自由研究・1

「しんにょうの点」


1999/09/15-2001/07/12
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目次


●研究の動機
 私は自分でフォント・エディタを作るくらいだから、当然、文字のデザインに関して、強い興味を持っている。さらに、文字自体に対しても、非常に強い興味を持っている。そんな私が最近、漢字に関する論争が盛んになっているのに気付いた。思えば20年以上前に一度、漢字教育を巡ってかなりの論争が起こっていた。読売新聞社から「日本語の現場」[B-1]というシリーズが刊行されたので、ご存じの方も多いと思う。「日本語の現場」は日本語の(特に字形の)揺れと、国語教育の現状について、よく取材してあり、面 白かった。この本はその後の「岩波講座 日本語3 国語国字問題」[B-3]でも参考文献に挙げられていた。
 その後、論争は下火になった印象があったが、最近再び活発になっている。しかし、今度の論争の主題は異字体・旧字体など字形と文字コードで、以前の論争と内容が若干異なる。きっかけはUnicodeとJISであった。例えば「吉」の字は、上半分を「土」で書く場合も「士」で書く場合もある。両方の「吉」が違う字だとする人達は、両者に別 の文字コードを割り振れと主張するのである(ただし、2本の横棒を同じ長さで書く流儀の人がいるのかいないのか、またいるとすればその主張はどうかなど、不明である)。この問題には、「きへんの縦棒をハネたらバツ」「『無』の横棒は真ん中が最長」式の現代の些末な国語教育が大きく影響しているのではないかと想像している。さらに、その根本には書き文字(楷書)を正式には教えない、戦後の日本語教育の問題がある、というのが最近の私の考えである。
 自分の字にこだわる人は多い。私は「阿部」だが「安部」と書かれると、違和感を覚える。「斎藤」さんが「斉藤」と書かれると同様の違和感を覚えるのだろう。でも、田中角栄の「角」の字は「本当は」(戸籍上は)「」だからといって、その字を活字として用意するのはどうかと思う。明らかに「角」と同じ文字であろう。実は私は「角」の書き誤りかと思っていたが、江守[B-12](p93)によれば伝統的な楷書の形らしい。以前は戸籍の文字は手書きであったので「角」をそう書いたのだろう。私も書類に自分の名前を書く際に「戸籍にあるのと同じように書いてください」と念を押されたことがあり、「ではどこまで楷書で再現すれば良いのだろう」と漠然とした疑問を抱いたことがある。楷書と明朝体は異なる書体であり、同じ文字でも異なって表現されることがあり得る。それを理解せず、がむしゃらに同じ字形を書くと言うのはおかしい。
 文字コードに関して一言述べれば、伝統のある字だからと、こだわるのは良いとしても、同じ文字に異なる文字コードを振るのには問題がある。異なるコードを振ってしまえば、「角栄」で検索しても田中角栄はひっかからなくなってしまう。「{土/口} 吉田」と「{士/口} 吉田」は別に検索しなければならなくなる。「正しい」表記を知らない限り実質的に検索できなくなるのである。
 文字コードの詳細については ここで触れるのは荷が重すぎるので、他のホームページ(文字コード標準体系検討専門委員会のホームページにあるリンク集からたどるとよい)に譲るとして、ここでは、フォントのデザインとも大きな関係がある、手書き文字と活字の関係について、特に、手書き文字の標準である楷書と、印刷文字の標準である明朝体を取り挙げ、特に私が気になっている「しんにょう」の形態を中心に考えてみたい。

●研究の経緯
 研究を開始するにあたり、旧友である森島基裕氏に相談した。氏は中国語が堪能で書道関係書籍の出版で著名な二玄社に勤務しており、文字の歴史について調べるには最良の相談相手と考えたからである。氏より数冊の書籍を紹介され、中でも大島正二著「〈辞書〉の発明」[B-11]は非常に参考になった。明朝体は楷書、篆書などの様に書体の一種で、独自の形態を持つことを再認識し、また漢字辞書(漢和字典)の諮意性についても知らされた。英語辞書の誤りを発見したりしたことのある経験から、辞書の無謬性などはとうから信じてはいなかったが、漢字字典の伝統的な欠陥について思い知らされた。
 また、文字のデザインに対する興味から、「日本語の文字と組版を考える会」の公開セミナーに出席することがあったが、その縁で印刷史研究家の布川氏を知り、印刷史研究会の存在を知った。そして小池・布川氏らの著書[B-13]より、江守氏の労作「解説字体字典」[B-12]を知ることとなった。前者からは様々な書体とその歴史についての知識を得、後者からは楷書について、また楷書と明朝体について、非常に有益な知見を得て、大きな影響を受けた。楷書と明朝体の関係については同書のp24に掲げられた図に全てが要約されている。ここにその図を改変したものを別 ファイルとして示す。(「字体に関する二つの流れ」31Kbyte GIF)
 なお、一次資料にあたることが困難であるため、二次資料を利用したが、出典を明らかにすることにより、二次資料の正確性を間接的に示すよう努めた。

●楷書の成立
 私は以前、根拠もなく漠然と「書は篆書から隷書が、さらに隷書から楷書が成立し、その楷書が崩れて行書、草書となった」と思い込んでいた。字形から連想したものかも知れないし、学校の授業での教育の順序が影響したのかも知れない。しかし、実際はそれほど単純に発生したものでなく、資料により発生に関する記述が異なる。草書は既に篆書の時代から発生が始まっていたらしく、草書は楷書と平行して発達して行ったと言っても良いらしい。楷書が最も後に成立したとするものもある[A-2]
 まずは取り敢えず、各書体を説明しておく。なお、書体の例はいずれも水野栗原:著「常用漢字五体 現代千字文」(日貿出版社 1986年)[B-6]から引用した。ちなみに、この本で著者は「標準字体に関する私察」の1項を特別 に設け、現代の漢字教育を批判している。

篆書
(てんしょ)

象形文字の雰囲気を多く残し、装飾的で曲線に富む。「しんにょう」は他の書体では繞(にょう)であっても、篆書では偏(へん)である。

隷書
(れいしょ)
やや横長にデザインされている。横画のハライ(波磔)に特徴がある。波磔は1文字に1ヵ所と決まっている。楷書の右ハライは隷書から受け継いだとのことである。
草書
(そうしょ)
ひらがなの元にもなった書体である。省略が多く、速記に適している。慣れないと判読が難しい。字形が楷書と大きく異なるものがあり(右の例の「無」など)、篆書に起源を持つと考えられている。
行書
(ぎょうしょ)
楷書をやや崩した形の書体である。少々省略がある。
楷書
(かいしょ)
現在標準的に用いられている字体である。隷書と同じく、右ハライの重なりを嫌う。

 各書体の成立の順序であるが、手軽な資料として手元の漢和辞典を見ても解説が異なっている。木村秀次・黒澤弘光:著「大修館現代漢和辞典」(大修館書店 1996年)[D-6]では漢代(206BC-220)に隷書から発生した草隷が草書の始まりとしている(p1311)が、貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍:編「角川漢和中辞典 第99版」(角川書店 1969年)[D-1](30年も前の版であるが)では「晋(*)ごろには草書があらわれた」(p1275)としている。更に、新村出:編「広辞苑 第4版」(岩波書店 1993年)[D-3]では草書を「書体の一で、篆隷を簡略にしたもの。俗に行書を更にくずし、点画を略したものをいう。」としているが、藤堂明保は「行書と今日のいわゆる草書(漢の草隷ではない)は、楷書をさらにくずしたもので、魏・晋・南北朝に至って流行し(後略)」[A-1]としている。こうなると、何を草書と呼ぶかが先ず問題になってくる。楷書に関しては、筒井茂徳は「楷書は最も遅く成立した正式書体」[A-2]であるとしており、徐々に発生し時を追って変化する各書体の成立に順序をつけること自体がそもそも無理なのかも知れない。
 また、楷書という字体の成立と「楷書」という名称の成立は別の現象であるということが、成立順序の混乱を助長しているような気がする。竹村真一:著「明朝体の歴史」(思文閣出版 1986)(*) [B-7]によれば、楷とは書体を指す言葉ではなく、楷書は隷書の一部として発展したとの事である。少し長くなるが、以下に同書を引用する。
「秦では篆書を楷、漢では八分を楷といって書体の名ではなく、ただ格式のある書の意味であり、唐代に至って初めて厳正に書体の名として楷書と呼ぶようになった。つまり唐の時代までは楷書という書はなかったということになる。」(p46, [B-7]
「楷書は三国時代から六朝時代に早く書く必要から隷体より変化した書体で、最初は今隷という名で隷書のなかまであった。[中略]この今隷といった時代は隷意を持っていて、六朝時代にも書かれたが、晋代の維摩詰経(568-572)を見ると、この時代には楷書が成り立っていたことがわかる。そして随・唐に至って今の楷書に完成した。このように楷書の形に変化していっても、唐の時代までは依然として隷と呼ばれ、明確に楷書といわれたのは宋代以後のこととされている。」(pp45-46, [B-7]
 上記の引用からは唐代における楷書の位置付けがはっきりしないが、唐代に楷書と『呼ばれ始められた』ということであろう。
 しかし、字体としての楷書の成立に限って言えば、現存する資料も多いことからほぼ確定しているようで、多くの資料が漢代(大修館では後漢(25-220)末、角川では「漢の半ばごろから」)に発し、随[A-2](581-618)(*)、遅くも唐代(618-907)には完成したとしている。

 さらに、明朝体とそっくりな筆記体もあった。次項で詳述するが、明朝体は版本において発生し発展した書体である。その版下は毛筆で筆記したもので、その版下の書体が版下以外の一般 の筆記にも用いられていたのである[B-7]。

●明朝体の成立(研究中)
 活字には、明朝体(みんちょうたい)、ゴチック体、宋朝体、教科書体など、様々な書体がある。

書体 文字の例 説明
明朝体

本や新聞の本文など最も一般的に使用されている活字体。康煕字典の本文もこの種の活字で組まれている。

ゴチック体 見出しなど強調効果を狙って使用される。丸ゴチック体と区別するため「角ゴチック体」とも呼ばれる。
丸ゴチック体 装飾的な処理が行なわれているので、明朝体とは字形が大きく異なることがある。

宋朝体

版刻文字の刀の線を生かした書体と言われる。

教科書体

楷書を基にした日本独自の比較的新しい書体。楷書体とは異なる。活字が教科書に使用されたのは昭和10年の国定教科書「小学国語読本」巻5が初めて([A-5], p56; [B-5], p53)。

上の表の活字の例には「DynaFont プレミアム54書体パック for PS-Printers」(ダイナラブ・ジャパン株式会社社)の各書体を使用した(*)。明朝体:DFP平成明朝体W7、ゴチック体:DFP平成ゴシック体W3、丸ゴチック体:DFP中丸ゴシック体、宋朝体:DFP新宋体、教科書体:DFP教科書体W4


 明朝体は楷書を基にしてデザインされたと考えられるが、以下のようなデザイン的な特徴がある(*)

ただし、少数ではあるが隷書を基にしてデザインされたと考えられる文字もある。「也」や、後に触れる「しんにょう」、さらには(旧字体の)「示へん」である。

 「明朝体(*)の成立」といった場合、漢字書体の成立もさることながら、漢字に適合した片仮名と平仮名の成立と発展を抜きにして語る訳にはいかない。また、漢字の字体も日本独自の発達をして、現在の明朝体が完成している。明朝体について記述している成書でも、[B-2], [B-5], [B-14]などでは漢字活字の日本伝来から平仮名の開発、漢字の改良などについて中心的に記述されており、漢字明朝書体そのものの出現に関する記述は少ない。本自由研究は漢字書体の成立が主題であるので、これは非常に困ったことであった。だが、その中で、竹村真一:著「明朝体の歴史」[B-7]は版本の歴史を中心に置くことで漢字書体の発達について記述してあり、資料として有用であった(*)。以下は[B-7]に記載の事項のみに拠るところが大きい。

 木板に文字を彫刻して印刷する版本は、1400年代(明代前半)までは楷書を版下として彫刻されていた。いつ頃からかは不明であるが、出版(開版)点数の増加に伴い彫刻の分業化が起こり、縦画と横画を別 の刻工が彫るなどされるようになり、楷書の筆遣いが単純化されて彫刻されるようになった。また、版下を書く側にも版下独特の筆法が生まれ(竹村はこれを『明朝体楷書』と呼ぶ([B-7], p104))、これが明朝体になっていったと考えられる。1500年代(明代中期)からは、いわゆる明朝体に近い書体の版本が数多く出現する。
 例えば、楷書の横画終端の膨らみを様式化したと述べられることがある「ウロコ」であるが、竹村[B-7]によれば、これは横画の終筆を跳ね上げる(または上に抜く)筆法から生じたもので、単に楷書を様式化したものではない。彼は版本におけるウロコの形体を9つに分類しており([B-7], p178)、その基礎になっているのが『明朝体楷書』の存在である。

 福建省出身の中国僧・隠元(1592-1672)は1654年に来日し、禅宗の一派である黄檗宗を広め、同時期に渡来した僧と共に芸術・文化に大きな影響力を持っていた。彼が建てた黄檗山万福寺には開山当時の黄檗僧の墨跡が数多く伝えられているが、その中に『明朝体楷書』が多数存在する。これは当時の中国の状況を直接反映しているものとみなすことができる。版本は圧倒的に宗教関係のものが多く、また、当時は宗教すなわち学問でもあったので、僧の字体は版本全体の字体の形成に非常に強い影響力を持ったと思われる。
 以下に同書p107から写真を引用する。

fig1-1 木庵60歳の寿章(万寿院蔵)
書者は不明だが竹村の推測では南源。
木庵(1611-1684)の生没年からみて1670年頃のものと考えられる。

fig1-2 隠元70歳の本山両序の寿章(文華殿蔵)の中の月潭の書
隠元(1592-1672)の生没年からみて1660年頃のものと考えられる。
fig1-3 同上寿章の中の大眉の書

 これらの写真に現れた文字を見ると、いくつかのことに気付く。

 唐代には既に楷書は書体として確立し、しんにょうや示へんの形(「ネ」形)もほぼ確立していたが、その後の版本の発達過程で楷書に隷書の字形が取り入れられ明朝体が生じて行ったと考えられる。これはしんにょうについては楷書の彫刻しにくい不安定な形から、直線的で単純な形へとの変化であろう。示へんの「ネ」から「示」への変化は「正しい字形はかくあるべき」といったドグマチックなものであったかもしれない。あるいは、版本の版下となる書体が楷書である必然性はなく、隷書であってもかまわなかった訳で、これらの僧は、無論のこと楷書・行書・草書・隷書に通 じていたであろうから、水平・垂直の線の多い隷書を取り入れつつ新しい書体を創作していったのかもしれない。禺の足の形の変化は、単に彫刻の手間を省くためだけだったのではないかと想像する。様々な思惑が交錯し書体が引き継がれて行く間に徐々に明朝体が形成されていったが、その中心にあるのが版本と仏教であろう。

 私は楷書・隷書・明朝体におけるしんにょうの各部分の対応を下図のように推測している。


fig1-4
楷書・隷書・明朝体における各部分の対応
同じ色が対応する部分を表す

この推測を直接証明するには至らなかったが、推測の妥当性を示唆するデータが得られたと考える。

●漢字字書の恣意性
 【この節は主に大島正二:著「〈辞書〉の発明」[B-11]と江守賢治:著「解説字体字典(普及版)」[B-12]を基にしている。両書から得た知見であれば特にことわらない。】
 日本で現在の字形の典拠とされている康煕字典(念のために記すが、私は康煕字典の実物は手にしたことがない)は康煕帝の命令で字書の集大成として編纂され、1716年に完成したもので、現在伝わっているものには複数の版があり[A-101]、また、誤りを訂正した書物も数多く出版されている。この康煕字典は新たに文字について研究・調査をしなおして編纂されたものではなく、「説文解字」や「正字通 」など過去の字書を統合編集するようなかたちで編纂されている。特に「説文解字」が典拠として引用されることが多い。この「説文解字」(著者は許慎。西暦100年頃の成立。『説文』と略称される(*))は字書の源流とも言えるものであるが、儒学者が儒教の立場から『誤りを正して体系を示す』ために書いたもので、規範性が強く、通 用している言葉を集録した辞書の類とは同様に考えることができない。つまり、現在どのような字が通 用しているかではなく、「篆書から考えてどのようにあるべきか」を整理した書物と言ってよい。さらに、見出し字として挙げられている篆書の中には出典が不明なものも多く(現在の文献とは違い、客観的な証拠やデータの収集によって執筆されている訳ではないと考えられる)創作された文字や変形された文字がある可能性も存在する。篆書の基になったのは甲骨文であるが、それが発見され注目を集めるようになったのは1900年前後以降のことであり、それまでは隷書以前の古代文字の資料が始皇帝の焚書(210BCごろ)により失われていたために得ることが困難だったことを考えると、著者を責めたてる訳にもいかない。
 説文は一時期関心を持たれなかったが、清朝に入って見直され、盛んに研究されるようになった。従って清朝になって編纂された康煕字典にも、この「伝統」はしっかりと受け継がれており、康煕字典も極めて恣意性・規範性の強いものとなっている。過去の字書を孫引きして作った本なので、元データの誤りや偏りを当然引き継ぐことになる。また、分類も恣意的で、例えばしんにょうは、康煕字典では7画になっている。これは篆書の形で画数を数えているためと考えられるが、いかにも杓子定規である(*)
 また、康煕字典の本文は明朝体で作成されているが、楷書や明朝体の成立前の篆書を表示するのにもそれを明朝体に変換して表示している。また、篆書にしか現われない字を無理に明朝体にして掲げることが多いのも良く指摘されるところである。つまり、明朝体としては存在しなかった文字を創作して表示しているのである。さらにその明朝体のデザイン(篆書で両端が上に伸びる横画を、横一直線にデザインするか「凵」にデザインするか、あるいは、上端の曲がった縦画を、単純な縦画で表現するか上にノをつけるかなど)自体、根拠が不明確である。
 上記字書に対し、字様書と呼ばれる辞書があり、これは世間に流布している字体を集めたもので、上記の字書とは傾向が異なる。字様書の始まりとされるのは顔師古の「顔氏字様」で、これを底本とした顔元孫の「干禄字書」(西暦700年頃の成立)が今日に伝わっている。
 漢字辞書の伝統的な欠陥は明朝体による表示であると考える。1書体によってのみ表示されるために、他の書体でどう表示されるかのデータが欠落する。例えば、我々は日常の筆記に楷書を用いているが、楷書での表示がない。我々は楷書を明朝体に変換して辞書を引き、また引いた結果 を筆記しようとする場合、明朝体を楷書に書き直さねばならない。篆書や隷書で辞書を引くことができない。
 些細な字形の相違(筆押さえや右ハネの起始など)にこだわらないならそれでも良いかもしれないが、現状では明朝体での表示は危険であるとさえ感じる。

●しんにょうの点の数
 明朝体のしんにょうには昔は点が2つあった。これは、楷書では点を1つだけ独立させ、残りを一続きで書いていたのを、明朝体では点を2つ独立させたということであると私は考えている。つまり、点が1つの楷書しんにょうと点が2つの明朝体しんにょうとは、同じ骨格で、デザインのみが異なったと考えているわけである。明朝体しんにょうのデザインが隷書を踏まえてなされていると考えられることも既に述べた。3つの字体を比較したfig1-4を見れば納得できると思う。
 歴史的にはどうであったかを調べるため、梅原清山:編「唐楷書字典」(二玄社 1994年)[D-5]で、唐代(618-907)の楷書のしんにょうを見てみると、以下に一部を示すように、点が2つのものや、現在と字形が若干異なるものもあるが、ほとんどが点1つである。しんにょうの部(pp778-795)に集録されているしんにょうのつく文字867文字(異字体として纏められているえんにょうやぎょうにんべんなどの文字を除く)のうち、下のfig2-1に代表されるような、明らかな2点しんにょうは23文字、fig2-2のような「怪しい」文字を含めても46文字で、全体の95%がfig2-3に代表されるような現代と全く変わらないしんにょうである。

fig2-1
fig2-2
fig2-3


 勿論「唐楷書字典」で全てが語れる訳ではないが、しんにょうの字形に注目して集めたものでないので、逆に偏りのない抽出になっているのではないかとも思える。江守も「解説字体辞典」[B-12]で特別 に1節を設け(p272、しんにょうを歴史的に見る)て考察しているが、やはり、古来楷書ではしんにょうの点は1つであると結論している。ちなみに、fig2-1の第1字は顔真卿の字で、fig2-2の第1字は柳公権、第2字は薛曜の字である。2点しんにょう23文字の中には顔真卿の字が多いが、これは顔真卿の、楷書を篆書に近づけるという哲学を反映したものと考えられる。とはいえ、顔真卿が2点しんにょうを書くことが多かった訳では決してないのは「顔真卿字典」[D-4]を見てもわかる。
 「当用漢字字体表」で明朝体に「1点しんにょう」を導入したため、手書きの1つの形に対し明朝体の2つの形が対応することになって混乱を招いた。さらに小池[A-4]は「青」「食偏」「示偏」に関しても好ましくない副作用が生じているとしているが、これらが手書きの骨格を明朝体(の一部の文字)に導入したために生じた問題であるのに対し、しんにょうの問題は手書きの骨格ではなく「点」の数のみに注目して明朝体の骨格を「崩した」ための問題と私は考えている(府川[A-5]も参照)。ただし、当用漢字は印刷物に使用する漢字を規定したものであって、筆記体の文字を規定したものではない([B-12], p20)。不用意に活字の構造の規制を手書きに持ち込んだほうにも責任があると言えなくはない。

●しんにょうの画数
 康煕字典の7画は論外として、しんにょうの画数は何画だろう。しんにょうの画数は4画であったと私は考えている。漢和字典でも2点しんにょうは4画である。手書きの場合でも「{土蓋}嚢鈔」で「是ヲ四画ニ書故ニ四遶ト云也」としている(*)ところをみると1400年代から4画で書かれていたものと考える。問題となるのは2画目と3画目を分けて書くのか続けて書くのかというところだが、「こざとへん」や「おおざと」を3画と数えているのと同じと考えれば良いであろう。書く時は続けて書くことが多いが、画数を数える時は分けて数える。小学生の頃に、しんにょうを4画と明示して筆順を示した学習参考書を見た記憶があるが、勿論手元に現物はなく、折を見て古書を漁ろうと思っている。
 ところが1点しんにょうは、漢和辞典によれば3画である。手書き文字の形が変わっていないのに、活字レベルでの修正が行なわれ、漢字の画数が変わってしまっていることになる。筆順や画数はあくまでも筆記(特に楷書での筆記)の際に問題になるものであり、活字のデザインの変更で画数を変えてしまうのは問題が大きい。極端を言えば、活字に「画数」は無い。
 漢和辞典における画数は、索引のための側面が大きい。実際、画数索引のない字書では字を見つけるのに相当苦労するだろう。画数を付けなければならないとするなら、「画数は楷書の画数による」と明示し、凡例を付するのが適当であろう。

●標準字体
 現在まで、日本の標準字体は明朝体で公表されるのが通例であった。「JIS漢字字典」[D-7]は明朝体で表示しているものの、使用した「ヒラギノ明朝体」と「平成明朝体」のデザインの差について詳細に記述してあり、字体に関する議論を踏まえて出版されたものであることがよくわかる。

●活字のように書くこと
 活字とはあくまでも個人あるいは集団のデザイナーがデザインしたものなのであるが、まるで「正しいもの」として与えられているかのように錯覚し、活字のように書く人が増えている。また、活字のデザインの些細な相違についてこだわる人が増えている[p239, A-101][A-102]。これは学校での漢字教育にも問題があると考える。「木偏ははねないが手偏ははねる」といった些末な漢字教育が成されるため、活字を手本とし、活字のように書くことで、誤字の指摘を防ごうとするのであろう。
 我々が主に接するのが印刷物になったということも関係するかもしれない。
 何千年もの間、漢字圏では文字を筆で書き記してきた。楷書は紙に筆で書くことに最適化された文字である。縦画終端のハネは筆勢にも左右される事象であり、字の「正しさ」とは直接関係がない場合がある。また、活字は独自の発展をし、明朝体となった。活字と手書きの文字(活字体と筆記体?)の間には字形の相違があることは、つい最近まで常識だったはずだ。現在でも書道を学ぶ人々にとっては常識のはずである。それが今、崩されようとしている。

 さらに、昔ならば「し」を「」、「く」を「久」、「か」を「」と書くことは教養であった。「田」を「」と書いたり「喜」を「」と書いたり「世」を「世」と書くのはおしゃれであった。現代では、筆で書くことのみならず、書くことそのものの伝統を破壊しようとする漢字教育が(一部で)行なわれている。

●書の行方
 漢字やかなを理解するには書道の知識が必要である。勿論、字の意味を覚えたり、形を判別 したりするという意味での「理解」には書の知識は必須ではない。だが、字の美しさを味わったり、バランスの良い字を書こうとしたり、字のデザイン(レタリング)をするには書の知識が必要である。字あるいはその書き手と心を通 わせるため、個々の字の存在自体を深く「理解」することは、その字を実際に「書く」ことと切り離せないのである。読者の同意が得られ易いと考えられる、ひらがなで例を挙げれば、

などのことは、ひらがなの成り立ちを考え、また、実際に書き慣れることで、自信を持って「どちらでも良い」と言えるのだと思う(「ふ」の例はタイポスという非常に人気の高い字体を教科書だか絵本だかに採用するにあってもめたことが実際にあると聞いている)。漢字になると、簡単に全員の同意は得られないだろうと思うが、「右」や「左」の筆順、「女」の左払いの頭を出すか出さないかなど、漢字の成り立ち、過去のデータ、現在の漢字圏での状況などの検証により議論すべき、という点では同意していただけるのではないか。その点では、現在の学校教育やJISやUnicodeを巡る議論の一部は非常に貧弱である。
  また、人々が書くことから離れ、楷書の伝統が薄れていけば、筆記体と活字体とは違うという常識が常識でなくなり、現在の活字の字形を巡る混乱が更に助長されるのではないかと危惧している。
 しかし、我々がますます筆書から遠ざかる将来には、硬筆、横書きを基準にした日本字、さらには書くことと切り離された日本字の概念が必要となってくるかもしれない。


謝辞
畏友である二玄社の森島基裕氏に多くのことをお教えいただいた。氏の協力が無ければ困難を極めたであろう調査であった。この場を借りて深謝する。


参考文献


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