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青鬼の褌を洗う女         坂口安吾



あらすじ

「私」と「母」は遊ぶことが好きで貧乏がきらいであった。オメカケだった「母」は、「私」にもオメカケになることを強くすすめる。「私」は別にオメカケが嫌だとは思っていなかったが、自由を束縛されるのは嫌だった。けれど戦争が始まり、オメカケなどは国賊という時世になってしまった。「母」は空襲で死んだ。「私」は徴用された会社の専務にひきとられ家をあたえられた。久須美(専務)は56歳の醜男であったが「私」の本性のすべてを受け入れ、満足させてくれようとする。ある日盲腸で入院した先の病院で「私」は墨田川という相撲取りと意気投合し温泉に長逗留する。久須美は「墨田川が好きなら私が結婚させてあげる」と申し出るが、「私」はもうきらいになった、と言う。久須美は妻や子どものいる自宅を出て、「私」と暮らし始めた。「私」は久須美の魂の孤独を知りながら、一緒にいて精一杯媚びて、媚びながら死んでいきたい、と思う。私もまた寂寥に耐えられない人間だからである。たとえ青鬼赤鬼とでも誰もいないよりはいいのだった。

 



Nancy:この短編にはカモフラージュされた形の愛が書かれていると思うんだけど…何からみていこうかな。まずは「私」と「母」の関係からかな? 「母」は「私」を品物のように大事にして愛し、「私」はそんな「母」を愛してはいなかった、とあるけれど、母親が自分の子を「品物」のように愛するというのは、すごく珍しいということでもないよね。我が子を自分の分身とし、自己愛の延長で愛するということはよく聞くから。母性のことにまで触れると論点がずれていちゃうからやめとこう。「私」は、自分をひとりの人間として認めて愛してくれない母親は愛せなかったということだよね。

 

Kaz:そうだね。「私」は母親にとっては、「商品」でしかないから、母親は傷物になることを恐れていたんだものね。これは現代でも似たような話はいくらでもあるけど。「私」はたくさんの男に体を与えていくんだけど、それは母親に対する「反抗」みたいなもの?

 

Nancy:母子関係っていうのは、その後の人生で他者とに関係を築くうえでのモデルになるものだよね。「私」は母親との関係から学んだことを他者に対して実行したんだと思う。自分の体を「商品」、つまり物として扱えば、心と切り離すということをできるもの。その結果が母親に対する「反抗」という形になったのだと思うのだけど、意図的だったのかな…。「私」は若い男の子たちと街を歩くことも好きだけれど、そのことを一種の「風景」だと言っている。通り過ぎればなくなってしまうような…。きっとおしゃべりして楽しいという形上のものだけでは、満たされなかったんだと思う。だからこそ、自分の本性を見抜いて受け入れてくれる久須美専務のところに行った…という流れでしょうね。

ちょっと話がずれちゃうんだけれど、中身がともなわなくてもその場その時が楽しければそれでいい、って思うことある?

 

Kaz:刹那的な楽しみってこと?例えば、カラオケなんてのは最たるものだと思うけど(でも好きです)、気晴らしという意味ではいいかな。でもあとには何にも残らないね。僕の場合だと、バンドでみんなと音を出している時、昔みたいに集団でいろんな活動をしているときのほうが充実感があった。今の子ども達は刹那的な楽しみしか知らないからかわいそうだね。嘆いていてもしょうがないから、そういう場づくりはしたい。ずっと前に、東京芸術座の杉本さんが言っていたよね。「目的意識のない集団はただの群れだ」つまりその場限りの楽しみだけで集っている集団は「仲間」ではない。虚しいよね。

 

Nancy:「私」もその虚しさを幼いうちからわかっていたんだね。だからヘンに老成しちゃっていたんだ…。私もきゃあきゃあいってみんなで騒ぐことも大好きだけれど、それ一色というのには耐えられないな。

「私」は久須美に対して「媚態」を示すことをおぼえた、これは彼に対する感謝の表れだ、とあるけれど、これも一種の愛なんだろうか。

 

Kaz:普通「媚態」というと、キャバレーやバーでお姉さんがお客の支払ってくれるお金の対価として客にくれるもの、あるいは「色仕掛け」というイメージだけどね。これをうるさいと思う男のひともいると思うけど、一般的な男は「媚態」には弱いだろうね。女の立場で、どういう時に「媚態」を見せてくれるのかな。

 

Nancy:そうか…じゃ「私」のは愛じゃないのかもしれない。「媚態」っていうのは男の人の気をひくためのものだと思う。恋人になる前の男の人に向かって媚態をふりまくことはあっても、恋人になったり夫になったりしてからも盛んに媚態をふりまいたりはしないんじゃないかな。少なくとも私はそうですね〜。「私」は久須美のことを愛しているから、というよりも自分の本性までもを大切にしてくれるから、一緒にいたんだと思う。でもこれも愛のひとつの形なんだろうか。

久須美もまた孤独な魂の持ち主で、人生を観念の上からしかみられない人だと「私」が分析している。ガチガチにガードを固めてしまって、人の魂と溶け合うことができない、ということかな。そんな久須美を「私」は「鬼」と形容している。結局この二人は全身全霊で人を愛することができないみたいだね。どこかであきらめて自分自身にバリアを張ってしまっている。人間ってそんな孤独な状態で耐えられるんだろうか。私だったら無理だな。形だけじゃなくて中身も伴った愛が欲しい。

 

Kaz:僕は「孤独」という言葉に憧憬を感じるんだけど、それは本当に孤独じゃなかったから、「孤独」にあこがれたんだね。自分と同じ孤独を抱えて生きているお互いだからこそ、「私」は久須美の孤独な魂を愛し、久須美もまた「私」の魂を愛したんだと思う。それは、本当の愛とはすこし違うかもしれない。だけど、ひとつの「愛の形」ではある。その魂の孤独は、実はだれでも持っているものだから、懐かしく感じるのかも。安吾の「桜の森の満開の下」に描かれている「果てしのない孤独」と同じ物だと思うよ。