西欧の猫と動物愛護
前川博司
二〇〇六年の夏外国に住んでいる女性が、私は子猫が生まれるとすぐに隣りの崖の下に放り投げる云々と言う記事を日本の新聞に掲載した。子猫への虐待だとして世間は一斉に非難した。
猫の虐待で有名なのは西暦一五〇〇年頃よりヨーロッパで起こったキリスト教会の異端審問に発した魔女狩りで、悪魔の使いとされて多くの猫が処刑されたことである。
ローマ帝制地代、民族の大移動と共に近東からネズミがヨーロッパに大挙して入ってくると、既にヨーロッパにエジプトよりフェニキア人により持ち込まれ、愛玩されていた猫は、ネズミから食料を守る役目を負わされることになった。当時キリスト教は偶像崇拝に繋がる猫を嫌がってはいたが迫害はしなかった。しかし16世紀後半に入ってまもなく、ローマカソリック教会がドイツのマルチン、ルターなどによる宗教改革によりカソリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分かれると、まずカソリック協会がキリスト教を擁護するため異教徒や異端者を宗教裁判にかけ弾圧し拷問し処刑し始めた。多くの無辜(注※1)の人、特に女性はキリスト教の敵サタンと結合した魔女とされ、同時に猫はサタンの使いであり魔女の化身であるとして宗教裁判にかけ、共に火あぶりの刑で処刑した。カソリックよりもさらに過酷な魔女狩りや猫を処刑したのは、自由と良心を掲げたプロテスタントの教徒たちであったという。魔女狩りの著しかったのは新教の生まれたドイツ語圏であり実行を扇動したのは聖職者、貴族、学者、地主などの上流階級の者であった。一五〇〇年から一七〇〇年の間その嵐は吹きまくり、処刑された人は二十万人とも三百万人とも云われ判然としない。猫たちはそれ以上処刑されたに違いない。そのため北ヨーロッパでは猫が激減しネズミが大発生し穀物は荒らされ伝染病のペストが大流行し住民の1/3が病死したと言われている。このように組織的に魔女狩りを行ったのはヨーロッパのキリスト教国以外には例を見ない。宗教改革を始めたマルチン、ルターも魔女の実在を信じていたという。
動物への認識は当時の哲学者デカルトの、動物は思索や理性を発露としての意識を持たない時計のような自動機械である、といった程度であり、デカルト派の科学者は動物を生きたまま、生体解剖していたという。
魔女狩りの始まる以前のヨーロッパには、ギリシャ、ローマ時代から土着の民衆に伝承された再生の神話が信じられていた。動物を逆さ吊りにして殺し、それを元の形に戻すとその動物は生き返るというのだ。特に猫は穀物の霊であり、すべての災いを引き受けると信じられ農作の始めと収穫の祭りに生贄にして穀物霊を復活させ、豊穣を祈っていた。一方猫はキリスト教では悪魔の化身とみなされ、聖ヨハネ祭には魔除けとして焚刑にされていた。こうした古くからの猫に対する対応と、キリスト教の異端者への迫害とが複合的に表出されたのが魔女狩りであったという。神話や信仰によって自分以外のものへ苦しみを与え、自己満足するという魔女狩り的人間の衝動は現代に至るまで根絶されてはいない。
フランスの思想家ブライス・パスカルは著書パンセの中で「人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない」と云っている。
その当時の日本は一五〇〇年頃から一六〇〇年頃にかけての戦国時代で、ようやく足利時代が終わり、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、織田信長、今川義元らが天下を狙って争っていた。一五四三年にはポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲を伝え、一五四九年にはカソリックの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しキリスト教を広めていた。一六〇三年徳川家康が江戸に幕府を開き漸く戦国時代は終わりを告げた。当時犬は半野良、半家畜として生き、殺されて毛皮にされたり、鷹の餌にされたり武士の試し切りにされたりしていた。猫はネズミ捕りの効用があり待遇は良かったが、その後三味線の皮にされたり魔性のものとして恐れられ嫌われた。また反対に商売繁盛への招き猫として珍重されたりしていた。その後徳川綱吉が生類憐みの令を出して人々を混迷させたのは一六八五年から一七〇九年の間であった。
一方南ヨーロッパでは十四世紀末よりルネッサンスという文化運動が起こり次第にヨーロッパ全域からイギリスにまで広がった。イタリアではマキアヴェリが君主論を表し、政治をキリスト教のモラルから開放しようとし、フランスのモンテーニュは隋想録で人間本来のあり方を追求し、スペインのセルバンテスはドンキホーテを書いて政治と道徳を風刺し近代文学を発進させた。絵画ではイタリアのレオナルド・ダ・ビンチがモナリザを画き、ボッティチェリはヴィーナスの誕生を画いて人間の心と肉体を高らかに謳い上げた。同じ頃ドイツを中心にしたキリスト教国ではすざまじい魔女狩りの嵐が吹き荒れていたのである。
宗教から解放され自由と化学への道を歩み始めたルネッサンスの幕開けと、キリスト教の擁護のために展開された魔女狩りという全く対立する二つの社会現象がヨーロッパの中で二百年以上の間併立していた奇妙な時代であった。
私たちはものごとを考える時二つの対立するカテゴリーに分けて見ることが多い。動物愛護と動物虐待、生と死、善と悪、陽と陰などのように対立する時、それらをどのように見るかは、固定的、絶対的ではなくその置かれた状況、思想、時代などによって全く別の判断になるのである。虐待と見るか、愛護と見るか、或いは別の違ったものと見るかは定められない。ある特別の目で見れば虐待は実は信仰の儀式であり伝承的行事ともなるのである。魔女狩りや猫の処刑は実は聖職者、学者、貴族、地主などの上流階級と、農民や職人などの労働者の対立としても見られ、また動物愛護と動物虐待という二つのカテゴリーによる構図でもあるのだ。その対立関係は状況や視点により様々に変化する相対的なものであり、流動的でもあるのだ。
こうした二項対立的思考は決定的であるように見えながら大きな不備もある。つまり見る視点を変え別の眼で見ると答は違ってくるということである。しかもそれぞれの答は、それなりに真実なのである。
宗教改革を経てやがて魔女狩りも消え、18世紀に入ると、ルネッサンスの本流となり人々はキリスト教の信仰の束縛から解放され人間の自由へと大きく転換し始め、ヒューマニズムの思考の中で上流階級の人々の間に動物に対する保護、愛護という新しい感情が芽生えてきた。農夫や職人などの労働者ではなく裕福な人、聖職者、学者、地主などの権力階級の人が動物に心を開き始めた。十六世紀に魔女狩りを押し進めていた人々の子孫がヒューマニズムの潮流の中で、思考の転換を迫られ動物を労働力としての生き物とは評価しなくなり、産業を都市の発展へ関心を移したことが、動物との関わりを薄くし、動物への態度を変えさせたという。一七六三年から始まった産業革命が急速に進み工業が発達し産業が盛んになったイギリスに時を同じくして動物への関心が変化し、心を開き始めたのは偶然ではない。
十三世紀以降の魔女狩りの時代が終わった後もヨーロッパでもイギリスでも犬は番犬や猟犬として猫はネズミ退治のために、牛や豚は食料として飼育されてはいたが、動物は心のない野蛮なものとして常に苛酷にあつかわれ虐待されていた。フランスでは牛も豚も昆虫まで疾病の原因だとか人を害したとかの理由で動物裁判にかけ、逆さ吊りや焚刑にした。農村では種々の動物が穀物の霊とされて豊穣の祭りの生贄にされ焚刑にされた。イギリスでは牛や熊と犬を闘わせたり街頭で犬や猫などを虐待し処刑したり、牛や馬を酷使することが日常当たり前のことであったという。こうした動物受難の時代がある時突然開放されたわけではない。数世紀に渡るルネッサンス時代を経てヒューマニズムの思想や、民衆の日々の生活の中に溶け込んでいたローマ帝制時代よりの民間の伝承や古きキリスト教への信仰や、さらにジャン・ジャック・ルソーなどが唱えた民主主義的思想の台頭や、産業革命による社会の変貌などの中で複合的に醸成されて、漸く動物への関心が高まり保護の心が芽生えてきたのである。それは十八世紀後半から十九世紀に入ってからのことであった。
激しい動物虐待の歴史を持ったイギリスに、王立動物虐待防止協会RSPCAが世界に先駆けて発足したのはその頃であり、現在も世界的に穏健な動物愛護運動を展開している。しかし動物への不当な扱いや虐待がなくなったわけではなく世界中で未だに公然と横行しているのだ。



