中央林間の歴史

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「鶴間」の地名の由来
[説1]源頼朝が、富士の巻狩り(1193)の帰りに東の空に鶴が舞うのを見て“鶴間”と名づけた。
[説2]家康が座間野に鷹狩りしたときに“鶴間”と命名した。
村の概要
戦国時代……本村は鶴間村と一村で、1559年(永録2年)当時、小田原後北条氏の旗本、関兵部烝の所領に属した。
秀吉の小田原攻めで『関八州は貴公に…』にの言葉により、家康のものになった。
相模野は兎やキジを追う狩猟地に最適であったとみえ、近世以前より領主のための御留め場でもあり、徳川氏の代になっては、鷹狩場として直轄地になった。そのため鶴間から鶴がいなくなったと誇張していわれもする。
狩猟のたびに近郷の農民は助郷にかり出され、鷹匠の横暴に苦しんだ。
公所
小字高木、牢場、公所を中心としており、通常は“公所”あるいは“公所村”といわれる。『風土記稿』(新編相模国風土記稿)に公所を「此地に人家40軒許村落をなせり、依て近村にては公所村と唱え、別村の如くす」と記し、現存する地方文書でも公所村としている。公所には、名主、組頭が置かれ、鎮守として子権現社、住吉社、更に公所のほとんどの家が檀家となっている曹洞宗教定方寺等が存在し、正に一村としての機能をもっている。
歴史上の人物では、山岡鉄舟、若山牧水などが訪れている。
鶴間
公所の中心から約1500m南に位置し、公所を通って南下する鎌倉街道と、主要街道の支街道=脇往還として著名な矢倉街道の交差したところで、“宿”“鶴間宿”あるいは単に“鶴間”とも称され、近世においては、本村の中心地である。
歴史上の人物も多く訪れていると思われるが、渡辺華山など有名である。
徳川時代末期より明治初期にかけて、公所及び鶴間に新開地の開発が行われ、公所は公所は公所新開または、内山新開ともいい、鶴間には、鶴間新開が開発された。当時開発の主体が元部落であったので、頭に元村の名前が付けられた
下鶴間村の農業
江戸幕府と武家政治の中心が移動したことで、この地の村々の様子が変化している。
江戸に徳川家康が幕府を開き、矢倉沢街道(往還)が栄え始めると、宿は馬の乗継所として栄え、にぎわうようになるが、こうした武士の政治の動きとは別に、農民の世界は、谷戸田での米作りの他に、畑での粟やヒエ、陸稲作りなど、生きるための農業が真剣につづけられていたのである。
谷戸田からは一反、二俵から三俵しか収穫はなく、自給自足のための畑作農業が何としても必要であった。米、麦、粟などを混ぜた“三穀混ぜ”の食物を食べながら農業に励んだ。これは明治維新になっても続けられた。

明治維新によって日本の資本主義制生産が建設されていくと、農村にも“自給自足”だけではすまなくない時代が訪れてくるのである。
地主には納税の義務があり、金納しなければならなかた。
小作をする者も、生産力をあげるためには、肥料代が必要であった。
社会全体が資本主義の道を歩んでいる時代、農家にもその影響があらわれてきて、農家も“現金”をかせぐためには“自給自足”の農業から“商品化”できる農産物を作る必要がでてきたのである。
明治維新後の村人たちのくらしは決して楽ではなく、養蚕と麦、陸稲を中心に黙々と農業にはげんできた。副業に木炭を焼いたり、大きい農家に年期奉公をし、金を貯めて独立しようとする動きもあった。
また火山灰地の水不足の高台を開墾しようとする動きもあった。麦作りの季節になると、まだ夜が明けない頃から起き出して夜明けと同時に野良仕事を始めたそうだ。
麦や陸稲、いも等を畑で作りながら、“現金”を握るために《養蚕》に励んだ。
養蚕は、春蚕、夏蚕、晩秋蚕と、年3回行われた。(4回行うところろもあった。)
麦、甘藷、陸稲、粟、野菜などは、生きていくだけで精一杯な収益しか農家に残してくれなかった。家を興すには養蚕の収益に活路を求めざるを得なかった。しかし、実際は、養蚕の出来、不出来によって、新しく農地を買い求める程の収益を養蚕は農家に残しはしなかった。

昭和初期の不況によって、養蚕は生糸価格の暴落によって、生産費にも及ばない価格となり、養蚕に励んだ多くの村人たちは大きな打撃を受けたのである。
明治維新は日本に資本主義生産を育成したが、農村内部でこうした資本主義生産を結び合える農業生産物は“養蚕”しかなかった。
農村社会にも貨幣経済が入り込んでき、当時のことを「明治の末頃から養蚕はさかんになり、大正、昭和の初期は、養蚕にすべてをかけたものだったよ。養蚕で稼いだ金で、肥料代なども支払ったもんだ。だから、養蚕が失敗すると、そりゃあ惨めなものだった。」とこの土地の古老は語る。
養蚕は農家にとって、まさに“命綱”でもあった。その養蚕が、大打撃を受ける時がくる。昭和4〜5年の《農業恐慌》の時であった。生糸の唯一の顧客であたアメリカが不況に陥り、それが日本にも伝わり、養蚕は大打撃を受ける。
各地で農民救済の土木工事が行われ、鶴間村でも“カントリー”の土木工事が行われ、当時(昭和6年〜7年)日当80銭で村人たちは土木工事に出たときく。
この養蚕が受けた不況の打撃は、農家の肥料代の借金等の形で残り、第二次大戦が始まる頃まで農家を苦しめていた。
内山新開
中央林間駅から東へ500m程行き、そこから左へ曲がって100mばかり行くと、内山新開へ最初に入植した人たちの家があり、この当たり一帯を呼ぶ名称であった。
この内山新開は別名、公所新開とも呼ばれているように、下鶴間の公所から明治40年に井上梅吉さんが入植したのを始めとして、公所に関係のある人たちの入植によって開墾された土地である。井上梅吉さんに後れること3年、明治43年に、鈴木茂吉さんが入植しているが、その後、大正時代に4軒、昭和初年に2軒が入植している。
昭和4年、小田急江ノ島線が開通し、この地が大きく変化していくきっかけとなっていった。昭和15年において、新開に8軒が生計をたてていた。
下鶴間新開
下鶴間新開は学校の南側を中心に開墾されていった。定住者は、慶応元年が最初で、その後明治末年にかけて近郷から入植している。
明治維新直後、明治2年4月に神奈川県は、管下100里以内の開発候補地として、4か所を政府へ報告しており、その1つとして鶴間原芝地258町2反余りが報告されている。
開墾前のこの一帯は、下鶴間宿の浜田平左衛門の所有地が多く、かややすすきの原っぱで、この荒地を入植者に開墾させ、浜田屋がめんどうを見ていた。
また、国道246号線から引地川水源地付近にかけては、大木の林で、昼でも暗く家は1軒もなかったという。
入植者が生産したものは、ほとんどがネリ(トロロアオイ:紙を作るときのノリにする)と落花生であった。ネリは、製紙工場の人が買いに来たので現金収入源になった。
生活のための生産物は、粟、麦、ひえ、もろこしであり、小麦は製粉所がないので乾燥させてから石臼でひいて粉を作った。炭は生活の糧にする程のものではなく、自家用程度で、桑の木や根っこで作った。
明治30年代には、養蚕がはじまり、同40年代になってやっと米を作ったという。
現在、所々にみられるくぬぎ林や松林は、明治末から大正にかけて苗を植付けて林に仕立てたものである。
入植者の多くは、浜田屋の小作として入り、後に土地を購入した。現金収入は少なく、いろいろ才覚して収入を多くするより、寸暇を惜しんで働きこつこつと資金をためて畑地を購入するといった具合であった。
この一帯は川がなく、水は共同井戸を使用している。井戸は20m以上掘らないと水が出てこない。費用の面からもそう多くは掘れないので少なく、風呂なども共同であった。衣類は織機がだいたいの家にあったので、売りに出せないまゆを残しておいて紋付きなどを織った。食べ物は、さつま芋、米、麦、粟の三色ご飯が交互に出されるのが主食であり、その他にみそ汁と漬物ぐらいであった。
日用品は、宿の油屋という店を利用したが、穀類とからい物があれば生活できたので、だいたいはこの店で用は足りた。古着や下駄などは、原町田に2・6市といって2と6のつく日に市がたち、そこで購入した。
中央林間の開発
 《萱野、すすきの原、雑木林に命を与えた郷土の人々》
やせこけている大地……
水に乏しいこの地に、命を与えたのが、公所、公所新開、下鶴間新開の人々だった。
この荒地を耕し、麦や陸稲、いも等を作り始め、養蚕も手がけた。
あるおばあさんは大正時代の様子を「布団は敷っぱなし、ご飯を食べれば、なべやかまはそのままにして畑へ行って、六月の蚕のときは蚕が大きくなると、網をかけて桑をくれるのだけれど、夜になると網の上に蚕が上っちゃうんですよ。だから夜のうちに網を両端で持ってほかのえびらへ移すのですが、それが夜の仕事で、終わって外に出るともう薄明るくなっている。だからそのまま畑へいっちゃった。」と語っていたという。
沢山働いたからといって、十分な収穫を得たわけではないが、人々は、水、土地等の苦難を乗り越えて、この荒地を、畑と変えていったのである。
《この町に駅が欲しい……公所の人々の願い》
公所の人々は元より、下鶴間の人々は、交通機関を利用する場合、原町田(現在のJR横浜線 町田)へ出なければならず、2時間に1本の電車を待たし、町田までの徒歩も、かなり時間を要した。そのため中学校、女学校への通学は困難であり、下宿を余儀なくされた。また、買い物で村内で買えないものについては、町田まで行かなければならなかった。このような生活の中で公所の人々は、近くに駅が欲しいと念願していた。
大正末、小田急(小田原急行電鉄株式会社、現小田急電鉄株式会社)から鉄道を引く話があり、公所の人々は互いに駅を誘致しようと、各軒ごとに土地を出しあい、小田急に安く放出した。公所の人々にとって「荒地から耕地に育ててきた土地」を手放すといいうのは苦渋の決断だったが、駅誘致の願いはそれだけ切実だった。
しかし、公所の人々の念願は半ばしかかなわず、実際にできた駅は公所から離れた地(現在地)だった。
このような経緯を考えると「公所の人々が今の中央林間都市の生みの親である」と言える。
《中央林間都市計画》
小田急江ノ島線は、昭和4年4月に開通、小田急は昭和4年に南林間西地区、昭和5年に南林間東地区、昭和6年に中央林間の分譲を始めた。
現在の中央林間、南林間、東林間という駅名は、初め公所、相模ヶ丘、中和田という名が用意されていたが、原野を開いて住宅都市を開発するにふさわしく、将来をイメージアップして中央林間都市、南林間都市、東林間都市と電車開通の直前に変更して名付けられたということである。
この林間都市計画構想には、この都市作りの特徴として、スポーツ都市建設区という一区画が盛り込まれていて、2万4000坪に4面の野球場、5000坪のラグビー場、その他テニスコート、ホッケー場、相撲場、また選手が合宿できるスポーツクラブ、野球場には3000人入るスタンド等が次々に建設された。
《中央林間都市に住む》
道路は舗装もされず側溝もなく雑木林やすすきの原を割ったように道幅を付けただけのものであった。当初、水道、ガス、電気などはなく、生活は大変なものだった。夜はランプにたよる生活であり、ランプ磨きは子どもの仕事になっていたところもあった。
周りは林やすすき野原のため、夜は非常に暗く、道づたいに歩くのは難しいことであった。
水は井戸に頼っていたが、井戸は深く20m〜25mもあり、風呂の水汲みにも難行した。
しかし、自然は豊かでカラスが何千羽と飛んでいたり、野うさぎ、小授鶏も多く、野草もわらびやタラの芽をとったり、その他きのこなども取ることができた。
駅は一時期、無人駅であった。電車を利用する人は少なく、住民と車掌が顔見知りの仲間になり、車掌さんを呼んでみんなでお菓子を食べたりすることもあった。
駅前に店を持つ福田屋酒店の御主人は「あの人が帰ってきたから、もうだれも来ないと店を閉めた」ということからも決まった人しか利用していなかったことが、うかがわれる。
交番は、現在の鶴間駅東側付近に上溝警察署があった。落とし物などは、駅の改札口等に置いてあり、当人が持っていくまで、置いてあるという環境であったという。
駅前の商店は、福田屋酒店(細川氏、昭和6年に開店、東京より)と、八百屋(現在中央書店)の2軒だけだった。
昭和10年頃においても、家は50軒程しかなく“閑散としていた”どころではなく、非
 常に淋しいところであった。
《遠い大和小への道は桜道……やさしさ一杯の大人集団》
子ども達は、大和小学校までの片道4km程を歩いて通学していた。また、一部低学年においては、公所の人々が出資してつくった北分校(現在の北大和小学校)や、小田急系の大和学園に通学していた。
小田急の開発の前後であるが、前述した通り子ども達は毎日、大和小学校へ通学していた。長い道のりを、毎日通うのは大人でもたいへんなことであった。そこで、せめても子ども達の通学路を楽しくと、大和小までの通学路に、桜の木を植えたそうだ。そして、菜の花も植え、未来を担う子ども達に夢を託したようだ。
《都市計画の断念》
その後、あまり人口の変化のない状態が続き、また、社会的には戦時期を迎えて小田急は、この住宅都市の建設を断念した。したがって駅名も第二次世界大戦の始まる直前の昭和16年10月15日に都市構想の建設見通しがたたなくなった当時、まだ林に囲まれたこの地域に、都市と言う名は似合わないと一斉に都市の文字を駅名からはずした。
この地域の農業を営む人々にも並々ならぬ苦労があったようだ。
郷土の土は、ロームであり非常にやせている土であるが、特に公所より西は、またまたやせた地であり他地区と比較するならば、それ以上の肥料をやっても同じだけの収穫は得られなかった。その為、農家の人々は、午前2時頃から大八車を引き、人糞を買いに行ったり、山の落ち葉を買い、燃やして肥料にしたりする等の努力を続けていた。
《第二次世界大戦……食糧増産、戦災、伝染病》
農家においては、政府の食糧増産の命令に従い、一坪の土地でも、開墾し、麦や甘薯(さつまいも)を作ったが、肥料も配給であったので思うようにはできなかった。
相模カントリークラブの中まで畑をつくって耕作していたという。
また空地でも耕作が始まった。
戦災については下鶴間新開が多かった。昭和20年5月24日夜、小松氏宅に焼夷弾が沢山落とされて、家を焼かれる。昭和20年7月29日、下鶴間新開でも死者が出る。その外、赤痢もはやり、この地域は人口の一割以上が死んで、昭和20年5月24日の空襲から7月、8月にかけては、生地獄だったと他の人は言っている。(様子については、大和市史9、P75〜)。
また、学区東端、現三機工業の場所に高射砲陣地があった。軍需工場としては、アンゴラ工場があった。
《戦後》
このようななかで、終戦を迎え、食料難はますます深刻になり、空地は総て耕され鍬等持ったことのない疎開で来た人までもが、じゃがいも、さつまいも作りをし、餓と戦っていた。小田急の駅からは、毎日リュックサックを背負った人、大風呂敷をもった人が降りてきて、食糧の買い出しをしていった。
《興業の発展》
相模原畑地灌漑水路
  ・昭和24年着工
  ・昭和31年灌漑開始
  ・昭和31年首都圏整備委員会発足
この委員会発足後、白い用水路は無用のものとなった。(工業地帯に転換するため)
    ォ現在のサイクリングロード
《県道座間線ができる(昭和28年)》
県道座間線は江戸時代、幕府の巡見使の通った道で、巾2間(3.6m)。旧道は歩道橋から関水氏の前の道で、大和工業、大平金属、日産自動車が進出により、学校の南側や下鶴間新開が工場街や住宅地と変わってきた。
中央林間地区においては、30年代後半以来、日本ビクターや東製作所等の工場進出、さらに59年4月の東急田園都市線の小田急中央林間駅乗り入れなどから、都市として急激な発展を遂げた。
大和あれこれ
大和の地名
なぜ、“大和村、大和町、大和市”のように「大和」と命名されたのか。
その由来は以下のようなものだ。
明治21年4月市制町村制が公布され、翌22年4月から施行され、下鶴間村が深見、上草柳、下草柳村と合併し、翌年この村を“鶴見村”と命名した。
しかし、それまでの行政区が、下鶴間村と他の3村とは違っていた為、地価の評価も大差があった。その為に村税の納付にあまりにも差ができたので常に論争がなされた。
また、村名“鶴見村”については、鶴間の鶴と、深見の見を取り鶴見村と命名されたのであるが、上草柳、下草柳村の住民からは、鶴間村と深見村から取った名であるということで、猛反対があった。
地価に対する税金の問題と併せて村名の問題についての収拾は一向につかず、遂には分村問題にまで発展し、村長は辞職し、自治会行政の運営は麻痺状態となった。
県においては事重大なりとして、県属宮高橋周徹を村長職務管掌として派遣し、調停の労をとらせた。
村税についてはいろいろと討議が加えられ、ただ地価割のみでなく般別割等も加えられ、均衡に近づくように努力がなされた。
村名鶴見村についてはこれを廃し、今後大いに仲良く発展するようにとの願いをこめて、大いに和する大和村と改まった。
村名の改称は、明治24年9月28日である。
大和が相模原になる?(昭和15年頃)
  昭和12年、東京の市ヶ谷より陸軍士官学校が座間に移転、同12年に同校の開校、これに伴い、町田駅より陸軍士官学校に通ずる行幸路の整備が行われた。
翌13年に相模原に陸軍通信学校、兵器学校軍の諸宮衛が進出し、15年春から軍部の要請により、当時、上溝察管内であった上溝町外、座間、大和までの1町7ヶ村を軍都する、相模原合併の話が軍の圧力で持ち上がっていた。
大和村は、合併賛成派と反対派とに別れ対立が続いた。
村会場には軍服の陸軍士官学校副官、中尾少佐と通信学校副宮が臨席、軍刀で床をたたいて脅かし、圧力をかけたことが有名である。
翌16年3月、大和を除く1町6ヶ村が合併し、相模原町が生まれたが、大和村がこれに加わることはなかった。
軍はどのようにして180万坪の厚木飛行場用地を取得したのか?
軍は該当の土地所有者 320名を綾瀬村小学校に集め説明した。
「日本の国は、世界中で最も立派な国である。この立派な国体を民が護らなければならない。日本の陸海軍は第一線で身を挺し働いている。皆さんの子弟も、その一員として国家の護りについている」等々話した後、「皆さんがお持ちになっている土地は、すべて国土といって、国のものであり、天皇陛下のものなのです。それを皆さんがお預かりしているものなのです。従って国が必要な時は、お返ししていただかなければならないのです。」ということで買収の申し渡しは終わった。
その時代は軍のこととあれば、意見や反対や質問等は出来なかった。軍の方針通り買収は行われ、同時に工事に着工したのであった。

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