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一週間前から同僚の真田が出勤してこない。無断欠勤を続けている。
電話もつながらないし、メールをやっても返ってこない。さっき、どうやら上司に辞表のメールがよこされたらしい。真田のアドレスから「辞めます」のひと言。当然上司は怒り狂った。「非常識にも程があるだろう」と。彼の怒りの矛先は、真田の唯一の同期で親しかった私に向けられ、勤務中ずっとねちこく責められ、散々な一日になった。
私は唯一の同期の突然の辞表提出とその急すぎる変化にショックを受けた。同時になぜ私にすら声をかけてくれなかったのかという苛立ちを憶えた。同僚の家は一度行ったきりだったが、覚えている。勤務明けに直行したのはそれだけでもなく、無論、一日中責められた腹いせに、めちゃくちゃに真田本人を問いつめてやりたい気持ちがあったからだ。
最寄り駅から駅前通りを南に進んで、コンビニエンスストアを曲がった先の、粗い農道を5分直進した右手だ。歩きながら思い出すのは、上司の怒り狂った眼、眉、口、言葉。同部署に勤める先輩たちの同じような自分を責める眼差し。後輩の伏せがちのまつげ。なんでもいい、理由なんてないだろう、とにかく事の張本人である奴の顔を叱り飛ばしてやりたい、それだけでいい。南、コンビニ、直進した右手。縺れるほどに早足になる両脚、疲れてもいないのに息切れしたくなる呼吸。耳のなかで鳴る心音、動悸。興奮した全身から一気に吹き出す、汗、汗、汗…
右手前方、アパート脇にある街灯が、9月に稲を刈ったばかりの淋しい田んぼを申し訳程度に照らしている。農道を数分進んだそこで、私の体内器官は一気に停止した。吐くことも吸うこともできない呼吸、土を蹴ったばかりの右足は所在なげに下ろすでも前に出すでもなく、
後ろのほうでぶらぶらしている。耳や目の奥で不規則にごわつく心音、熱を失う汗。暗い、あまりにも。そういえば今日は新月だ。こんなに暗かったかといま気がついた。その街灯に照らされた田んぼのなかに、真田はいた。熱を失う体はとうに冷たく冷やされている。
私の体内器官は一気に停止を余儀なくさせられていた。なんだ、あれは。両膝をついた土まみれの両手。ポケットは破れんばかりに膨らんでいる。脂っぽいぎとぎとした髪は頬に垂れていて、その下に土気色の肌が見え隠れする。弧を描き続ける運動。四つん這いで終わりそうもない運動。枯れた稲の固い根をほじくり返しては抜き、ジャケットのポケットに入れ、スラックスのポケットに入れ、シャツのポケットに入れ、内ポケットにまで。
「おい…!」そう言ったはずだった。大きく開けた母音の口からは、なぜかからからの呼吸ばかりが抜けていた。それでも真田には多少の驚きがあったらしい。今していた運動をすべて止め、私へ注意を向けるだけの運動。ほぼ向き合う角度で、首だけを重たげにあげる。顔は私の方角を向いている。ただ、焦点が合っていない。自分自身の目を覗き込むような目をしている。おかしい。あいつは気が狂ったとでもいうのか。
「おい!」自分の腹いせなどもうどうでもよくなっていた。「おい!真田だろう!何してる!」誰の田んぼだろうと構いはしない。真田の腕を強引にとると、私は彼のアパートまで引きずっていった。玄関口で問い詰めようと向き合うやいなや、真田は体を翻してドアノブに手をかけようとする。もはや言葉すら通じないというのだろうか。ドアロックとチェーンをかけて、靴箱に放置されていたガムテープで施錠した上からめちゃくちゃにぐるぐる巻きにする。ノブが回らなくなると、真田は玄関ドアに張りついたまま離れなくなった。その目はなおも自分自身を覗き込もうとして焦点が合わない。もうダメだ。これ以上ついていけない。私は疲れていた。粘着テープを真田の背に投げつけてから、2階のベランダから雨樋を伝って庭へ降りた。
私は疲れていた。あいつは就業時間たった8時間の激務に嫌気がさして気がふれたのだ。あいつはたった8時間の生活の拘束時間に耐えきれなかったのだ。辞職、転職、無断欠勤、まあいい、よくある事だ。
泣きたくなった。なんて安い涙だろう、地平線が見たい遠い視界にはでこぼこした、ごわごわした灰色の要塞に塞がれている。いちばん遠い地平線は400メートル先だ。せいぜい1畝ほどの田。だから目前の地平線の長さは100メートルほどか。それもここからは数センチにしか見えない。なんて短い地平線だろう。寒さと虚しさと眠気の雨で、僅かな地平線もどこかに滲んでしまった。近くなっていく土色の視界に真っ黒な穴があいている。
穴。何もない穴。空っぽ?風穴?それとも本能的な快楽?ここは真田を発見した場所だから、これを作ったのはあいつに決まっている。狂人のやることはもはや理解できないが、これで諦めはつきそうだった。
昨晩のことがあって、体調が優れなかったが定時に出社した。真田の件があったが報告しないことに決めていた。上司の顔を見るのも気が引けて、なるべく顔をあげないように部署へ入り、挨拶もそこそこに朝礼を待つが、時刻を過ぎても一向に始まらない。どうしたのかと頭を上げて初めて課長が出社していないことに気がついた。ざわつき始めてから数分後ようやく上司が出社してきたが、カバンをデスクに放って膝のネジが外れたように椅子に腰掛けると、くるりとこちらに背を向けた。
もともと朝礼なぞあってないようなものだった。上司の行動に驚く者はあれど、困る者はいなかった。当たり前のように時間は過ぎて、昼が来るのだ。
「なあ、お前のところの課長の顔見たか」短い昼を終えて戻って来る途中、真田と親交のあった先輩に言われた。彼が言うには、必要報告で上司に会いはしたが、半開きの目と口で完全に上の空だったらしい。「なあ、どうしちゃったんだろうな、あいつも突然辞めたりして課長、昨日せめて引き継ぎして欲しいって真田に会いに行ったらしいぜ、余程ショック受けるようなこと言われたのかなあ、それにしたってみんなどうしちゃったんだろうな…」
職場の空気は朝だろうが昼だろうが変わらない。停滞した金属っぽい味。気の重いドアを開けながら、上司を窺う。確信した。あの自分自身を覗き込むような目。真田と同じだ。しかし、昨日課長は真田に会いに行ったのだと言う。
翌日も上司の様子は変わらなかった。出社定時に数分遅れてから朝礼もなしに、昨日に引き続いて窓の外に向かって惚けている。終業近くなりはじめて、隣のデスクの女が業を煮やして物を言いに課長に近づいて行った。
時が止まった。課長は女がデスクの寸前で立ち止まろうとする瞬間に身を翻しつつ直立して、
人差し指を女の鼻先に突きつけた。女は予期せぬ出来事に完全にビビってその場にへなへなと腰を抜かしてしまった。完全に空気の流れが停止した後、同じく頭にきていた数名が立ち上がり、
女を庇ってやった。上司はそんなことお構いなしに、彼らにも人差し指の制裁を加えてから再び動かなくなった。終業の時刻だ。
翌日出勤すると、課長が既に出勤して窓を向いて座っていた。隣には昨日人差し指の制裁を受けた女と、それを庇った数名が椅子を一列に並べて、一様に惚けた様子で座っていた。彼らにびっくりした出勤してきた同僚たちが声をかけて、昨日と同じくして人差し指の制裁を受けた。昼に会社に戻ると、また背を向けた椅子の列が長くなっていた。
翌日になると、更に列が増して、コの字型に曲がっていた。ある者たちは窓にも面していないで壁を向いている。窓は関係ないのだ、彼らは自分の目を覗こうとしているのだから。昼に戻ってから気がついた、何も置かれていない、綺麗に片付けられたデスクがぽつぽつあることに。
朝、慣れない寝不足と超満員の洗礼、異様な椅子の群れ。鳴りっぱなしの電話に、残された数名が対応している。デスクワークなどほぼ手につかず、電話の対応だけで午前が潰れた。
昼に真田と親交のあった先輩に声をかけられた。会社を辞める、猿回しになると言う。だから数日前に一匹のニホンザルを飼いだしたんだと。何が悲しくてたった就業8時間を、一日中サルにメシ出して下の世話して芸の仕込みに充てるのだろう。バカげている。
俺は1年かけてようやく身につけた。どんな嫌なことがあっても張り付けた笑顔で時間が過ぎ去ること、どんな理不尽なことを言われても無為の思考で受け流すことを。1年、たった1年、されど1年で猿回し以下の拘束時間で猿回し以上の賃金を得られるのだ。それを手放すだなんて!バカげているよ!バカげているだろう…?
山ほどの仕事、あの椅子の連中ぶんの仕事、会社の電話もまだ鳴り続けているだろう。気のふれてしまった真田、猿回しの先輩、どうでもいい。週末だ。私は泥のように惰眠を貪った。
夢のなかで真田の穴を見たような見なかったような…
今朝、とうとう出勤したのは私一人らしい。電話が鳴っている。受話器に手をかける、数秒躊躇した後にようやく重たく持ち上げる。どうやら電話が繋がらなかったクレームらしい。
「大変申し訳ありませんが…」上滑りの言葉。繰り返される復唱の要求。だんだんと大声になり、復唱の声が虚しく部屋中に響いている。「あなた!ふざけて喋ってるんじゃないわよ!何を言ってるのかわからない!はっきり言ってちょうだい!」
言葉が通じない!
今、私は真田のクロップサークルで、泣きながら稲の根をほじくり返している。すぐそこのアパートの2階の部屋で、真田が私を冷たく見下ろすもとで。胸ポケットの携帯電話が会社からの電話をけたたましく伝えている。今、私は泣きながら弧を描いている。
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