エッセイコーナー(人生編)


 このコーナーでは、音楽だけでなく、人間と社会や、人と人とのかかわりに関する様々な問題について、当ホームページのオーナーが考えていることをいくつかのトピックに分けて取り上げていきます。当初、17項目ほどのエッセイを掲載していましたが、3年あまりの年月を経て、私の思想的傾向も変化してきましたので、これまでのエッセイは全部消去し、内容を一新することにしました。これまでミクシィのホームページ等に掲載してきた文章を中心に題材を選択し、少しずつ掲載項目を増やしていくという方針でいきたいと思います。現在は項目数が少ないのでページ内リンクは導入していませんが、今後項目が増えるにつれ、適宜ページ内リンクも導入していきます。

目次

1. 
私の人生哲学

2. 
「人間は何のために生きるのか」の解答が難しい理由

3. 
「不倫」と「道ならぬ恋」

4. 
「知性化」と楽曲理解

5. 
日本人にとっての自我の設計図

6. 
異国の地で死ねるか



1. 
私の人生哲学

 私は、その人が尊敬に値する人間であるための第一条件は、「正直」さではないかと考えています。自分を偽らないこと、公明正大であること、自分があるところで言っていることと、別のあるところで言っていることとに思想上の一貫性があること、物事をごまかしたりすり替えたりはぐらかしたりしたりしないこと、間違っていることを正すために勇気を持って発言し行動すること、そういったことが私の考える「正直」の意味です。そういえば英語に「Honesty is the best policy.」というのがありますね。アマ・プロを問わず、基本的に演奏家(クラシックの演奏家)というものが好きです。クラシックの音楽作品を演奏するという行動を、その人その人なりの方法で人生の中に組み込んでいるということに好感と共感とを覚えます。私のこれまでの人生経験では、クラシックの演奏家は、最も正直で嘘をつかない人たちであると見ています。また、クラシックの音楽作品を演奏するという行動の背後には、人間の善意が自我の発現と溶け込むひとつの理想的な姿があるように思います。実際、クラシックの演奏家の犯罪への加担率は極端に少ないということが統計的に実証されているようです。私はこの「正直」をバックボーンにして、具体的には次の3つの項目を座右の銘にするといいんじゃないかと考えています。

@自律を重んじ、放縦を戒める。
A教養を重んじ、人格の特殊化を戒める。
B勇気をもって正しいことのために率直な態度を貫く。

 まず@について。人間は自律心を失うと、どこまでも放縦になってしまうという欠点があります。これは、例えば空き地を放置しておくと、いつかは草ぼうぼうになってしまうのと同じです。草ぼうぼうを回避するためにはこまめに草取りを行い、メンテナンスをする必要があります。人間も全く同じで、自律心を失うと怠惰と放縦がその人の人格を席巻してしまうのです。このことを不断に回避する努力がすなわち自律です。従って、自律を重んじ、放縦を戒めることはとても重要なことであると考えます。

 次にAですが、人間は職業の専門性が高くなるほど、また、そういった職業におけるスキルが高まるほど、職業人としての人格が特殊化する危険性があることを認識するべきであろうと思います。実際、社会科学の泰斗、マックス・ウェーバーは、「資本主義社会が爛熟すると、『精神なき専門人』と『心情なき享楽人』とがはびこるようになり、自分たちが歴史上かつて到達したこともないような人間性の最高の段階にまで上り詰めたとうぬぼれるようになる」と喝破しています。この場合の『精神なき専門人』とは、それぞれ専門化された特殊な分野の仕事に専心し、その分野ではこの上もなく深い知識と経験とをもっているが、しかし、自分の仕事が全体との関わりの中で、さらにまた人類の運命にとって、どのような意味を持つかといったことは全然知らないし、知ろうとする内面的欲求も持ち合わせていない、そういう人々のことを言います。すると、専門性の高い職業に深くコミットすればするほど、教養の必要性が高まるということがいえます。ちなみに教養とは自分がいかに知らないかを知ることです。

 最後にBですが、正しいことのために率直な態度を貫くということは、結構勇気が要るんですね。最近の日本では(最近に限らないかもしれませんが)、勇気を価値として認定する価値観がすたれていると思います。このことを逆に言うと、日本人は馴れ合いの世界に身を置いて、周囲と漫然と付和雷同する生き方に慣れっこになっていると言えます。だからこそ、逆に勇気をもって正しいことのために率直な態度を貫く、ということを座右の銘の一つにして、勇気の価値の復権を図るべきであろうと考えているのです。


2. 
「人間は何のために生きるのか」の解答が難しい理由

 「人間は何のために生きるのか」という問題は哲学の難問ですが、これに解答することがなぜ難しいかを自分なりに考えて見ました。それを説明する前に、まず「視点の転換」という言葉を導入します。

 この「視点の転換」というのは、まあ、私の造語なんですが、「その事柄を逆から言うとどうなるのか」、「その事柄を裏から見るとどうなるのか」という着眼点の転換を言います。で、「人間は何のために生きるのか」という問題を考察するには、この「視点の転換」を2度ほどしなければならないのです。この「視点の転換」という突破口を見つけることがなかなか困難であるため、「人間は何のために生きるのか」という問題に解答することは困難なのです。

第1の視点の転換

 「人間は何のために生きるのか」という問題を直接考えようとすると、「人間は何か目的をもって生まれてきたはずだ、ではその目的は何か」、というとらえかたをすることになります。ところがここで第1の視点の転換を必要とします。人間は何か目的をもって生まれてきたのではなく、「生まれてきた」ということは結果に過ぎないと考えるべきなのではないでしょうか。つまり、自分が生まれてきた、生まれてみたらそれは自分だった、それは結果なのです。自分が生まれてきたことが結果ならば、ではその結果を受けて、せめて「いい生き方」をしたいという感情をもつことになります。では「いい生き方」とは何だろうかと考えたくなります。しかし、実は「いい生き方」というものは特定できない。これこれこういう生き方がいい生き方だ、と特定することは不可能なのではないでしょうか。

第2の視点の転換

 どういう生き方がいい生き方なのか特定できないとすればどうすればいいのでしょうか。ここで第2の視点の転換が必要になります。つまり、問題のとらえかたはむしろ逆で、良くない生き方にはどういうものがあって、どうしたら良くない生き方というものを遠ざけることが出来るかということが問題になると思う。周囲を見渡すと、良くない生き方をしている人がわんさかいます。なぜこんなにも良くない生き方をしている人がわんさかいるのでしょう。その答えは、人間は生来、無知と放縦と怠惰いう欠点を持って生まれてきているからです。このため、何の教育も受けず、何のディシプリンも受けずにいると、その生来の無知と放縦と怠惰にまかせて良くない生き方のし放題になってしまうのです。

 従って、人間が自分の生き方を探求するときにまず考えなければならないのは、自分にはどの程度の無知と放縦と怠惰があって、その結果自分はどんな「良くない生き方」をしているのか、それを自覚することが重要になのです。もうひとつ注意すべきポイントは、「良くない生き方を遠ざける」ということは、「良くない生き方を遠ざけ続ける」、ということなのです。つまり、良くない生き方を遠ざけ続ける不断の努力をしない限り、「良くない生き方」のワナにはまってしまう可能性があるのです。これは例えば空地の草取りをある程度の期間さぼると、草ぼうぼうになってしまうのと似ています。いやはや、ちゃんと生きていくだけでも大変なのですね。人間が信仰を求め続ける傾向があるのは、「良くない生き方を遠ざけ続ける不断の努力」を支える精神的バックボーンが必要になるからでしょう。


3. 
「不倫」と「道ならぬ恋」

 私はマイミクのあるピアニストさんの日記に面白いお話が書き込まれていたので、つい関心をもって読みふけってしまったことがあります。その面白いお話とは次のようなお話です。

 そのピアニストさんが、中学生(女子)の生徒さんに、フォーレの『シチリアーノ』という楽曲についてレッスンを授けていました。レッスンの一環として、この楽曲のバックグラウンドについて調べてくるようにその生徒さんに指示を出しました。生徒さんは、自分が調べてきたこの楽曲のベースである「ペレアスとメリザンド」の物語のストーリーを話し始めました。

 「夫の弟に恋をした。たどり着く場所に光はないと分かっていながら、何かに突き動かされるような熱情を抑えることができなかった。結婚指輪を水に沈めたその日から、私たちはもう後戻りできなくなった。だけど、そんな関係もやがて、夫の知るところとなり、…、 要するに不倫の話デスよ」

 おしまいの「要するに不倫の話デスよ」というのは、この中学生の生徒さんの発言です。先生を務めていたそのピアニストさんは、中学生の口から「不倫」という言葉が突然出てきたことに少々の衝撃と戸惑いを受けた、というのが日記のお話しなのです。中学生が「不倫」などという言葉を口にするのがそもそも生意気ではあると思いますが、私たちは、このトピックからもっと深い問題の介在を読み取らなければならないような気がします。「不倫」という言葉は、「人倫にそむくこと」という意味です。すると、この言葉の本当の意味を理解するためには、何が人倫なのかを知っていなければならないと思うのです。いったい、この中学生はもちろんのこと、今の日本の大人たちも、何が人倫なのかを本当に知っているのだろうか、という問題を提起したいのです。

 それから、私が関連して考えてみたいことがもうひとつあります。それは、「不倫」と「道ならぬ恋」とはどう違うか、ということです。「道ならぬ恋」という言葉の背後にはある種の美しさを感じさせます。もちろん「道ならぬ恋」は罪です。だが、「道ならぬ恋」という言葉には人間の弱さと純粋さと美しさが潜んでいるような気がする。そうだとすると、「不倫」と「道ならぬ恋」との違いがきちんと識別できないまま、安易に「不倫」というやくざな言葉を使うことによって、美しい言葉に対する感受性が鈍磨してしまわないか、ということです。音楽には「道ならぬ恋」のファンタジーが込められた作品が多数あります。ヴァイオリン小品の定番『タイスの瞑想曲』もそのひとつです。こういった作品のファンタジーを正確にかつ豊かに解読できる人間であり続けるためにも、言葉に対する感受性は大切にしたいものだと思うのです。


4. 
「知性化」と楽曲理解

 みなさんは「知性化」という言葉をご存知でしょうか。これは、字面から「知性的になる」というような肯定的な意味を連想してしまいますが、実は例えば「難解な専門用語をこねくり回して知ったつもりになる」というような否定的な意味の言葉です。まず「知性化」について詳しく記述しているウェブサイトの文章があるのでご紹介します。

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 自分を直視することを避け、知性の世界や、観念的な世界に逃避してしまうことです。専門用語を乱発したり、やたらに難しい言葉を使ったり、言い訳的な言説に終始したりします。一見ものごとを理解しているように見えたりしますが、本質的なことは何も理解していません。
 難しい表現を使ったりすると、自分自身でも何かを理解したような気になりますし、誇大感を膨らませることもできます。しかし、その背後にあるのは優越感を持ちたいという気持ちであり、支配したいという願望です。これは見捨てられ不安から来る、無力感の裏返しだったりします。観念の世界に逃げ込んでしまうと、自分の感情をありのままに直視することが難しくなります。乱発する知的な言葉は、本質的な問題へのめくらましとして機能します。

 このような知性化は、言い訳のため屁理屈としても機能します。だれかから自分の行動の問題点を指摘されると、それなりのつじつまの合った説明をします。本人もその説明は間違っていないと思い込んでいます。自分の行動は正当化されます。しかし、第三者が見れば、単なる言い訳にしか見えません。逃げているだけなのです。さらに追求されても、言い訳を重ねるだけで、決して自分を素直に見つめることはありません。そして、本人はどこにも問題がないと思い込んでいます。自己洞察においても、言い訳的な、的外れの展開に終始して、分析が停滞したりします。

 人間の行動はそれほど知的なものではありません。たとえば動機が食い物の恨みからであったとしても、そういった卑しい動機は深く隠されてしまい、哲学的で高尚な説明がついたりします。見捨てられた孤独感が、人生の虚しさに関する哲学や、人類の宇宙的な孤独感にすり変わったりします。このような哲学や言い訳は、行動や感情を正当化するために、後から作られるものなのです。最初に行動に駆り立てる衝動とは、実に卑近な感情でしかなのです。自己分析においては、この卑近な感情を見つめる必要があります。そして、語るべき言葉は、心の底から絞り出された、感情によって裏打ちされたものでなければなりません。悲しみや、怒り、嫉妬、羨望、食い意地、独占欲、軽蔑、陰険な復讐願望、境界例の人の心の底にはこういった諸々の感情が眠っています。こういう感情を見つめ、知的な言葉ではなく、自分自身の言葉で語らなければなりません。

 もちろん、このページを読んでも、知ってるだけで終わってしまい、ぜんぜん自己分析に生かされないとしたら、それも知性化と言えるでしょう。

http://homepage1.nifty.com/eggs/houhou/bouei/tisei.html
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 この「知性化」という概念は、私たち演奏家が楽曲の理解に取り組むときのありかたをさぐる場合にも、有効に適用できるような気がします。私たち演奏家が楽曲の理解に取り組むとき、CDなどの模範演奏をとにかく通り一遍に聴いただけでわかったような気になるというのは禁物ですね。最低限、その曲を弾いてみなければ分からない。弾いてみることによって愛着や共感がどんどん深まっていくということが実際あります。上の「知性化」の解説文に「こういう感情を見つめ、知的な言葉ではなく、自分自身の言葉で語らなければなりません」という記述がありますが、これを演奏家が楽曲にアプローチする場合に当てはめると、「その楽曲にこめられた作曲者の情念や思念を、自分自身の演奏を通じて探求し感じ取らなければなりません」ということになろうかと思います。

 また、「知性化」の戒めは、例えばソリストと伴奏者が合奏練習している音楽工房の場で、音楽つくりのイニシアティブの奪い合いをする局面で適用できそうな気がします。つまり、相手から音楽つくりのイニシアチブを奪いたい、あるいは安易に相手からイニシアティブを奪われたくないという動機にかられて、自分の人格を知性化してしまう誘惑にかられる可能性があるような気がします。林秀彦氏は、自身の著書『日本人はこうして奴隷になった』という本の中で、「日本人は考えあうということができない」という指摘をしています。実際日本人はその指摘通りであると思います。しかし音楽つくりのディスカッションをする局面で、当事者に求められるコミュニケーションマインドはまさにこの「考えあう」という姿勢なのではないでしょうか。そしてこのコミュニケーションマインドの妨げになりうる要素としても「知性化」が挙げられると言えるでしょう。


5. 
日本人にとっての自我の設計図

 プロ・アマを問わず、演奏家がよりよき人生の姿を構想し追及しようとするとき、「良い自我のスタイルとは何か」という問題は避けて通れないように思います。そこでこの問題を考えるに必要な、現在の時点で私が気が付いているポイントを4,5点列挙してみたいと思います。

 第1のポイントは、日本人のこれまでの自我観は全く幼稚でお粗末なものであったと言わざるを得ないということです。「自我」といえば「わがまま」のことと同一視している人すらいる有様です。この同一視観によれば、「自我が強い」ということは「わがままだ」、「エゴイストだ」ということになってしまうのです。また、文学批評家の福田恒存は、『日本および日本人』というエッセイの中で、「私たちの祖先は、死や病と同様に、我を、エゴイズムをこのうえない醜いものとして退けてきた」と指摘しています。だが、このような薄っぺらな思想は教育上も非常に良くないと思う。というのは、文部科学省等日本の教育行政の関係当局が、例えば日本の教育方針を策定するにあたって、「子供に生きる力を付けさせることが必要だ」というようなテーゼを唱えています。日本の子供や若者に、自律的主体的に自分の生き方を模索し行動していく能力がひ弱であるように感じられるため、そのようなテーゼが唱えられているのでしょう。しかし自我が欠如した「生きる力」というものを我々は本当に想定することができるのでありましょうか。むしろ、「生きる力」とはある意味において「自我」そのものなのではないでしょうか。このため、「自我」を否定するところに「生きる力」の育成はとうてい考えられないのではないでしょうか。

 第2のポイントは、第1のポイントとも関連することですが、自我を否定したり嫌悪したりすることが、欲望の否定にもつながっているということです。欲望を否定するところに人間の成長は無く、人生におけるのびやかなエネルルギーの発揮もありません。現在の日本の産業経済の停滞や株式市場における低迷の背後には、現在の日本人のこういった本質が関係しているのではないでしょうか。また、加藤典洋氏は、自身の著書『日本の無思想』の中で、「公共性は私利私欲の上に築かれうるばかりでなく、近代にあっては公共性が私利私欲の上にしか築かれない」ということを指摘しています。そうだとすると、私たち日本人は真の公共性をこの日本の社会の上に樹立するためにも、私利私欲と自我の望ましいあり方を真正面から探究しなければならないのではないでしょうか。

 第3のポイントは、その人間がその社会の中でどんな自我を形成しうるかは、その社会の中で個体としての人間が、社会とどんな関わり方が可能となっているかということと深く関連しているということです。平たく言えば、「人間は自分一人で自我を形成することはできない」ということです。だから、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、社会のより良いあり方、公共性のより良いあり方を構想することも相伴う必要があるのです。

 第4のポイントは、人間のより良い自我のあり方を設計するということは、「善」をどういうものとしてとらえるかということと無関係ではありえないということです。なぜかというと、「善」とはひとつの状態を指すのではなく、能動的な行動力によって支えられるものだからです。実際、能動的な行動力が何も無い人間が善人であるということは考えられないことです。確かに日本語の世界では「善人」というと、「人畜無害な穏やかな人」というような意味に使われることもありますが、本来の「善」とは、能動的な行動力によって支えられるものです。そして、人間がどんな形にせよ能動的な行動力を持つということは、自我なしにはあり得ないことなのです。ということは、人間が「善」を探究するときには、自我は不可欠の要件であるということが言えるのです。

 第5のポイントは、人間のより良い自我のあり方の設計と、「演技」あるいは「表現」という概念との関係をきちんと考察しなければならないということです。日本人にとっては、「演技」という言葉は残念ながら取って付けたような外来語の域をいくらも出ていないのですね。日本語の「表現」という言葉も、日本語の体系の中ではしっくりとした落ち着きを持っていないような気がするのです。私の考えでは、「演技」することも「表現」することも、人間が人間らしく人格をもって生きるということと密接に関係しているのです。そしてこのポイントは、音楽家の才能とは何かという問題を考察するときにも関係していきます。音楽家の才能とは、自己の音楽家としての人格を自律的に育てていく力のことであるといってもよいでしょう。従って、もし日本において「自我」が否定されるべきものであるとすると、日本は音楽家の才能をつぶすような社会であるということになりかねないのです。


6. 
異国の地で死ねるか

 私のマイミクさんのおひとりに、ある国の歌劇場から劇場の専属ピアニスト(あるいは研修生ということか、詳細は不明)としてお声がかかっているのだがどうしたものか、ということをおっしゃっている方がいます。もしその歌劇場からのオファーを受けることにすると、当然ながら、その国を日常の居住地とするということになります。するとその地で生活することになった場合は、その地で死ぬことも当然ありうることになる。そしてその方がこのお話を受諾するにあたって決断をためらわせている理由が、まさにその地で生活することになった場合その地で死ぬことを受け入れられるのだろうか、ということのようです。

 日本人の場合は、「異国の地で死ぬ」ということに比較的抵抗感を持ちやすいと思います。私の考えでは、このことには宗教的背景があるような気がする。どういうことかというと、その人の育ってきた宗教的バックグラウンドが、例えばキリスト教などの「創唱宗教」である場合は、自分が異国のどんな地に赴こうとも、基本的に自分の信じる神様が見守っていてくれるという信仰が持てるのではないでしょうか。ちなみに「創唱宗教」とは、特定の人物が特定の教義を唱えていて、それを信じる人によって支えられてきた宗教のことです。実際キリスト教の教義の出発点はイエスの教えであり、その原典は新約聖書に記されています。

 ところが、日本人が抱いている宗教観は、基本的に自然宗教の宗教観だと思うのです。「自然宗教」とは、いつ誰によって創められたかがはっきりしない、文字通り自然発生的な宗教のことです。「仏教」はもともとは創唱宗教であると考えられますが、日本に伝来して土着した段階で、「自然宗教」的な形態にデフォルメされ、土着性を持つに至ったと思われます。このため、日本人の多くは仏教の信者であると仮定しても、創唱宗教としての仏教の信者であるとは言い難い。実際、たいていの日本人は、お釈迦様の教えが具体的に何であるかを明確には理解しておらず、その教義を日常生活の実践に適用している現実もきわめて希薄です。代って日本の場合は、その宗教の土着性が強く表に出てきており、その地の生活習慣や習俗、風俗と密接な関連を持って今日に至っているのです。この点においては、神道もおおむね同様でしょう。すなわち、日本人にとっての神道も、明確な教義をもった宗教であるとは把握されておらず、実質的には自然宗教として把握されているというのが現実なのではないでしょうか。

 さて、その人の育ってきた宗教的バックグラウンドが、例えばキリスト教などの「創唱宗教」である場合は、その宗教の創唱者(キリスト教の場合はイエス)の唱えていることを信じることが信仰の本質であるため、その信者にとって、世界中何処に行こうとその創唱者の唱えていることは不変であるということになります。このため、その信者が信仰を維持するにあたって、自分が生活や人生を送る地がどこであろうと無関係ということになるのです。平たく言えば、「世界中どこに行こうと神様が私を見守ってくれる」と信じることができるのです。このため、「異国の地で死ぬ」ということに、大して違和感を感じないのではないでしょうか。

 ところが、自然宗教、とりわけ土着性の強い自然宗教の信者である日本人の場合は、自己の自然宗教の地(例えば故郷や故国)を離れると、行先の地にもその自然宗教が同様に「効力」を有しているかどうかは確信が持てないということが起こると考えられます。このため、異国の地で死ぬことに抵抗感を持ちやすくなると思うのです。