著者紹介
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佐久川恵一(さくがわ けいいち)
1907年沖縄県那覇市で生まれる。
1931年早稲田大学高等師範部卒業。
科学画報編集長、(株)科学主義工業社編集局長、
朝日スライド(株)代表などを歴任。
主な著作、「沖縄再体験」「裸足社晩春」など
故佐久川恵一さんは我が家ともゆかりの深い方です。詳細はさておきとい
たしまして、佐久川さんの書かれました「いくやまかは」より、一部を紹介さ
せていただきます。


本文引用(佐久川恵一著/いくやまかは/裸足社刊/P63〜P66)

頭脳集団・理化学研究所

 東京本郷には、そのころ「理化学研究所前」という電車の停留所があった。電車
を降りるとすぐそこに研究所の正門があり、門を入って木立の下を少し行けば三階
建ての重厚な一号館の正面に出る。
 通称「理研」と呼ばれるこの研究所は、大河内正敏博士が国内の優秀な知能を呼
び集めた機関であって、そこから生み出された多くの業績、例えば鈴木梅太郎のビ
タミンの発見とか、仁科芳雄の宇宙線の研究などは、マスコミを通して一般の市民
の間にも広く知られていた。鈴木も仁科も主任研究員で、それぞれの名を冠した研
究室を持っていて、自由で独自の仕事に没頭していた。さらに、大河内研究室、真
島研究室のように、第一級の名だたる主任研究員の率いる研究室の総数が昭和11
年当時で25もあった。
 科学雑誌の編集者である私にとっては、理研全体が大きなニュースソースであっ
て、月のうち何回かはその構内のどこかにいた。研究所という学者ばかりの集団な
のに、なぜか筆の立つ人も多かった。寺田寅彦、中谷宇吉郎、黒田正夫、田口シ卯三
郎、辻二郎
の名を挙げて、文筆家と呼べば失礼かも知れないが、およそ文章に練達
な人は頭の回転も早いと見て良い。
 こういう話もあった。今日ではデーライト・スクリーンと呼ばれるものも、理研
から送り出された数多くの発明品の一つだが、発明者は初めはその性能を示すもの
として、「白昼映写幕」と命名した。私は当の発明者に会って、そこに辿り着くま
での道筋を聞き出していると、たまたま近くにいた中谷宇吉郎が、そばから口を出
してこう言った。
「この人は話すことも書くこともまったく不器用な人なんですよ。『科学画報』に
は代わってぼくが書いてあげますよ。ね、それでいいでしょう」
白昼映写幕という一つの発明が完成されるまでの経緯を、同じ所員として見聞きし
ていた中谷が進んで筆を執るというのは、願ってもない幸せである。中谷の名は、
北大で人工雪の研究をしてみごとな結晶を作り出したことで世間にもよく知られて
いるが、実は理研の所員でもあった。私は気分が晴ればれとしたので、そのまま社
には戻らず、近くの六義園に足を運んで、ベンチで手足を伸ばした。
 付け加えれば、わが国の冶金工学の第一人者で「鉄鋼の神さま」と称される東北
大学の本多光太郎博士も、理研の43号館に研究室を持っていたし、京都大学の
川秀樹
博士、同じく京大出身でのちにノーベル物理学賞を得た朝永振一郎博士もま
た、理研の仁科研究室に籍を置いていた。
 私はサイクロトロンを抱える仁科研究室にも度々立ち寄ったが、主任研究員の仁
科博士は不在のことが多いので、同研究室のとっつきにあり、年のころも私と同じ
くらいの矢崎為一の部屋によく入り込んで、彼の仕事の邪魔をしたものである。
ある日、その部屋をノックすると、私の顔を見るなり、
「佐久川さん聞いてください、ぼくにも五体満足な子が産まれましたよ」
ほんとによかったという表情である。
「それはそれは、おめでとう」
それには特別な事情があった。理研のサイクロトロン一号機は昭和12年に設置さ
れたものだが、それ以前に彼はアメリカに留学して、専ら原子核を破壊するこのイ
オン加速装置を研究していたので、サイクロトロンとはずいぶん長い付き合いであ
る。この取扱いのやっかいな装置から出る放射能を長年浴びているから、白血球が
減少しているかも知れないと、前々から心配していたからである。学者だって人間
だから、嬉しい時には素直にその情を人に伝えたいのだ。