
このページでは、音楽や演奏活動に直結したトピックに関して私の考えていることを記述してみます。
目次
1. 感動させる演奏のイメージを
2. 生演奏か録音か
3. 間(ま)の中にも音楽がある
4. ピアノとヴァイオリンはどちらが難しいか(その1)
5. ピアノとヴァイオリンはどちらが難しいか(その2)
6. 音程について
7. うまくなるとはどういうことか
8. ピアノ共演者をどう選ぶか
9. 演奏家のプロとアマについて(その1)
10. 演奏家のプロとアマについて(その2)
11. 「プロ予備軍」の有効期限
12. ジョイントコンサート集団の「馴れ合い」について
13. 一元的価値観と多元的価値観
14. アマチュア演奏家のマニア化について
15. 伝道者としての演奏家
16. 演奏活動における「まじめ」と「熱心」
17. 中村紘子さんの音楽教育批評
18. 暗譜に関する考察
1. 感動させる演奏のイメージを
プロの演奏家の方はもちろんのこと、アマチュアの演奏家の方でも、公開演奏のステージで演奏することはあると思います。この場合は、言うまでもなく私たちの演奏を聴いてくれているお客さんがいるわけです。ではこの場合、演奏家は何が目的で演奏するのでしょうか。この問題の答えは、重点の置き方や表現の好み等は人により様々であってよいと思いますが、「自分の演奏を通じて作品の感動をお客様に伝えたい」ということではないかと思います。
ではどうすればお客さんに感動を伝えられるのでしょうか。もしある演奏家がある作品を演奏してお客様に感動が伝わったとして、その感動伝達のメカニズムはどうなっているのでしょう。もしお客さんが感動したとすると、お客さんは何に感動したのでしょう。
ここで私は次のことが大切であると考えます。それは、演奏家が作品を演奏するとき、その作品ごとにどういう演奏が感動的な演奏なのか、いいかえれば、この作品はどういう演奏が感動的な演奏になるのかのイメージをしっかりいだくということです。そしてそのイメージ通りの演奏ができるように最大限の努力をすべきです。そしてこのようにイメージ通りの演奏ができるように最大限の努力をしているときでも(つまり演奏の最中でも)、自分が今どういう演奏をしているのか、どういう音を出しているのか、イメージ通りの演奏ができているのかということを冷静に聴く耳を失ってはならないと思います。
このように演奏の最中でも、自分が今どういう演奏をしているのか、どういう音を出しているのか、イメージ通りの演奏ができているのかということを冷静に聴く耳をもち、これをさらに演奏に反映していくことを広く「フィードバック」といいます。中山治という心理学者は、その著書『無節操な日本人』(ちくま新書)の中で、日本人には心のフィードバック機能が欠如している、という意味のことを言っています。私はその通りであると思います。しかしここに明るい光明がみえてきました。もしプロ・アマを問わず演奏家というものが、自分が今どういう演奏をしているのか、どういう音を出しているのか、イメージ通りの演奏ができているのかということを冷静に聴く耳を持ち、これをさらに演奏に反映していくことができるものとしますと、日本に演奏家が増えることによって、心のフィードバック機能をもった人が増えるのではないでしょうか。そしてそういった人たちが、日本を良い方向へと変えていく原動力になるのではないかと期待したいのですが、いかがでしょうか。
2. 生演奏か録音か
このテーマはもちろん「音楽を鑑賞するのなら、コンサートホール等での生演奏で鑑賞するほうが感動を味わえるのか、それとも例えばCDのような録音媒体を再生してその再生音を通じて鑑賞するほうが感動を味わえるのか、どちらなのか」という問題です。上の「感動させる演奏のイメージを」のトピックは、演奏する側が鑑賞する側にどのように感動を伝えるか、というお話でしたが、今度は鑑賞者の立場からの感動の享受方法のお話です。
私は、すこし前までは、「音楽を鑑賞するなら生演奏に限る」と考えていました。いまでも生演奏を愛好する嗜好性はもっています。ところが、「演奏を通じて作品の感動を伝える」ということがどういうことなのかを考察していくうちに、「音楽を鑑賞するなら生演奏に限る」という考え方は必ずしも常に妥当するとは限らないと考えるようになりました。なぜそのように考えるようになったのでしょう。
それは、コンサートホール等での生演奏をつうじて鑑賞するにせよ、CDのような録音媒体の再生音を通じて鑑賞するにせよ、その音源の元には生身の演奏者の演奏があるわけです。そして、もしそれらの演奏が感動的な演奏であるなら、生演奏にせよ、録音の演奏にせよ、その音源の演奏をした演奏家の心には「感動的な演奏とはどういうものか」に関するイメージがしっかり存在し、それが相当程度以上の精度で具体化されたからであると考えられるのです。
逆に言えば、その音源の演奏をした演奏家の心に「感動的な演奏とはどういうものか」に関するイメージがしっかり存在し、それが相当程度以上の精度で具体化されない限り、生演奏であろうと録音媒体の再生音の演奏であろうと感動は伝わってこないのです。ということは、この「生演奏か録音か」というテーマは、じつはそれほど本質的な問いなのではなく、要はその演奏ごとに良い演奏なのかどうか、感動的な演奏なのかどうか、ということが重要なのであろうと思います。
3. 間(ま)の中にも音楽がある
もうかなり前のことになりますが、NHK総合テレビ『ためしてガッテン』で、赤ちゃんの能力をテーマにした番組を放映していました。その番組では、赤ちゃんの言葉を聴く能力がどれくらいあるかに関する実験があり、非常に興味深いものでした。
その実験というのはこうです。まず24人の生後4ヶ月から10ヶ月程度の赤ちゃんに集まってもらいます。そして音を完全に通過させるブラインドカーテンの向こう側にステージを用意し、ここで(1)お坊さんのお経、(2)落語家の落語、(3)狂言師の狂言、(4)ラッパーのラップミュージック(歌詞だけでメロディのない歌)の各演目をそれぞれ演じてもらいます。赤ちゃんはブラインドカーテンのこちら側でこれらの音声だけを聴いて、赤ちゃんがどれだけ興味をもって聞くかを各演目ごとに観察するのです。さて、赤ちゃんがもっとも興味をもって聞いた演目は一体どれでしょう。
答えは(3)の狂言師の狂言だったのです。赤ちゃんがどれだけ興味をもって聴いているかは、それぞれの付き添いのお母さんが五字分の赤ちゃんの反応を観察して、「この子は興味をもって聴いている」と判断したら○の札を掲げて回答してもらうという方式です。(3)の狂言師の演目のときは、全員の赤ちゃんが真剣に耳を傾けたと観察されたのでした。
なぜ(3)の狂言師の演目に赤ちゃんが真剣な反応を示したか、その分析はこうです。狂言師の演目には大きな特徴があります。(1)適切なテンポ(ゆっくり目)、(2)適度な間合い(のべつ幕なくしゃべらない)、(3)解りやすいイントネーションです。これらの特徴により、赤ちゃんは狂言師のモノローグを耳に心地よいとかんじたのではないかと考えられるのです。このことは、日常会話においても、スピーチにおいても、また音楽演奏にも役立てることのできる教訓が含まれていそうです。
さらに敷衍して、常日頃の日常会話が魅力的なマナーでできる人こそ演奏家としても魅力的でありうると考えられます。つまり、常日頃の会話が魅力的なマナーで出来る人というのは、会話の(1)適切なテンポとは何か、(2)適度な間合いとは何か、(3)美しいイントネーションとは何かを知っている人だからです。このような人こそ音楽演奏においても美しいメッセージが発信できるのではないでしょうか。
4. ピアノとヴァイオリンはどちらが難しいか(その1)
私はヴァイオリンは演奏しますが、ピアノは弾けないも同然です。ところが、ピアノ音楽を聴くのは大好きなのです。また私の演奏活動は、ヴァイオリンソナタやヴァイオリン小品が主になる演目で行いますので、ピアノ奏者は欠かせないパートナーになります。そこで、ピアノに対する理解を深めるため、わずか1年だけですがピアノを習ったこともあります。そこで、ピアノとヴァイオリンとはどちらが難しいか、という問題を考えて見ます。
結論からいうと、ピアノという楽器の演奏と、ヴァイオリンという楽器の演奏とは、難しさの質が異なるため、厳密には比較できない、ということになると思います。しかしながら、そこをあえて比較することにより、ピアノはピアノの、ヴァイオリンはヴァイオリンのどんな難しさがあるのかが分かってくると思われます。私の考えでは、まず楽器のハンドリング(扱い、制御)の難しさと作品の難しさとは別であろうかと思います。そしてヴァイオリン演奏に難しさがあるとしたら、それは主として楽器のハンドリングの難しさに起因すると思われます。
例えばこのことは、例えば「ヴァイオリンは初めが難しい、ピアノは猫が鍵盤の上に乗ってもピアノの音がするが、ヴァイオリンを最初からヴァイオリンらしく鳴らすのは至難だ」という物言いに表れています。実際、ボーイング(運弓)や左手に置ける音程とりやビブラートなど、基本的な技術の難しさは、やった人でなければわからないと思います。
一方ヴァイオリンは作品がそれほど多くはないですね。逆にピアノの場合ですと、例えば「一生をかけてショパンの全作品を学ぶか、それともショパン以外の全作品を学ぶかのどちらかだ」というような物言いを聞いたことがあります。これはショパンがいかに多くの作品を残したかを強調する物言いであるとも受け取れますが、ひとりのピアニストが一生かけても学びきれないほどピアノ作品は数が多い、という意味も含まれていると思われます。
さらに、「ピアノは猫が鍵盤の上に乗ってもピアノの音がする」という物言いからは、ピアノという楽器が比較的シンプルな演奏動作を通じて高度な演奏効果を上げることが可能なように機構設計されている、ということを読み取れます。このため、このピアノの高度な演奏効果を上げうる機構設計がなされていることのメリットを作曲家がどんどん探求してしまうのです。つまりあまたの才能ある作曲家が、高度にソフィスティケイトされた作品をどんどん作曲してしまうのです。このため、ピアノの難しさはその作品の豊穣さをふくめ、主として作品に起因すると言えるのではないでしょうか。
5. ピアノとヴァイオリンはどちらが難しいか(その2)
「ピアノとヴァイオリンはどちらが難しいか(その1)」では、楽器のハンドリングの難しさと、作品の豊穣さに起因する難しさとを比較するという観点からアプローチしてみました。そこで次は、演奏者が楽器をどれだけコントロール可能かという観点から比較してみたいと思います。ご存知のように、ピアノは奏者が鍵盤をたたくと、その動作がハンマーに伝達され、ハンマーが弦をたたくことによって発音します。したがって極端な言い方をすると、奏者が鍵盤をたたき終えた瞬間から発音動作はピアノの発音メカニズムにゆだねられます。このあと奏者が発音していく音に対してどれだけ制御が可能かというと、その制御手段は限られたものになります。すなわち、音とそれに続く音とのつながり具合を鍵盤から指を離すタイミング等を通じて工夫するとか、ペダルの踏み方を工夫するなど制御手段はもはや限られていると言えましょう。重音のパッセージであれば、タッチのバランスを工夫することで音色のニュアンスがいろいろ作れるようです。もっともこれは厳密には、鍵盤へのタッチの瞬間における制御であり、奏者が鍵盤をたたき終えた瞬間以降の制御とはいえない側面をもっています。
一方、ヴァイオリンの場合ですと、発音動作は奏者が弓を弦の上で運弓し続けることによって可能となり、またそれによって維持されています。したがって運弓動作そのものによって発音される音が常に演奏者の制御下にあるのです。ヴァイオリンの場合は、トーンプロダクションの3要素ということが言われます。これは主としてボーイングの仕方に関するものですが、運弓速度、運弓の圧力、サウンディングポイントの3要素を指します。サウンディングポイントというのは、弓が弦のどのあたりに接触しているかということです。駒に近いところに弓の弦に対する接触点を求めると、力強いはっきりした荒々しい音になりやすいです。また指板に近いところに接触点を求めると、やわらかい音になりやすいです。これらのことに加えて左手のビブラートをどうつけるか、どう変化させるかという点からも音を制御可能です。また、左手の指で弦を押さえるとき、指先を立て気味にするか、寝かせ気味にするかでも音色が異なってくるので、この点でも制御可能です。さらにどのようなイントネーションで旋律を歌うかという要素もあります。
こういった比較を通じて、ではピアノとヴァイオリンとはどちらが難しいかの結論をどう出すかは様々な選択肢がありそうです。まずピアノの場合は、奏者が鍵盤をたたき終えた瞬間から発音動作はピアノの発音メカニズムにゆだねられ、発音された音に対する制御手段はタイミング的に限られているわけです。このように制御可能性が限定されているのだから、発音される音の音色等に様々な響きのニュアンスを与えることは不可能だ、だからそのような努力はしなくともよいのだ、という結論の導き方はいかにも味気ないように思います。やはりある意味で制御可能性が限定されているからこそ、その限定条件の中で最大限に音色等をコントロールするにはどうすればよいかを探求し、またそこにピアノ演奏の難しさを見出す、というのは積極的な姿勢でよろしいのではないでしょうか。
一方、ヴァイオリンの場合ですと、運弓動作そのものによって発音される音が常に演奏者の制御下にあるわけです。しかもその制御の要素も、トーンプロダクションの3要素、ビブラート、イントネーション等、多岐にわたります。ヴァイオリン奏者としては、ヴァイオリンという楽器には、そこから発音される音に対してこれだけ多彩な制御要素に恵まれているのだから、これをいかに良い演奏に結び付けていくかにヴァイオリン演奏の難しさを見出すのは積極的な姿勢でよろしいのではないでしょうか。
6. 音程について
さて、このへんでヴァイオリン族弦楽器奏者にとってもっとも悩ましい問題にひとつである、音程の問題を考えてみたいと思います。日本語で一言「音程」といっても実は3つほど意味があるのです。それは英語で言うと(1)インタバル、(2)ピッチ、(3)イントネーションの3つです。まずインタバルというのは2つの音の隔たりのことです。例えばドとレとは長2度の音程だ、というような場合の音程という言葉は、インタバルとしての意味に使われています。ピッチというのは、絶対的な音の高さです。例えば「このピアノはAの音が442Hzに調律されている」とかという場合の音の高さを意味する言葉として「音程」という言葉が使われます。イントネーションというのは、ヴァイオリン族弦楽器や声楽などの分野で使われますが、ひとまとまりの旋律を音程と言う観点からどのように歌うか、という意味における音程です。
一方「音程」という言葉とよく似ている言葉として「音律」という言葉があります。代表的なものとして(1)平均律、(2)ピュタゴラス律、(3)純正律があります。平均律は、1オクターブを等間隔に12半音に分割し、どの調性にも対応できるようにした音律で、ピアノの調律方法は基本的に平均律です。平均律が1オクターブを基調として構成されているのに対し、ピュタゴラス律は、完全5度を基調として平均律と同じ意味の等間隔に構成されています。完全5度は平均律における1オクターブの5/12よりも2%ほど広いので、ピュタゴラス律における各半音や1オクターブは、平均律の各半音や1オクターブより2%広くなっています。純正律はピュタゴラス音律の難点である長3度和音の不協和性を除去するという目的に出発点があるとされています。それだけにこの音律は和音がきれいに響きます。
さて、ヴァイオリンのような歌う楽器の場合、ピュタゴラス音律が良いといわれています。特にヴァイオリン、ヴィオラ、チェロは張ってある4本の弦の調弦が完全5度なので、ピュタゴラス音律が非常になじむであろうことは容易に想像できます。ではヴァイオリンのような歌う楽器の場合、音程のとり方はピュタゴラス音律万能でよいのでしょうか。そこには問題点はないのでしょうか。
ここで、ヴァイオリニストがピアノ伴奏に乗って例えば旋律性の豊かなメロディアスな作品を演奏する場合を考えてみましょう。この場合、ヴァイオリニストは旋律を美しいイントネーションで歌うことと、共演のピアノと音をハモらせることとの両方の要請を満たしながら弾きたいという希望があります。ところがピュタゴラス音律を基調としたイントネーションでメロディを歌っていった場合、ピュタゴラス音律は平均律よりも2%広いということに起因して、メロディが高い音域になるほどピアノからの音の乖離が大きくなることがわかります。これは、ピアノの音とのハモリという観点からはジレンマであるといえます。さらに基準音の「A」の音から下の音域では、ヴァイオリンの音がピアノの音よりも2%下(つまり低い)音になってしまいます。これはピアノ伴奏に乗ってヴァイオリンの音を美しく歌う、という観点からはあまり望ましくありません(ちなみに通常G線を高めに調弦するねらいはここにあります)。このように考えるとヴァイオリンのような歌う楽器の場合、ピュタゴラス音律万能で音程をとればよいというものではないらしいということがわかります。
私は、美しい音程(ここでは主としてイントネーションの意味です)というのは、結局その人の感性の問題だと考えています。良い音程を身につけるにはどうしたらよいか、クロマチックチューナーを使ってピュタゴラス音律どうりの高さの音が出ているかどうかを確認しながら練習するのがよいのでしょうか。むしろ音程というのは、例えば文章を書く場合における書法のようなものと考えたほうがよろしいのではないでしょうか。どの音域ではどのような問題があるのかについてひととおり理解を持った上で、自分の音程の書法を探求するのが結局はよろしいのではないかと考えています。
7. うまくなるとはどういうことか
私自身はヴァイオリン奏者ですが、ソロや少人数アンサンブルを演奏しうる器楽演奏者の方々演奏活動に興味を抱き続けてきました。彼らがどのようにソロや少人数アンサンブルの演奏者としての自分と向き合っているか、またそのことを通じて上達すること、あるいは演奏者として成長することをどのようにとらえているかということを観察し、そのことから自分自身の成長のヒントを得ようと心がけてきました。そのようなアプローチの結果として、私は一つの傾向を発見しました。それは、特に比較的上級クラスの器楽奏者の方々にとって、「うまくなる」ということのイメージにやや偏りがあるようにかんじられたのです。
私の上級アマチュアの方々に対する観察では、「うまくなる」ということの意味するところは、もっぱらレパートリーを増やす、ということに力点が置かれ過ぎているような気がします。つまり次々といろいろな曲が弾けるようになる、そこに自己の成長の軌跡を描こうとしているかのようです。そしてそこには、「自分はこんなにもレパートリーがあるんだ」、ということを自慢したい心理もほの見えます。
もちろんレパートリーを蓄積し拡大することは素晴らしいことであり、その価値は否定できません。例えばピアノ奏者であれば、ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を勉強することによって、単にレパートリーを増やすだけではなく、ベートーヴェンのピアノ音楽の全貌が把握できるといった貴重な副産物を入手することが可能になります。だが、このレパートリーを増やす、ということに力点が置かれ過ぎた「うまくなる観」すなわち「成長観」は、大切なものが欠落していないでしょうか。
音楽の演奏は本来聴き手の存在を想定したものだったはずです。どういうものが演奏家としての成長なのかを考えるとき、この原点を忘れてはならないと思います。従って、演奏家としての成長も、「自分はその作品に関してどのように理解を深め、イマジネーションをふくらませることができるようになったのか、その深めた作品に対する理解やふくらませたイマジネーションをどれだけ演奏に託すことができ、聴衆に伝えることができるようになったのか」、ということが忘れられてはならないと思います。この意味で、自分がうまくなったかどうかの確認は、新しい曲に挑戦するよりも、むしろ昔弾いたことのある曲をもう一度別の機会で弾いてみたときに確認しやすいといえましょう。
8. ピアノ共演者をどう選ぶか
ヴァイオリンでソロや少人数アンサンブルの演奏活動をする場合、ピアノ共演者はほぼ必須になります。ピアノ共演者が不要になる場合は、弦楽四重奏など弦楽器のみで編成する場合だけです。しかも、その演奏活動が成功裏に進行するかそうはならずに終わるかにかんしてピアノ共演者のウエイトの大きさは無視できないものがあります。従って、ヴァイオリンでソロや少人数アンサンブルの演奏活動をしている人にとってピアノ共演者をどう選ぶかはとても重要であるといえましょう。
ピアノ共演者を選ぶにあたって、まず注意したい点は、アンサンブル能力のある人を選ぶことです。ではアンサンブル能力とは何かですが、まずテンポの設定の仕方及び変化の付け方、音量の調節のしかた、音色の使い分け方、などの面で様々な弾き方を心得ていることであるといえましょう。そしてその様々な弾き方にラインナップの中から、状況に応じてもっとも適切なものを引き出して演奏にとりいれていくことの出来る人が優れたアンサンブル能力のあるピアニストであるといえます。
アンサンブル能力のもっとも重要な点は、私の経験ではテンポ感がしっかりあることです。ここでいうテンポ感というのは、合奏練習のときに「このテンポで弾きましょう」と打ち合わせたときの「このテンポ」を本番のステージできちんと再生できることです。その他のテンポの変化の付け方、音量の調節のしかた、音色の使い分け方、などの面は、まずその人がこれまでどれだけアンサンブルの経験があるかを、伴奏や共演を依頼するときに尋ねておくことが有効です。音大のピアノ科などを卒業したばかりの人などは、あくまで一般論ではありますが、あまり高い成果は期待できないと思います。というのは、音大の学部の専門教育では、伴奏やアンサンブルの経験はそれほど豊富には積めないようだからです。しかしこういった人でも、経験を積むにしたがって上手になっていく余地はありますから、むしろながい目でみてやって、その人を育てていく、ぐらいの心構えでいくこともひとつの行き方です。
伴奏の経験でも、声楽の伴奏とヴァイオリンのような器楽の伴奏とでは、伴奏の仕方がかなり異なっています。従って、声楽の伴奏の経験があるからといって、ヴァイオリンのような器楽の伴奏が上手にできるかどうかは必ずしも保障できません。では少し踏み込んで、声楽の伴奏とヴァイオリンのような器楽の伴奏とでは伴奏の仕方がどう異なるかを見ていきます。私の考えでは、まず声楽の伴奏とヴァイオリンのような器楽の伴奏とで最も異なる点は、ピアノ伴奏者のイニシアチブのとりかたです。声楽の伴奏の場合、声楽家のブレスを積極的に主導するような弾き方が望まれるのではないでしょうか。ピアノ伴奏者が声楽のブレスをよく理解し、そのようなイニシアチブを積極的にとる弾き方をしてくれると、声楽家のほうは、そのイニシアチブに乗って気持ちよく歌を進行させていくことができることでしょう。
ヴァイオリンのような弦器楽の伴奏の場合ですと(管楽器ではまたニュアンスは異なりますが)、ブレスの重みが声楽のようにはありません。むしろ同じ器楽同士の合奏という土台の上に立って、影になり日向になりという音量や音色の使い分けがたくみにできることが望まれます。また、テンポ設定の主導権はヴァイオリン奏者に渡す必要があります。なぜかというと、ヴァイオリンの場合、テンポとボーイングの運弓速度とは密接な関係があり、ボーイングの運弓速度と音質とも密接な関係があるからです。従って、そのヴァイオリン奏者がどういうテンポで弾きたがっているか、ということは、そのヴァイオリン奏者がどういう音質で弾きたがっているか、ということでもあるのです。従って、もしピアノ伴奏者がヴァイオリン奏者の「その弾きたい音質」というものを尊重するのであれば、ヴァイオリン奏者にテンポ設定の主導権を渡すべきです。
さらに演奏する作品がどういうカテゴリーに属する作品であるかによって演奏の仕方を変える必要があります。ヴァイオリンソナタとヴァイオリン小品とでは伴奏の仕方は異なります。ヴァイオリンソナタの場合は、基本的に2重奏です。最初から最後まで、いかにも伴奏的な、つまり脇役的な弾き方では結果的につまらない演奏になります。ヴァイオリンソナタの場合、影になり日向になりという音量や音色の使い分けがたくみにできることが最も望まれるカテゴリーであるといえましょう。であるならば、ピアノ奏者としては、どこが影なのかどこが日向なのかといった作品の分析力も必要になりそうです。
一方、小品の場合は、むしろある意味声楽の伴奏に似てくる面があります。これはヴァイオリンの「歌」を支える雰囲気のある音のバックグラウンドを作るセンスが求められるといえます。さきごろ私はベートーヴェンの『ロマンス ヘ長調』という作品をステージで演奏しました。この作品は原曲は管弦楽とヴァイオリンソロです。その管弦楽のパートを1台のピアノで代替するわけです。ピアノのパート譜を見ると、そのフレーズの音が原曲ではオーケストラのどの楽器(例えばフルートやオーボエなど)で奏でられているかが記されています。ピアニストとしてはそれらの音のイメージで弾くことが求められましょう。またこれは、ピアニストの側ではなく、ヴァイオリン奏者の側に求められることですが、『ロマンス ヘ長調』のような作品を演奏する場合、コンチェルトのソリストのような英雄的な弾きかたをする必要があります。ヴァイオリンソナタのときのようにピアノパートを注意深く聴きすぎてはかえってまずいと思います。
さて、最後にピアノ伴奏者は男性が望ましいか、女性が望ましいか、ということに触れてみます。私は男性ですが、私からみるとピアノ伴奏者はどちらかというと男性のほうがいいようです。男性ピアノ奏者にも良くない人はいましたが、男性ピアニストのほうが、そのときのそのピアノの音をちょっと聴いただけで「今日はこのピアニストはどういうノリで弾きたがっているか」ということがすぐにわかるような気がします。つまり同じ男性同士ということで、以心伝心で伝わりやすいものがあるような気がします。しかし女性ピアニストでもアンサンブルや伴奏のことをしっかり勉強している人である場合は大変弾きやすい。私はそのことを最近実体験しました。やはり結論としては、まず重要なのは本人しだい。つまりその人がどういうアンサンブルピアニストであるかということです。その上で緩やかな相関性を見出すのなら、どちらかというと同性のピアニストということです。
9. 演奏家のプロとアマについて(その1)
世の中には様々な職業があります。その様々な職業のうち、かなりのものには特有の知識、技能、技術、スキルが必要とされています。そしてそれらを有してその分野の職業人として活動している人は、みなその分野でプロフェッショナルであるといえるでしょう。演奏家もそのような職業の一つです。プロフェッショナルな演奏家として活動するにはそれ特有の知識、技能、技術、スキルが必要です。したがって、それ特有の知識、技能、技術、スキルをもって演奏活動している人はみなプロ演奏家であるかのように見えます。ところが演奏家という活動分野ほどそれをかならずしも職業とはしない、つまりプロフェッショナルではない人が活発に活動している分野はないのではないでしょうか。このことは、他の活動分野、例えば板前さんのことを考察してみるとわかります。つまり、プロの板前さんに対してアマの板前さんが相当数いるだろうか、ということを比較対象として考えて見ますと、アマの板前さんなんてあまり聞かないですね。こうしてみると、演奏家という活動分野がいかにそれをかならずしも職業とはしない人が活発に活動している分野であるかがわかります。このような事情から、演奏家のプロとアマはどんなふうに区別が付けられるのだろう、という疑問がわいてくるわけです。
この問題を考えて見ると、まず演奏技術のうまい下手では区別をつけることは難しい、ということがわかります。ヴァイオリンの場合はまだプロとアマの技術レベルにわりあいはっきりした違いがありますが、ピアノの場合ですと、最近は上手な人が本当に増えてきて、プロ顔負けのアマチュアが相当数いるようです。管楽器も事情はどちらかというとヴァイオリンよりはピアノに近いのではないでしょうか。このように、演奏技術の高いアマチュアは相当数いる。このため、ある技術レベル以上ならプロ、その技術レベル以下ならアマ、というような線引きはちょっと難しそうです。
演奏家のプロとアマとの区別をつけることを試みる上でもうひとつやっかいな問題があります。それはいわゆるレスナーといわれる人たち、すなわち演奏技術を人に教えることを職業としている人たちが相当数いるわけです。そしてレスナーといわれる人たちも、生徒を教える仕事をしながら一方で演奏活動をしている場合が多々あります。しかもこのレスナーといわれる人たちが教えている生徒さんのレベルも、そのレスナーの先生に応じて実に様々なようです。すると、レスナーといわれる人たちの演奏活動のプロとアマの区分けを考える場合、その人が生徒に演奏のしかたを教えているといういわばレスナーとしての職業専門性をどう考慮にいれていけばいいのか、という問題もあります。
結局私の考えでは、演奏家のプロとアマとの区別をつけるポイントは、その人の演奏活動のスタイルではないかと思うのです。もしその人がプロ的な演奏活動のスタイルを持っているのであれば、その人はプロ演奏家である。その人がアマ的な演奏活動のスタイルを持っているのであれば、その人はアマ演奏家である、ということです。プロ的な演奏活動のスタイルとは、はなはだ主観的な言葉ですが、例えばその人がコンサートをするときは、プロ相応の金額の入場料をとっている、コンサートを制作するときは専門のコンサートマネジメント会社がバックアップしている、などです。逆にアマ的な演奏活動のスタイルとは、コンサートを開くときは、ジョイント形式がもっぱらである、入場料は無料かせいぜい1000円程度である、コンサート制作面も専門のコンサートマネジメント会社が付くことはまずない、という感じです。
では先ほど申し上げたレスナーといわれる人たちの演奏活動のプロとアマの区分けを考える場合、その人のレスナーとしての職業専門性をどう考慮にいれていけばいいのか、という問題について検討します。これはまずプロかアマかの区別は「演奏家」としての側面のみについて言うのだ、ということが前提になるような気がします。つまりレスナーというのはレスナーそのものであり、演奏家ではない、従ってレスナーにはプロもアマもないのだ、と考えるのです。強いて言えば、レスナーの方はそのお仕事をちゃんとされているかぎりは全員プロのレスナーです。そしてこれらの方々が演奏活動するときは、その演奏家としての側面だけを抽出して、その演奏活動のスタイルがプロ的であればプロ、アマ的であればアマ、ということになるのではないでしょうか。
では次に、いわゆる「セミプロ」という言葉について考察してみます。私としては、この「セミプロ」という言葉が大嫌いなのです。この言葉には、まやかしが含まれています。なぜかというと、「セミプロ」という言葉には、プロの演奏活動の中途半端な真似事でも満足している人たち、というようなイメージが付きまとうからです。この言葉を使うくらいなら、「プロ演奏家予備軍(あるいはプロ予備軍演奏家)」という言葉を使うほうがいいと思います。この「プロ演奏家予備軍」という言葉は、例えば音大など音楽の専門教育機関で専門教育を受けてきたが、まだプロとしての演奏活動スタイルを獲得するに至っていない、しかし精進を積み重ねていずれプロ演奏家としての活動スタイルを獲得しようとしている人たちを指します。この言葉には、「今は自分はプロではないが、いずれプロになってやろう」という気概が感じられて好ましいではありませんか。
さて、最後にプロ演奏家予備軍とアマチュアとは交流できるか、という問題を考えて見ます。この場合の「交流」とは、共に音楽について語り合えるかとか、いっしょにコンサートをジョイントできるか、というくらいの意味です。これは、両者ともに音楽を愛するという原点に立ち帰れば可能である。ただしその音楽の愛し方には普遍性がなければなりません。この点、アマチュアの演奏家の中には音楽の愛し方に、それほど普遍性がない方もいらっしゃいます。むしろアマチュア演奏家の音楽の愛し方には自己満足的色彩が多少なりともあるものです。しかしアマチュア演奏家には、それぞれ思い思いの仕方で音楽を愛する特権があると思います。「これこれこういうアプローチで音楽に取り組むのでなければ音楽に取り組んではならない」というようないわば参入規制をアマチュアに対して設けることは実につまらないことです。音楽に対して様々に取り組むアマチュアがいてこそ多様な音楽世界が豊かに広がるといえるでしょう。
10. 演奏家のプロとアマについて(その2)
プロ演奏家とアマチュアの演奏家との違いについて考察しているうちに、モクモクと考えることが浮かんできました。上のトピックでは、演奏家のプロとアマとはどこで区別されるか、つまりどのように線引きすることが可能か、という問題をとりあげました。そこで、このトピックでは、演奏家のプロとアマとではどのような属性の違い(本質的な違い)があるかについて考察してみます。
一般には、プロ演奏家のほうが演奏技術が高度である、アマ演奏家の演奏技術はそれほど高度ではない、というイメージがあります。これはたしかにその通りの傾向が観察されますが、その「演奏技術の高度性」についてもう少し詳しく検討する必要があるように感じます。私の考えでは、この演奏技術の高度性の差異は、(1)演奏活動の生産性と(2)演奏活動の安定性に大きく分けられると見ています。
まず、「演奏活動の生産性」とは何かですが、これは例えば一つの演奏機会のために練習という準備をすることになります。これはプロもアマも同じことです。ところが、その準備に費やした労力と達成した演奏効果の総体との比に大きな差があるのではないでしょうか。この場合の演奏効果の総体とは、まあいってみれば演奏の質(芸術的な質)と演奏の量(演奏時間、演奏したプログラムの数など)との積だと考えてください。つまりプロの演奏家の場合は、比較的少ない準備で相対的に大きな演奏効果の総体を達成できるわけです。アマチュアの場合は、少しの演奏をするにも多くの練習時間を必要としがちです。このことから、プロは演奏活動の生産性が高い、アマは演奏活動の生産性が低い、ということが一般的傾向としていえようかと思います。
次に「演奏活動の安定性」ですが、これは、調子のよいときと調子の悪いときとの差が少ないということです。プロの場合ですと、体調のよいときとそうでないときでも演奏の出来栄えにそれほど差がない。これがアマチュアの場合ですと、例えば仕事に忙しくて十分に練習時間がとれなかった、などの事情が頻繁に生じるのですが、ともかく結果として調子の良いときと悪いときとで演奏の出来栄えにかなりの差がある、というのが現実のようです。やはりプロの演奏家は、演奏家という職業人であるわけですから、顧客である聴衆にいつもある程度以上の水準の演奏をお聴かせする義務があるわけで、その意味で演奏の安定性はぜひとも必要な要件であるといえましょう。
最後にもうひとつ、公開演奏に臨むときの心構えの違いについて考察してみます。例えばアマチュア演奏家が主体になって行うジョイントコンサートと、例えばプロ予備軍演奏家が主体になって行うジョイントコンサートでもっとも異なるところは、演奏者の「誰のために演奏するか」というマインドの違いではないかと最近考え始めています。アマチュア演奏家の場合ですと、もっぱら自分もしくは自分たち(この場合、「自分たち」とはコンサートをジョイントしている演奏仲間のことです)のために演奏して楽しんでいる、というのが現状なのではないかと観察されます。プロ予備軍演奏家のコンサートの場合は、「聴衆」のはずです。プロ予備軍演奏家の場合は、プロ演奏家を目指して研鑽を積んでいる人たちであるわけですから、聴衆のために演奏する、聴衆に何かを伝えようとして演奏する、聴衆と音楽的感動をわかちあう、そういうマインドがあるのでなければなりません。
では、なぜアマチュア演奏家の場合ですと、もっぱら自分もしくは自分たちのために演奏して楽しむ、という傾向が生じるのでしょうか。私の考えでは、「自分たちのために演奏して楽しむ」という場合は、心構えが「自分たち」という閉じた世界、いわば内向きの世界を見てさえいればよい、という安直さがあるからだと思います。逆に言えば、聴衆のために演奏する、聴衆に何かを伝えようとして演奏する、聴衆と音楽的感動をわかちあう、という心構えで演奏会のステージに臨むのであれば、「どういう演奏をすれば聴衆と音楽的感動をわかちあうことができるか」という問題と真正面から向き合わねばなりません。ここでは「自分たち」という閉じた世界の価値観だけで「よい演奏とは何か」を探求することは許されなくなります。
それにもうひとつ、アマチュア演奏家が演奏会を開催し、演奏を楽しむにはそれなりの独自の効用追求も含まれているのではないでしょうか。例えば、仕事で鬱積したストレスの発散であるとか、気分のリフレッシュなどです。実際、アマチュアの演奏家にとって演奏会で演奏する、という行為にはそのような効用があることは否定できず、またアマチュアの演奏家が演奏活動にそのような効用を探求して悪い理由はないと考えられます。アマチュアのジョイントコンサートが多くの場合入場無料ですが、これは妥当な設定です。出演者は演奏を聴きに来るお客さんのため、というよりはもっぱら自分たちのために演奏を楽しんでいるわけですから、お客さんからお金を取るのは理にかなっていないといえるでしょう。
11. 「プロ予備軍」の有効期限
「演奏家のプロとアマについて(その1)」において、「プロ予備軍」という言葉について説明し、これに関連していわゆる「セミプロ」という言葉についても考察しました。ここでは、この「セミプロ」という言葉には、プロの演奏活動の中途半端な真似事でも満足している人たち、というようなイメージが付きまとい、まやかしの雰囲気がある。これに対して「プロ予備軍」という言葉には、「自分は今はプロではないが、いずれプロになってやろう」という気概が感じられて好ましい、ということを申し上げました。
ところがこの「プロ予備軍」という言葉には使用の有効期限があるということがわかりました。上に申し上げたように、この言葉には近い将来「予備軍」の3文字を返上して本物のプロになってやろう!という気概が感じられますが、それだけにいつまでもこの言葉を使えない、という側面があるようなのです。例えばの話ですが、あるプロ演奏家予備軍の人が、40歳になっても50歳になっても「自分はプロ予備軍だ」と自称していたとします。するとこれは、40歳になっても50歳になっても「予備軍」の3文字を返上できずにいる、ということをも意味しているといえます。「予備軍」の3文字は、やはり近い将来の返上ということが期待された言葉であるといえましょう。またそのように努力し成果を出すからこそ「好ましい」という印象が得られるのです。つまり「プロ予備軍」という言葉の好ましさの裏には、それを支える努力と成果が必要なわけで、このあたり、人間にとって言葉と人生が重要な関係を持っていることの例証となっていると言えます。
ではいつまでに返上するかですが、ピアノやヴァイオリンのような器楽奏者ならば30歳くらいまでに返上できるのが理想ですね。声楽奏者の場合は、器楽と比較して年齢からくる成熟の必要性が高いらしいので、35歳くらいになりましょうか。この30歳とか35歳といった年齢はまあ、妥当な線なのではないでしょうか。現代では人間の平均寿命は延びていますから、人生はだいたい80年です。すると40歳というのは人生の折り返し地点にあたります。そうしますと、「予備軍」の3文字の返上も、この人生の折り返し地点に至るまでに達成しておきたい、という考えは妥当であると言えます。
では、ある程度の年齢になってもなかなか返上する勇気が出ない、という場合はどうするかという問題があります。つまり、「自分はプロだと言い切る勇気はなかなかない」という気持ちもあるし、かといって、「アマチュアというには自分のプライドが許さない」という気持ちもある、という場合です。このときは自分の心をありのままに見つめて、両者の気持ちのどっちが強いかを比較するのがよろしいと思います。
もし、「自分はプロだと言い切る勇気はなかなかない」という気持ちのほうが強いようであれば、ここはアマチュアといってしまったほうがよろしいと思います。この場合の「アマチュア」というのは、あくまで演奏活動としての側面だけを抽出して言っているので、例えばレスナーとして立派に仕事をされていれば、これはレスナーとしてはプロなのですから、「演奏家としてはアマチュア」ということで納得するのがよろしいと思います。逆に、「アマチュアというには自分のプライドが許さない」という気持ちが強いのであれば「自分はプロだ」と言い切ってしまうのがよろしいと思います。結局ある程度の年齢になると、「プロ予備軍」という言葉は使わないほうがよろしいように思えます。
12. ジョイントコンサート集団の「馴れ合い」について
当ホームページの「エッセイコーナー(人生編)」の『感情表現とは何か(その1)』というトピックにおいて、日本人の「他者の他者性を隠蔽しようとする傾向」は、日本の村落共同体のなれあい社会にその根源がある、ということを申し上げました。このことを、アマチュア演奏家のジョイントコンサートとプロ予備軍演奏家のジョイントコンサートとの比較論に導入して展開してみようと思います。
私のこれまでの実体験や観察では、アマチュア演奏家のサークルやジョイントコンサート集団の場合ですと、どうもその仲間内に「馴れ合い」が発生しますね。いや、アマチュアや予備軍に限らず日本人がグループを形成すると、その中はどうしても「馴れ合い」が発生するのだと思います。そして馴れ合いが発生することにより閉鎖的になる。つまり、馴れ合いが発生することによって「自分たちが馴れ合っている人」と「自分たちが馴れ合っていない人」とを区別する態度が発生し、これにより自分たちが馴れ合っている人たちだけでグループを閉じてしまう、自分たちが馴れ合っていない人はグループの外へつまはじきにする、という態度が発生するわけです。
プロ予備軍演奏家同士が組んでジョイントコンサートをするようなときでも「馴れ合い」は発生する可能性があります。したがって、ここでも馴れ合っている人たちだけでグループを閉じてしまう、という態度が発生する可能性が考えられます。
ところがこの「馴れ合い」や、その結果として起こる「閉鎖性」が、プロ予備軍演奏家に求められる真剣さや緊張感の大敵になるように思えます。プロ予備軍演奏家同士が数人で組んでジョイントコンサートをするようなときは、やはりお互いに切磋琢磨しようとする気概が真剣でなければならないと考えられます。そしてその集団には開放性が維持されていなければならないと考えられます。ここで「開放性」とは、プロ予備軍演奏家のジョイントコンサート集団のメンバーに相対的にふさわしい人はいつでも外部から向かえる、逆にプロ予備軍演奏家のジョイントコンサート集団のメンバーに相対的にふさわしくない人はいつでもメンバーから外れてもらう、そういう自然淘汰のメカニズムが集団内で機能している状態をいいます。
ただしアマチュア演奏家がなんらかのグループを結成する場合は馴れ合いも結構だと思います。馴れ合うことで楽しくなる、という側面があることは否定できません。アマチュア演奏家の場合ですと、グループを形成するにせよコンサートを開催するにせよ、楽しくてなんぼです。楽しさの探求のためにメンバー同士が親睦を深めることは必要なことです。そして「親睦を深める」ということが「馴れ合う」という成分を含んでいくこともある程度まではやむを得ないと思います。
そして、馴れ合いが発生することによって「自分たちが馴れ合っている人」と「自分たちが馴れ合っていない人」とを区別する態度が発生し、これにより自分たちが馴れ合っている人たちだけでグループを閉じてしまう、自分たちが馴れ合っていない人はグループの外へつまはじきにする、という態度が発生するということもある程度まではやむを得ないと思います。ただ、こういったアマチュア演奏家サークルのリーダーの任にある人は、「親睦を深める」ということが「馴れ合う」という成分を含んでいきうるものであることを認識していることは必要だと思います。そしてどの程度までの「馴れ合い」なら許容できるかということに関して見通しをたてておくことも必要だと思います。
13. 一元的価値観と多元的価値観
上の「ジョイントコンサート集団の馴れ合いについて」のトピックでは、ジョイントコンサート集団などサークルの仲間内に「馴れ合い」が発生する傾向があるということ、およびこのことに起因してその集団が閉鎖的になる傾向が生まれるということを申し上げました。そこで、今回はこのことに関連して、サークルの内部での価値観が一元的なものになりやすい、という指摘をしたいと思います。
サークルの内部での価値観が一元的なものになるとはどういうことかというと、例えば「良い演奏とは迫力のある演奏のことである」、「良い演奏とはパワフルな演奏のことである」(どちらも似たようなものであると思いますが)…、といったひとつの価値基準がその集団内部でもっぱら支配的になり、それ以外の例えば「個々の演目では演奏する作品の解釈はきちんとできているか」とか、「作品にふさわしい音色が使いこなせているか」とか、「ホールの大きさなど演奏環境にふさわしい演奏の設計が配慮されているか」とか、「お客様に作品の感動がどれくらい伝えられたか」といった様々な価値観に従った演奏の検討は隅に追いやられていくことをいいます。
なぜこのような傾向が集団内部に発生するかというと、やはり日本人の集団内部に発生しがちな馴れ合い傾向と密接な関係があるのです。つまり、その内部での価値観が一元的であればあるほど、集団の成員間で意見の一致をみやすく、他者性の隠蔽がしやすくなるのです。「迫力のある演奏と迫力のない演奏とではどちらが望ましいか?」ということになれば、だれでもこの点だけをとれば一応「迫力のある演奏のほうが望ましい」と言いますね。また「パワフルな演奏とパワフルでない演奏とではどちらが良いか?」ということになれば、一応「パワフルな演奏のほうが良さそうだ」ということになりますね。そこで、その集団の成員の全員が「迫力のある演奏のほうが望ましい」、「パワフルな演奏のほうが良さそうだ」ということで意見の一致をみたような錯覚がもたらされて、他者性の隠蔽がしやすくなるのです。
ところがここに何か多元的な価値観に基づく意見主張がその集団のコミュニケーション空間にもたらされたとします。例えば「Aさんの演奏は迫力のある演奏ではあったが、作品の解釈はきちんとできていたとは言えない」とか、「Bさんの演奏はパワフルな演奏ではあったが、作品にふさわしい音色が使いこなせていたとは言えない」とか、「Cさんの演奏は迫力のある演奏ではあったが、ホールの大きさにふさわしい演奏の設計がなされていたかどうかは疑問だ」とか、「Dさんの演奏はパワフルな演奏ではあったが、お客様に作品の感動がどれくらい伝えられたかは疑問だ」といった意見がその集団のコミュニケーション空間に提出されたとするわけです。すると、これはその集団のコミュニケーション空間に多様に異なった価値観に基づく意見が提出されたことになり、集団の成員の間で、改めて「ああ、あの人は自分とは意見の異なる人なんだ」ということが実感され、これまで維持されてきた意見の一致の錯覚、すなわち他者性の隠蔽の欺瞞があばかれやすくなるのです。
その集団が一元的な価値観に基づいて成員間の一致が仮構され、集団としてのまとまりが維持されていたものとしますと、このように意見の一致の錯覚や他者性の隠蔽の欺瞞があばかれるのは都合が悪い。そこでときには多様な価値観に基づく意見の持ち主を排撃しようとする行動がその集団に生まれたりもするのです。
本当にこれでいいのでしょうか。ここで芸術の本質について今一度考察してみる必要があります。芸術とは様々な要素の複合体なのではないでしょうか。そしてその複合のありかたには、統一感とバランスとがあるのでなければなりません。様々な要素が統一とバランスとをもって構成されていることの中に、その芸術の創作者の情熱的な創意や豊かな感性や幅広い知識を感じ取ることができ、ここに芸術の創造者と享受者との間に芸術的価値のわかちあいが達成されるのではないでしょうか。であるものとしますと、高度な芸術の創造のためには、芸術の創造者と享受者との両方に多元的価値観が具わっていることが必須になると考えられるのです。
もしジョイントコンサート集団やその他の音楽サークルが、その内部に一元的価値観しか維持できず、その集団の「まとまり」がこのことに依存しているものとしますと、そのようなジョイントコンサート集団や音楽サークルでは、高度な演奏芸術の探求や集団の成員間の音楽的切磋琢磨は望むべくもないということが言えましょう。では、その集団に多元的価値観が受容されているためには、どのような条件が必要になるのでしょうか。この問いの答えは、容易に想像されるように、個々の成員が自分の精神に多元的価値観を受容できることが必要です。日本人の集団では、多元的価値観は混乱の元凶であると考えられ、その集団の表面的な秩序の維持のために、一元的価値観が維持され、多元的価値観は排撃される傾向があるということを申し上げました。では個々の成員が自分の精神に多元的価値観を受容すると、その多元的価値観がその人間の精神内部での混乱の元凶になってしまわないのでしょうか。この問題を検討することが必要なようです。
私は、当ホームページの「エッセイコーナー(人生編)」のトピック『社会科学者が教えるもの』において、物事の優先順位をはっきりと見定めるための考え方のシステムを頭の中に構築する必要がある、ということを主張しています。個体としての人間の精神に多元的価値観が息づくためには、様々な価値観相互の優先順位をはっきりと見定めるための考え方のシステムを頭の中に構築する必要があるのです。そしてそのような考え方のシステムに従って、例えば「パワフルな演奏をする」ということと「お客様に作品の感動を伝える」ということととはどちらが大切なのか、「迫力のある演奏をする」ことと、「ホールの大きさにふさわしい演奏の設計をすること」とどちらが優先するのか、といったことを考察していくことが大切です。
こういった芸術創造に関係する様々な要素に対してどのように優先順位を与えるかは、その人その人の考え方に応じて様々でよいのです。しかしどうせならここで一歩進んで、自分たちがどういうことに高い優先順位を置くどういう集団なのかをはっきりと把握し、これを外部にメッセージとして発信することをお薦めしたいです。例えば「自分たちは演奏活動を通じてストレスを発散することや気分をリフレッシュすることに重点を置いている。パワフルな演奏ができた、迫力のある演奏ができた、と感じたときにストレスの発散や気分のリフレッシュが実感される。このため、お客様に作品の感動を伝えるということや、ホールの大きさにふさわしい演奏の設計をすることよりも、パワフルで迫力のある演奏をめざすことに高い優先順位を置く…。」というように、はっきりとその集団の運営理念を言葉にすることによって、自分たちがどういう集団なのかをはっきりと外部に示すのがよろしいと思います。そしてそのようなはっきりしたメッセージ発信により、その集団の性格が外部から見て明朗になるという効用が得られます。逆に言うと、様々な価値基準の優先順位の哲学が感じ取れるようなメッセージの発信が不十分であると、「なんとなくうさんくさい集団だ」ということになってしまうと思います。
自分たちが思い思いの演奏を楽しみ、ストレスの発散や気分のリフレッシュが実感されればそれでいいのだから、自分たちの集団としての性格が外部からどのように見えるかはどうでもよい、という考え方もありえます。しかしこの場合は、演奏会のようなイベントを制作する場合に、「お客さんに聴きに来てもらう」ということが自己矛盾になります。なぜならば、演奏会を制作するということは、それ自体に「私たちはこんな演奏活動をしていますからぜひ聴きに来てください」というメッセージが含まれており、「私たち」のなんたるかを明らかにしようとする志向性が含まれているはずだからです。
14. アマチュア演奏家のマニア化について
音楽の演奏における一元的価値観と多元的価値観に関する考察の展開をきっかけとして、私はアマチュア演奏家のマニア化について検討する必要があると考えるようになりました。演奏家のプロやその予備軍及びアマチュアといったカテゴリー分けとアナロジーなカテゴリー分けが成立するものとして、例えば野球があります。ちなみに演奏家と野球(のプレーヤー)との対応を整理すると次のようになろうかと思います。
(1)プロ演奏家とそのコンサート → プロ野球選手と(ゲームとしての)プロ野球
(2)プロ演奏家予備軍 → ファーム(二軍)のプロ野球選手
(3)アマチュア演奏家とそのコンサート → 草野球の愛好者と草野球
ところが昨今の一部のアマチュア演奏家とそのコンサート活動等を観察すると、どうも「草野球の愛好者と草野球」といった対応付けでは把握出来ない、マニアックな本質が観察されるのです。このアマチュア演奏家とそのコンサートなどに観察されるマニアックな本質とは一体何なのでしょうか。まずひとつの切り口として、草野球の愛好者の本質的特徴は、野球というゲームの全体をその活動の中に受け入れ、ゲームとしての野球全体に愛情を注いでいる、という指摘をしたいと思います。従って草野球愛好者が草野球をするときは、野球のルールの全体を遵守してゲームとしての野球を行います。
例えば攻めと守りはスリーアウトでチェンジをする。攻撃するときは打順を守る。守るときはバッテリーを含めて9人で守る。9回の裏表で勝負を決する、などです。そしてこのような野球としての全体を実行するために、攻めと守りの両局面で必要とされる様々な技術の習得に努力します。例えばバッティングひとつとってみても、ホームラン等の長打狙いのバッティングだけではなく、塁に出るための選球眼の育成とか、ヒットエンドランのような打法であるとか、送りバントの技術も探求します。また守りの局面では、内野ゴロの処理であるとか、ランナーのけん制の仕方であるとか、外野フライの捕球からバックホームへの連携プレーなど様々な技術を探求します。そういったことが、野球というものの全体を受け入れ、これを幅広く深く楽しむことにつながるのです。
ところが昨今の一部のアマチュア演奏家のコンサート等における演奏活動のスタイルを観察すると、コンサートというものの全体を受容してこれに対してバランスよくアプローチする、ということが欠如しているように観察されるのです。こういった彼らの活動スタイルを野球の分野でたとえると、さながらバッティングセンターでバッティングを楽しむ「バッティングマニア」のようなのです。バッティングセンターで利用者が行うことは、ピッチングマシンが繰り出すボールを思いっきりバットに当ててかっ飛ばすことです。これは「バットでボールをかっ飛ばす」という野球の中に含まれる娯楽的な側面だけを抽出して楽しむことです。つまり「野球」という概念の全体を受容し、これに愛情を注ぐということとは対極的な行動であるといえます。
このアマチュア演奏家のコンサートの演奏活動のスタイルをもっと詳細に分析してみましょう。コンサートを実行するということの本質は、「作品の感動を自らの演奏によって具現し、そこから生まれた芸術的価値をお客さんと共に分かち合う」ということにあります。そしてこの本質を達成するためには、ホールの選定、出演者の選定、演奏曲目の選定とプログラム構成の立案等にはじまり、コンサートを鑑賞したお客さんにどのような演奏をお聴かせすれば、お客さんに満足して帰ってもらえるか、という究極のテーマとの取り組むことが含まれます。
こういったコンサートの全体的本質を探究しようとはしないアマチュアのコンサートの場合、当然のことながらお客さんの存在は軽視されています。お客様に作品の感動がどれくらい伝わったか、作品にふさわしい音色が使いこなせていたか、ホールの大きさにふさわしい演奏の設計がなされていたかなど、こういったお客さんの立場に立った要素の検討は、意識の片隅に追いやられてしまい、しばしば単に「弾きごこちのよいホールで思いっきり弾く」といったことだけが探求されています。これは、コンサート出演という活動の中に含まれる(出演者にとっての)娯楽的側面だけを抽出して楽しむ自己中心的な楽しみ方です。これは、バッティングセンターでバットを振り回してボールをかっ飛ばすという、野球の中に含まれるバッティングという局部的側面だけに娯楽を見出す行為と見事に対応していると考えられるのです。
バッティングセンターの場合、見物客はまずいないとしたものですが、レベルの高い草野球ですと、結構見物客がやってきます。そして見物客も、プレーヤーに声援を送ったりヤジを飛ばしたりしていっしょになって野球を楽しみます。なぜ見物客にとって草野球の見物は楽しいものでありうるのでしょうか。その解答の一つはプレーの多彩さにあります。草野球のプレーヤーはバッティングが楽しから草野球をやっているのではありません。もちろん攻めの回で自分に打順が回ってくれば、「ようし、ここで一発かっ飛ばしてやる…」と気持ちに燃えるものがあるかもしれませんが、それだけが楽しいのではありません。それどころか野球というものをよく知っているプレーヤーなら、むしろ走者進塁のための送りバントを成功させることに喜びを見出すこともありえます。つまりバッティングひとつとっても多彩でありうるのです。なぜなら、そのようなプレーヤーなら、野球というものの中には様々なプレーや様々な戦略があるということを認識しており、その様々な戦略やプレーやそのための技術をゲームの中に盛り込むことが、すなわち野球というゲーム全体を愛することになるということを知っているからです。
もしその草野球のゲームで、次から次へと打席に立つバッターが、バカの一つ覚えのように長打狙いの大振りばかりし、空振りするか、外野フライに終わるか、ごくまれにならホームランになるといった結果しか予測できないのであれば、そのようなゲームはなんと単調でつまらないものであることでしょう。四球狙いあり、ヒットエンドランあり、サインプレーあり、意表をつくスリーバントあり、といった多彩なバッティングや攻め手を繰り出してこそ見物客にとっても草野球の見物は面白く楽しいものでありうるのではないでしょうか。それが野球をプレーするものにとっても、これを見物するものにとっても、野球を奥深く探求することでもあるのです。
アマチュア演奏家のコンサートも、この点で草野球と全く共通する本質があります。もしアマチュア演奏家のコンサートの出演者のだれもが「迫力のある演奏」とか「パワフルな演奏」とかを目指して、バカの一つ覚えのように大きな音で弾くことしかしないのであれば、そのようなコンサートはなんと単調でつまらないものであることでしょう。叙情的な旋律あり、哀愁にみちたファンタジーあり、ウイーン的なエレガンスあり、深くたっぷりとした和声の響きあり、といった多彩な演目が次から次へと登場するコンサートにしてこそ、コンサートというものの楽しさを奥深く探求することになります。アマチュア演奏家も、コンサートをするのであれば、音楽やコンサートというものの魅力を幅広く認識し、その可能性を多角的に探求することが必要です。そういった音楽の可能性の幅広い認識こそが音楽的教養というものです。そしてその幅広い認識につりあった高い技術を養い、豊かな想像力をもってコンサートのステージに臨みたいものです。
15. 伝道者としての演奏家
私は以前にある人と、「アマチュア演奏家のコンサート活動は、プロ演奏家のコンサート活動にとってライバル的存在になり得るか?」というテーマでディスカッションしたことがあります。そしてこのときの結論は、「プロ演奏家がアマチュア演奏家の演奏活動を気にしてどうするのだ…」ということになりました。つまり、「プロ演奏家がアマチュア演奏家の演奏活動が気になるようでは情けない…」という結論です。一見してもっともな結論ですが、しかしそう考えられる裏づけは何なのか、ということになるとそれほど単純ではありません。この『伝道者としての演奏家』では、そのような結論の裏づけを探っていきます。
ところで、プロ演奏家にせよ、アマチュア演奏家にせよ、コンサートにおいて演奏家が取り組むべき課題は大きく分けると次の3つではないかと思われます。すなわち、
(1)その楽器をどう弾くか
(2)その作品をどう弾くか
(3)演奏家として聴衆に何を伝えるか
この3つです。
そして多くのアマチュア演奏家のコンサートにおける実際を観察すると、上の(1)と(2)で手一杯であり、(3)の演奏家として聴衆に何を伝えるか、という課題には意識が行き届いていない、という現状があると思われます。このため、アマチュア演奏家によるコンサートは、おおむね「聴衆との対話が忘れられたコンサート」、あるいは「聴衆と対話するに至っていないコンサート」になっているのです。この根本原因は3つほどに集約されるように思われます。
一つはアマチュア演奏家の場合、(3)の演奏家として聴衆に何を伝えるか、という課題に積極的に取り組む動機が見つけにくい。つまり(3)の課題に真摯に取り組んで、お客さんを大切にしよう、という動機がない。お客さんを大切にしたところで、それが自分にどうプラスするのか、それなりのリターンがあるのか、そういったところが不明確なのです。
プロ演奏家やプロ演奏家予備軍の場合ですと、お客さんに支持され、愛されて、演奏家としての足場固めをしたい、という動機が存在します。このプロ演奏家の動機は自然でまっとうなものであり、全く問題ありません。むしろ、(1)その楽器をどう弾くか、(2)その作品をどう弾くか、(3)演奏家として聴衆に何を伝えるか、という3つの課題にバランスよく取り組んでこそプロのアプローチであるといえましょう。
さらに、アマチュア演奏家の場合ですと、仮に「聴衆に何かを伝えうる演奏」を心がけたとしても、ではどういう演奏が聴衆に何かを伝えうる演奏なのか、どういう演奏がお客さんを大切にする演奏なのか、といったことをイメージすることが難しい、ということが挙げられます。この理由は、アマチュア演奏家の音楽の勉強過程にそもそも原因があります。アマチュア演奏家がレッスン等の勉強過程で取り組む課題は、(1)その楽器をどう弾くか、(2)その作品をどう弾くか、の2つがもっぱらであり、なかなか(3)の「演奏家として聴衆に何を伝えるか」、という課題に取り組むところまでいかないのではないでしょうか。
もうひとつ、(3)の課題には意識が行き届かない理由として挙げられるものは、資源が十分にない、ということがあります。この場合の「資源」とは、時間、労力、意欲、エネルギーといったものの全体です。アマチュア演奏家の場合ですと、企業勤務等、演奏活動以外に仕事をもっており、(1)の課題と(2)の課題に資源を充当してしまうと、もう後にはほとんど余力が残っていないというのが現状ではないでしょうか。さらに補足説明すると、「聴衆に何かを伝えようとしている自分」というものと、例えば企業勤務のサラリーマンとして、つまり企業の労働力商品として奮闘している自分というものとが、精神的に両立しにくい、ということがあります。つまり、両者のアイデンティティを統合することが難しいのです。
こういった背景があるために、「アマチュア演奏家のコンサート活動は、プロ演奏家のコンサート活動にとってライバル的存在になり得るか?」という問題に対する妥当な結論は、「プロ演奏家がアマチュア演奏家の演奏活動が気になるようでは情けない…」ということになりそうなのです。
さて、以上の考察から、私たちは次のようなことを学ぶことができます。まず、アマチュア演奏家にとって、自分たちには何が欠けているのかを自覚することが、その演奏活動がいっそう高いステージに至るために有効な道筋になるということです。そしてその欠けているものを充足するにはどれだけの環境と努力が必要かということをあわせて認識することが、演奏活動をいっそう高いステージに導くために有効であるといえましょう。また、仮に様々な現実的制約から、「いっそう高いステージ」に至ることが困難であることが確認されたとしても、そういった自覚や認識がアマチュア演奏家らしい奥ゆかしさをもたらすのではないでしょうか。
もう一つ、上の考察から私たちが学べることとして、逆にプロ演奏家はアマチュア演奏家に対してどういうアドバンテージを持っているのか、そしてそのアドバンテージに起因して、プロ演奏家は自らの演奏活動にどういう責任があるのか、ということが見えてくるといえましょう。「そのコンサートでその演奏家は自分たちに何を伝えてくれるのか…」そういう期待をもってお客さんは演奏会場に足を運びます。そしてそういったお客さんの期待に応えることがプロ演奏家にとっての矜持であるはずです。
16. 演奏活動における「まじめ」と「熱心」
私は、これまでの自分のアマチュア演奏家としての活動を振り返ってみて、また私の周囲で演奏活動しているアマチュア演奏家たちを観察して、最近気がついたことがあります。それは演奏活動における「まじめ」と「熱心」とは、異なっているということです。そしてこの、演奏活動における「まじめ」と「熱心」の違いをきちんと弁別することこそ、昨今のアマチュア演奏家の活動スタイルが内包する今日的問題点を読み解くカギになると考えられます。ではまず手始めに、この「まじめ」と「熱心」との言葉のニュアンスの違いを、2つ前のエッセイのトピック、『アマチュア演奏家のマニア化について』で導入したバッティングセンターのたとえを再び援用して、比較検討してみましょう。例えば次の2つの文を比較してみてください。
(1)Aさんは熱心にバッティングセンターに通っている。
(2)Aさんはまじめにバッティングセンターに通っている。
上に2つの使用例を比較すると、(1)における「熱心」の使用のしかたはしっくりきますが、(2)の「まじめ」の使用例はどうもしっくりこない感じがすることに同意されると思います。これはなぜなのでしょうか。私の考えでは、バッティングセンターというものが、本質的に娯楽施設である、ということに起因していると考えています。すなわち、バッティングセンターというものが、本質的に娯楽施設であり、そこで行う「バッティング」も当然に娯楽である。すると、娯楽を熱心にやる、というのはしっくりくるが、これをまじめにやる、というのはどうもしっくりこない、ということなのではないでしょうか。
では、同じ言葉の使用例の比較として、次の場合はどうでしょうか。
(3)Bさんは熱心に演奏活動をしている。
(4)Bさんはまじめに演奏活動をしている。
(1)と(2)の使用例の比較検討から、「熱心」と「まじめ」とは意味が異なっていることが確認されました。であるならば、上の(3)と(4)の使用例においても、その意味するところは異なっているはずなのです。その違いを読み解くこと、そしてその背景にある問題点をあぶり出すことがこのエッセイのトピックのテーマです。
ここで原点に戻って、「熱心」と「まじめ」の違いをもっと文理的に解析してみましょう。私の考えでは、「熱心」というのは、自分なりの満足を求めて熱心に取り組むのが「熱心」である、「まじめ」というのは、自分に対する批判精神を伴い、自分がいま考えていることや、していることに対して批判的検討をしながら、いっそうの向上をめざして取り組むのが「まじめ」である、そういうふうに考えています。従って、「Bさんが熱心に演奏活動をしている」場合、演奏活動に自分なりの満足を求めて熱心に取り組んでいるといえます。一方、「Bさんがまじめに演奏活動をしている」場合、自分に対する批判精神を伴い、自分がいま考えていることや、していることに対して批判的検討をしながら、いっそうの向上をめざして取り組んでいる、という意味になると考えられます。
では次に、演奏活動、とりわけ、アマチュア演奏家の演奏活動は、熱心にやるのが望ましいのでしょうか。それともまじめにやるのが望ましいのでしょうか。アマチュア演奏家の演奏活動の現状を観察すると、ほぼ例外なく「熱心」に行われているようです。私の考えでは、ある「けじめ」がちゃんとついていさえすれば、「まじめ」ではなく「熱心」な活動で十分であると考えています。では、その「けじめ」とは何かですが、それを「演奏会」という言葉の使い方に求めたい気がします。
アマチュア演奏家の演奏活動として行われるイベントの形態には、例えば(サークルなどの)「オフ会」、「例会」、「発表会」、「演奏会」という具合に、いくつかありますが、これらの中で「演奏会」だけは特別に位置付ける必要があると考えています。つまり、「オフ会」、「例会」、「発表会」などの場合は、これを主催する人や参加する人たちの意向によって、娯楽として位置付けられてもなんら問題はないと考えられます。従って、「オフ会」、「例会」、「発表会」などのイベントの中で、その参加者であるアマチュア演奏家が「まじめ」ではなく「熱心に」演奏活動するぶんには、なんら問題はない、と考えられるのです。
ところが、そのイベントの属性を「演奏会」として位置付ける場合は、このイベントが、本質的にお客さんのために行われるものであることを決して忘れてはならない、というのが私の考えです。ここまで述べて、読者のみなさんは、「演奏会といっても入場料を取る場合もあるし、取らない場合もある。アマチュアの行う演奏会は、たいてい入場料をとらない。入場料を取らない演奏会なら、取り組む姿勢なんかは、わりと自由でいいんじゃないか…」と考える方もいらっしゃるでしょう。まあ、こういう考えもたしかにあります。だが、厳密に考えていくと、この考え方は、あまり妥当ではないような気が最近しています。つまり、「入場料のあるなし」でけじめをつけるよりは、「演奏会」という言葉の使い方にけじめがつけられるほうが望ましいと思うのです。それは、次のような理由からです。すこし長い説明になっていますが、辛抱強くお付き合いください。
私は最近、四谷の「紀尾井ホール」という立派なホールで、ある方のヴァイオリンリサイタルを聴いてまいりました。紀尾井ホールは、客席数もかなりありますが、1階席はほぼ満席の盛況でした。入場料は、S席で5000円、A席で4000円です。そう安くはない入場料で、これだけ大勢のお客さんが来場する、ということは、大勢のお客さんがこの演奏会の入場券に、値段相応、もしくはそれ以上の価値を認定しているという事実を物語っているといえましょう。
逆にいうと、人々がその入場料に、値段相応、もしくはそれ以上の価値を認定しさえすれば、アマチュアの演奏会でも満席になりうる、ということが言えます。そして実際、そのような実例はあります。私は「演奏会」というのはあくまでお客さんのために、あるいはお客さんと共に行われるものであると考えています。従ってプロ演奏家であろうと、アマチュア演奏家であろうと、「演奏会」を開催するかぎりは、ぜひともお客さんに来場してもらわなければならない。そして、プロの演奏家の演奏会における潜在的な聴衆たりうる人々と、アマチュアの演奏会における潜在的な聴衆たりうる人々とは、かなり共通していると考えられるのです。このことから、演奏会の開催に伴う集客ということに関しては、プロもアマも同じ土俵で勝負しているということが言えます。このことは、例えば次のようなゴルフとのアナロジーを対比することでも明らかにできます。
プロゴルファーがゴルフ場でやることは、ゴルフのプレーです。アマチュアゴルファーがゴルフ場でやることもやはり、ゴルフのプレーです。つまり、プロゴルファーでも、アマチュアゴルファーでもゴルフ場でやることはゴルフのプレーなのです。そして、このことに起因して、プロのゴルファーもアマチュアのゴルファーも、一緒に組んで同じコースを回ることが可能です。その意味で、プロゴルファーも、アマチュアゴルファーも、ゴルフ場という共通の土俵の上で「ゴルフのプレー」という共通の競技をめぐって勝負することができるといえましょう。
もちろんプロとアマとでは技術レベルその他に差があります。しかしそれでも、プロとアマが、ゴルフ場という共通の土俵の上で意味のある勝負ができているのです。なぜかというと、プロとアマとの間にある技術レベルその他の差を埋め合わせする手段があるからです。つまり、ゴルフの場合は、「ハンデ」というのがあります。これは、ご存知の方も多いと思いますが、ゴルフのコースには、その中に含まれるホールごとに規定打数というのが定められており、アマチュアにあらかじめ、この規定打数に対してゲタをはかせておくわけです。そうすることによって、プロとアマとが一緒に組んで同じコースを回る場合でも、このハンデのおかげで、技術レベルその他の差が補完され、プロとアマとが意味のある勝負ができるというわけです。
すでに申し上げたように、プロの演奏家もアマチュアの演奏家も、演奏会活動を行う場合は、「お客さんを集める」ということに関しては、同じ土俵で勝負しているといえます。では、演奏会活動における上に申し上げたゴルフの「ハンデ」に相当するものは何かというと、これは入場料の金額だと思うのです。つまり、力量のあるプレーヤーの演奏会は、演奏自体が魅力的でこれに起因して集客力があるので、高い入場料が設定できる。これに対してあまり力量のないプレーヤーの演奏会なら、演奏自体にあまり集客力がないので、入場料を安く設定する。つまり、プレーヤーの演奏技量に起因する集客力相応に入場料を設定して、集客力の格差の補完を行うことができているのです。これは、ゴルフにおける「ハンデ」と同じ機能を果たしているといえます。
さて、ここで注意すべき重要なことがらがあります。それは、アマチュア演奏家が演奏会を行うにあたって、その入場料を無料に設定するということは、上に申し上げた、プレーヤーの演奏技量に起因する集客力相応に入場料を設定して集客力の格差の補完をするルールから離脱することを意味してはいない、ということです。そうではなく、入場料を無料に設定するということは、ゼロ円の入場料を設定して(つまり最大限のハンデを持って)勝負している、ということだと考えるべきです。
さらにもうひとつ注意すべきことがあります。それは、あるアマチュアのコンサートが、入場無料に設定して催行されたとします。そしてお客さんの来場がほとんどなかった、とします。このことは何を意味しているのか、その意味するところをしっかり噛みしめることが重要です。ゼロ円の入場料を設定して勝負しても、お客さんをろくに集めることができなかった、ということは、人々から「あんなコンサートは、入場無料でも行く気がしない」という評価を下されてしまった、ということを意味していないでしょうか。これは、先ほどのゴルフのたとえに戻して対比を考察してみると、ハンデをつけようにもつけようがないくらい下手糞なゴルフだ、ということに対応しかねないのではないでしょうか。
このことを再びアマチュア演奏家の演奏会活動の場合に戻して考察すると、ゼロ円の入場料を設定して勝負しても、お客さんをろくに集めることができなかった、ということは、そのアマチュア演奏家は、まだお客さんのためにステージ演奏をする域に達していない、ということを意味しているのではないでしょうか。お客さんのためのステージ演奏をする域に達していない演奏者が演奏するイベントは、もはや「演奏会」ではありません。ということは、そのイベントの体裁を「○○演奏会」などのように表示することは不適切であるということになります。演奏会開催に先立って、自分は本当にお客さんのために演奏が出来る人間なのかを自問し、「演奏会」としての体裁を保つだけのお客さんの支持を得る見通しが立たないのなら、「演奏会」という言葉を看板に用いるのは控えるべきです。そういったことが「けじめ」であると考えられます。
私の考えでは、「演奏会」における聴衆の動員には、潜在的に聴衆になりうる人々に対し、「期待」を抱いてもらう、という要素が含まれていると考えています。チラシなどの掲載するキャッチコピーにも、それを見る人に「おっ、このコンサートは面白そうだな…」と期待を抱かせる要素があるのでなければなりません。そして演奏者は、その期待を裏切らない演奏をすること。来場したお客さんが期待を抱いて演奏会の会場に足を運び、演奏者がその演奏でその期待に応える、それが演奏会が本来具有すべき本質です。人がろくに期待せず、お客さんもたいして来場せず、演奏者も自己満足だけを追求して「熱心に」弾くだけで、お客さんの期待に応えようとしない演奏会に何の意味がありましょうか。
17. 中村紘子さんの音楽教育批評
『音楽の友』の2007年9月号に、ピアニストの中村紘子さんが大変興味深い音楽教育批評を載せていました。この音楽教育批評は、2007年6月13日から30日にかけてモスクワで開催された第13回チャイコフスキー国際コンクールでの日本人参加者の成果を踏まえての発言です。この国際コンクールでは、ヴァイオリン部門で神尾真由子さんが見事優勝しましたが、ピアノ部門では入賞者を出すことはできませんでした。中村紘子さんは82年から今回で5回目となる審査員を務め、今回ピアノ部門で入賞者を出すことができなかったことなどを踏まえて日本の音楽教育に関してコメントを寄せているものです。まずは引用でご紹介します。
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皆さん上手なんです。でも演奏に徹底したものがない。魂というべきか、音楽に託す何かが伝わってきません。これは本人より日本の社会が問題なのではないかしら。何不自由ない日本の環境で学んでいるだけでは、聴衆に音楽を伝えることはできない気がします」
「神尾さんも他の方々も、子供の時から海外に出て苦労した人ばかり。言葉の壁やカルチャーショックが大きかったことでしょう。日本と異なる環境に入り込んで、人間関係を築いているから、様々な人の後押しも受けられる。日本での純粋培養は、もはや通用しにくいかもしれませんね」
(111ページ)
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とても短いコメントではありますが、中村さんが寄せたこのコメントには、日本人や日本の教育全般が抱える本質的な問題の核心を突く部分が含まれているような気がしてなりません。特に、「演奏に徹底したものがない」という部分には深い感銘を受け、考えさせられるのです。そこで、今回は、この中村さんのコメントをひとつの切り口にして、なぜ演奏に徹底したものが必要になるのか、日本人コンテスタントの演奏にはなぜ徹底したものが欠如しているのかといったことを洞察してみたいと思うのです。
私の考えでは、演奏者が音楽に託して聴衆に何かを伝えるには、「自分の主張を徹底的に貫く」という魂の推進力が不可欠だと思うのです。ところが「自分の主張を徹底的に貫く」という魂の推進力には、自我の強靭かつ円満な成熟が必要だと考えられます。しかし日本の社会は、少年少女、特に10代程度の自我形成期の年齢にある少年少女に自我の強靭かつ円満な成熟を促すような環境を提供しているのでしょうか。この点が非常に疑問です。世界の舞台で羽ばたいている外国の音楽家たちのインタビューなどを見ると、15歳くらいの人でもしっかり自分の世界観、音楽観を持っているなあと感じることはあるでしょう。ところが日本では、15歳くらいの少年少女で、自分の世界観、音楽観をしっかり持とうとすると、「生意気な子供」として否定的な評価を下してしまう傾向があるのではないでしょうか。ちょっと以前に福田恒存の『日本を思ふ』というエッセイ集を読んだことがあります。このエッセイ集の一部は『日本人の距離感』という題で当ホームページの文献紹介のページでも紹介してあります。この『日本を思ふ』というエッセイの中に次のようなことが書かれています。
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……日本人の道徳観にとつて、いや、美観にとつて、原則的に自己主張は醜いこといやらしいことなのです。
……日本人には、なぜいはゆる社会意識も道徳感も存在しないのか。その理由は……、私たちの美意識の中にひそんでをります。私たちの祖先は、死や病ひと同様に、我を、エゴイズムを、このうへない醜いものとして退けてきたのであります。
……日本人にとつて、どちらが正しいかということは二義的なことなのです。大切なのは摩擦という醜い状態から早く脱して、和合に到達することであります。そのために少し自分が悪者になつても、一向平気だといつた傾向さへあります。
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この福田恒存の見解が正しいとすると、日本人には人間が自我やエゴイズムを発揮することを否定し嫌悪する傾向があるということがわかります。そうだとすると、こういう美意識が日本に瀰漫している限り、日本の才能ある青少年は、日本で暮らし、日本人と接触するうちに、自分の自我の発現やエゴイズムの発現を否定されたり嫌悪されたりする経験を積んでいくことになります。するとそのような経験を通じて、自分が周囲の日本人から嫌われないようにするためには、自我やエゴイズムを発揮しないようにしたほうがよい、という処世術に染まっていくのではないでしょうか。しかし考えても見て欲しいのです。人間がなんらかの感情なり信念なりをいだき、それを外に向かって表明する場合、その行動の中には多かれ少なかれ自我やエゴイズムが含まれるのではないでしょうか。逆に言うと、仮に人間の自我やエゴイズムを全く否定してしまうと、人間が自己主張をするという営みは、その存立基盤が根底から揺らぐのではないでしょうか。人間がなんらかの感情なり信念なりをいだき、それを外に向かって表明する場合、その行動の中には多かれ少なかれ自我やエゴイズムが含まれるということは、「人間」という言葉をいっそう限定された概念である「演奏家」に置き換えても全く同様に成立します。すなわち、仮に人間の自我やエゴイズムを全く否定してしまうと、演奏家が「自分はこういう演奏をしたい」というビジョンを強くいだいてそれを演奏において貫徹するということも不可能になるはずです。日本人が自分を外に向かってアピールすることが苦手なのは、日本で暮らし、日本人と接触するうちに、自分の自我の発現やエゴイズムの発現を否定されたり嫌悪されたりする経験を積み、自我やエゴイズムの発揮を控えるようにしたほうがよいという処世術に染まっていった結果なのではないでしょうか。
では、こういった事実を踏まえ、日本では今後どのような教育が行なわれていってしかるべきなのでしょうか。ここで私は2007年4月24日にBSフジで放映されたある興味深いテレビ番組のことに言及しようと思います。このテレビ番組は、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏のインタビューを中心に構成した番組で、ここで江崎氏が興味深いことを語っていました。それは日本とアメリカの学校教育では、10代(特に13歳から19歳あたり)の生徒に対する教育方針が非常に違っているというのです。江崎氏の発言によれば、日本では、やはり生徒を型にはめる教育が基本となっているが、アメリカの場合は、生徒が自分で学ぼうとするのを助ける教育になっているというのです。そして江崎玲於奈氏は、この点ではアメリカの教育理念のほうが優れていると考えているようです。
なぜ江崎氏が「自分が学ぼうとするのを助ける教育」が好ましいと考えているのでしょうか。それは、人間が10代、特に13歳から19歳あたりのライフステージにあるときに顕著な発達心理学上の特徴は、やはり自我の目覚めがあるということです。このため、このライフステージにある人間は、自分で自分をどう学ばせるか、ということを考えるようになる。つまり、その人の心に、「学んでいる自分」に加えて、「学ばせている自分(学びの方針を批判的に検討している自分)」というものが形成されるのです。そしてこのライフステージにある人間に対する好ましい教育の在り方は、教育者がその生徒の「学ばせている自分(学びの方針を批判的に検討している自分)」に対する支援をすることだというのが江崎氏の考え方のようです。
ところで、この番組では、江崎氏は、ノーベル賞級の科学者であるためにどのようなことが必要であるかについて5ヶ条の教訓を提示していました。それは、次のようなものです。
(1)行き掛かりにとらわれてはいけない。
(2)大先生に傾倒しすぎてはいけない。
(3)雑多な情報に惑わされてはいけない。
(4)意見を主張するにあたって戦いを避けてはいけない。
(5)初々しい感性と好奇心を失ってはいけない。
この5ヶ条の教訓の意味するところを正確に理解すれば、おおむねそのすべてに共感できるのではないでしょうか。特に(4)と(5)にはアーティストの育成にも通じるものがあり、注目させられます。
私は、自我やエゴイズムを醜いものとして退けようとする日本人の美意識は間違っていると思います。いやこれまでの近代以前の日本においては、このように、日本人同士で個人の自我の発現を牽制しあい抑圧しあうやり方は、外界から閉ざされた島国の国土を持つ封建主義国家日本で生きる日本人の知恵として機能してきた側面はあるかもしれません。だが、近代化を完全に遂げなければならない日本人がこのような間違った美意識に拘泥しながら社会を営み、青少年を教育する限り、日本において、世界に通用する立派な科学者や政治家やアーティストやその他諸々の職業人が育成されることはほとんどあり得ないことだと思います。
18. 暗譜に関する考察
ここ数日、演奏者にとっての暗譜とは何かについて考えてきました。多少自分なりの考え方が煮詰まったので、この辺で自分の暗譜についての考え方をまとめてみたいと思います。私の考えでは、暗譜には2つの側面があると思います。ひとつは「演奏者にとっての暗譜」、もうひとつは「教育課程としての暗譜」です。
「演奏者にとっての暗譜」という側面は、暗譜が演奏にどのように役立つか、あるいは役立てなければならないか、という側面です。例えば演奏者が発表会や演奏会で演奏するということは、演奏者が自分の演奏をお客さんに聴いていただくわけですから、自分が奏でる音楽をお客さんと共有するひとときを創りだすわけです。このため、演奏中は、作品が楽譜上にどのように書かれているかといったことだけではなく、例えば、自分の音がホールにどのように響いているか、お客さんがどんなノリで聴いているかなど、いろいろなことを感じ取りながら弾くことが理想となります。だから、楽譜にかじりついて「間違わないようにしなきゃ」といったような想念にばかりとらわれていたのではどうしようもないわけで、暗譜は、演奏中いろいろなことを感じ取りながら弾くための「余力」を稼ぐための重要な手段となりうると思います。
しかしながら、「演奏者にとっての暗譜」には負の側面が発生しうるともいえます。例えば、暗譜で弾くことを無理に自分に課すことによって、「演奏中に暗譜が飛んで頭が真っ白になったらどうしよう」という具合に、ステージの演奏がかえって不安と緊張を高めてしまい、のびのびと弾けなくなってしまうとすると、これは暗譜で弾くことが逆効果になる事例になってしまいます。だから、このような懸念がある場合は、無理に暗譜で(いや、正確には譜面を目の前に置かない状態で)弾く必要はないという考え方にも一定の合理性があると思われます。まとめると、本番の演奏で、伸び伸びと、生き生きとした演奏をするために暗譜で弾くことを役立てることができるのであれば、暗譜で弾くことが望ましいといえますし、そのような演奏のために暗譜で弾くことを役立てるだけの力に自信が無いようなら、無理に暗譜で(譜面を目の前に置かない状態で)弾くことはないということでしょう。
暗譜についての2つの側面のうちのもうひとつは、「教育課程としての暗譜」です。例えばピアノやヴァイオリンのレッスンで、発表会での演奏を予定しているわけではないが、取り組んでいる曲を暗譜するよう努めることにはどんな教育的意義があるかという側面を考察する必要があります。私の考えでは、このような暗譜の効用の最大のものは、音楽の本質は譜面ではないということを演奏者が実感するということにあるような気がします。ブゾーニは「音楽とは鳴り響く大気だ」と言っています。ブゾーニのこの言葉は、逆に楽譜は音楽ではないということを教えています。楽譜とは、作品としての音楽を一定の規則(楽典)にもとづいて紙の上に書き留めたものに過ぎない。やはり、実際に演奏され、物理現象としての音波になったもののみが音楽なのです。そして演奏者が暗譜で弾くということは、音楽のこういう本質を実感するために役立つというのが私の見解です。演奏者はひとつの作品を暗譜で弾くことによって、その作品の本来の姿を自分のものにすることに役立つと言えましょう。
