『CUT IN』 Vol.52(2006年7月号)

Eiko & Koma, Cambodian Stories
(エイコ&コマ 『カンボジア物語』)

(2006年4月7〜9日 Roy and Edna Disney / CalArts Theater, Los Angeles)


 NYに拠点を置くアーティスト、エイコ&コマの新作をロスの劇場で見た。カンボジアを訪れた二人が、プノンペンの芸術学校で絵画を学ぶ二十歳前後の学生たちとともに作り上げた作品だが、エイコとコマはごく一部に顔を見せるに過ぎない。あくまでダンスとは全く無縁の、九人の少年と一人の少女が主役を務めるのである。とはいえ彼ら彼女らの身体は驚くほど生で、瑞々しく、また強い芯を感じさせるものだった。その不思議な強度は、身体が、ただ身体であるだけでこんなにも「語る」ことができるのかと動揺してしまうほどなのだ。

 全てに先立ってまず、一人一人が簡単な英語で自己紹介をする場面がある。名前と年齢、家族構成、将来の夢。ほとんどの場合、両親のいずれか、あるいは両方を既に亡くしており、数人の兄弟姉妹がいる。そして誰もが「有名な画家になりたい」と口にする(伝統工芸に近いもののようだ)。黄色い砂が敷かれた舞台の左右には、素朴な線と色彩で女性を描いた大きな絵が吊られており、また少年たちが木の櫓を使ってさらに巨大な女性像をみるみる描き上げていくスペクタクルもある。確かに、起源としての女性=「母」のイメージが、少女とエイコとの重ね合わせによって強調され、近代的な家族集団を核とする再生産構造のイデオロギーを感傷的に反復してしまうナイーヴさは気にかかる。しかしそうした弱点を隠そうともしないほど、舞台は率直で、嘘がない。現地のものと思しき歌謡曲が時折り聞こえてくるが、ドラマティックな演出は排され、デヴィッド・フェリの照明が舞台を終始一様に照らし続ける。出来事を隅々まで曝け出しつつ、一切を温かく包み込むその光は、エイコ&コマ特有のゆっくりとしたシンプルな身振りや淡々とした歩行と、その一挙手一投足をじっと噛み締める彼ら彼女らの体のざわめきを、余すところなく客席まで届けてくれる。

 美しさは、おそらく誰の心にも強く響く。しかし決してそれだけではない、というか、強烈な美しさの印象を織り成す微視的ドラマを見ずしてただ「美しい」と言い放ってしまえば、その美すら実質を失うだろう。なぜならそこには、舞台に立つ者たちの「弱さ」への知覚が欠落してしまうからだ。

 彼ら彼女らは何よりまず「言葉をもたない者」として観客の前に立つのである。クメール語を解さないアメリカの観客の前に、という意味ではもちろんない。絵画に携わる身体が、絵画を離れ、身体そのもので話そうとする時、それは自ずと言葉ならざる言葉、いわばコミュニケーションの可能性への「賭け」である他はないという意味だ。微かに重心を下げ、細く長い両腕を斜め前と後に伸ばし、緩慢に舞台を横切って行く、あるいは捻った上体で描く植物的な曲線を右へ左へとリズミカルに反復するなどといった身振りが、何度も繰り返されながら、いつも微妙な躊躇の揺らぎを孕んでいる。自分の技術に安心し切った怠惰な「ダンサー」とは違う、動きを一つ一つ確かめるような感覚の繊細さが、目では捉え切れないほどの細かな震動となって、テクスチャーを生んでいる。「不能」の震えではない。身体が自らを投じた「賭け」の強度なのだ。

 表現者の身体から絵画の技術が引き算されて、裸になる。彼ら彼女らの手元から言葉=媒介が取り除かれることは、観客の手元からもそれが失われることでもあるだろう。両者の間の、媒介を欠いたこの関係をこそエイコ&コマは狙ったのに違いない。そして丸腰の身体は、なおも何かを伝えてくる。静かな、危うい綱渡りのような体の運びが、見ているこちらの体をただ震わせる。これは何なのだろう?この壊れやすい言葉はいったい何を語るのか。ポル・ポト政権下の血腥い内戦と虐殺で傷ついたカンボジアという物語か、あるいはそこで生活する16歳のチャクレーヤや、21歳のヴァンナクの、「母」をめぐる(複数の)物語か?そうではない、むしろこんな紋切型の表象=代理の暴力的介入を何としても免れるために、言葉は捨てられ、発話は「賭け」に投じられたのである。そうして彼ら彼女らは、物語の代わりに、語り得ない物語があるという事実だけを、語るのではないだろうか。遠い国の人々の現実が、ある具体的な距離を隔てて厳然とあるという事実だけが、意味を跨ぎ越して、見る者の体をただ震動させるのではないだろうか。

 おそらくダンスとは、いつもこうして、向かい合う身体と身体の距離に根差しつつ、近さによって遠さを、他者が他者であることを意識させるものなのだ。ただしそれは同時に、埋まらない距離そのものを共有することは可能だ、ということを示してもいる。『カンボジア物語』は、カンボジアの現実の表象=代理を拒み、そうすることで、距離のリアリティを触知可能なものにするのである。そこで作動するのは、ダンスする身体だけがもち得る倫理と批評の力に他ならない。

 (7日所見)

 *なおこの作品の背景やメイキング映像などはwww.eikoandkoma.orgで見ることができる。

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