動物愛護運動と宗教的思想
前川博司
さて、日本には古来から自然の中の生きものや山川草木すべてに聖なる霊があり、その具現として神があるという神話的民話的自然観(アニミズム)が、仏教が伝来する以前からあった。この日本古来のアニミズムと538年頃伝来した客観的思考方法を持った仏教とは相対するものがあったが、お互いに補い合い仏教は日本独特の日本仏教を、アニミズムは神道を作り上げ互いに協力、共存してきた歴史を持っている。
日本仏教の衆生にも自然にも仏性が備わっており煩悩を解脱してやがて悟りを得て成仏するという考えは、すべての自然に霊が宿るとするアニミズムの考えと相応し、やがて神仏習合にまで発展したのである。
日本の国教となった仏教の戒律の第一は不殺生であり仏教の根幹をなしている。殺してはならぬ。殺させてはならぬ(法句経ダンマパダ)時々の為政者は仏教的思想の元で生きものの殺生や肉食を禁じ続けてきた。これはネガティブな動物への対応であり積極的な保護の殆どないままで明治、昭和へと引き継がれてきた。
しかし現実には古くから支配階級や猟師たちは、家畜であった牛や馬や鶏や、犬猫などの外の野生の生き物を狩りしてその肉を食していたし、その習慣は消えることなく続いていたのだ。とはいえ仏教とアニミズムの混在した宗教を信仰していた大衆の間には、殺生や肉食を嫌悪する潜在的罪悪感が生じ、現代の我々の心の中にも確かに伝承されているのである。
人間は生きるために他の生き物の命を奪い、食することなしには生きてゆけない、という根源的な悪を抱えた存在であり(歎異抄)生死流転を繰り返す運命をもった存在であるとする仏教的思想と、人間絶対を神の声として殺生肉食を是とする欧米のキリスト教の思考とは何れも生きるためと容認してはいるがその根底には全く相反するものがあるのである。人間の背負っている悪しき業と諦観する日本的仏教と、聖書を絶対の善とし造物主の神を信仰するキリスト教とは基盤を異にした異質なものであり互いに理解はしても信ずることの出来ない生活の道標であろう。
しかしすべての宗教は常に非現実的な信仰によって救われるとするものであり、現実的な救いを実現させるものではない。我々の身近にある現実の社会においては一見現実的に見える様々な救いが実は決して現実ではなくそのまま放置されているのが現世の実態であることを思えば、観念的、心情的な救いが時に現実的な救いよりも、現実的でありえることを否定できないのである。単に異次元の信仰に救いを見出すものではなく一見現実的な矛盾する非現実的、幻想的世界を心に作り上げ、現世よりも優位に置くような世界を造り出してゆくのが宗教的意識であり、人々の認識力や想像力を揺さぶって人々を神の世界に誘い救済しているのが宗教だとされている。
西欧に始まった自然保護、動物保護と人間との共生という潮流は、十八世紀に始まった産業革命により経済的に豊かになり、キリスト教の束縛より開放され、政治的に平和になった頃より始まったもので今は世界の常識になってきたが、その根源は大衆の間に根強く伝承されてきた土着の宗教と、公に信仰されたキリスト教の戒律への反省との間に生じた時代的必然であったといえるだろう。
日本にも漸く芽生えてきた動物保護の考えは日本古来のアニミズムと、伝来した仏教との融合した思想の中に埋もれていたネガティブな動物観が明治に入り欧米より入ってきたキリスト教的動物観によって刺激され漸く目覚めてきたものだと思われる。動物愛護という思想の根源は、欧米はもとより日本に於いてもそれぞれの国の宗教の中にあると言えるのではなかろうか。
世界中に生活している人間で、何らかの宗教的思考をもないものは極めて少数である。キリスト教圏、イスラム教圏、仏教圏などの宗教を国教としている国の人々は「宗教への信仰を持たないということは、魂がないと同じであり尋常な人間とは認められない」という信念を持っている。宗教を行動の軌範としている人々のこうした信念から生まれた動物への関わりは実に厚く広く強靭であり時によっては狂信的な原理主義的行動にもなる危うさを持っているのである。強度な宗教的基盤の上にある動物保護、虐待防止などの運動は、それらが潜在的に持っている宗教的感情的主張の逸脱の匂いがあり、一面的ではない複雑さのあるアイロニーを含んだ思想だと捉えておくべきではなかろうか。
対称的に宗教への絶対的信仰を持ってない日本人はネガティブな動物観があるとはいえ、動物への関わり方は全く希薄であり、大きく深い愛護運動への発展は望めないのではなどなど動物への対応は多種多様であり且矛盾を多く含んだものである。こうした対応は地球上のDNAを持っている生き物に対する善悪を超えた回答のない現実的な方便だといえるのではなかろうか。
我々日本人は宗教に対し非宗教者の心を捉える宗教の魅力を感じながらも、それと対決する現実を見る目や思索を深め、現実の不幸の中に生きるという非宗教的生き方をしているのではなかろうか。日本人は現実肯定と現実否定との間で宗教への絶対的信仰に入れないで答のない生き方をしているようである。しかし漸く身近に芽生えてきた日本の動物観には密かに神道と仏教との習合した思想があることを忘れることなく、自然の中に潜む神聖なるいのちを観念し、すべてのいのちは自然の摂理によって生かされていることを自覚し、地球も地球上のあらゆるいのちも無限ではないということを覚悟して、日本の風土に根ざした生きものとの関わり方を模索するべきではなかろうか。
生きものとは宇宙の意思=神=によって見えないエネルギーが物質化され、生体化されたものであり、死とは宇宙の意思=神=によって物質化された生体が再び宇宙のエネルギーに戻ることである(岸根卓郎)という。
その生きものとの関わり方は、人間の生活に横たわる自然と非自然との織り成す行動や表出の中で求められなければならないものであり、その解決への処方箋は果てしのない彼岸にあるようである。



