断想集


第465話 本との出会い・ホントのつきあい

乱世をしたたかに

堀田善衞『時代と人間』

2004.5.5


 もう出ることはないだろうと思っていた堀田善衞さんの本が、スタジオ・ジブリの宮崎駿さんの音頭取りによってこの春、同時に三冊出版された。他の二冊、すなわち『路上の人』『聖者の行進』は単行本を保有しており、また、全集にも収録されているので購入を見送ったが(資金とスペースに余裕があればまとめて全部買うところですが)、本巻は初見ではないものの、単行本、全集共に未収録とあって喜び勇んで手に入れた。堀田さん、お久しぶりです。

 初見に非ずと言ったのは、本書の内容は「NHK人間大学講座」として1992年に七月から十月にかけて十三回に分けて放送されたものだから。TV放送は見ていたし、テキストも読んでいる。ただ、放送に合わせてテキストを見ていたので、通しで読んだのは今回が初めてである。毎週細切れに見るのと通して読むのとでは、少なからず違いがあるように思われる。また、単行本化に際して、高橋源一郎、長女の堀田百合さんの文章が巻末に掲載されているのもありがたい。

 余談だが、堀田百合さんはわたしと同年齢、加えて私の友人(の奥さん)の同級生である。高橋源一郎とわたしは同窓。こんな風にまとめてしまうと横浜に収束してしまうのだが、そんなことは堀田さんとは関係のない話である。

 閑話休題。本書は堀田さんがもっとも得意とし、また本領を発揮するところのものである。すなわち、乱世をしたたかに生きた人物に焦点をあてその時代を語り、そして現代を語るものである。

 堀田さんのすごいところは、歴史を自由に行き来することろにある。自由に行き来するのは空間であり、時間である。歴史の一点、すなわちある時間のある地点のある人物を題材としているのだが、堀田さんの目や耳はそこにとどまることなく、時代を行き来し、また東西を行き来する。余人を持って代え難い堀田さんのすごさである。

 これらの点について堀田さん自ら本書の中で次のようにかたっている。

歴史というものが、各地域によって違うと言うことは、確かにその通りではあるが、しかし、分け過ぎると、それこそ重箱の隅っこ突っつくようなことになりかねない。(p.14)
私の歴史観は、歴史というものを進行形では考えないのである。つまり、現在を現在として、そして、過去は過去、未来は未来、と劃然と割ってしまうと、これはもう歴史の重層性を見失い、時間の実態をなくしてしまう。今は今として“いまどき”とか、過去は“昔むかし”とか、未来は“この先”とか、そういうふうにしていくと時間の実態が入ってくると思う。(p.211)
 後者に関してはわたくし、いまいち理解が足らずもう少し考えてみる必要があります。

 また、歴史そのものに関しても政治、経済、宗教といったジャンルをくぎることなく社会全体を大らかに語っている。
 人間の存在は、たとえば巨大な曼荼羅の図絵のように、未来をも含む歴史によって包み込まれていると思う。(p.212)
 思わずうなってしまいます。そして、最後はこのような一文で締めくくられている。
「歴史は繰り返さず」というが、このことばにもう一つ「歴史は繰り返さず、人これを繰り返す」ということばがくっついていたはずである。(p.212)
 これを読むまで、「歴史は繰り返す」(誤解?)という一文のみを記憶していました。お恥ずかしい。

 高橋源一郎の解説によれば、「昔のひとはどう考えたのか、を考えるの」ところに堀田さんのスタンスがある。歴史を外から眺めるのではなく、時空を越え歴史の中にわが身を置いて同じ環境下で考える。(自分の頭の中でこじんまりとまとめてしまうのではなく)歴史の中に身を置いて考えることこそ、堀田さんの神髄であろう。

 話は大いに前後してしまったが、本書で取り上げられている乱世をしたたかに生きた人物とは、鴨長明、藤原定家、法王ボニファティウス、モンテーニュ、ゴヤの五名である。堀田さんの読者にとってはいずれも馴染みの顔ぶれであろう。

 わたしは二十世紀というのは世界的規模での「乱世」だと思うのだが、もし、堀田さんが、この二十世紀という乱世をしたたかに生きた人物を描くとすれば、誰を選ぶだろうか? わたしとしては、ほかでもない「堀田善衞」ご自身を取り上げて頂くことを渇望する。堀田さんご自身が二十世紀という乱世をしたたかに生きてきたことは間違えのないことである。そしてその生きかた、考えかたを知ることによって大いに得るものがある。いまとなっては、叶わぬ願いであることが、はなはな残念である。

堀田善衞『時代と人間』(徳間書店)


前へ
目次へ
topへ
次へ