〈随想・医学史点描・連載(2)〉  
    
    
島峰 徹とその時代(一)
      
村上 徹(初出・群馬県齒科医学会雑誌・第15号 51-74(2011)


(前稿の補遺)

 前稿の<小林虎三郎の甥 小金井良精>の項で、星新一が良精伝に引用した岡文造なる人物の「回顧録」を、出典の記載がないまま星の原文を引いておいたが、その後の調べで出典がわかったので、前稿の補遺として少し追加しておきたい。
 岡の記述は、明治5~6年の頃の大学東校の学生や学校の状況を具体的に活写している点で甚だ貴重なものであるが、この一文は、東京帝国大学法医学教室五十三年史に掲載されていたことがわかった。その一部が東京大学医学部百年史1)に引用されている。星は良精伝の執筆にあたって、これをかなり入念に読みこんでいるので、おそらくこの引用をそのまま良精伝に孫引きしたものと思われる。
 ホフマンの栄養説にしたがった学生の給食が、「朝食に卵三つと汁、昼食は百目位の牛肉一皿、夜は魚、牛肉のソップ、野菜」というのはいかにも豪勢で、現代の大学寮生の食事にも優ると思われるほどだが、この多量の牛肉の供給が何処からきたのかというと、「皮製造人」の弾左衛門からであり、だから「牛の肉はいくらでも取れる。これを賄所に運んで来て、股など沢山吊り下げて置いて古いのから順次に調理して行った」という岡の記述には、ひときわ別の興味がそそられる。
弾左衛門とは当時の穢多非人の元締の浅草弾左衛門のことで、彼は幕末に、奥医師松本良順(後に順)2)の知遇を得て幕府の西洋医学所に関係するようになった。これが東校の前身であることはいうまでもない。
 東校の所在地はかつて西洋医学所がおかれた下谷泉橋ぎわの大名藤堂家の屋敷の跡地で、浅草新町(山谷堀の近辺)にあったという弾左衛門の屋敷からそんなに遠くない。
 松本良順は佐倉順天堂の開祖・蘭方医佐藤泰然の次男で、早くから父の蘭方を継ぐべく志をたて、父の親友である奥医師松本良甫の養子となった。
 江戸で開業医として和田塾を開き盛名を馳せていた泰然が佐倉に移住したのは、蛮社の獄で罪人にされた蘭学の師高野長英を匿ったことで咎を受けるのを恐れたためといわれる。泰然はそれまで母方の姓の和田を名乗っていたが、このとき父方の姓をとり佐藤とした。彼を招いた佐倉藩主堀田正睦は、閣老首座にあったときも蘭癖(らんぺき)(蘭学好み)といわれたくらいで、その開明ぶりは大名の殿様としては異例といえよう。
 松本良順こそ幕末から明治にかけての日本の近代医学史の上で、≪医傑≫とも称されてしかるべきる人であろう。佐藤泰然は当時の蘭方のもっとも卓絶した外科系の医者であったが、一風かわった人で、夭折を免れて成人した息子は、いずれも俊才ながら皆他家に養子に出し、自分の順天堂は、弟子の中でもっとも能力が優れた山口舜海に繼がせた。その際舜海は尚中(たかなか)と改名した。この人が明治5年大学大博士として東校を総理した佐藤尚中で、彼はこののち陰に陽に良順を助けることになる。
 
 幕末、列強の海軍の威力を目の当たりにした幕府は、ながねんの勝海舟らの建言を容れ、ようやく重い腰をあげて長崎に海軍伝習所を開き、オランダから教官を呼び、海軍や操船の基礎に関する事項の一切を習得する機会を海舟らに与えた。この時の第2陣目の教官隊の責任者が、海軍士官カッテンディーケである。この人物は、子母沢寛や司馬遼太郎の小説によく登場してくるから、親しんでいる読者もおられよう。
 勝の友人でもあった良順は、同じことを医学でも行う必要性を痛感し、幕府内で様々な工作をしたが、蘭方を憎悪していた漢方の奥医師連中の妨害があって事がうまく運ばず、結局は海軍伝習所の御用医師の名目でこれに加わることが許され、良順の伝習の内容が<軍事>か<医学>かは幕閣は関知しないという黙認とでもいうべき成果を得た。かくして良順は、オランダの海兵隊に所属していた陸軍二等軍医ヨハネス・リディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メーデルフォルト(通称ポンペ)を講師とする最新のオランダ医学の伝習機構を作り上げた。ポンペはカッテンディーケの指名で、日本に派遣されるオランダ隊の隊員に加わっていた。ポンペらは安政4年(1857)に来日したが、これは小金井良精が生まれる1年前である。
 当時、大阪の緒方洪庵の適塾で塾頭をしていた長与専斎3)が、江戸に出てさらに蘭方医学を学びたいと洪庵に相談したとき、洪庵が、「今さら江戸の古くさい蘭方医についた所で何ほどのことがあろうか。それより、長崎に行ってポンペに学べ。いま長崎では、オランダ語で直接医学の講義が聴けるという。これこそ我々蘭学者が長年夢みていた状況ではないか」と諭したのは、良順のこの企てが早くも蘭方医の間で喧伝されていたことを物語っている。
 良順は、この時代の蘭方医として最新かつ最高峰ともいえる存在になった。長崎では、ポンペの助言にしたがって、臨床医学の伝習には付属病院が必要なことを長崎奉行所に説き、ポンペ来日4年目の文久元年(1861)に長崎療養所を設立し、この時併せて設立された医学所の頭取になった。ちなみに、この長崎療養所は、日本で初の近代医学に拠って立った病院である。のちにこれらの施設が≪長崎精徳館≫となり、長崎大学医学部にまでつながる。
 緒方洪庵が奥医師として幕府に召し出だされ、城づとめを嫌っていた洪庵が断りきれず討ち死にするような覚悟でこれに応じて西洋医学所の頭取をも兼任させられると、良順は折しもポンペの離日もあって長崎から江戸に呼び戻され、副頭取に任じられた。そして洪庵が急死すると直ちに頭取になった。石黒忠悳(ただのり)がここで勉強していたのは良順の頭取時代である。
 良順は正義感の強い非常な熱血漢で、格式ぶるだけで医学的には一向に無能な漢方医の権威者連中をにくむと同時に、きわめて幕臣意識が強かった。やがて幕府が倒壊し戊辰戦争が勃発すると、彼は身内に滾る熱血を抑制できず、江戸を脱走して会津軍に合流しそこで軍医として大活躍した。彼の会津従軍の狙いのひとつは、遅れた漢方しか知らない地方の医師に、進んだ西洋医学の初歩を手ほどきすることでもあった。維新後はそれが裏目に出てしばらく入牢させられていたが、軍陣医学で一段と鮮明になった彼の医師としての力量名望は覆い難く、早稲田に私立の大病院≪蘭疇舎(らんちゅうしゃ)≫(蘭疇とは良順の号)を設立して大成功し、その後の人生を民間人として過ごすことに決めていたが、新政府の山縣狂介(後の有朋)の懇請もだしがたく、結局は兵部省に関係して初代の軍医総監となり、軍医制度の創設に尽力した。
 良順と被差別民の総元締であった弾左衛門との交流は一口には語りきれない。これだけで一冊の本の主題となる位の重みがある。興味のある方は良順の自伝2)のほか、文献4)、5)などを参照されたい。
  
第1章 島峰徹の生涯の通覧

長岡藩々医の子

さて、ここからが前回の続きになる。最初にざっと島峰徹の医師・歯科医師としての生涯を通覧しておこう。
島峰徹は明治10年に越後の刈羽郡石地(いしぢ)村(現・柏崎市)に、漢方医島峰恂斎(じゅんさい)の長男として生まれた。石地村とは、現在のJR越後線石地駅があるあたりである。父恂斎は戊辰戦争の際に22歳で祖父伝庵の家督を相続し、長岡藩の藩医となった。このとき伝庵は63歳で、長岡藩の藩士はみな従軍することとなったので、その労に耐えずとして急遽隠居することにしたらしい。島峰は第四高等学校(四高)から東京帝国大学医科大学(以下、東大医学部)に進み、明治38年に卒業すると2年後の明治40年に、歯科学の習得を志してドイツへ私費で留学した。
 島峰徹について書かれた伝記の類は、私が渉猟した限りでは、長尾(まさる)の「島峯徹先生」6b)(以下、島峯伝)が唯一のものといっていい。東京医科歯科大学の学生が発行する“医歯大新聞”の古い号7)に徹の生いたちに関する短い記事があるが、これは学生の記者が当時同大学の学長をしていた長尾ら関係者に取材して構成したものらしく、島峯伝の出版以前の記事だけに初報として評価されるが、その後明らかになった史料と照合すると少しまちがいがある。いずれにしてもこれらの記録は、医学という分野のそのまた一分野にすぎない歯科という狭い世界のごく一部の者だけが知っている史料で、そういう意味では、島峰徹は、現在では、世俗的には殆ど無名に近い存在であろう。
 長尾は島峰に師事した最初の東大出の医学士で、後に島峰の奔走で創設されたわが国初の官立の歯科医師養成学校である「東京高等歯科医学校」で教授となったが、もともとは、島峰がドイツから帰朝する前に東大医学部を卒業(大正2年12月)して長与又郎(ながよまたろう)8)の病理学教室に入り、のちに歯科を志望して石原久9)の歯科学教室に入局した医師である。
 長与又郎はさきに短くふれた長与専斎の三男という華麗な一族の出で、出自学力人望のどれをとっても学内で一目おかれた際立った俊才、卒業の年次が島峰の一級上であった。一方島峰は貧窮の苦学生で、同郷の実業家内藤久寛(ひさひろ)から学費の提供を受けて修学を続けていた。しかしこの両者は、幸いにもウマが合ったのだろうか終始昵懇な間柄だったようで、後にこの和やかな人間関係が、石原教授対島峯講師の対立以来、東大医学部と高等歯科との間にわだかまっていた険悪な雰囲気を一掃するのに大きな役割を果たした。それは後のことである。
 長尾が入局した当時の東大の歯科学教室は、明治35年(1902)に開設10)されてから10年以上たっていたが、まだ講座にもなっていない弱小教室で、石原久が佐藤外科の助手から抜擢され、助教授としてこの教室の主任をつとめていた。
 東大医学部に歯科の設置を思いたったのは、さきの佐藤外科の主任教授であった佐藤三吉(さんきち)といわれている。佐藤は、ベルツ(内科)と並び称された外科のドイツ人教師スクリバの後任の日本人初の外科学教授である。ベルツのあとを継いだ2人目の内科学教授青山胤通(たねみち)と同郷かつ同級で、ドイツ留学も一緒だった。日本の外科学はこの人から始まったといえる立場にある。
 佐藤三吉が東大医学部に歯科の創設を思いたった理由は明らかではないが、ここには明治30年と34年に、当時の新聞を巻き込んで展開された「官立歯科医学校」設立の請願運動が文部省に与えた影響があったことは間違いないだろう。
 大学とすれば、別に歯科ばかりではない。整形外科も耳鼻咽喉科も必要だった。これらは全部外科系の科目である。人材の供給源はたった一つの佐藤外科しかない。
 特に歯科が難題だった。ポンペ以来外人教師の日本における医学伝習で歯科が教育された形跡は全く見られない。だからだろう、希望者が誰もいなかった。古くさい漢方の口中医の生き残りや、口中医ですらない香具師たちが、まだ街頭でしがない歯抜きや入歯渡世をしていた頃である。いかに落ちぶれたとはいえ、路頭で医術を売っていたのは歯医者だけである。歯医者は低く見られていた。町には医術開業試験をパスした新進の歯科医はもちろんアメリカの大学出の歯科医師もいたが、東大医学部の出でない者を一教室の責任者にする事など東大は全く眼中にない。
 困り果てた9)佐藤は石原に目をつけた。一説によると、数人の教室員に籤をひかせたところ、石原が歯科に当ってしまったのだという。石原にしてみれば、ババを引いたようなものだったかもしれない。石原は一高から東大に進み、明治27年卒業の「若いころから全く真面目で他の人のような失敗談もなければ逸話ももたない廉直勤勉な学徒」9)で、当時は卒業後5年目の助手だった。結局この人事は失敗で、東大にも歯科学にも、石原にも島峰にもよい結果をもたらさなかったのだが、それは後から振り返って見ての話である。
 佐藤は留学のおまけをつけて石原を助教授に抜擢し、歯科の主任に据えた。石原はほかの教授候補者と同様ドイツへ留学した。留学中に歯科学教室が誕生した。彼の帰朝は先にも書いたように明治36年である。帰朝すると石原は内科の病室の片隅を借りて、歯科の外来診療を開始した。
 石原がドイツで歯科学の何を履修しどんな論文を書いたのかは一切わからない。大正5年に彼は博士の学位を得ているが、これはドイツから帰朝した島峰が、すぐ講師になって堂々たるドイツ語の論文11)を提出し学位を得た(大正3年)のに、年上の教授たる石原が無冠のままではという配慮があったためか、<推薦>によるものだった。
 
 この歯科学教室は、長尾の入局後すぐ講座に昇格し(大正4年)、石原は初代の主任教授になった。ふつうなら、長尾の入局当時のこの教室は、勃興の意気おおいにあがる新進の教室で、その後の日本の歯科学研究の中心となってしかるべき所であった。しかし、石原はやる気がなくて教室は全くふるわず、周囲からバカにされ放題のようなところがあったようだ。一説によると、石原は生涯一編の論文も書かなかったといわれている。やる気満々の学士教室員の憤懣は当然(たか)まってゆかざるをえない。これじゃ新しい町医者にも劣るじゃないか。こんな教室ってあるか。歯科学とは一体なんなんだ。外国じゃどうなっているのだ。長尾ら教室員は暇さえあればこういう議論をしていたという。長尾の著書「一筋の歯学への道普請」6a)のこのあたりの叙述には迫力がある。(周知の石原の業績は、大正7年に「日本歯科口腔科学会」を設立して初代会長に就任したことであるが、この学会はその後「日本口腔科学会」と名称を改め、日本医師会(、、、)傘下の唯一の歯科系の医学会としてユニークな存在になっている。)

島峰徹、石原久とはじめて会う

 こんな中に島峰徹がドイツから帰朝した。大正3年12月。留学生としては稀に見る長期間の留学で、じつに8年ぶりである。島峰が日本へひき上げてきたのは同年6月28日に第一次世界大戦が勃発したからであるが、この戦争がなければ彼はそのままドイツに居続けたかもしれない。梅毒の原因菌であるトレポネーマ・パリダの純粋培養に成功した論文12)を発表したため、島峰徹の名声はヨーロッパで一挙に高まり、自力で十分な生活費を得ることが可能となったためである。
 島峰の留学は、内藤久寛の援助による私費から途中で国費に切換えられたが、それにしても島峰の滞独があまりに長いので、少し訝しんだ内藤は、明治45年に、ドイツに視察に赴いた長岡病院の院長谷口吉太郎(内科医)に島峰の身辺調査を依託している。谷口は内藤に、ドイツの医学界における島峰の評価などについて詳細な報告文を送っているが、この中で内科の入沢達吉教授が、表面は如才なく振舞っているものの、東大の教授会等で島峰に悪意ある言動をしていることに警戒すべきだと伝えているのは注目される。
 谷口は長岡藩士谷口吉兵衛の長子で、吉兵衛は廃藩前は120石どりの武士だった。しかし彼には才覚があったのであろう。谷口家は廃藩後も素封家として聞こえ、よく人の世話をした。吉太郎は東大医学部を卒業したあと内科を専攻し、明治33年11月から一貫して長岡病院に勤務していた。彼の従兄弟には、石黒忠悳の書生から立身して世界で始めて乾電池を発明し、日本の「乾電池王」とまでいわれた立志伝中の人物屋井先蔵がいた13)。また谷口は、医員を派遣してもらう関係上、教授である入沢とも何かと関係があった。
 
 島峰の帰国は、小金井良精により既に長尾ら歯科の医局員に伝えられていた。歯科での長尾の先輩医局員に、小金井の解剖学教室で研究していた人がいたからである。長尾は学生時代に泌尿器科学の講義で、教授の土肥慶蔵から、トレポネーマ・パリダの純粋培養に成功した輝かしい日本人学者として島峰の名前を聞いていた。長尾ら歯科学教室の学士教室員らは、大正3年12月1日に6人打ち揃って新橋駅頭に帰朝した島峰を出迎え、翌日島峰を寄留先の内藤家に訪問して、早速日頃の疑問をぶっつけるという成り行きになる。
 良精伝によれば、良精の日記の大正3年12月7日の項に≪島峰氏を歯科の石原氏に会わす≫という記事がある。前にも書いたように歯科が創設されて石原が助教授として主任となったのは、島峰が大学を卒業する3年前の明治35年であり、石原がドイツから帰朝したのが明治36年であるが、良精がこのように記しているところを見ると、島峰と石原とはこれが初対面だったのだろうか。いずれにしても、石原は面白くなかっただろう。

 一方島峰は、帰朝してすぐ歯科学教室の講師に就任したものの(大正3年12月15日)、ドイツに比べるとあまりにもダメなこの教室、というより歯科を束ねている石原には早々と見切りをつけたらしい。石原も島峰の新知識を尊重しようとはしなかった。国際的に雷名あるコッホの高弟としてヨーロッパで赫々たる業績をあげ名声を博して帰ってきても、母校の東大では冷遇しかされなかった北里柴三郎と、結局は同じ憂き目を見たのである。
 北里は福澤諭吉が援助して「伝染病研究所」を作ってくれたが、島峰の場合、内藤はいても福澤はいなかった。島峰は自分で自分の居場所を作るより策がなかった。しかし、そこが手腕家である。早速翌年には「医術開業試験附屬病院歯科医長」(大正4年5月24日)となり、そこで月給50円をもらう立場を獲得した。通称「永楽病院」と呼ばれた病院である。
 
島峯、東大と訣別する

 この頃の何時、島峰が東大講師を辞職したのかは不明である。星が、「医学部百年史によると(略)島峰徹、大正3年12月15日講師就任とあり、退職時期、不明とある。[東大医学部の講師以上の全教員の中で]在職期間の不明なのは彼ひとりである」と書いているとおりである。この一事からも石原と島峰の不仲が透けて見えるようである14)。
 この永楽病院は、永楽という名が示すように、もと麹町区永楽町(今の東京駅千代田口の前あたり)に、明治30年に内務省医術開業試験場として設立されたものであるが、明治36年にその業務が内務省から文部省に移管され、明治41年に小石川区雑司ヶ谷に新築移転した。島峰が勤務したのはこの雑司ヶ谷の頃である。この頃金森虎男15)は一度決めていた東大歯科学教室入局を急遽中止し、石原に直接入局辞退の挨拶をしてから、永楽病院歯科の島峰に無給副手として入門している。当時、長尾は歯科学習得のためアメリカに留学していた。
 
 こんな成り行きから、島峰は東大の教室とは一応別れて、弟子を抱えて永楽病院で自己と歯科の将来への活路を見いだすような形になったのだが、当時の島峰には別にはっきりした展望があったわけではない。また、そこの施設も、「実ニ貧弱ナルモノデアッテ、唯十畳敷位ノ室総テガ此一室デ此処ニ木製椅子僅カニ三台(略)到底歯科医術開業試験ナドノ看板ヲ懸ケルコトハ滑稽ナル程ノ状態」6a)と島峰自身が書いているほど粗末なものだった。そのうえ彼の将来を危うくするような暗影の兆しすらチラチラした。
 明治38年から41年までこの病院の内科医長・院長をしていたのは、さきにふれた入沢達吉である。入沢は越後南蒲原郡今町(現・見附市)の出身で、見附市の大半は村松藩の藩領だが、今町だけは新発田藩10万石の領地であった。
 達吉の父入沢恭平は先進的な開業医で、弟の兼輔とともに蘭学を志し、越後から江戸に遊学しその後長崎でポンペに学んだ人で、一時新発田藩に仕えたこともあったらしい。越後にはじめて蘭方をもたらした医者であるが、達吉が少年の時に死去した。恭平の弟つまり達吉の叔父の兼輔は池田氏の養子となり、長崎精徳館での修行からドイツに留学し、本邦初の医学博士で東大初代の医学部綜理になった池田謙斎である。謙斎は達吉が12歳のとき彼を東京に呼び寄せて漢学塾に入れ、明治10年東大医学部予科に進学させた。
 入沢は明治22年1月に東大を卒業してベルツの助手になると23年から27年までドイツに留学し、明治34年に内科の教授になり、翌35年新講座の入沢内科が設置された。佐々木政吉(明治19年)、青山胤通(明治20年)、三浦謹之助(明治28年)に次いで4人目の日本人内科学教授である。このうちの佐々木は、明治28年に41歳で退官して三浦がその後任者となったので、東大の花形科目である内科の3講座は、以後この3人が分担することとなる。永楽病院の院長というのは、このような実力者がつとめるポストだったらしい。
 
 今町は戊辰戦争で河井継之助が官軍を敗走させた激戦地となった所で、戦災で住民の家財はみな焼尽した。当時3歳半だった達吉には、うっすらと当時の記憶が残っていた。尤も、新発田藩は、周囲に親藩や譜代の小藩がひしめく越後では孤立しがちな外様大名で、戊辰戦争では一旦は奥羽列藩同盟に加わったが、巧妙な外交を展開し殆ど無傷で官軍に帰順した。徹底抗戦した隣藩の長岡や会津とはえらく違う。小金井、島峰と入沢とは廃藩置県後の県レベルでいえば同じ新潟の同郷ということになるが、入沢は彼ら対しては同郷意識などはもっていなかっただろう。そのうえどこか骨っぽい士族出の前二者とは、肌合いがだいぶ異なっている。
 この入沢が大正2年に、前年の大正1年に行った欧米の医療施設を視察した旅行の報告16)の中で、「伯林大学の歯科教室」の新築落成の開院式に招待された模様を記録にとどめている。「実に欧羅巴第一の大規模の歯科教室であります。歯科が三科に分かれ三人の教授がありまして、銘々教室の一階を占有して居りました」というものだが、同年9月に、ここの保存療法科に創設された学術研究室の主任として年俸1500マルクで招聘されてこの式に連なっていた島峰への言及はない。こんな地位を獲得した日本人留学生は、それこそアメリカにおける野口英世に匹敵するケースだったといえるのにである。島峰はのちの講演で、この開院式に、時の臨時代理大使船越男爵と「入沢博士」が列席していたことを話している17)。入沢が島峰を嫌っていたらしいのは幾つもの資料で明らかであるが、これは島峰にとってはかなり厄介なことだったろう。
 
東大に歯学科ができなかった理由

 その後大正5年に医術開業試験規則が改正され、医師のための規則と、歯科医師のためのものとが分離された。医術開業試験附属病院の中に、歯科医師開業試験附属病院が同居する形となったのである。その翌年に、医術開業試験附属病院は東大小石川分院となり、島峰は文部省歯科医術開業試験附属病院長になった。一つの組織が二つに分離して独立したのだから、一方が別の敷地に移るのはそんなに難事ではない。2機関の同居は1年で解消し、大正7年6月に歯科は神田錦町(現在の学士会館のあたり)に移転して≪文部省歯科医師試験病院、通称、文部省病院≫として7月に華々しく開院した。長尾がアメリカ留学から帰国し正式に島峯の配下となったのは、この開院式の前日である。
 島峰はこの時期あたりで母校の東大とは訣別することをはっきりと決意したのにちがいない。ドイツから帰朝したころ島峰が頭に描いていたのは、東大医学部の歯科学教室を充実させ、東大にベルリン大学のような歯学科を設置することだったと思われるが、島峰を甚だしく嫌悪する石原が先任の上司として頑固にわだかまっている以上、その夢は放棄しなければならない。石原は、常々、「島峰は病身で放蕩者で策謀家だ。俺の後は絶対に継がせられない」と言っていたとの金森からの伝聞を長尾は記録に残している。

 少し話が前後するが、良精伝によれば、明治43年5月16日の良精の日記には
<教授会あり。浜尾総長臨席。文部省より照会の歯科医養成を医科大学に設置することの件を議す。もちろん可。それについての委員、良精ほか五氏きまる>
という極めて注目すべき記述がある。
 これは明治30年以来、血脇守之助らが根気よく議会に対して請願を続けてきた官立歯科医学校設立の請願書18)がめでたく実を結んだかと思われるような出来事であるが、母体の東大も、この設置に前向きだったことを示している点で重要である。学内のこの動きがドイツの島峰に良精から伝えられなかった筈はない。「帝大にもベルリン大学のような歯学科ができそうだぞ。歯科の前途はあかるい。しっかり勉強せよ。」というような激励があったというようなことは当然考えられる。もちろんそれを証明するような史料が残っているわけではないのであるが。
 しかし、どうしたわけか、この構想は、その後立ち消えになったようで、二度と資料の上には現れてこなくなる。我々後代の歯科医師にとっては何とも残念な成り行きであるが、歯科医師という医療人はここで学士となる機会を失い、その実現には、第二次世界大戦での敗戦と占領という手酷い代償を必要とした。(敗戦後、日本の歯科教育改革に大鉈をふるったGHQのリッジウェイ中佐は、歯科医の教育は大学で行うべきで、この点日本の歯科は、アメリカより30~40年遅れていると指摘した。)
 それはさておき、それ以後も政府は歯科医師の養成に関しては、明治40年に設立を認可した私立歯科医専に丸投げである。幾ら歯科医師法という法律を作っても、肝心の歯科医師の育成には国家は一切横を向いていたのだから、無責任といえばこんな無責任な話もない。この無責任さが、日本の歯科を遅らせた第一の元凶である。

 さて、そんな次第で島峰は、この文部省病院を足がかりに官立の歯科医師養成機関の創立を目ざし、それは≪東京高等歯科医学校≫となって実現することになるのだが、島峰が如何に基礎医学を重んじ、専門学校という呼称を嫌って≪高等歯科≫と名づけたとはいえ、内実はあくまで<専門学校令>による専門学校なのであり、そうである以上、この学校は≪学の蘊奥≫を究める大学とはちがい、術の習熟を目的とする一種の<職業学校>の埒外には出られない。従ってここの卒業生に与えられる称号は≪学士≫ではなく≪得業士≫であった。
 このことは、この学校の卒業生は、他の医専や歯科医専と同じく、旧制高校の専攻科出と官制のうえでは同等で、大学出のような高級官僚にはなれないということを物語る。もっと率直にいうなら、医業や薬業に携わる医師や薬剤師には専門学校出の得業士も大学出の学士もいるが、大学で歯科教育が行われない以上、歯科医学を専攻した者は、最初から社会的に二流の地位に甘んじなければならないということである。
 尤もなかには、岡田満のような私立歯科医専出の歯科医師が慶応大学の教授になった例や、医専出の医師が≪歯科専門標榜医≫19)として高等歯科や大阪大学で教授に就任した例もごく少数あるが、歯科医師はどう転んでも≪耳鼻咽喉科専門標榜歯科医≫などにはなれず、医学部では“歯科”以外の科目の教授にはなることができない。歯科医師は医師より明らかに劣位に置かれた。医歯の格差の社会的定着である。このため歯科医師は行政上の待遇等においても、医師とは明確に差別され、この影響が現代まで続いている。
 島峰は金沢医専を中途で退学して改めて東大をめざして四高に入り直した過去があることは先に述べたが、そんな島峰がこのことに無自覚であったとは考えられない。
 医師法と歯科医師法が相次いで制定されたのは明治39年であるが、この立法に深く関与した川上元治郎、入沢達吉ら明治医会20)の有志らの頭にあったのは、如何にして医業から歯科医を排除するかであった。平たくいえば、彼らは、「医師は歯科医師ではないが歯科の業務はできる。しかし、歯科医師は歯科以外の業務はできない」という主旨のことを、どのように立法化するかということに腐心したのである。このためには挑発的な毒筆21)までふるって社会的学問的に立ち遅れている歯科界を揶揄攻撃した。
 しかし、医師法制定に際して、この法律が規定する「医師」に「歯科医師」が含まれていないことに気づいた歯科界は、遅まきながら憤激した。このとき川上元治郎らは、待ち構えていたように忽ち≪歯科医師法≫をまとめ、議会に働きかけて医師法に次いで急ごしらえで立法化した。これら医師法、歯科医師法の制定の経緯は非常にこみ入っており、表面的な医制史には現れてこない当時の医師界内部の新旧勢力の激烈な権力闘争などが関係するため簡略には述べることができないが、端的にいえば歯科医師は、医師の業界の法である医師法から爪弾きされて、歯科医師法という狭いワクの中に閉じ込められたのであって、歯科医師が自らの身分と業権の確立のために自発的に働きかけて立法化したものではないのである。
 当時の立法の精神は“医業”と“歯科医業”という二つの用語に煮詰められているが、これを簡単にいえば、歯科医師は医業には従事する資格がなく、医業に従事すれば罰せられるということである。この立法の主旨は、大東亜戦争を挟んだ数度にわたる改正の後の今日もなお同様である。(このことを深く考えずに、いまだに“歯科の特殊性”などという逃げ言葉で窃にコンプレックスを癒している歯科医師が少なからずいるのは、よほどのお人好しといわなければならない。)
 川上は大正4年(1915)に51歳で死去したが、入沢は血脇守之助も列席していた彼の追悼会で講演を行い、次のように川上を讃えた。その一節。「[ここにおられる血脇君はご承知であろうが]医師法を制定するに、歯科医を除いたことに就ては、一部の歯科医は反対してをりますが、更に歯科医師法を別に提出して、即歯科医師諸君の為に非常なる利益を計ったことに就いては、歯科の或人が敵艦に撃沈せられ[た]と思ふたに、却て軍艦一隻貰ったやうだと申したことがある」22)。
 川上は眼科医で医事ジャーナリストとしても活躍し、明治35年には衆議院議員にもなったが、東大では変則生(別課生とも通学生ともいい、日本語で授業を受け、4年で医師になれた)の出身。正則生(全員寮生。予科3年、本科5年・ドイツ語で授業)の入沢らからはinsekt(虫けら)と軽蔑された立場であるが、この二人は例外的に仲がよかった。老獪な入沢にかかっては、歯科で英才といわれた血脇でさえ手玉にとられているかの観がある。
 とまれ、医師法はその後ジワジワと歯科医師をしめつけ、島峰が昭和11年(1936)のウィーンでの第9回国際歯科医学会(FDI)で演説6a)したように、「[日本の]歯科医師は医師としての権能を有せず、死亡診断書の下付ができず、口腔、顎の大手術ができず、全身麻酔、静脈注射ができず、医師免許なしにかかる行為をすれば起訴される」ような立場へと追い込まれてゆく。このため歯科医師の心理の奥底には、中原泉氏21)が率直に指摘する<医師コンプレックス>が、根強くわだかまることとなる。

東大歯科学教室の大爆発

 ここでまた、話は東大の歯科にもどる。
島峰が出たあとこの歯科学教室は揉める一方である。やがて多端紛雑の経緯のはてに、一人また一人と北村医局長をはじめ学士教室員全員が石原を見限ってこの教室を飛び出してゆく。長尾が島峰に弟子入りしそのままアメリカに留学すると、やがて長尾の後輩の金森虎男と桧垣麟三が次々と島峰に弟子入りした。このため島峰は石原の弟子を横取りするという悪評に堪えねばならぬ事になる。
 教室を飛び出した9人の医学士は、その後石原に対して、教授退職勧告状を送呈した(大正9年)。星新一が言うところの≪東大歯科の深刻な内紛≫がここにきて一挙に大爆発したのであるが、これについて触れてゆくと話題が次々と横道にそれてゆきかねないので、この稿ではこのエピソードの詳しい説明はやめておきたい。興味のある方は、当事者であった長尾6a)の著書などを参照されたい。ただ一言いっておく必要があるのは、この事件は島峰とは全く無関係に行われたということである。
 しかし、この事件が起こったために、島峰と石原および石原の肩をもつ東大の一派とは決定的に仲が悪くなった。島峰の帰朝以来、大正10年(1921)の良精の定年退官まで、良精は両者の仲を案じて様々に斡旋したが、彼の苦労は実らなかった。
 この険悪な関係が改善されたのは、後の昭和9年(1934)に、石原の後任者であった都築正男が、外科学教授に転出したために空席となった東大歯科学教室の教授候補者の推薦をめぐって、東大医学部教授会の要請を受けた時の医学部長長与又郎が、高等歯科医学校校長の島峰に、東大出の門下生の割愛を願い出て島峰がこれに応じてからであるが、この経緯が明らかになったのは、2001年に長与又郎日記(上・下)8)が公刊されたからである。従って、島峰の慫慂に従って東大の歯科学教授に転任した金森虎男はもちろん、金森より前に打診を受けてこれを断った長尾も、長与と島峰の間の具体的なやりとりは一切知らなかったと思われる。当然長尾の島峯伝にもこのことに関する言及はない。
 長尾は島峰に師事してからは終始島峰と共に歩み、島峰が、東京高等歯科医学校に医学科が併設されて東京医学歯学専門学校と改称(昭和19)されたすぐ後に校長のまま死去(昭和20年2月)すると、二代目の校長に就任した。一方、金森は東大歯科学教室の充実につとめると同時に、医学士の教室員を国内留学で高等歯科に派遣するなど両校の融和につとめ、このため東大と高等歯科は円満な関係を維持してゆくこととなったが、高等歯科の教授時代とはちがって、やや冷めた視角から歯科に関する諸問題について発言してゆくこととなる。
 高等歯科創設後、日本はしばらくは平穏な時代が続いたが、その後奈落の底に転げ落ちるように悪化の一途を辿る。滿州事変(昭和6)。5・15事件(昭和7)。2・26事件(昭和11)。日中戦争(昭和12)。国家総動員法(昭和13)。ノモンハン事件(昭和14)。そしてついに真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)。
 真珠湾攻撃のほぼ1年前の昭和15年11月7日、日本のすべての歯科医学専門学校9校は、共同主催して、皇紀2600年を祝賀するために空前の規模の学会(会期3日間)「皇紀2600年紀年歯科医学会」を東京で開催した。島峰はこの学会の準備委員会で、満場一致で推薦され会長をつとめた(副会長・加藤清治、準備委員長・佐藤運雄)。このことは、島峰が、当時の日本の歯科界で最高の立場にあったことを物語っている。高等歯科医学校発足以前にそれぞれ私立歯科医専を背負って孤々に苦闘した血脇守之助と中原市五郎のふたりには、開会式の席上、万雷の拍手のなかで会長島峰徹より表彰状が贈呈された。家塾のような形でこの国の歯科医師が養成されだしたのは、つい先日のようである。このことを思えば、関係者の感慨は如何ばかりだったかと思われるが、この年を最後に、このあと日本は悪魔に憑かれでもしたかのように潰滅へと向かうのである。
 時代は大量の軍医を必要としていた。東大はもとより、各地の医大には急拵えで学部とは別コースの医専が設置され、高等歯科にも医学科が設置された。しかし、島峰の寿命はここで終わる。没年・昭和20年2月19日。「東京高等歯科医学校医学科創設委員を命ス」という辞令が交付されてから9日後であった。
 島峰徹は東京の大空襲や原爆を知ることなく死去した。やがて敗戦。以後時代の激浪に翻弄されるこの学校の運命は、長尾ら島峯の門下生たちに託されることになる。
 以上がざっと足ばやに見た歯科医学者としての島峰徹の生涯である。しかし、彼の人と業績を理解するためには、もう少しじっくりと、様々の資料を強拡大で見てゆかねばならない。再び話を徹の誕生以前にまで戻す必要がある。

第2章 くわしく見る島峰徹の生涯-誕生からドイツ留学まで-
 
島峰徹の祖父・伝庵、父・恂斎

 長尾の島峯伝の功績の一つは、徹の先祖を長岡市にある島峰家の菩提寺を実際に訪れて過去帳をしらべ、可能な限り明らかにした事と、徹の若い頃からの手紙をひろく収集して、活字として書物に残した所にある。徹の父が“恂斎”と号していたことは様々な資料から知ることができるが、本名が“恂徹”であることは、長尾が島峰家の菩提寺の過去帳から書き抜いてこない限り、いまだに明らかにならなかったにちがいない。
 徹は長男で、弟が二人いた。次弟を“正”、末弟を“恂”という。恂斎は自分の本名の恂徹を二つに分けて、一字づつを逆からとって長男と三男の両子息に与え、真ん中の次男を“正”とした。意識してそうしたとはとても思えないが、覇気に乏しく貧窮のうちに病死したこの漢方医の三人の遺児に思いを馳せてゆくと、期せずして大河小説を読むような趣があり、一種の感慨を禁じえない。
 以下、島峯伝に記載されていることがらを中心に、私の調べた所などを付け加え検証しながら本文を進める。
 恂斎の父の“伝庵”は長岡藩の藩医であり、家禄は75石13人扶持だった。
長岡市医師会が編纂した長岡市医師会史23)という立派な本がある。普通では入手できないのでインターネットで検索して長岡市立図書館に電話してきいてみると、確かに所蔵しており、群馬県立図書館から相互貸借の手続きをしてもらえれば郵送するといわれた。便利になったものである。一時代前までは、こういう種類の本はわざわざ地元まで行くか国会図書館まで出向いてコピーをとるより手段がなかった。
 この本に、文久2年に改正された長岡藩の「御家中総名順」から藩医だけを抜粋した一覧表がある。そこに載っている藩医は30名であるが、その家禄を見ると、当然のことながら、130石から5人扶持まで高低様々である。恂斎の父伝庵の家禄は13人扶持で、低い方から数えて4番目である。
 この家禄から当時の島峰家の生活ぶりを想像することは、江戸時代の史実に詳しくない私には非常に難しいのだが、福沢諭吉の福翁自伝によれば、中津藩での彼の家の家禄は最低に近い13石2人扶持で、家中では誰もが内職をしなければ生活が維持できなかったと記されているので、島峰家は他藩でこれより高祿なものの、長岡の冬は酷しく、薪炭の費用も大分県の中津とは比較にならぬだろう。この給米だけで島峰家がゆとりのある生活を送ることはとてもできなかっただろうと思われる。
 藩医と一口に言ってもその生活ぶりは様々で、“お匙”と呼ばれる位の高い御殿医はともかく、町方の者は開業も許されていたから、町方だった伝庵は、お城づとめはごく稀の比較的自由な身分で、ふだんは開業医として患者から報酬を得て暮らしていたのにちがいない。
 そこへ戊辰戦争が勃発した。
戦争が起こると、長岡藩の藩医は、兵500人に1人の割合で、全体で14~5名の医師が軍医として従軍することになった。伝庵はこのとき63歳であった。彼は従軍に耐えられないために隠居し、22歳の恂斎が急遽家督を継いで従軍したらしい。このため恂斎は、敗戦後藩から2両2分の報奨金をもらっている。討ち死にしたり、斬首刑にあって家がとり潰されたりした藩士からみれば、たとい戦火で家財を失っても、これはまだマシな方だったのかもしれない。
 やがて明治3年に廃藩置県となり、島峰家は禄を失う。その後この一家は次第に没落してゆく事となる。
 もとより当時は医師免許などがあったわけではなく、腕に覚えさえあれば、誰でも医者の看板が掲げられた。当然恂斎も家業を継続した。だが、ここで想起する必要があるのは、明治になると、医療は西洋医学の急速な普及とともに、日本医学史上未曾有の大革新の時期を迎えつつあったということである。
 開国によって始まった幕末の大動乱は、医学史的に見ると、ながい伝統にあぐらをかいて新しい西洋医を排斥することでしか自分らの業権を守れなかった漢方医と、革新の意気に燃えて新知識の吸収に励み、敢然として難病に立ち向かった西洋医との対決の場でもあったといえる。
 幕末の佐藤泰然や緒方洪庵の時代、幼い子供らを極度の苦痛と悲惨のどん底に陥れた疱瘡が、種痘という新医術で防げることに衝撃を受けた若い医者らは、新しい医学を目指して漢方を捨て、続々とオランダやイギリスの医学に向かった。そんな若者は越後の長岡でも何人も輩出した23)。
 長谷川(たい)24)や石黒忠悳は、洋医修行ののち明治になって新体制が発展するにつれ、医育や医政の面で枢要な地位を占めるようになったその好例であるが、西洋医学の修学中に戊辰戦争に志願して従軍し、長岡藩のために活躍した医師らの名は、今でもなお当地で語り伝えられているようである23)。同世代ながら、恂斎はこういう積極的な若者ではなかったらしい。

 洋医は,また戦陣医学においてもめざましい効力を発揮し、とくに消毒と外科手術において漢方と決定的な差を見せつけた。ここで大活躍したのは、幕末にイギリス公使館付医官として来日していたウィルス(William Wills)であった。イギリスは薩英戦争以来薩摩藩と親しかった。彼は官軍方の医師として各地の戦場に赴き、負傷者の治療に卓抜な功績をあげた。
 この時期の一連の戦争において、官軍の軍師ともいうべき重職にあった大村益次郎(村田蔵六)は、かつて長崎でシーボルトに学び、緒方洪庵の適塾で塾頭を経験した当時のトップレベルの蘭方医であるが、どういうわけかその後郷里に逼塞し、村医者として過ごしていた変わり者である。その変わり者の新知識に目をつけた桂小五郎(木戸孝允)が、幕府の第二次征長という長州藩の危急に際して彼をひっぱりあげ政治に参加させてみると、軍事作戦でにわかに天才を発揮しだしたのは、幕末の歴史が好きな者なら誰だって知っている。
 やがて太政官が設けられ、明治政権が動き出した。そのとき大村は、新政府とくに軍は、西洋医学を採用しなければならない事を強く主張した。明治天皇を囲繞する宮廷でも、かつての幕府の大奥のように、なお西洋医学をきらう気風が強かったためであろう。かくて明治元年3月に、「西洋医学ノ所長ヲ採用ス」という布告が出された25)。
 これは医学史の上では“開国令”ともいえる画期的な出来事であった。これに応じて戊辰戦争後の長岡藩でも、藩の大参事の三島億二郎は、明治2年10月に、中年以下の医師の医学修行はすべて洋方によることを命じている23)。「当藩においても漢方医が減り、洋医が増えつつある。これまで漢方を学んできた年配の医師は仕方ないが、若い医師は専ら洋方を学べ」と申しつけたのである。こうした一連の動きで漢方医は西洋医に決定的に打ちのめされてゆく。やがて時代の進展とともに、医事法制の上でも、漢方医は計画的に淘汰されてゆくことになる。無慈悲なようだが、時代の巨大な歯車が回るというのはこういうことなのだろう。恂斎の青壮年期がちょうどこの時期に重なっているのは如何にも不運としかいえない。

敗残する漢方医 
  
 島峰家は代々が本道(ほんどう)(漢方の用語で内科)だったようだが、恂斎には漢方医としても格別修行をつんだ形跡がなく、そのうえ22歳で急遽戦場にかり出されたのであるから、まじめに主君に扈従するほかには、戦陣の修羅場では殆どなす所がなかったのではなかろうか。
 後に徹が郷里の片貝村(現・小千谷市)に建立した恂斎の記念碑の碑文の一節に、「君(恂斎のこと)[河井継之助に]従ヒテ会津ニ走リ行キテソノ創ヲ治ム」(原文漢文)26)とあるため、いかにも恂斎が、負傷した河井継之助の救護等で活躍したかのように想像されるのであるが、この碑文は、碑文の常で、全文が少しきれいごとで終わっているような感じがあり、すべてを史実とすることは如何かと思わせられる。
 恂斎に時代の変化に対応するほどの意気や積極性があれば、石黒忠悳や長谷川泰とまではゆかないにしても、なにしろ藩医だったのだから、恂斎は戊辰戦後郷里で医者として一目置かれてもよい存在にはなった筈である。が、戦役後の恂斎は、長岡病院の創立に関係?したあと石地村に転居して開業し(長尾の推測では明治8年頃)、ここで長男の徹が誕生した後また佐渡に渡り、佐渡鉱山病院の院長となった。ここで次男正の出生を得ながらもそこでの勤務も長くは続かず、再び長岡に移住して開業した。ここで末子の恂が生まれている。
 長尾によれば、長岡での恂斎の生活は困難を極めていたそうである。その原因として、長尾は、恂斎は身体が弱かった上に酒が好きで、家業に身を入れなかったためという親族の証言を紹介している。しかし、恂斎にしてみれば、家業に身を入れたくても新知識がないため新しい医学に対応できず、患者がこなければ収入もなく、やけ酒でも飲むよりしようがなかったのではなかろうか。
 この時代の話として悲痛なエピソードがある。ある時万策つきた恂斎の妻のシゲが親戚を尋ねて借金を願い出たが冷酷にはねつけられた。帰り道、涙が母の頬をつたうのを見て、徹は「今に見ていろ」と叫んだというのである。このときの徹の頭は虱だらけだったという。徹が7~8歳の頃であろう。
 恂斎は長岡にも落ち着けず、近傍の無医村片貝村に移住してそこで開業し、その地で発病して死去することになる(明治31年、53歳)。かくして、恂斎の妻シゲと3人の子息は窮乏のどん底に陥るのであるが、このとき徹は金沢の四高の1年生であった。
   
内藤久寛

 ここで島峰徹と深い関係を有する内藤久寛27)という石地村出身の実業家について触れておかねばならない。すこし余談が混じる。
 内藤家は石地村の旧家で、大地主である。久寛はその12代目の当主になる。生れが安政6年だから、小金井良精の1歳下で、島峰徹とは19歳の年上である。
 久寛には兄と姉が一人ずついたがいずれも生後すぐに死に、母親も彼が4歳の時に亡くなっていた。彼は母のいない一人っ子として育った。母の記憶が自分に残っていないことを彼は終生の悲事としていた。
 内藤家がある石地村は“天領”といわれる幕府の直轄地で、彼の生家は郷士ながら双刀を許され、代官所の支配を受けて領内を取締る領民としては破格な家柄だったらしい。北前船の往来が盛んだった時代の日本海沿岸の港の繁栄は、現代の我々には想像しにくい。内藤家は代々近郷の大肝煎役と石地の里正(村長)を兼ねるとともに幾隻もの大船を所有し、諸藩の知行米を預かって穀物の売買を盛んに行っていた。酒造や大名貸しなども営んでいたらしい。このため石地の内藤家といえば全国の商業地にその名が轟き、大名に次ぐ門閥として特別の待遇を受けていたという。なにしろその屋敷も間口が30間あまりというのだから、その豪壮な規模が想像できよう。
しかし、時勢である。この名家の家運が久寛の先代である実父久之の頃から著しく傾きだした。そこへ久之の女性問題が重なった。久之は早くに妻を喪っていた。その後佐野よし子という女性と親しくなった。久之は彼女を後妻に直そうとしたが、先々代が許さず、久之は幼い久寛を連れて家を飛び出すような破目になった。つまり一家離散である。のちに久之は帰参が許されて、よし子は内縁のまま一家と同居して暮らすようになったが、しばらくすると今度は久寛が家を飛び出し、横浜に遊学したり、また戻ったりで心が定まらない。青春の彷徨である。そのあげく、心身が衰弱した。彼は横浜での遊学を諦め、石地でしばらくぶらぶらして過ごした。彼の自伝「春風秋雨録」のこのあたりの叙述は修養小説(ビルドゥングスロマン)として読んでも面白い。

 この石地村に恂斎一家が長岡から引っ越してきた。
長尾はこの転居を明治8年頃と推定しているが、私はもう一年ほど早かったのではないかと思っている。島峯伝には「石地の島峯家の隣りに内藤家があり、(略)内藤久寛氏の父君は隣りどうしのよしみであったか、恂斎とは飲み友達で、自然内藤家と懇意になり」とある。だが、この記述にもちょっとひっかかるものがある。
 先に記したように内藤家は間口30間あまりの大邸宅で、傾きつつあったとはいえ久寛の父久之は、地方の名家の常である無料奉仕の公務を沢山仰せつけられて多忙を極めており、とてもそんな呑気な境遇にあったとは考えられない。事実、明治11年秋には明治天皇が北陸御巡幸で石地に立ち寄り、内藤家で昼食を召上るということがあった。
 明治10年には西南戦争が終わったばかりである。この年から翌年にかけて、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利光の維新の“三傑”はみな最後を遂げ、維新は完結した。政治的権力は、井上馨、伊藤博文、山県有朋ら三傑の次の世代の者に継承されつつあった。
 西南戦争という大内乱を克服した明治政府は、その威光を全国に見せつけなければならない。従って北陸御巡幸の行列も、右大臣岩倉具視、参議兼大蔵卿大隈重信、陸軍少輔大山巌以下の文武百官、大警視川路利良以下の騎馬警官数百乗という美々しいものになった。この鳳輦がお立ち寄りになったのである。内藤家はこれを記念して、後日、邸内に碑を建立した。落ちぶれ漢方医の恂斎とは、とても隣同士というようなわけにはゆかなかったのではないだろうか。

 久寛が故家でぶらぶらしていた時は、前後の記述から明治7年の事と読める。「当時郷里の石地にはまだ西洋医がなく」、漢方医が一人だけいたが、「其漢方医は私を診察して癆咳であると云ひ(しき)りに静養を奬めた」。久寛の自伝の一節である。私にはこの漢方医が恂斎のように思えてならない。長尾の推測とはほぼ1年のズレがあるが、このズレは今のところ資料で確認することはできない。
 先にも書いたように、恂斎は戊辰戦争のあと長岡病院(後の長岡赤十字病院)の創立に関係したと伝えられている。これは徹が建立した恂斎碑の碑文の「長岡病院ノ剏建君焉ニ与ス」(原文漢文・剏は創と同意)という一文や、内藤久寛の自伝の一節「恂斎氏は長岡病院を創設して其の副院長を勤め」という記述に基づいているのであろうが、長岡病院の関係資料をいくら渉猟しても恂斎がこの病院の創設期に関与したという事実は浮かびあがってこない。
 この病院の正式名は長岡会社病院である。明治6年6月2日に病院が設立されたとき初代の医長(正式には副医長という職名であったが、事実上の病院長)に就任したのは梛野直(なぎのただし)(謙秀)である23)、41)。
 梛野は天保13年(1842)の生まれで、恂斎より軽格な7人扶持という家格ながら同じ藩医であり、戊辰戦争の際に22歳だったという恂斎より3~4歳年上になる。彼は医師として非常に意欲的先進的で、維新前に緒方洪庵の適塾をへて長崎精得館に入学し、そこでマンスヒルト、パラマトンらの外人教師から、じかに蘭学、理化学、数学、内科学の講義を受けた。戊辰戦後は小林虎三郎(病翁(へいおう))が創立した長岡の国漢学校で洋学の教師をしていたが、廃藩置県後にこの学校の運営が柏崎県に移行したのを機に東京医学校(東大医学部の前身)に入り、ドイツ人教師からドイツ医学を学んでいた。ちょうどその頃、新設された長岡会社病院に招かれて医長に就任したのである。
 長岡病院の創設を思いたったのは病翁とともに藩の大参事だった三島億二郎であるが、彼ははじめからこの病院の目的を、洋方による“経生治病”にあるとした41) 。この病院は6月に発足すると早くも12月には種痘を開始している。
 前にも述べたように、三島は明治2年に、藩の大参事という公的な立場から、長岡藩の医師にたいして、これからの医師の修業はすべからく洋方によるべきことを宣言していた。もとより梛野もバリバリの洋医であるが、それとともに、この地方における文明開化の輸入者として聞こえ、後には軍医としても際立った活動をしている。こんな状況のもとでは、西洋医学の経験が全くない漢方医の恂斎などには、初めから声がかからなかったと見た方が自然ではないか。こう考えると、先に引用した恂斎の碑文にはやや文飾があるのかとも思われてくる。
 恂斎は、おそらく自分の前途に失望したのではないだろうか。住みなれた城下の長岡から無医村だった石地村に移りそこで開業した。長尾は島峯伝のなかで、恂斎が石地に転居して開業した理由は「どんな事情からか」としか述べていないが、資料で確定できる点と点を結んでイメージを膨らませれば、事情はそんな所にあったのだろうと思われてくる。  
 久寛は明治12年に21歳で家督を相続し、内藤家の戸主になった。父の久之は隠居した。久寛の心は、戸主となり妻を娶ってからもまだしっかりとは定まっていなかったらしい。健康もはかばかしくなかった。しかし、久之は隠居したのだから暇である。おそらく隠居屋を建て、宏大な屋敷からそこに引き移ったに違いない。同居していた内縁の妻よし子も一緒にである。久之は早くに妻を失っていたのだから、内妻はいない方が不自然である。この隠居屋の隣が恂斎宅と考えれば辻褄が合う。「[久之が]恂斎とは飲み友達で、自然内藤家と懇意になり」という長尾の記述も生きてくることになる28)。
 このような状況の中で島峰徹は誕生した。明治10年である。徹はこの地で出生したことで、後に図らざる幸運に恵まれることになる。久之と恂斎とが懇意になったことである。特に徹はよし子には可愛がられたらしい。お互いが時代に置き去りにされつつある身分だ。戊辰戦争での苦労など、共通する思い出も多かったのに違いない。
 戊辰戦争が終わった明治元年に、久之は幕府を援助し賊軍を助けたという咎で入牢させられたことがある。ひとつまちがえば首を刎ねられるところだった。もとより恂斎は長岡藩の軍に従軍した身である。かくして飲み友達になったということが、恂斎の死後、貧窮に喘いでいた徹には思いがけない幸運をもたらすことになるのだが、それが資料の上ではっきりするのはまだ二十年以上も先の話になる。
 恂斎と久之の関係は、その後しばらくして切断されることとなる。明治15年あたり、すなわち徹が5歳の頃、恂斎は石地から佐渡に渡り、佐渡鉱山病院の院長となったからである。長尾は恂斎が石地で開業していた期間を凡そ7~8年と推測しているが、そんなところだったろう。なぜ佐渡に渡ったのか。あえて非情な推測をすれば、おそらくそんな僻遠の地でなければ、恂斎という漢方医は、もう医業を続けてゆけなくなったのであろう29)。

貧窮する「従来家」恂斎一族
 
 佐渡で徹の次弟“正”が生まれている(明治16年7月21日)。しかし、恂斎の佐渡での生活もながくは続かなかった。3年でまた長岡に転居し、ふたたびその地で開業した。なぜ佐渡を出たのかは明らかではないが、一説によると病院の事務員が使い込み、恂斎が院長として責任をとることになったともいう。子細はよくわからない。
 明治18年4月4日に徹の末弟“恂”が長岡で誕生している。次弟の正はのちに苦学して眼科医になった人であるが、正の夫人イチも眼科医だった。ここには正が書生になった長岡の甲野家が、眼科の名家であったということが大きく影響しているとみてまちがいがない。
 長尾はイチの談話を記録しているが、それによれば、この長岡時代の恂斎の生活は困難をきわめていたそうである。長尾はその原因を「想像するに恂斎の体が弱くまた常に酒に親しみ余り家業に精を入れなかったのが主な原因」としているが、医学の近代化西洋化は、文化の中心地である長岡ではとりわけいちじるしく、学校出や難関の医術開業試験をパスした新進医師の数も増加していた。
 医術開業試験の制度ができる前から医者であった恂斎のような漢方医は、「従来家」と呼ばれて医業を営む権能は認められていたが、政府はこの淘汰を図っていた。
 この時代の医師は次の三階層から成り立っていた。①大学出(後の専門学校出を含む)、②開業試験(検定)合格者、③従来家。この三層を、できるなら①のみ、それが無理ならせめて①と②の二層とし、その上で医師の業権を法律で定めたい。これが大学出のエリート医師の一貫した戦略であった。後に「医師会法案」をめぐって医師界に激烈な論争がおこり、この法案の反対者が結集して「明治医会」20)を起こしたのも、その原因はここにあった。恂斎は長岡では、もう医者としてやってゆけなかったのではないだろうか。徹が「今に見ていろ」と叫んだのはこの頃である。
 恂斎はまた転居した。今度は長岡の近傍の無医村だった三島郡片貝村(現・小千谷市片貝町)である。徹が9歳の時である。恂斎はこの地で開業してみて生き延びる思いがしたのにちがいない。ここに本籍を移し、終の栖とした。父母とともに流転を続けてきた徹にとってもここが故郷となる。
 徹は明治25年に長岡洋学校(後の長岡中学校)に入学したが、3か月で新潟中学校に転校した。これはこの年に学制が改革され、県立中学校は1県1校と定められたためで、父恂斎の希望によったものだと長尾は記している。
 この記述は、しつっこく恂斎の戊辰戦争後の生活を追ってきた私の気持ちをホッとなごませるものがある。片貝村での恂斎にはまだ家長の威厳を保つだけの収入(例えそれが曲がりなりのものであったにせよ)があり、とにかく子息の徹を、新潟に遊学させるだけの資力があったことが推測できるからである。
 徹は敏捷な悪ガキながら学業の成績は優秀で、性格に烈しいところがあっても親思いのやさしい子供であったらしい。こんな幸福な状態は、徹が明治30年に金沢の第四高等学校(四高)に入学するまで持続したようである。
 徹は新潟中学校卒業と同時に海軍兵学校(海兵)を受験し合格していたが、恂斎の反対にあって取り止め、政治家に方針を定めてもまた反対され、ついに家業である医業を選び、金沢医学専門学校に進学した。しかし、同じ医者なら大学出が有利と分かり、翌年四高に入り直している。このため一年をむだにしているのだが、医専をやめ大学をめざしたのが親の意向か本人の意志なのかは断定できる資料はない。
 当時の日本は、維新以来初めての外国との戦争であった日清戦争の勝利で沸き立ち、戦勝の成果である遼東半島の割譲を独仏露の三国干渉で還付させられ、全国民が臥薪嘗胆を誓い合っていた頃である。徹は青春の素志を二度まで父親に反対されたことになるわけだが、そのため反抗的になるようなことは別になかったらしい。
 私ごとで恐縮だが、私には親の職業を子に継いでほしいという感覚はまったくない。だがこの恂斎の気持ちは、微かながら私にも分かるような気がする。医者として時代に取り残され敗残の境遇に追い込まれた恂斎は、息子を最上の洋医とすることで自らの怨情を鎮め、医家としての誇りを取り戻そうとしたのではないだろうか。しかし、恂斎の寿命は、ここで尽きる。明治31年1月である。享年53。徹21歳、四高1年生の冬であった。一家はここで貧窮のどん底に突き落とされることになる。母シゲ(45歳)ともども、徹の悲痛な苦闘が始まるのである。
 長尾によると、徹の母シゲ(1854~1926)は「文字通り烈婦、賢母」だったそうだから、相当に気骨や感情の烈しい女性だったらしい。もともと武士の娘である。彼女は夫の死という窮状に陥ると、将来が嘱望されていた徹だけは学業を続けさせて一人前に仕上げ、それによって家運を挽回させるという決断をした。そのため次男の正は長岡中学校を3年で中退させて長岡の医家甲野家に書生として出し、自らは他家の手伝いなどをして賃金を得るほかに、掘立小屋をたてて牛を飼い、末子の恂とともにそこで乳を搾って牛乳を売り、糊口をしのぐ策をたてた。
 甲野家とは、長岡の眼科開業医甲野良悦にちがいない。そこの長男甲野(たすく)(1855~1932)は明治6年東校入学、14年卒。19年東大眼科助教授、33年宮内省侍医、35年教授となったあと直ぐ休職、41年まで侍医を続けた。小金井良精より3歳年長であるが、良精とは同郷の同僚であり、わが国の眼科学の初期の最高権威者の一人であった。

四高生の借金申込状

 いくら落魄したとはいえ、いやしくも藩医の妻にしてこの覚悟である。シゲの精神力はなみではない。この烈しい血筋はまさしく徹に受けつがれた。徹も学業の暇を見てはこれを手伝い、暑中休暇には幾許かの賃金を得て学資の足しにしたと伝えられるが、その蔭ではどれだけの涙を流したか思いやられるものがある。それでも徹が元気なうちはまだよかった。不運はどこまでもつきまとう。金沢の下宿で病気になった徹は、二進も三進もゆかなくなり、とうとう一年休学した。その頃の郷里の旧知に借金を申し込んだこんな手紙30)が残っている。徹の性格を伺うにはこれ以上の資料はないと思われるので、少し長くその上候文なので読みづらいだろうが、全文を原文のまま引用する。徹が21歳の時である。(文中の註は長尾)

  残寒尚甚しく御座候処、御尊体はじめ御全家様御一統如何御暮し被成侯哉定めし御壮健の御事と奉拝察侯、陳ばその後久しく御無沙汰仕り失礼の段申訳無之侯、陳ば小生儀一昨年(註 明治三十年に当る)より男の厄年にや非常の不幸の事のみ打つづき誠に以て言語につくし難く侯、一昨年は亡父病気の為め、学期試業も受験不致帰省致し侯有様にて、それがため学科の授業も非常なる不都合を来し侯、本年よりは大に奮発致し人の目を驚かさんと大に気込致し居候処、今回は自分儀病気ニかゝり昨年十二月五日より病床に臥しそれより盲腸炎と相成金沢病院へ入院仕候、それがため十二月十九日に始まるべき第一学期試業も到底出来ず、又々一月十五日に追試業相願置侯へども其日頃は病気発熱中にて到底受験など致しては相成らずとの事学校医(高山医学士と申し小生とは大に懇意に致しくれ入院弐週間一日壱円づつにて、十四円は致し方なく払ひ申侯が其後の医価は先生の方箋にて小生自から調剤致し侯間大ニ都合よろしく侯)より申され侯へども何分此の試業を受験致さざれば一年間は棒にふらざるべからず、かく相成りては実に小生も非常の損毛の事故無理ニ乗車にて通学致し一週間程にて受験を決行仕り侯が、これがさわりしにや其後全快延引致し(十二月廿七日頃にてハ腰がぬけ大小便などは床中に致し侯次第御察し被下度侯)
 漸く二月十五日よりそろそろ通学致し居候、十二月五日より二月の十五日迄は始終床中ニあり申侯、即ち七十日余、今も学校後は床中へねておる有様に侯、七十日間の学科の後れと申すものは実におびたゞしきものにて、之より健全の身体を以てすらもなかなか容易にとりかへし致すこと出来難く侯、それで小生ハ未だ完全ならざる体にて三月二十日迄に(三月甘一日よりハ又第二学期学期試業これあり侯)取りかへさんとするにあれバ実に非常のものに御座候、それ故友人はじめ、よく知己にしておる教官も、身体完全ならざるニ一時ニ無理ニ勉強致してハ、百年の大計をあやまる事ありては如何かと申しくれ侯へども(それは実際申上侯事などとは異なり平素の成績よりして認定及第などはなく又学科の進みも非常に速かに御座候)小生は戦はずして敗北するは取らざる処、それに休学(一年間の)致す等の事も小生一人にてはかる能はざる境遇に相成侯事故、小生もこの場に至り左様の卑怯の事致すは好まず、殊に明年六月(註 明治三十三年に当る)は本大学予科全科卒業の運びとなりおり侯へば、是非とも身体のつゝく限り奮励致さん、若し其上にて万一の事あらばそれは万止むを得ざる事なりとあきらめん。しかし小生の考にては今より外の事を心にかけず、奮励致さば充分及第ハ出来るものと信じ侯事故今より奮励可致侯
  就ては今回の病気事件につき他国にありて七十日間も病気のことなれバ、実ニ非常の入費借財を来し侯、総計三十円弱程に侯が、その内友人よりのやりくりなどにてともかく十五円程だけはさいかく致し侯が、のこり十五円丈けハ実ニ小生日々心頭をなやましおり申侯、それに今月は月謝納月にて六円丈け一時に納めざるべからず、これあるため友人の手許からは一層融通が出来ず困り居候
  扨て愚父存命中より実に一方ならぬ御心痛を辱ふし実に御高恩の程忘却致すまじく、小生の代に至りては此上御迷惑などは無論のこと、小生卒業致し一人前と相成り侯ハゞ、及ばずながら御恩返し致さんと常ニ忘却致さずおり侯、然る処今回は非常の不幸に相成侯、而して小生が他に向て送金を仰ぐ処とては別になき故(これなきにあらざれども皆小癪にさわる処のみ、この事は大川氏に御尋ね被下れば相わかり申侯)それ故実に斯の如く申上侯事誠に恐縮の至り、定めし御立腹の筋もこれあるべく侯へども小生も実際困難の穴に陥り侯につき、只今は面をかむりかく御願申上侯儀に侯、今月は六円の月謝これあり、それにつき実は出道もなく、何卒今月末迄に六円丈御拝借願度侯、尤も斯くの如く申上侯へば定めし御笑もこれあるべく侯へども、御返金は必ず致し申すべく、それハ小生十二月には当地にて少しの金の入るべき道有之侯につき其節は吃度吃度御返金申すべく(尤も期限を短日にして一時をしのぎ、それより又期限の延引を願ふ事などありては、大にそれこそ申訳なき事、それ故十二月にはうそでも、いつはりでもなく、必ず御返金申侯につき何卒其辺御察しありて)尤も貴君様方には書生に金を貸しては駄目のものと御察しもこれあるべく侯へども、学生ほど金をもたぬかわりに、学生ほど一旦ちかひし事を破ぶる事を不正と致すものは御座なく、何にせよ数百人にて信用を以て立ちおる奴等に候へば、殊に小生は前申上侯通り何の面ありてかく申す事も出来ぬ身、一方ならぬ御恩ニ相成り侯ものに侯へば万々左様の事致すまじく、神明に誓ひ申すべく侯、あまり熱心の余り遂失言もこれあり侯へども何卒御察しありて御立服なき様偏に奉願侯、くどき様に御座候へども此月末迄に、金六円丈け拝借願度此儀偏に奉懇願侯 拝具
   相崎様 虎皮下               二月廿日   徹
                              
 20歳をすぎていたとはいえ、こんな手紙を書かねばならぬ高等学校の学生がどんな心境にあったのかを想像しないと、島峯徹という男のその後の行動は理解できまい。
 例えば徹がこの手紙を書いた10年前に、22歳の夏目漱石は、つきあいはじめた正岡子規あてにこんな手紙を残している31)。

 炎暑之候、御病体如何被為渡候哉。日夕案じ暮らしをり候とは些と古めかしくかたくるしき文句ながら、近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、脚気、腹下シなど種々な二豎先生の来臨を辱ふする折からなれば、貴殿の如き残柳衰蒲も宜しくといふ優にやさしき殿御は、必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう余計な御世話ながら願上候。さて悪口は休題としていよいよ本文に取り掛りますれば、小生義愚兄と共に去月二十三日出発、東海道興津へ転地療養のタメ御越し被遊昨二日夜帰京仕候。(以下略)

 この頃の漱石は養家の“塩原”と実家の“夏目”の間に軋轢が起こり、姓も塩原から夏目に戻って、後に「道草」に噴出した実父や養父に対する深刻な怨情に苦しみだした頃で、子規は死病となった結核の最初の兆候である喀血をしていた。それでも上記の手紙文からは、青春の香気とでもいえるロマンチックな匂いが立ちのぼってくる。これに比べると、徹の手紙は只ひたすらに苛烈であって、どこにも青春の香りがせず、病んでなお自己を鞭打つような悽愴の気すら漂っている。ここから一歩沈めば、後は自殺か発狂しかないといった不気味な思いすら抱かせる。しかも文体のこの完成度はどうだろう。とくに、「腰がぬけ大小便などは床中に致し侯次第御察し被下度侯」という一節には心うたれる。もしこの一文の書き手が先の漱石なら、あらゆる研究家が、漱石の一生を解析するキイ・フレーズとして注目するにちがいない。
 長尾の注によれば「相崎氏は造り酒屋で、片貝村屈指の素封家」で、その子の一人は徹の次弟正と小学校で同級生だったというから、言ってみれば徹は、弟の同級生の父親に借金を訴えたわけになる。島峯伝には、彼が東大在学時代、郷里の有力者にあてた借金返済の猶予を訴えた切々たる手紙がもう一通収録されている。晩年のモーツアルトがウィーンの知友にあてた借金の手紙は、彼の比類のない傑作がどんな生活から生み出されたかを解くキイとして有名であるが、作品こそ書かざれ同じことが徹についてもいえると私は思う。ただ残念ながら、残っているモーツアルトの手紙の数は多いのに、徹の借金にまつわる手紙は数通にすぎない。

すれちがった四高の名物校長 

 この頃の各旧藩には、旧藩主である華族の下賜金をもとにした給付生の制度があり、将来が期待できる学生は、奨学金を受けることができた。旧藩主を中心とする人間関係がまだ残っていた時代である。島峰も長岡の長岡社という育英団体の恩恵を受けていたと長尾は記しているが、これは小林病翁の弟で、小金井良精の叔父小林雄七郎が設立した団体である。
 徹が四高に入学したのは明治30年(1897)であるが、明治27年まで、ここで校長をしていたのは狩野亨吉32)である。狩野といえばこれほどの変人学者もいないだろうが、後の一高校長、初代の京大文科大学長として教育職にある間、彼ほど絶賛された教育者もいない。当時の若い秀才学徒がこぞって憧れ、今なお賛美されている向陵つまり旧制一高の気風の基は、主に亨吉がつくったとさえいわれている。
 一般的には、彼は、<吾輩ハ猫デアル>の苦沙弥先生のモデルとされ、友人代表として漱石への弔辞を読んだことで知られているが、狩野は漱石の小説には少しの興味も示さなかった。小説などより講談の方が面白いと言っていたという。
 もともと彼は帝大の理学部数学科を卒業したあと文学部哲学科も卒業したという履歴が示すように、様々な分野に興味を抱き、数学の研究はもとより、音楽の音律研究に凝るとおもえば仏教研究にも励み、それでいながら生前一冊の著書も刊行しなかった。こういうリベラル・アーツを体現したような学風は、終に日本では育たなかったように思える。神学部出身の外交官だった作家佐藤優氏の「ヨーロッパにおいては、神学部を持っていないとユニバーシティ、つまり総合大学と名乗ることができない」33)という言葉に、目をシロクロさせずにいられる知識人が日本にどれだけいるだろうか。
 亨吉は、教育に従事するようになってからも、文部省と摩擦を起こして京大学長を退いてからは長屋に住んで「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、膨大な枕絵を収集してポルノグラフィの研究にいそしみ、皇太子(昭和天皇)の侍講(教育係)就任の打診がくると、自ら「危険思想」の持主であることを理由に辞退するなど、彼の人間性の底の深さは、私など凡人の想像をはるかに絶するものがある。亨吉の存在自体が、明治の富国強兵政策に対する強力なアンチ・テーゼであったようにさえ見える。
 亨吉は四高在職当時、学費に窮する学生を何人も自分の宿舎に住まわせ、タダ飯を食わせるばかりか学費や小遣いまで与えていた。このため自分が貧窮することなど亨吉は平気だったようで、校長なのに亨吉の寸借は友人の間で評判だった。
 狩野は明治27年には四高を退職し、漱石の口ききで五高に移るまで、研究を理由に浪々の道を択んだ。その間も先の四高の苦学生への援助をやめず、父親に無心するばかりか、蔵書、時計、洋服まで売り払っている有様である。
 その後京大学長に就任したとき、狩野は内藤湖南や幸田露伴などの大学出でない高識者を教授に招いたことで波紋を呼んだ。英文科を創設したときは漱石を呼ぼうとしたが、これまた偏屈な漱石は、これを断って朝日新聞社に入社し、小説家としてデビューした。彼が、新聞屋が下品(げび)ているなら大学教授も下品な商売であるという、文芸評論家がこぞって引用する有名な宣言を発したのはこのときである。しかし、これで亨吉と漱石の交友関係が途絶えなかったのは、漱石の書簡集を読むものは誰でもわかるだろう。貧窮にあえぐ徹が、こういう自由闊達な精神の一端に触れる機会もなくすれちがってしまったは、残念としかいえない。もし、徹がこの人物に接する機会があったなら、徹のその後の人生は大きく変わったかもしれないのである。
 余談になるが、後年徹は、石黒忠悳が起文した仮名まじりの恂斎の碑文の素案を、漢文の名家であった内藤湖南の手で漢文に直してもらうためおそろしく手間をかけている。そのあたりにまつわる徹の手紙を読むと、医学という蛸壺にとじこもった徒弟的な医家とちがう自由人への対応にかなり面食らって、癇癪まで起こしかけているのが面白い。

もし、島峰徹が軍人になっていたなら

 徹の悲痛な手紙を読んであれこれ想像していると、もう少し余談を続けたくなる。
もし徹が、最初に志望して合格した海兵に父の反対を押し切って進んでいたらどうだったろうか。資料を見ると、徹の峻烈な性格は医師よりむしろ軍人むきで、おそらく自分でもそう思っていたと思われる。海兵は一切が無料でそのうえ俸給までもらえたから、少なくとも学生生活のうえでこんな凄惨な苦労はせずに済んだはずである。
 徹が海兵に合格したのは明治29年だった。順調に3年間の生徒生活を終えていたなら、彼は海兵第27期の海軍士官の一人ということになる。少なくともその間の生活のうえでは、司馬遼太郎が描いた「坂の上の雲」の主人公秋山好古・真之兄弟のような幸福な生活ができたかもしれない。
 徹が合格した年は、「臥薪嘗胆」を合言葉に、挙国一致で軍備の大拡張が開始されたときである。海軍では六六艦隊建造計画が議会で承認され、実施に移された。これと同時に海兵の生徒採用数も急増し、25期の生徒数36名であったのに、26期62名、徹が合格した27期では123名と急増した。その後10年ちかくその状態が続く。そしてこの時期の軍人は、日露戦争から大東亜戦争に直面し、それぞれが国運を担うこととなる。
 海相、首相を歴任し、山本五十六、井上成美らと三国同盟に反対して日米の非戦を唱えた条約派の軍人として名高い米内光政は29期である。徹が海軍に入れば米内の2期上になる。米内海相の次官であり開戦時に連合艦隊司令長官だった山本は32期である。米内、山本と海軍トリオといわれた最後の海軍大将井上は37期である。
 米内は盛岡藩藩士の子、井上は仙台の出。山本は先にも書いたように、戊辰戦争で斬首刑にされ、とり潰された長岡藩の家老山本帯刀(たてわき)家を再興するために高野家から養子に入った人。いずれも戊辰戦争での賊軍の出である。
 島峰が海軍士官としてどんなコースを辿ったかを想像するのはバカげたことだが、米内、山本らの年次の近い上官となったことだけは確かである。戊辰戦争での父祖の経験が、彼らの交友関係に影響しなかったとは断言できない。とくに山本とは同藩だっただけに、どんな関係が生じたかは想像してみても荒唐無稽ではない。
 しかし、徹はあえて父親に反抗してまで海兵には進まず、父の希望に従って医師をめざした。それも最初入学した金沢医専を中退し、最高をめざして東大に進むため四高に入り直すというやや屈曲した道を択んだ。そのためにことさらどん底の学生生活を余儀なくされたのは運命の非情さというべきだろうか。
 学生として徹はあまり素行のよい方ではなく、貧窮している癖に紅灯に折花する癖などもあったたらしいが、かなり孤独な過ごし方をしたらしい。四高を卒業して東大に入学した頃でも、徹はまだこんな綱渡りのような生活を送っていたようである。
 その頃の手紙34)の一節を、候文から現代文に訳して引用する。
「┄┄母親がやっていた牛乳搾取の利益がなくなって損失が出るようになったうえ関係規則が改正され、これまで通りの営業ができなくなりました。小生の資力といい境遇といい、到底この事態に対処することができず、加えて母も年をとり、もはや以前のような労働に堪えることもできません。そこでやむを得ず搾乳を廃業することにした次第です。母は長岡の親類に身を寄せ、末弟の恂は私が引き取って何か職業につかせることとします。亡父存命中よりの負債の支払いを延期して頂き、その請求すら猶予して下さっているのに、更に今回支払うべき金銭の延引をまたお願いするのはまことに申し訳ありませんが、是非これまでのご慈愛を以てここ2年ばかりのご猶予を賜りたく、(小生の見込みがなければ不肖弟の正もおりますので、)小生出世前の体とはいえ名誉もありますので、けっして不都合の事などはせず、必ずや立派に清算いたします。どうか、どうか、しばらくの間と思召し、快くご承諾のほどお願い申しあげます。(以下略)」
 これが天下の帝大生といわれた学生が書く手紙だろうか。
だがそこに救世主のような人物が現れた。内藤久寛である。

 内藤については前に述べておいた。
徹が東大に入学したのは明治34年であるが、この頃には内藤は、わが国屈指の大実業家として押しも押されもせぬ存在になっていた。
 彼は青春時代の憂悶をながくひきずり、学問に後ろ髪をひかれたり、政治をめざして県議や国会議員になったりでなかなか人生の腰が定まらなかったが、郷里石地の近くの尼瀬に出た石油の採掘を生涯の事業とすることに決意して「日本石油株式会社」を設立して社長に就任して以来、彼の見込みはことごとく的中し、この会社を、今日まで続くわが国屈指の大企業に育てあげたのである。その間には、健在だった勝海舟を再三訪ねて種々の教示を受けるといったようなこともあったらしい。現代の若い人たちには想像もできまいが、新潟県の石油は、日本の近代産業を支える一大資源だったのである。
 実業家として揺るぎない存在になると同時に、彼は、戊辰戦争に破れた長岡の人たちの人脈の背後に高々と聳える存在になっていった。こんな久寛が学費の提供をするからには、島峰徹という青年には、人目をひかずにはおかない何かが耿々と光っていたと思われるのだが、それが何であったかについては、残念ながら物語る資料は何もない。
 とにかく徹は、久寛からの学資の提供を受けて無事に東大医学部を卒業した(明治38年12月)。この年はわが国が、朝野の総力をあげて遂行した日露戦争が勝利した年で、わが国が津々浦々まで狂気のように沸き立ったが、同時に、アメリカの仲介で締結したポーツマス条約で、ロシアからろくに賠償金がとれないことに激昂した民衆が暴動を起こし(日比谷焼討ち事件、9月)、東京に戒厳令がしかれた年でもある。卒業後、徹はただちに大学院(東京市養育院)に進み消化器病学の副手なっているから、この頃にはまだ歯科学の専攻には心を定めていなかったと思われる。
 
東大の歯科学教室と石原久

 明治政府は、維新以来、軍事とともに、医学の近代化と医師の養成には非常に熱心で巨費を投じていたが、医師が取り組む各専攻科目から、どういうわけか、歯科学だけがすっぽりと抜け落ちていた。このどういうわけかを穿鑿しだすと主題が島峰から離れてしまうので、ここではあまり深くたち入ることは控えておきたい。だが、これは明治の医育制度の大きな欠陥であったことは述べておかねばならない。
 もともとわが国には、最古の法律である大宝律令の<医疾令>に、大学の医生の課業・員数・修学年数などを定めた規程があって、そこには「医生の耳、目、口、歯を学ぶものは四年にして成る」と明記され、「耳科をば、眼科および口歯科と併せたり」35)という状況が生まれていた。室町時代には、「すでに口歯科の専書ありしが、この期に至りて兼康、親康の両氏ありて共に口歯科を専門とし、これを口中科と称せり」36)という状態だった。以後口中科の医師つまり口中医の存在は連綿と続き、徳川幕府が倒壊してもまだしばらくそのままであった。富士川遊の「日本医学史」には、平安期以降連綿とつづく口中医の諸家の名前が記されている。
 川上為次郎の「歯科医学史」42)によると、江戸時代、口中医はなかなか威勢がよかったようである。幕府は寛政3年(1791)に、幕府奥医師の多紀元孝(たきもとたか)(安元)が明和2年(1765・10代将軍家治の治世)に開設した私学躋寿館(せいじゅかん)を、幕府直轄の医官養成校とし、“医学館”と改称した。これは江戸時代の医学の“官学”であり、幕府の瓦解まで医学の最高権威機関となった。もちろん漢方である。奥医師など権威ある医者になるためには、ここでの試験をパスしなければならない。この多紀家は代々が口中医で、同家の当主が医学館の長官を勤めることになったため、同家の医者の世界における権勢は並びなきものになった。
 幕末になると、幕府は新に“医学所(西洋医学所)”を設けたため医学館と紛らわしくなるが、こちらは西洋医学の学校で、このため両者は不倶戴天の仇のような関係になった。本稿の冒頭でも述べたように、松本良順は佐倉順天堂の佐藤泰然の家から松本家に養子に入ったのであるが、その養家は歴代口中医だった。しかし、良順の先々代だったかが外科に転じ、良順の養父である松本良甫が蘭方を学び、その縁で泰然と親友になったという経緯がある。もとより良順は若年より蘭方を習得したが、奥医師に抜擢された際には多喜家の漢方の試験も受けなければならず、何の役にもたたない難解な漢文の医書を読破して試験に備えたことが伝えられている。このため良順の漢方ぎらいはいっそう昂まった。
 江戸時代蘭方は御法度だったが、外科に限ってはそれが認められていた。しかし、それも幕末まで、ただ一家に限ってである。その一家の桂川家の初代の当主甫筑(1661-1747)は、平戸の松浦藩医嵐山甫安について紅毛流医学を学んで甲府藩主徳川綱豊に仕えたが、綱豊が第六代将軍に就任して家宣(在職:1709-1712)となるに及んで法眼として奥医師に任じられ、累代その職を継ぎ、幕府所蔵の<蘭書>を読むことが許された。これは新知識の習得のうえではこの上ない特権である。
 桂川家は甫筑(1661-1747)から幕末の甫秀(1826-1881)まで七代続いたが、代々、将軍の信任があつく、この特権のため新知識を独占できるような家柄となり、幕末には、この家は蘭学者のサロンのようになっていた43)。明治期に日本化学界の草分的存在となった宇都宮三郎や若い福澤諭吉などがさかんに出入りしていた。諭吉が咸臨丸に乗りこんでアメリカに行けたのも、咸臨丸で提督役をつとめた時の軍艦奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ)(芥舟)の姉の嫁ぎ先が桂川甫秀であり、このツテをたどって諭吉が木村に頼みこみ、摂津守の従者にしてもらえたからという因縁がある。木村家は代々浜御殿奉行をつとめる旗本で、喜毅はその七代目であった。因みに勝海舟の幕閣工作での懐刀といわれた藤沢志摩守は、甫秀の末弟の次謙であった。

 また、話が少し脇にそれた。
明治政府が医育のうえで口中科あるいは口歯科になぜ冷淡だったかといえば、富国強兵政策の上で、そんなに喫緊でない医術の育成には予算を振り向けるわけにはゆかないという他には理由が見当たらない。そしてその背景には、漢方医の総帥として洋医に様々な弾圧を加えた多紀家への洋医らの憎悪があったのかもしれないということは、確かな証拠はないものの考えられなくはない。
 それでも明治35年には臨床科としての歯科が東大病院に設置され、石原久が佐藤三吉の外科学教室から助教授として抜擢され、ドイツ留学までさせてもらって主任の地位に就いたのは前に述べた。この歯科学教室の設置は耳鼻咽喉科学教室開設の2年後であり、他科とくらべてもそんなに遅くはない。
 ここで注目しておきたいのは、この臨床科の標榜が、平安朝以来の伝統的な“口中科”あるいは“口歯科”ではなく、“歯科”だったということである。当然、何故かということになるが、この穿鑿は今は省く。
 標榜が歯科なら、その主任の石原は自ら歯科医師を以て任じていたかというと、そんな意識は全くなかった。義歯だの充填だのというアメリカ流の歯科学は、東大の医学や自分とは全く無関係という立場だった。第一、江戸時代の口中医だって、義歯なんてものは扱わない。それはもっと下級な、“入歯師”という職人の仕事だった。それなら口腔領域の外科手術が得意だったのかというと、そうでもなかったらしい。石原という人物は、ちょっと掴み所がない。
 石原の歯科の外来は、実質的に高橋直太郎という歯科医師がとりしきっていたが、高橋は高名な開業歯科医伊沢信平の門下生である。榊原悠紀田郎40)によれば、伊沢は幕府の奥医師法眼伊沢磐安の第三子で、宗家の伊沢道盛の養嗣子となった。長じて最初は医師を志望し、明治10年大学予備門から東大医学部に進学したが、2年後養父の説得に従って目的を歯科に変更し、東大では目的が達せられないので退学して渡米。ハーバード大学の医学部に入学。途中で歯学部に移り、そこを卒業してD.M.D(Doctor of Dental Medicine)の学位を得た。当時の日本の歯科医師としては、とびぬけた学歴を有している。伊沢は佐藤三吉の歯科の主治医でもあった。こんな関係から東大の歯科は、伊沢から高橋を貸りたらしい。
 石原は歯科の主任になると、教室に一種の身分制を布いたらしい。すなわち、医局員となれるのは東大卒の医学士だけで、いわばこれが士官であり、歯科医師は“傍観生”という下士官か兵卒の身分におかれた。傍観生は自由に患者を診察することが許されない。医局員が診察したあと、その許可を得て患者を診るということになる。
 長尾の「一筋の歯学への道普請」の中の記述から察すると、高橋は、もちろん医学士ではないので、医局員の扱いではなく、(やとい)(嘱託)という治療要員で、歯科治療のできない石原の下請け的な存在だったらしい。石原の外来では、技工士などが平気で治療にあたっていたことを長尾は記している。尤も、当時は技工士という職制はまだない。だからこれらの職種の者は、歯科での技工の職人であり、ただの無資格者である。問題は長尾ら正規の医局員が、大学では歯科治療というものを一切教わらずに卒業したために、この無資格者に頼らなければ患者がこなせなかったという所にある。ここらあたりから問題が紛糾しだすのである。 
 後に日本大学に専門部歯科を創設した佐藤(かずお)雄は、府立一中から歯科医をめざして高山歯科学院を卒業(明治31)。歯科医師の検定試験に合格したあと渡米。シカゴのレーキフォレスト大学の歯科を卒業(明治34)してDDSを得たあと、シカゴ大学医学部ラッシュ医科大学も卒業(明治36)してMDにもなった堂々たる学歴を有していたが、帰国して東大の歯科に入るとやはり傍観生という屈辱的な立場におかれた。ドイツ医学が万能の東大では、アメリカでの学位など一向に尊重されなかったのである。しかし、日露戦争の傷病兵の歯科治療に東大があたることになると、陸軍を相手に傍観生という身分ではということから急遽講師に格上げされたと、榊原悠紀田郎は述べている。このあたりから、東大は官僚化がすすんで形式ばり、精神が硬直しだしたような感じを受ける。
 石原がなぜ、アメリカ流の歯科学は、医学や自分とは全く無関係という立場をとったかといえば、医業から歯科医を締め出すという明治医会のスローガンが、投網のように彼にかぶせられていたからである。この網を破れば、ろくな業績もないまま助教授になった石原など、忽ち自己が属している学閥から追い出されかねない。
 小心で生真面目な石原はこのあたりの事情をよく弁えていた。要するに、この二流の秀才は、徹底して自己保身に長けた官僚そのものだったといえるので、その双眼は、ひたすら自分の主君である佐藤三吉の目の色だけに向けられていた。このため、この歯科学教室は惨憺たることになってゆくが、そんなことは、佐藤から叱責でもされない限り、彼にはたいしたことではないのである。自分らの権益さえ確保できれば、国などどうなっても構わない。現今の官僚と全く同じである。
 後に歯科学教室を退局した長尾ら学士医局員は、9名連判して石原に教授退職勧告状を送りつけることになるが、長尾らはこれを石原に郵送する前に、当時医科大学学長だった佐藤三吉を自宅に訪問して内容を見せ、「もし、先生[佐藤]が、この情けない歯科学教室の現状を善処して下さるなら、この勧告状は差し出さない」と迫ったが、佐藤はただ「困った、困った」と言うばかりだったという。佐藤は外科学の先駆者として魅力ある人物であるが、医師である以上に官僚だったのであろう。

島峰徹、歯科学習得のためドイツへ留学

 さて、また島峰徹に話題をもどす。
島峰は、どういう理由からか、明治38年に入った養育院での消化器病学の大学院のコースをやめ、翌明治39年には小金井良精の解剖学教室に入り、半年ほど37)歯牙解剖や組織学を勉強し、その翌年の明治40年に私費でドイツ留学をしてしまうのである。このとき島峰は、歯科の専攻にはっきりと目標を定めていたのは確固たる事実であるが、不思議なのはその間母校の歯科学教室には一瞥も与えなかったらしいことである。
 島峰が歯科を志望するに至った謎は、どうも養育院をやめたあたりに潜んでいそうだが、私はこの頃に、内藤久寛、小金井良精、島峰徹の3者が話合い、徹の将来に関して大きな決定がなされたのではないかと推測する。それを断定できるような資料は一つも見当たらないが、想像の翼を広げると次のようなことが考えられる。

 かねて良精は解剖学者・人類学者として、歯や顎骨という臓器に非常に興味を抱いていた。これは事実であって推測ではない。だから良精の日記が全巻出版されでもすれば、島峯についてもっと詳しい手がかりが発見できる可能性があるが、この日記を全部精読したのは、今のところ良精の孫の星新一だけである。そしてその星にしても、もう物故しており、良精伝中に「島峰徹」という一章は残したものの別に歯科の歴史に興味をもっていた人ではなかったので、それ以外には何も記していない。従って、あとは今のところ謎である。長尾は島峯伝のなかで、島峰が歯科を志望するに至ったのは前記の3者が話合った結果だろうと推測しているが、私もこの推測に賛成である。その経緯を判明している資料で裏づけてみると、凡そ次のようになるだろうか。

 普仏戦争が終わったあたりから、ヨーロッパでは医学のなかに歯科学という分野が新に興こり、発展の時期を向かえていた。フランスのパリ大学に歯学科が発足したのが1879年(明治12)であり、ベルリン大学での発足が1884年(明治17)である。正木正38)によれば、このベルリン大学の歯学科は口腔外科、保存歯科、補綴歯科の三部門からなり、各科に教授がおかれていたという。この3科のうちの保存歯科のミラー(W.D.Miller)教授の名は、ウ蝕の化学細菌学説とともに今日まで伝えられている。新世界のアメリカではもっと早く歯科学が発展していたが、詳しい話は今は省く。要するにヨーロッパはアメリカに刺激されたのである。
 小金井良精がドイツへ留学したのは明治13年であるが、恩師ワルダイエル教授に従ってストラスブルグ大学からベルリン大学に転じたのが明治17年7月である。良精はこの時に月200マルクという日本人留学生では初めての有給の助手に任命され、日本人の医学留学生の中で中心的な存在になった。森鷗外、青山胤通、佐藤三吉らが留学してきたのはこの頃である。良精は明治18年5月にはベルリンを発って帰国することになるが、この時の彼の心中には、これからの日本の唯一の医科大学での教育・研究の中心的存在になるという抱負が漲っていた。ベルリン大学でのわずか1年足らずの間にも、良精は、自分自身が研究の対象とする歯や顎という臓器に関する臨床分野が、新な医学として勃興してゆく様をまざまざと見たにちがいない。良精の恩師ワルダイエル教授も何かと歯科には関心を有していた。
 小金井は、島峰とは、戊辰戦争で破れた長岡の同郷人である。島峰が東大に入学した時には、小金井はすでに堂々たる大教授になっていた。それも解剖学の教授である。東大医学部に在籍するかぎり、あらゆる学生が小金井教授の口頭試問を受けなければならない。
 彼の学風は厳格なドイツ式で、ドイツ人よりドイツ的といわれたほどである。ある学生は答えに詰まると聾のように黙りこんだ。脱兎のように逃げ出した学生もいる。そう述べるといかにも厳格一方のように聞こえるが、他面彼は人情に富み、悩みを抱えた者には非常に親切で、その親切ぶりは世間の常識をかるがると超越していた。こんな逸話が残っている。
 あるアイヌの若者が自己の性器が短小らしいことに悩み抜いて再三良精に相談をもちかけた。良精にはアイヌを土人と見る感覚は全くない。それではと、陰部を露出させて実見したところ、別に異常は見当たらない。それを幾ら口で説明してやっても、その男の悩みは晴れない。再三再四、良精を訪ねて教授室にやってくる。とうとう業を煮やした良精は、たまたま部屋に入ってきた教室員を呼び止めた。
 「君、すまんがな、君の性器をちょっと見せてくれんか。」
教室員はびっくりして、目を丸くした。
 「えっ、こんな所で、またなんというご用命を。」
良精はわけを話した。教室員はシブシブ承諾し、ズボンを下げた。
 「ホラ。君。この人のをよく見て自分のと比べて見たまえ。ちっとも小さくはないだろうが。」
 まるで落語のようだが実話である。この若い男はそれ以後心の底にわだかまっていた悩みをふっきり、人生の恩師として良精を尊敬し続けた。
 良精は、教授と学生という関係以上に島峯徹のことを気にかけていた。良精が内藤久寛と昵懇であったことは様々な資料から明らかである。まして良精は小林病翁の甥である。この頃の長岡の人たちの団結心は強い。在京の名のある長岡人たちは、よく会合していた。
 「小金井さん、あの島峰という学生は、見込みがあるのに気の毒な境遇でしてね、私が世話をして大学に通わせているのです。藩医の子なんですが、藩同様戊辰後没落しましてね。弟の正は甲野さんの所で書生をしているんですよ。いずれは医者の資格をと思って、長谷川泰さんの済生学舎に通っています。どうか、あの者たちを、長岡の名をあげるためにも、いい医者になるようご配慮下さらんか。」こんな会話があったとしても不思議ではない。前に述べたように、甲野家の長男の甲野棐は、良精とは同郷で同僚である。
 そう思って良精が改めて島峰に注意していると、学業成績はよい、気骨もしっかりしている。しかし、とても国費でドイツ留学できるような学校秀才ではない。だが、新分野を開拓させたら面白そうだ。何やら将器たる気配がある。辛抱強いが感性も強く、好悪がはっきりしているので並び大名には向かない男だ。こんなふうに思ったかもしれない。
 島峰は卒業後、前にも述べたように、養育院の消化器外科というコースに進んだ。このコースは、島峰の門下生の金森虎男が書いているように、銀時計組の秀才がとるコースではない。成績序列のうえで青山内科や佐藤外科には進めない学生がとるコースである。
 島峰をみていて、良精はこんなふうにも思ったかもしれない。
父親の恂斎は本道だったが、徹は内科には向かない。基礎医学だったらどこへでも進めるが、徹は臨床それも外科方面に進みたいという志望がある。そうなるとクライネ39)しかない。そうだ。歯科学というのがある。今は石原が助教授でいるが、いずれ教授になるだろう。しかし、ドイツに倣うとすれば、この科には複数の教授が必要になる。島峰には向いている。問題はドイツ留学の費用だが、内藤久寛氏なら都合できよう。
 長尾が、徹が歯科を専攻した経緯を、小金井・内藤・島峰の三者が話合った結果と推測しているのは、おそらく正しい。そして、その話し合いの内容は、こんな次第だったように思われてならない。
 専攻がそう決まると徹には逡巡がない。彼は直ちに養育院をやめ、良精の教室に入って、歯の解剖学を勉強した。これはおそらく歯科に進むための速成の勉強だったのであろう。それも半年あまりで打ち切ってドイツに出発した。ドイツに落ち着いてからの徹が次弟の正にあてた手紙には、弟たちの行く末を案じる思いとともに、小金井を父のように慕う思いが郷愁のように伝わってくる。そんな手紙が何通も活字として残っているのは、ひとえに長尾の功績で、後世の我々にはきわめて幸いであったといわなければならない。徹はおそらく良精にも筆まめに手紙を出していたと思われるが、これは殆ど伝わっていない。内藤はもとより小金井も、留学以後の島峰には庇護者としての立場をとるようになる。良精の日記に、再三島峰の名前が出てくるゆえんである。
(続く)

 謝辞
 本稿の執筆にあたり、前橋市で開業の矢内融氏、高崎市で開業の中田洋氏、群馬大学名誉教授茂木健司氏からは貴重な蔵書を長期間お借りして非常な便宜を得た。また上越市に在住の南雲明男氏からは、新潟県の郷土史関係の資料を多数提供して頂いた。心からお礼を申し上げる。
 
 おことわり
本稿には島峰徹の姓の表記の「峰」が、時には「峯」となっていて煩わしいがご容赦だきたい。
 一貫して峯と表記しているのは元東京医科歯科大学学長の長尾優であって、長尾は自著の島峰徹の伝記の題字にも筆で「島峯徹先生」と表記している。長尾が写した恂斎の碑文でも「峯」となっている。なにしろ長尾は島峰の一番弟子なのでこれを無視するわけにはゆかない。しかし、東大教授になった二番弟子の金森虎男の表記は、一貫して「峰」であって、金森が峯と記している例はひとつもない。問題は島峰自身がどう表記しているかだが、活字になった論文では、島峰だったり島峯だったりする。目にできる限りの島峰の揮毫の署名を調べてみたが、これは全部雅号の「東流」である。
 前稿では長尾の業績に敬意を表して島峯と表記したが、その後、公的な感謝状の類の署名は「島峰徹」であり、峯の字が使われている例はないことがわかり、偶々入手した徹の養嗣子の徹郎(故人・東大病理学教授)の肉筆の署名も島峰となっているので、本稿では島峰と表記することにし、長尾の原典の引用に限り島峯とした。峯も峰も同字だからどちらでもいいのであろうが。
 またこのハイパーテキストの作成にあたり、読みやすさを主眼に初出の原文の一部に字句を追加し改編した。ご諒解頂きたい。 


        
文献および脚注

1)東京大学医学部百年史:東京大学医学部創立百年記念会・編者 東京大学医学部百年史編纂委員会・代表 小川鼎三・東京大学出版会・昭和42年12月20日発行。
2) 松本順(1832-1907)。初代陸軍軍医総監・自伝(松本順自伝・長与専斎自伝・東洋文庫386・平凡社・1980に収載)のほか様々な著作で語られている。語学の天才として著名な司馬凌海は佐倉順天堂時代からの彼の従僕で、凌海の語学塾“春風舎”からは幾多の著名人が出た。佐藤三吉もその一人である。
3)長与専斎(1838-1902)。大村藩の藩医の子。緒方洪庵の塾生の一人。明治初期から中期にかけて、内務省公衆衛生局長として、わが国の公衆衛生・医事制度の確立に抜群の功績を残した。自伝に「松香私志」(2)に前出)一編がある。
4) 篠田達明:空の石碑-幕府医官松本良順・日本放送出版協会・2001
5)塩見鮮一郎:浅草弾左衛門 第二部・批評社・1996
6) 長尾優:a)一筋の歯学への道普請(昭和41):b)島峯徹先生(昭和43)・医歯薬出版株式会社
7) 医歯大新聞第53号(昭和33年7月20日)
8) 長与又郎(明治11-昭和16)。長与専斎の三男(第五子)。帝大医卒年次が島峯徹の一期上。病理学教授(明治44)、伝染病研究所所長(大正8)、医学部長(昭和8)、癌研究所会頭(昭和9)、東大総長(昭和9)、帝国学士院会員(昭和11)、男爵。63歳で没。2001年に浩瀚な「長与又郎日記上・下」(小高健編・学会出版センター)が公刊。華麗な姻戚関係を有し、長兄称吉は日本初の胃腸専門の長与胃腸病院の院長で、夏目漱石が大吐血したあとここに入院したことでも有名。漱石が死去した時には遺族の希望で又郎が病理解剖した。男爵。その長女美代子の夫は外交官の斎藤博で駐米大使。次女仲子は犬飼毅(木堂)の息子健の妻。健の姉の操の夫は外交官の芹沢鎌吉。又郎の次弟の裕吉は母方の岩永家を継ぎ、同盟通信社の初代社長。末弟の善郎は白樺派の作家。又郎の長姉保子は公爵松方巌の妻。
9) 石原久(1866-1941)。川越藩藩医の子。東大歯科学教室の初代教授。石原の略伝は榊原悠紀田郎の「歯記列伝」(クインテッセンス出版・1995)にある程度詳しい。
10)東大歯科学教室の開設時期は諸書によって異なり、東大顎口腔外科のウェブサイトでは明治33年となっているが、ここでは「東京大学医学部百年史」により明治35年とした。
11)Shmamine,T. Das Sekundäre Zement.(Zementhyperplasie, Zementhypertrophie, Hyperzemtitis usw.) (Deutshe Zahnheilkunde in Vorter. Nr.13.)
12)Shmamine,T.(1912)Uber die Reinzüchtung der Spirochaeta pallida und der naderfömigen Bakterien aus syphilitischen Material, mit besonder Berücksichtigung der reinkurtur von Spirochaeta dentium und das Bac. fusiformis aus der Mundhöle, Zbl. Bakter., J.O. 65(4/5):311-337.
13)上山昭博:白いツツジ-乾電池王 屋井先蔵の生涯-・PHP研究所・2009
14)長尾の島峯伝の60頁に、金森虎男の談話の引用として、「遂に大正8年に詰服(腹?)を切らされるような仕うちで、講師の職を止めてしまった。」とあり、歯科医学史家の戸出一郎氏も「島峰徹の歯科医学観」という論文の中で、「東京大学講師の職は事情があって大正8年辞職した」と述べておられるが、東京大学医学部百年史には「退職時期、不明」とある。辞表は提出しなかったのかもしれない。
15)金森徹石(虎男):身辺雑記・40頁・[非売品]・昭和30年。徹石は金森の号。
金森は東京高等歯科医学校教授、のち東大教授(歯科学)、定年後札幌医科大学教授。東大卒業年次で長尾優の三年下。養父が石原久と東大が同級で、そのため早くから石原に親しみ、歯科を志望した。しかし、入局の挨拶に出向いた当日、医局長の北村一郎から教室の現状を詳しく聞かされ、悩んだすえ直接石原に入局を断って永楽病院の島峰に師事したという経緯がある。この時の島峰は、まだ東大の講師を兼任していたらしい。「徹石」とは島峰徹と石原久から一字ずつ取ったものだという。
16)入沢達吉:欧米視察談其二(大学病院等の部)・入沢先生の演説と文章445頁・入沢内科同窓会・克誠堂書店・昭和7年3月5日。
 入沢は東大教授就任後病院長、医学部長、名誉教授。大正13年より宮内省侍医頭および侍医。島峰の門下生だった長尾優を歯科の侍医に推すに際して、島峰を介さず、いきなり長尾に話をもちこみ、長尾を面食らわせたということでも島峰との関係がわかる。昭和13年没。昭和39年、新潟県見附市名誉市民。
17)島峰徹:歯科医学と医学との関係并びに歯科医学の発達について・近世医学8巻12号843頁・1921
18)この請願書の原文は、後出の正木正の文献38)139-141頁に收載されている。
19)内務省令第11号(大正5年9月9日)により、「歯科学ノ課程ヲ設ケル学校等ノ首長ノ作成シタル専ラ歯科ヲ修業シ且ツ相当ノ技能ヲ有スル旨ノ証明書」があれば、医師は歯科医師になることができた。
20)明治医会・明治31年に議会に提出された「医師会法案」に反対する勢力が、法案が否決された後も残って結成したグループ。主に東大医学部の教授や卒業生からなり、後の医師法制定に大きな力を発揮した。入沢達吉や川上元治郎はその中心人物であり、背後に森鴎外や青山胤通らがいた。長与専斎、長谷川泰、石黒忠悳、高木兼寛ら明治初期の医学に貢献した蘭学者ら旧勢力(天保勢力)に対するドイツ留学組の新勢力(明治勢力)の医界における権力闘争と見ることができる。
21)中原泉:現代医歯原論・書林・昭和54年
22)入沢先生の演説と文章、233頁。16)に前出。
23)長岡市医師会史:長岡市医師会発行(非売品)・平成2年
 長岡藩の医学は軍事とともに幕府より先進的で、天保3年(1832)には、藩医の願出により人体解剖が許可されている。蘭方の修学者も、大槻玄沢のもとで4名、伊東玄朴のもとで4名、緒方洪庵の適塾で5名が記録に残っている。とくに適塾の門下生であった吉見雲台は、ポンペが来日するやすぐ当地に遊学して外科を専攻し、梛野謙秀(後に直、1842-1912)は、長崎精得館に留学しボードゥインに学び、東校が東京医学校と改称された頃ミュルレルらからドイツ医学を学んでいる。(ちなみに直の妻保子は小金井良精の妹で、直は16歳年長だが良精の義弟になる)。
吉見も梛野も、島峯恂斎と同じ長岡藩の藩医であったが、彼らは戊辰戦争で大活躍したと記録されており、とくに吉見は長岡落城後藩主忠訓の供をして会津に向かったが、複数の医師とともに戦場に引き返し、河井継之助以下の傷病兵の治療に専念したという。河井の左膝脛骨骨折貫通銃創は、彼の医術でも切断手術が可能だったよしであるが、敗走中で手術場も得られず、すでに敗血症も合併していて手遅れだったと記されている。会津に救援にきていた松本良順が、わざわざ遠路をおして河井を診察にきて、一目見て直ちに引き返したのも当然だったろう。
 梛野直は、明治15年に福澤諭吉が設立した交詢社の越後の幹事を内藤久寛と共同でつとめ、両者は親しかった。直の子巌は東大医学部を卒業して軍医となり、南方軍軍医部長(陸軍軍医中将)になった。
24)長谷川泰(1842-1912)・明治期の医学教育者、政治家、医事行政官。越後国福井村生まれ。初め泰一郎、明治に泰と改称。佐倉で順天堂、江戸で松本良順に蘭学を学び、明治になって大学東校の教官、のち長崎医学校(長崎大)の校長を歴任した。明治9年に私立医学校済生学舎を創設。36年に廃校するまで2万1千余人が入学し約9600人の医師を養成した。その間、衆議院議員を第1回帝国議会から3期務め、内務省の衛生局長、中央衛生委員などの医療行政の役職につき、西洋衛生思想の普及をはかるとともに、漢方排斥の急先鋒に立った。生年没年が梛野直と全く同じである。野口英世、島峯徹の次弟の正もこの学舎で勉学した。(朝日日本歴史人物事典の酒井シズ氏の解説を村上が要約、一部追加。)
25)西洋医学ノ所長ヲ採用ス(明治元年4年3月8日・第141)。西洋医術之儀是迄被止置候得共、自今其所長ニ於テハ御採用可有之被仰出候事。(医制百年史、資料編・厚生省医務局編20頁・昭和51)
26)この漢文の読み方は、雨宮善弘らの「島峯恂斎先生乃碑」における碑文について(日本歯科医史学会第26回(平成10年度)学術大会一般講演抄録)に従った。
27)内藤久寛(1859-1945)・石地の大地主の二男。横浜の高島学校・新潟の英語学校に学ぶ。明治21年石地に日本石油会社を創立。大正15年退職までの38年間、日本石油株式会社の初代社長であり石油王でもあった。「春風秋雨録」は自伝。
参照 : http://manabow.com/pioneer/eneos/1.html(平成23年1月現在)
28)島峯伝のなかに、片貝村で徹の年下の郷友で村長をしたことがある佐藤国二郎の一文が收載されている(155-157頁)。その中に、徹が大学を卒業した夏、米山登山を試み、疲労で登山を断念して帰宅する途中内藤久寛の別邸を訪ねた際に、「内藤老母が『徹や徹や』と連呼」したのが気に入らず、「駄々っ児の樣」にプリプリ怒って帰ったことがあったが、これは島峯が「乳児の頃から内藤老母の懐で育てられた為」だという記述がある。
 島峯徹の卒業は明治38年12月で、40年6月にはドイツへ出発しているので、「卒業された夏」というのは39年の夏ということになる。徹が養育院にいた頃である。「内藤久寛の別邸」というのは久寛の実父久之の隠居屋であろう。久之の死は明治42年2月14日だから、このときは久之は存命だった筈だ。佐藤は「内藤老母」と記しているが、久寛の実母は彼が4歳の時に死去しているので、これは久之の内妻佐野よし子だったにちがいない。久寛はよし子を義母とは呼んでいない。久之とよし子の間には子供がなかった。
 よし子が「乳児の頃から」徹を「懐で育て」たのは、実子がなかったことにもよろうが、隣人として徹が不憫だったためだろう。徹の実母は賢婦烈婦で、無気力な恂斎とは始終夫婦喧嘩が断えなかったらしい。徹が生涯独身で通したのも、嫁をもらえばこの実母とはうまくゆかなくなると思っていたからだという佐藤の証言は貴重である。
29)明治12年から16年にかけて、明治政府は医師の開業試験を一段と厳しいものに改めた。医師試験規則(12年2月、内務省達甲第3号)と、医術開業試験規則(明治16年、太政官布達第34号)を比較してみるとよく理解できる。この頃漢方医の排斥は一段と厳しくなった。
30)手紙一・6b)に前出、14-17頁。
31)漱石・子規往復書簡集・岩波文庫第7刷・2009・仮名遣いママ。ルビ一部省略。
32)青江舜二郎:狩野亨吉の生涯・中央文庫・1987
33)佐藤優:神学部とは何か・新教出版社・2009
34)手紙二・6b)に前出、18-19頁。
35)富士川游:日本医学史綱要1(平凡社)・53頁
36)同上・108頁
37)長尾の島峯伝(23頁)には「小金井先生の解剖学教室に入り、解剖学組織学を習得すること1カ年半」とあるが、同書の島峯徹先生閲歴(おそらく主に島峯の自記)によれば、解剖学教室に入ったのが明治39年12月、ドイツへ出発したのが翌40年6月であるから半年ということになる。
38)正木正:新編歯科医学概論149頁・医歯薬出版・昭和50年。正木は日本大学教授、のち日本歯科評論社主幹。
 この文献で正木は「ベルリン大学の歯学科」と表記しているが、原語の名称は正木によれば“Das Zahnärztliche UniversitätsInstitute in Berlin”である。親しいドイツ語学者にこの語を示して教えを乞うと、学者は、この語からはやや古風な「ベルリン大学附屬の歯科医養成所」といったニュアンスが感じられると言った。
 この機関は最初は医師を短期間で歯科医師に再教育するための施設だったが(医歯一元制)、その後ギムナジウム(高校)卒業者を入学させて、医師と同等の学位を与える歯科医師養成機関(歯学部・医歯二元制)に変わったらしい。ドイツ独特の歯科医師教育制度については島峯徹が講演(歯科医学と医学との関係並びに歯科医学の発達について・近世医学:第8巻・12号・大正10年)で詳しく紹介している。1907年にここの保存歯科部長になったディーク(Wilhelm Diek・1867-1935)は、ドイツでの島峯の恩師の一人であり、のちに高等歯科に招聘され教授に就任した。この背景には、第一次世界大戦で敗北したドイツ人の経済的窮乏があった。
39)医学部では内科と外科をグローセ(大)、それ以外の臨床各科をクライネ(小)と呼ぶ習慣がある。
40) 榊原悠紀田郎:歯記列伝74頁・クインテッセンス株式会社・1995
41) 長岡病院六十年史:財団法人長岡病院(代表者・佐藤喜三)・長岡病院発行・昭和7年
42) 川上為次郎:歯科医学史・科学書院・1988
43)今泉みね:名ごりの夢-蘭医桂川家に生まれて-・東洋文庫・平凡社・1963


                 ホームページに戻る