メソッドA」が、スズキメソッドの教育過程を含まない「メソッドB」に対してなんらアドバンテージを持たないものとしますと、ヴァイオリン教育は、要するに良い教師が良い教育をしさえすればそれでいいのであって、スズキメソッドの存在意義は無いも同然、ということになるのではないでしょうか。

 最後に第4点。もしスズキメソッドが、スズキメソッドではない普通の教育メソッドとの相対比較において、なんら特別な有効性やアドバンテージをもたないものとしますと、では逆にスズキメソッドではない普通の教育メソッドは、どのような本質を具有しなければならないのか、ということが明らかにされる必要がある。すなわち、この場合、「ヴァイオリン教育は、要するに良い教師が良い教育をしさえすればそれでいい」ということになるわけだが、ではその「良いヴァイオリン教育」とは、どのような本質を具有しなければならないのか、ということが明らかにされる必要があるわけです。当ホームページの「エッセイコーナー(人生編)」において、ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリスのレッスン風景をポートレートしたテレビ番組のことをご紹介しました。一つはNHK教育テレビで放映された『スーパーレッスン』、もう一つはBSハイビジョンで放映された『ベルガイシュからの風』です。このどちらにも、ピリス自身が生徒の前で模範演奏をしてみせる場面が含まれています。

 このピリスが模範演奏を示すという行動は、当然のことながら「私の演奏をそっくりまねてごらんなさい」というメッセージではないと考えられます。もしそのようなメッセージであるなら、ピリスは自分のレッスンに「スズキメソッド」を部分的に織り込んでいるということになります。では、ピリスが模範演奏を示すという行動から「私の演奏をそっくりまねてごらんなさい」というメッセージを読み取らないのであれば、逆に生徒はここからどのようなメッセージを読み取るべきなのでしょうか。やはりそれは、「私の弾き方から自分がイメージしている音を出すための手がかりを得なさい」といったメッセージを読み取るべきでしょう。であるものとしますと、スズキメソッドではない普通の教育メソッドには、教師は生徒にヒントを与えるにとどめ、あとは生徒自身が考えていくように仕向ける、という本質があるのでなければならない。言い換えれば、教師には、「生徒にヒントを与えることができる」、「生徒自身が考えていくように仕向けることができる」といった資質があるのでなければならない、ということがわかります。

 ヴァイオリンを習う生徒さんのほとんどは、幼少から学ぶ人にせよそうでないにせよ、ヴァイオリンの演奏家としてのプロを目指さない人なのです。そしてこのようなヴァイオリンの演奏家としてのプロを目指さない人たちこそ、レッスンから離れた生活を送るようになっても、ヴァイオリンを、あるいは音楽を、生涯の友としていけるようにすることが、本来の教育目的にかなうはずです。「スズキメソッド」はそのような本来の教育目的に、いったいどれだけ貢献しているのか、そしてヴァイオリンを学ぶ生徒やその父兄は、そのような教育目的のためにどのような選択や行動をしていくべきなのか、良心的に示していくことがヴァイオリン教師や音楽教育にたずさわる人たちの努めのひとつであるはずです。

【参考資料】
 本論考をまとめるにあたって、下記の資料を参考にさせていただきました。ここに記して感謝申し上げます。
1.書籍
  ロナルド・カヴァイエ、西山志風著『日本人の音楽教育』(新潮選書、91ページ〜109ページ)
  「スズキメソッド」に対する分析的な批判の主要部分は、こちらで抜粋してご紹介しています。
2.ウェブサイト
  http://www.suzukimethod.or.jp/
(「才能教育研究会」の公式ホームページです。)
  http://www.avis.ne.jp/~natsume/study/talent_education/talent_edu_top.htm
(ピアノレスナー夏目芳徳氏のホームページのうち、「才能教育」について同氏がご自身の研究をまとめたページです。どちらもリンクはしていませんので、ブラウザのアドレス欄にコピーペーストして移動してください。)
3.紀要
  信州大学教育学部紀要 第107号別刷 『スズキ・メソードの現在と課題』(2002年12月)