断想集


第142話

気楽に手紙を

1998.8.31


昨年から再読を始めた漱石全集をこの夏ようやく読み了えた。全集の終巻間際は漱石が発信した書簡に当てられている。ぱらぱらとページを繰ってみると膨大な数の手紙を書いていることが解る。因みに明治四十年はおよそ二百四十通もの手紙が掲載されている。三日に二通の割合である。編集者の手に渡らなかった手紙やら残されていない手紙などここに取り上げられなかった物もあるだろうから、毎日一通以上を書いていたのではないだろうか。これは大変な数である。

我が身を振り返ってみると、手紙を書くのは月に一度がせいぜいである。もっとも電子メールやファクシミリを含めると数はずっと増えるが。仕事関係を除いても電子メールやファクシミリは週に何本か書いている。

漱石の時代には当然ながら電子メールもファクシミリも存在しなかった。電話ですら普及していなかった。交通網も今ほどは整っておらず直接顔を会わせるのも困難だったことであろう。従って連絡の手段は郵便しかなかった。その郵便事情は信じ難いことではあるが結構良かったようだ。都内なら一両日中には到着していたようだ。文字を書くことを苦としない人であれば一日一通というのはそう多くはない数なのかも知れない。

再び我に返ると、電話まで含めれば一日一度くらい、すなわち漱石の書簡と匹敵するくらいの通信はやっているようだ。少しは安心した。

私は電話をかけることが苦手なので、できるだけ他の手段を使っている。一番便利なのが電子メールであるが、これは相手にその環境が無ければどうしようもない。環境があっても定期的に覗いてくれる人でないと困る。電子メールの利点の一つは機密を保持できる点にある。特別な事がなければ宛先人以外に読まれる心配はない。郵便で言えば封書に匹敵する。いや、封書以上に機密性がある。誰から来たかも知られずにすむ。さらに受信したことさえ知られることはない。

次がファクシミリである。電子メールと同じ感覚でパソコン通信サービスから発信することが多い。ファクシミリの問題点は宛先人以外でも内容を簡単に眼にすることが出来ることである。受信操作をした人は宛先を確かめるためにも紙面を見ざるを得ず、その際どうしても中身が見えてしまう。この点では葉書と同様である。そこを予め意識して使用しなければならない。

電子メール、ファクシミリどちらの環境もお持ちではない人へは書簡に頼らざるを得ない。さらには形式的なお礼・挨拶など書簡の方が好ましい場合も少なくはない。そこで、電子メールを出すくらいの気安さで手紙を書けたら、という想いが募ってくる。そこで気楽に手紙を書く方法について考えてみた。

自分なりの形式を定めると書くのが少しは楽になる。時候の挨拶がすらすらと出てこないときには「前略」、もしくは、ちょっと気取って「冠省」で始める。締めくくりは「草々」「不一」「頓首」を単独あるいは組み合わせて使用する。これらは漱石の書簡からの借り物である。最後に、日付、発信者名、宛名を行分けして書く。発信者名の横には簡単なサインを朱で書いていたがこれからは雅印を使おうと思っている。葉書ならこれだけで半分近くになってしまう。あとは本文として要件を簡単に書くだけで体裁が整う。さらに、葉書一面ではなく、上下左右に余白をたっぷり取り、真ん中の小さなスペースだけを使用するといったずるい手を最近覚えた。やってみると案外上品で洒落たものである。本文はますます少なくてすむ。

書き方の他に、葉書や便箋、封筒、切手を出しやすいところに常備しておくことも気楽に書簡を出すためには大切なことだろう。

ところで前段で触れた雅印であるがこれは大層なものではない(私が使おうとしている物に限っての話だが)。姓(みね)の一文字『み』を四角で囲んだだけのものである。消しゴムを1cm角くらいの大きさに削って自作したものである。雅拙さがかえって好いのではないかとさえ勝手に思っている。雅印はもう一つ持っている。これは1.5cm角くらいの蝋石に私の姓「峯」に含まれる『山』だけを多少デザインして彫ったものである。これも自作。作るのには両方併せて三十分もかからなかった。『み』は陽刻としたが『山』は手間を省いて陰刻とした。どちらも相当な手抜き品だが朱肉を使って押すとそれなりに様になっているような気もするから不思議なものである。

雅印の他に住所印も作った。これは姓名、住所、電話番号、郵便番号を彫ったものである。さすがに自作とはいかず、印刻店で作って貰った。もちろん特注ではなく標準スタイルの中から選んだものである。私は文字を縦に連ねるのが苦手なため横書きにすることが殆どなので、住所印も横書きとした。この住所印用に紫色のスタンプインクを買ってきた。

かくして準備が整ったので、この週末に試しに五六通の葉書・封書を発信した。思惑通りに気軽にどんどん書くことが出来た。その束をもってポストに投函するのはなかなか気分が好い。その瞬間漱石になったような気持ちすら湧いてくる。もっとも受け取られた方は迷惑至極かもしれないが。ま、そんなことは気にしない、気にしない。

と言いながら、少ーし引っかかっていることがある。封書というのは電子メールより大げさに考えれられがちな点である。封書を受け取ると改まった感じやらなにか特別な気持ちを持たれるのではないだろうか。上記のように多少は気楽に書けるようになっても受け取る方が何かしら厳かな気持ちになっては均衡がとれない。これを解消するためは気楽な手紙を出し続けて受け手の意識を変えていくより方法がないのかもしれない。くだらん手紙をどんどん書いてやろう。


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