目次 書体―各論―筆記書体―装飾書体
●概論
現段階の論文としては、現代にも残っている日本の書き文字装飾書体について記す。「書き文字」であるので「筆記」よりも広く、製図用具などを用いて「手書き」した文字も含む。本論の多くは日向数夫:編「江戸文字」(1970、グラフィック社)に因るところが多い。
●勘亭流
筆記書体(書き文字)の装飾書体の代表格は勘亭流であろう。勘亭流は江戸堺町の岡崎屋勘六(延享3〜文化2年)が創始した。岡崎屋勘六は御家流の能書家として評判が高く、近隣のよしみで同町の中村座が看板文字の揮毫を依頼した。安永8年の春のことであった。たちまち評判となり、天明年中に寺子屋をやめ、劇場の仕事に専心するようになった(B100,
p.125)。勘亭流の基になったのは寛文のころ流行した金平本(金平じょうるりの正本)だという説もあるとのことだ(B100, p.4)。
開祖岡崎屋勘六の手になる勘亭流は残っていない。しかし、勘六に続いて名手とうたわれた梅素玄魚の署名入りのものが国会図書館に保存されており(fig. 1)、日向によれば、それと大正期に活躍した竹柴鴻作の書風とを比べても甚だしい違いはないとのことで、祖法が忠実に守れらたのではないかと述べている(B100,
p.4)。
fig.1
梅素玄魚の署名入りの千社札
fig. 2 大正期に活躍した竹柴鴻作:著「勘亭流」の一部
●寄席文字
勘亭流の影響を受けた最も有名な書体が「寄席文字」である。私は実は両者の区別を知らなかった。日向は寄席文字が勘亭流を取り入れるようになったのは、江戸末期から明治にかけてとしている(B100,
p.169)。
寄席文字の歴史については橘右近:著「寄席文字教本 ひらがな・かたかな編」(1982年、グラフィック社)に詳しいものがあった。少し長いが、全文を引用する。この文章から、寄席文字は勘亭流と提灯の文字から創案されたもので一時途絶えていたものを橘(本名:椙田兼吉、明治36年-)が復興させたものであること、「寄席文字」という呼称は復興後に橘が与えたものであること、橘の創作部分があること、などが分かる。橘の創作については、新字体など、伝統的な文字セットには欠けている文字の追加であろうと推測される。
《そもそもこの寄席文字の歴史は、江戸も寛政十年にまでさかのぼり、岡本万作が神田藁店に「頓作軽口ばなし」の看板をかかげて町の辻々にビラをはったときにはじまります。そのときのビラの文字は、ごく普通のお家流だったと思われます。これを、芝居の勘亭流と当時の広告機関であった提灯屋の文字を折衷し、寄席独特の文字を創りだしたのは、紺屋の職人、栄次郎です。栄次郎の継承者として栗原孫次郎こと初代ビラ清が書き、更にその二人の息子たちへと書き継がれてきました。
明治、大正時代の寄席ビラは、二人の息子たち、そして更にその息子たちがTビラ清U、Tビラ辰Uを名のり、家業として守ってきたのです。ところが、関東大震災によってこの書体の継承は途絶えてしまいます。
昭和二四年、私はそれまでの噺家生活をやめてビラ字書きに専心し、書体の再興にかける決心をいたしました。寄席独特の文字をなくすのはしのびなかったからです。若い前座時代に見た先人たちの伝統に、私なりに苦心して編みだした書体が完成し、寄席文字と命名しました。》(橘右近:著「寄席文字教本 ひらがな・かたかな編」(1982年、グラフィック社)より引用)
この本は教本であるから当然書き方を示しているが、「ハネ」を別に先端から書いて繋ぐなど、形の取り方の工夫が示されており、興味深い。勘亭流との差は特にひらがなで著しく、「さ」「や」「ひ」などに大きな差が見られる。
●その他
私見であるが、江戸期を中心とした装飾(ディスプレイ)書体は、勘亭流の影響を受けた書体、筆書文字、製図文字に分けることができると思う。
筆書文字としては浄瑠璃文字(浄瑠璃の台本の書体)、謡曲文字(謡曲の本の書体)、相撲文字、ひげ文字などがある。
相撲文字は力文字とも呼ばれ、隙間なくぎっしりと書くと言われているが、古いものでは特別な書体とは見えない(B100, p.193)。
製図文字とは、細筆などの「製図」道具を用いて形を整えながら「作図」したものを仮に名付けたものである。籠字、角字などがある。
籠字は、特太の書体の輪郭を細筆で描き、中を塗りつぶしたものである。日向は「江戸文字」の中で項目を立てて、多数の例を挙げているが、寄席文字でも大きな字は筆で一気に書くのでなく、輪郭を書いて塗りつぶしたり、画をなぞったりして太い字を書く。籠字の定義はもう少し詳細なものを考えなければならないかも知れない。
角字は篆書を元とする図案的な書体である。