MEMO log

○月×日 カレンダー

さて、何しよう?何にも思いつかないぞ。

ブログはすぐ飽きちゃったし。日記帳は見るのも嫌だし。
だいたいあの、カレンダーを見るのが嫌なんだよね。
最初は一日に何回も書いていたのが、だんだん2、3日置きになって、終いには1ヶ月に1回とか半年に1回とかになっていくやつ。

カレンダーといえば、紙のカレンダー。みんなどんな使い方をしているんだろう?
カレンダーなんて無くても全然困らない。
一週間後の予定ならまだまだ先だし、一週間の予定なら覚えていられる。

だからか。うちの中に未だ2002年のカレンダーがあるのは。
なぜか7月で止まっている。



○月×日 女性天皇

なんかね、「男系男子」と定めた皇室典範と長い歴史と伝統を守ったせいで、皇室そのものが消滅してしまいました、
というシナリオもなかなか素敵だと思うの。

理想に忠実に、純粋に生きたいがあまり全員で殺し合いをしてしまう集団にちょっと似ている。

よく、「本末転倒」という言葉が使われるけれど、「本」も「末」もない事ってよくあるもんね?
という、元も子もない話。



○月×日 人工知能

だってさ、人工知能って絶対ムリだと思わないかい?
という話をした。

というのも、コンピュータを創り出したのは人間の脳なんだから、
人間の脳に限りなく近いものをコンピュータで作ろうとするなら、
コンピュータを創り出した時の人間の脳以上の脳が必要なわけで、
それってあと何万年かかるのよ?って話じゃないですか。

いま実際の人工知能の研究は、人間の脳の機能の解明に幾分か貢献できるようなコンピュータの利用、という方向で進められているわけだけれど、脳の機能の全容解明なんて、絶対にムリだよ。
だって、人間の脳を理解できるような脳なんて、それどれだけ進化した脳だよ?って話ですよ。

という集合論みたいな話。自分のことが一番分からない自分がいたりする。

でも、今の世界とまったく違う、世の中を引っくり返すぐらいの「概念」が現れたら、ひょっとしてひょっとするかもね。
でもその頃は、人間の脳なんて誰も興味を持たない世界だったりしてね。




○月×日 メルヒェン

その昔、とある物書き先生に「あなたは童話を書いてみたらいい」と言われ、ものすごくショックを受けたことがあった。
ええぇ〜っ……!!??
だって、童話って「教訓」みたいなオチを言わなきゃいけないんでしょ?
「風刺」みたいなことでしょ?
「寓話」でしょ?ちょっと諭しちゃうんでしょ?
………。

イヤ!

というわけで、「何しよう?」事始にメルヒェン小説でも書いてみようかな。(笑)
でもその前に、Coilのこと。




○月×日 Coil

CoilのJohn/Jhonn Balanceが亡くなって2ヶ月と17日が過ぎた。
亡くなったという知らせを聞いた2004年11月13日の朝は、動転した。
その後MLに流されたPeterのメッセージに、自然と心が穏やかになり、こんな言葉を発信できる人がいるなんて…と驚いた。

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Hi all

Just a brief note at this difficult time - Ian and I both, and I'm sure John also, feel about financial donations, flowers etc this:

Rather than send us anything - we have too much already - do one of the following:

1. Write the words "Jhonn Balance" on a small piece of paper, put it in a hole in the ground or a pot, and plant a vegetable or tree over it. Some people might want to anoint the paper with their own seed as well. When you see the plant grow or even better when you eat the resulting vegetable, know you have him beside (or inside) you.

OR

2. If you see someone that needs some kind of small help or kindness, do so, but say "there you are Jhonn Balance", if only for the pleasure of seeing the startled look on their face.
(It was a running joke between us that Jhonn (like Blanche Dubois from Streetcar Named Desire) "often relied on the kindness of strangers")

And to everyone that has sent messages so soon - thank you SO so much - They are a massive comfort and help and mean a lot, even though sometimes it IS hard to read emails through the tears!!!! B^) What is the emoticon for that I wonder?

We will try to write back to everyone personally when Jhonn's Dust has settled...

Love to all

Sleazy and Ian.

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以下は、Current93のDavid TibetがJhonnに捧げた詩のかなり主観的な訳。全然違うかもしれないけれど、某ミツバチのフィルターを通すとこういう具合になってしまうという例です。
原文はこちら

MOONBIRD for Jhonn

僕が眠りにつくとき
僕は目覚める
君のその聖者のような
凶々しく見開かれた瞳を見ると
君は月の鳥になっている
そしていまあの惑星たちの間を巡っている
どの星に落ち着こうかと 探していたね

大いなる喜びと
大いなる痛みと
いつもいつも僕は
君の偉大なる魂の中に見ていたよ
月の鳥よ
君は時間をかけて
時間を空にして
ワインを空にして
生の中に身を投げ、そして死へと身を投じた

君の精神は完全なるカオスの美
有形なのに
持続不能

いつも君の中に見ていたよ
何か恐ろしいほどの不滅性
君の体を突き抜けては
光と森と海へと突っ込んでいった

月の鳥よ
壊れたのは君だけじゃない
それはみんなの心が壊れるくらいの断絶だった
一瞬の 残忍な 急降下
limnalな時を超えて 僕らはみな気づいている
君は時間をかけて
僕らの時間を奪っていった
君の中の
最後のひと時に向けて
そして君はいま透明になって
星々の間を漂っている
笑いながら
痛みのない
喜び



○月×日 似たもの同士

人間が似たもの同士で群れると安心するのは、本能なのかなあ?
群れでなくても、近い感覚の人と二人でいるとホッとするよね?
これって本能なのかなあ?
ひょっとして、これってみんな当たり前のこととして認識しているの?
それとも、無意識にやっているの?

「近い」とか「似ている」とか感じること自体が錯覚だと思っていたんだけど、そうでもないのかなあ?

なんだか最近、とても不思議に感じる。



○月×日 ヴィスコンティとアラン・ドロン

'60年代前半のアラン・ドロンは憂いのある美貌と軍隊仕込みの肉体美と、実はあまり評価されていないその独特な存在感とで、いわゆる映画の巨匠たちに愛された。R. クレマン、R. ヴィスコンティ、M. アントニオーニ、J. デュヴィヴィエ、J. P. メルヴィル、R. マル…。

'60年代後半〜'70年代から彼は自らプロデューサー業に乗り出し、クールなギャング路線に転向してしまう。ギャングといっても一匹狼的な殺し屋系だったりして、それはそれでまあそれなりにかっこいいのだけれど、『暗殺者のメロディ』や『帰らざる夜明け』(共演:シモーヌ・シニョレ)以上の魅力的な作品が出なくなったのも事実。

アラン・ドロン+ヴィスコンティ作品といえば、『若者のすべて』『山猫』。
『若者のすべて』は、貧困層の兄弟愛や家族愛やイタリアの社会状況を描いているようで、色々と実存上の問題も描いていたりして、そして、やはりちょっと様子がおかしい。
何といってもヴィスコンティの主人公を舐めるような視線と、主人公のちょっとズレた思考回路。

主人公の青年ロッコは、軍隊帰りのボクサー。ややストイックな性格。
ところが、元売春婦ナディア(アニー・ジラルド)を目の前で実の兄に犯され、壮絶な殴り合いの喧嘩をしても、兄を憎み切れず、結局許してしまう。心優しいというか我がないというか、とにかく家族第一人間。
そして恋人に別れを切り出し、すがる恋人になんと「兄貴を支えてやってくれ」とかなんとか言い出す始末。

絶望した恋人ナディアは、ゴシック様式の尖塔に囲まれた大聖堂の石屋根の上を、ヒールを鳴らして駆けてゆく。
それを見送るロッコの頬には、美しき一筋の涙が、ものの見事に「ツーッ」と伝い落ちるのであった…。

ヘルムート・バーガーがヴィスコンティの美意識の暗部や狂気を体現するデュオニソスだったとしたら、アラン・ドロンは無垢で光り輝く、それゆえに脆弱なアポロンみたいな存在だったのかな。 などと思ってみたり。

それにしても、尖塔の天辺に屹立する聖人たち、高所恐怖症だったらやってられないだろうなあ。 自分は聖人でなくてよかった…とつくづく思う。



○月×日 ネオ・リアリスモ

前回のつづき。

ネオ・リアリスモって何?

現代社会の暗部を描く、とか、労働者階級の生活をリアルに描く、とか、極力セットを使わずドキュメンタリー・タッチで、とか、素人を好んで起用する、とか、予定調和なドラマ構成を排除、とか。

『若者のすべて』はギリギリ際どい路線だと思う。

どっちかというと、ヴィスコンティが主人公を捉える視点は、三島由紀夫が(正確には『仮面の告白』の主人公が)「汚穢屋」に興奮してしまう目線に似ている。

と、こんな想念に捕われて、『仮面の告白』をがんばって探して借りてきてみた。
    坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に担い、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋(おわいや)---糞尿汲取人---であった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とては定かではないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたのであった。それが汚穢屋の姿に最初に顕現したことは寓喩的(アレゴリカル)である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。
       『仮面の告白』新潮文庫、昭和六十二年、十六頁。
後半部分はちょっと後付けっぽいけど、まあいいや、二十代半ばの三島。
で、迫力があるのが次の部分。「汚穢屋になりたい」と切望してしまう少年の心持。
    というのは、彼の職業に対して、私は何か鋭い悲哀、身を撚るような悲哀への憧れのようなものを感じたのである。きわめて感覚的な意味での「悲劇的なもの」を、私は彼の職業から感じた。彼の職業から、或る「身を挺している」と謂った感じ、或る投げやりな感じ、或る危険に対する親近の感じ、虚無と活力とのめざましい混合と謂った感じ、そういうものが溢れ出て五歳の私に迫り私をとりこにした。
       『仮面の告白』新潮文庫、昭和六十二年、十七頁。
というわけで、ヴィスコンティの『若者のすべて』は「ネオ・エロ・リアリスモ」なのである。
「ネオ」が意味不明なので、このさい普通に「エロ・リアリスモ」でもよい。
リアルで生臭いエロ。
若干「エロ・テロリスト」に似ていて語呂がよい。
うーん、もうなんだか訳わからんの。この辺で終わりにしよ。
どろ〜ん。
…。



○月×日 お金の話

久しぶりに以前友人から教えてもらった「虚構新聞」を読んだ。
相変わらずバカバカしくて楽しい。
「チワワ」と「チクワ」の記事をまだ読んでいない人は是非読んでください。

ところで、「新紙幣・新硬貨」の記事を見て思い出したのだが、先日初めて500ユーロ札(約6万8千円札)を見た。
というか、使おうとしている人を見た。
しかも10ユーロ(約1300円)ぐらいの買い物で。
店員は大慌て。そして店中が大騒ぎ。
結局のところ拒否されていたけれど。

500ユーロ札って何?カジノででも使うの?
カードを失くしたときとか?
でもカード失くすときって、財布ごと失くすよね?

あ、そうか。
札束で人の頬叩くときに使ったら、ちょっと迫力あるかも。



○月×日 ふたたび夢の話(1)

凄まじい悪夢を見た。
内戦に巻き込まれる夢。

戦場で戦う夢は何度か見たことがあるが、これほどまでに惨たらしい戦闘の夢をみたことはない。
現実世界ではテレビゲームもRPGも未体験であるし、ましてや戦地に赴いた経験など一切ない。
(話に伝え聞いたことは幾度かあったけれど…。)

なぜか演奏旅行で異国の地に立っている。(それはかつて実際に何年か嗜んでいた楽器の演奏なのだが。)何かのフェスティヴァルに招聘されて仲間と一緒にやってきている。豪奢な会場の控え室に入ると、華麗にドレスアップした金髪の女性達が席を立つところで、「私たちはもう帰らないといけない。あなた方の演奏が聴けなくて残念です」といった社交辞令を言われる。「あ、すみません…」と言うと、「あなた方の演奏は次でしょ」などと告げられる。えっ?寝耳に水。着替えもしていないし、第一自分の直前に演奏する予定の仲間の一人がいない。慌てて控え室を飛び出し、そいつの泊まっているホテルを目指す。

ホテルの中は大変入り組んでおり、赤く細かい唐草模様の絨毯と赤く細かい花模様の壁紙に覆われた薄暗い廊下を、あっちに行ったりこっちに曲がったりしても、なかなか奴の部屋まで辿りつかない。

そうこうしているうちに漸く奴の部屋が見つかり、のんびりと身支度中のそいつを急かして再び会場に向かった。

会場では無事演奏を終えることが出来たらしい。自分がどんな演奏をしたか覚えていないが、とりあえず終わったらしく、バスでの移動が告げられる。

バスの添乗員兼通訳の人間が、「外から何らかの襲撃があった場合、すぐにカーテンを閉め、座席の下に身を隠してください。また、写真は”絶対に”撮らないで下さい」といった案内がされる。話には聞いていたけれど、もしかして相当危ないんじゃないか?これは…。

そうこうしているうちに、やはりバスはスラム街のような瓦礫の町に突入している。道がぬかるんでいるためタイヤが嵌って時折空回りする。その間に黒い煤に塗れた裸足の子供やら髪を振り乱して赤子を抱えた女やらがバスの窓に寄ってくる。その中の少し年かさの少年が棍棒で窓を割りに来る。その衝撃で、二重になっているガラス窓の外側に罅が入った。

しばらく行くと、コンクリート壁一面に砲撃痕のある建物が次々と現れ、街のいたるところから黒煙が上がっている。閉めたカーテンの隙間から外を窺ってみると、累々とした黒焦げの死体の間をふらふらと彷徨う人影がところどころに見える。よく見ると、煤で黒くなった彼らの顔は焼け爛れている。

咄嗟に「やはりこれは撮っておかなければ」と思い、鞄の中からカメラを取り出す。それはなぜかいつも使っているデジタル・カメラではなく、一昔前のいわゆる「バカチョン」カメラである。一回シャッターを押すと、自動的にフィルムを巻き戻し始める。巻き戻し終わった音が聞こえたので、蓋を開け、撮影済みフィルムを取り出し、新しいフィルムをケースから開けて入れようとした。

と、ここで我々はしばらく立ち往生していたバスから降ろされる。どうやら現地スタッフが急遽用意したジープに乗り換えるらしい。我々は少人数のグループに分かれて数台のジープに乗り込んだ。

石畳の路地を横切ろうとしたその瞬間、カメラに新しいフィルムを入れて蓋を閉じた瞬間、カメラが自動的に「ジーッジーッ」と音を立ててフィルムの頭だしを始めた。路地と大通りの交差点に立っている軍の兵士達が一斉にこちらに振り返った。

咄嗟にジープを飛び降り、煉瓦が半分崩れた壁の影に身を潜めた。

やばいやばい。身体検査をされたら腰の裏(背中のベルトのシャツとセーターの間)に隠している拳銃がバレる。そうしたら確実に拘束される。下手するとその場で殺されるかもしれん…。

(つづく)

…って、続くのかよ!!



○月×日 ふたたび夢の話(2)

案の定、兵士達がジープのそばまでやってきた。無理矢理に隠れた自分は難なく発見され、引きずり出される。

通訳に「事情」を英語で説明すると、通訳がそれを現地語に訳し、それを軍の通訳がさらに現地語2に翻訳し、そして兵士達が現地語2で何やら議論している。不安になって通訳に「ちゃんと正確に訳してくれたのか?!」と問い詰めると、通訳がなぜか現地語で返事を返してくる。すると兵士達が「お前ら何を喋っているのだ?」というような様子で現地語2で咎めてきた。とっさにこれは直接説明しなければならないと思い、けれどこんなところではペラペラと英語を喋ったりすると逆に怪しまれることを思い出し(自分の英語は全然ペラペラではないくせに)、むしろペラペラな英語では却って通じないことまで思い出し、「アイ・ハヴ・ノット・テイクン・ナ・ピクチャー・フロム・トゥー・オア・スリー・デイズ・アゴー!」などと意味不明なほど分節化した言葉を必死に発してみる。

最初きょとんとした顔で見ていた兵士達が、笑い出した。何が可笑しいのか分からないけれど、どうやら解放されそうな雲行きだ。

そしてカメラは没収された。
けれど、身体検査はなかった。心底ホッとした。

そのまま再びジープに乗り込もうとしたら、ジープがない。そういえば、先の揉め事の際、ジープの運転手が兵士達に「先に行け」と促されていたことを思い出す。「薄情な…」と思いながら「仕方ない」と早々に諦め、一人、瓦礫の中を彷徨う。

顔が煤で真っ黒になり、髪が爆風で逆立っている子供たちが、何やら訴えかけながら近寄ってくる。 その子供たちに同情しながらも、手に手榴弾が握られていないかと確かめながら、歩いていく。

路地の角を曲がり、ある建物の中に入ると、そこは室内運動場のような場所だった。体育館のように屋根があるのだが、床は土である。波打ったでこぼこの床の大きな瘤の向こうから、突如、覆面の民兵たちが現れた。カラシニコフ銃を構え、こちらに向かってくる。

まずい、訓練場に紛れ込んでしまった…!?このままでは殺される…!

と思った瞬間、その背後から軍の兵士たちが現れた。民兵たちはそれに気付いていない。兵士達が火炎砲を構える。あ!と思うか思わないかの瞬間に、民兵の一人が一瞬にして炎に包まれ、炭化する。他の民兵達が即時応戦するも、間に合わない。次々と瞬時に焼き殺されてゆく。

背中のベルトの間に挟んでいた拳銃をこっそり腹の方にずらしてきて、握把を握り締め、撃鉄を外し、引き金に指を入れる。このまま間違って引き金を引けば腹を撃って自滅だ、と心配しながらも、兵士や民兵の一人一人が倒される度に、この最後の一発をどこに向けるべきかと悩む。なぜ最後の一発なのかといえば、拳銃ごときでこの状況下の己の身が守れる筈がないからだ。自己の身を守るに有効な、戦局を左右するような一発とは何か?と焦燥に駆られながらも悠長に悩みながら、双方の兵士が次々と倒れてゆくその一瞬一瞬に、安堵の心持ちで眺めている。

戦闘が激化すると、手段も過激化していき、双方ともTNT火薬1000トンほどの爆弾をぶっ放し始める。もはやこんな彷徨える異邦人などどうでもいいらしい。
少し安心する。

命からがらその訓練場の建物を抜け出すと、そこには大きな広場が広がっていた。石畳の広場の真ん中には噴水があり、四方の建物に並ぶカフェ・テラスでは、そこそこ裕福そうな地元の人間やら観光客やらが談笑している。ああ、そうだ。ここは一応、名の知れた観光地だったのだ…。

そのままアーケードの道なりに歩いて行くと、中世風の邸宅の中庭に出た。一人の少年が生垣の間に蹲っている。その少年が土の上から銀色の物体を指で抓みあげる。どうも単三乾電池のようだ。私は何かにハッと気付き、背後を振り向く。町の建物の向こう、すぐそばに、山が見えた。国境が近いことを知る。「そうだ、このまま国境を越えればいいのだ…」。

邸宅の中庭を抜けて再びアーケードに戻る。アーケードはいつしか地下のショッピング・モールに繋がっている。

ショッピング・モールの途中で店々の看板の表記が変わっていることに気付く。「あ、国境を越えたんだ…」。そして「もう大丈夫かも…」と思いながらしばらく歩いていたが、何を考えたのか自分は方向を変え、今来た通りを戻り始めた。(もうこの辺りから自分の考えていることさえ分からない。シナリオを最後まで読まずに舞台に立った主人公のようである。)

再びショッピング・モールの別の出口から出ると、そこはまた戦場。
気付けば、燃え落ちた軍用トラックの陰に隠れている。

そしてなぜかA4大の封筒を持っている。その中には大きく引き伸ばされた写真が数枚入っている。どうやら先にフィルムを入れ替えた際に、ポケットに忍ばせた撮影済みフィルムを現像したものらしい。そしてどうやら自分はは誰かと取引きしようとしているらしい。

軍側と民兵側との銃撃戦が始まる。自分がどちら側と取引きしようとしているのか、全く分からない。咄嗟の判断でトラックの陰から飛び出し、民兵側の土豪に飛び込んだ。

その瞬間、民兵の数人が爆発する。見ると胸の部分から煙が出ているが、頭の位置などはそのままだ。民兵のほとんどはハリボテの人形だったのだ。「え?何?どういうこと?何の作戦?」と思って隣を見ると、ほんものの人間の民兵が一人、軍側にカラシニコフ銃を構え、最後の最後まで応戦しようとしているらしい。土豪からこっそり向こうを窺うと、軍の兵士達がバズーカ砲やら大量のミサイルやらを用意している。

「もうダメだ、絶対絶命だ…!!」

と、左腕のシャツとセーターの間に隠してあった拳銃のことを思う。そうだ、この一発を、今、誰に向けるべきか…?!誰ニ?!

と思ったら、目が覚めた。



なぜこんな夢を見たのか、だいたいの見当はついている。
ちょうど今頃、同僚が内戦の傷跡生々しい地を彷徨っているからだ。
で、奴の荷物の中にこっちの携帯電話が紛れ込んでいる可能性が高い。
眠りにつく前に、「あの携帯はどうなっているかなぁ…。それにしても携帯ってなくても別に不便じゃないんだなぁ…」などと考えていたのだ。
無意識のうちに同僚の身を案じていたのか、それとも単に自分の携帯が心配だったのか?
(…薄情な奴はどっちだ。)
ちなみに今持っている携帯はカメラ付きではない。そして奴の携帯はカメラ付きだけれどメールが見られない。って何の関係があるか分からないけれど。

というわけで、このたび九死に一生を得た。らしい。

…薄情な奴はどっちだ?
そして、敵ハドコダ?

そして、ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。
ホントすみません。



○月×日 重力の話

「重力ってどうしてあるの?」
と訊かれた。

キミは一言でどう答える?

…一言でどう答えよう。

一言でなくても、どこから話そう。

どこから話しても、うまい答えには辿りつけなさそう。



あらゆる物体は質量を持っていて、質量を持つものは重力を…
なんて答えはダメだ。この問いは、「なぜ質量を持つものは重力を持つのか?」という問いだから。
重力のおかげで宇宙は回っているし、我々を形成する分子、原子、電子、陽子、中性子もクルクル回っていて…
なんて答えもダメだ。この問いは、「なぜクルクル回っているのか?」という問いだから。
原子核と電子の間には真空が広がっていて、それが仏教で言う「色即是空」に相当するという説もあって…
なんて薀蓄を披露してもダメだ。この問いは、「なぜ真空があるのか?」という問いだから。


「重力ってどうしてあるの?」

この問いへの気の利いたうまい答えを探すべく、
今日もこの不幸な頭がクルクルと空回りしている。



○月×日 無為

「無為に日々を過ごす」という言葉があるけれど、
無為に日々を過ごすことの意味ってどこにあるのだろう?

「無為」を辞書的なもので調べると、「何もしない、作為がない」ということらしい。


幼い頃から目的を持って行動するのが苦手だった。
何かに対して用意周到に取り組むのがイヤだった。

たとえば毎日のことで言えば、明日の仕事の準備をしたり、明日の遊びの準備をしたり、という時間が無駄に思えて仕方がない。
たとえば人生に関して言えば、どこかの組織に属する権利を得たり、資格を得たり、報償を得たりのために努力することがアホらしくて仕方がない。

こういう虚無感を感じるようになった節々を思い起こすと、「これだけ準備をしたのに失敗した〜」という経験よりも、「これだけ準備をしたおかげで無事だった〜」という経験の方が多く思い浮かぶ。
つまり、「実はこんなに準備しなくてもよかったんじゃないの〜?」という思いだ。
世間一般に、これを「奢り」と呼ぶ。


コツコツ積み上げていく作業はスキ。
ただ、そこに目的はない。あるのは積み上げる満足感だけ。

たとえばデータベース開発のジャンルでは、もはやデータの蓄積の段階はとうに過ぎて、利用者がいかに目的の情報に効率よく辿り着けるかが焦点となっているらしいけれど、もうそんなこたぁどうでもいい。
欲しい情報なんて各自が勝手に掘り起こせばいいじゃないかと思う。
データベース開発者がそこまでやるのはおせっかいというもんだよ、と。
実際はそんな不親切なデータベースに出くわすとアリャリャ…と思うけれど。


で。「無為自然」という言葉がある。
「人為を廃し自然であることが『道』に通ずる」という意味らしい。

これはいい。無駄に頑張ったって意味がない、という、意味なのだ!

…と、こういい加減身勝手に解釈する人間を、世間一般にはナマケモノと呼ぶ。



○月×日 旅

旅はいい。
特に、他人にお膳立てしてもらう旅がいい。
他人に強いられる旅がいい。

なぜかというと、予測不能な事態が予測できるから。
自分で計画立てた旅でもそれなりにスリリングな事態に遭遇するけれど、他人が立てた旅に乗っかるほどのスリルは味わえないでしょう。
道連れ。うん、いい響きだ。


ところで、結局、携帯は見つからなかった。元内戦の地を彷徨ったのではなかったようだ。
そして新しいものを購入。ラジオつき。
「これでどこでもラジオが聴ける〜!」と喜んでいたのだけれど、(「音楽」でなくて「ラジオ」ね)、よくよく考えてみたら、ラジオの電波の入らない所では聴けないんじゃないか?当たり前のこととして。

で、広域ラジオの電波が入らないような所では、ひょっとして携帯の電波も入らなかったりするんじゃないの?
たとえば山奥とか、山の上とか、標高値の高い地域とか、等高線の間隔が密な地帯とか、あと、山奥とか。

僻地とか。


ま、いいや。ラジオ波よりもすごい電波が届くかもしれないしね。



○月×日 自殺について

自殺する人って、本当に心身供に疲れ切って発作的に死んでしまう人もいるかもしれないけれど、 そうでない人は大概、生に固執する余り死を選ぶ、のではないかと思う。

生に対して過剰なまでの期待があるのだ。

それに対して死に損なった人達の話を訊いてみると、大概、「人生とは暇つぶし」だとか「人生はオマケ」だとか、割と軽々と生きているかのような発言をする。
実際に肩の力を抜いて生きているのかは別として。



「過剰なまでの期待」というエラそうな表現は、逆を返すと、実は「真剣」ということ。
当たり前に生きている人達には、その真剣さを笑う権利も蔑む権利もないと思う。
…ということを、ショウペンハウエルの『自殺について』は言っているんじゃないかなあ。

軽々と生きている人達は、生きることを軽んじて生きているのかもしれないね。



…でも、軽んじなきゃやっていけないってのもあるよね。生きるって。
でもそれを、自己正当化に転用するのはダメなんだろうね、やっぱり。



○月×日 肉と体

この前食べた牛タンの味が忘れられない。
ものすごく柔らかく、臭みの全くない牛タンのスライスに、ハーブ入りのサワークリームを添えて食すのだ。

「タン」って、やっぱtongueから来ているの?
あ、そうか。ロースとかフィレとかと同じく?
日本語かと思っていた…。

そうそう「ホルモン」って「放るもん」から来ているんだよね。一説によると。
それも最近知った。

舌を食べたり内臓を食べたりするのは、どこかエロチックな感じがするのは何故だろう。
そして、そこが一番美味しかったりするのにも、何か意味があるんだろうね。
魚も、頭とか内臓が一番美味しいし。

ところで、ビーフって、どこからビーフになるの?
屍殺場で殺されてアバトワで解体された時から?
じゃあチキンは?
家で絞めた場合、羽を毟り取った瞬間にチキンになるのかな?

この前、家の窓にヤマドリがクラッシュしてきたので毛を毟って焼いて食べたという話をしたら、「なんて野蛮なんだ!」と驚かれた。
野蛮なのかあ。そうか、野蛮なのか…。



この流れで同列に語るのは倫理的にどうかと思われるに違いないけれど、そういえば人間の「死体」と「遺体」の違いって、名前(身元)が判明している場合は「遺体」で、そうでない場合は「死体」なんだそうだ。

で、昔、養老孟司が「人間の死体はどの時点からモノとして認識されるのか」ということを中世の日本の死者観察絵巻のようなものを引き合いに出して語っていた。結局、どこからモノになるのかは覚えていないけれど、「この程度腐乱するとモノとして認識される」とかの結論だったかな?要は、「人間はどこまでが人間なのか」という、脳死の話だったと思う。

「遺体」は「死者」に近い感じがする。まだ人格が備わっている感じ。
それに比べると「死体」はモノに近い感じ?
英語ではどちらもbodyだけど。
Body feels exit? Body feels exite? Body feels existence?


はたして、死者はいつから死体になるのか。
死者を死者たらしめているものは何なのだろう?



○月×日 もはや恒例の夢の話

どうも夢日記のようになっている今日この頃。
本日も例に漏れず、誰が聞いても面白くない夢の話なのであ〜る。

知人の舞台を観に来ている。(その人は本当は怪しげなクラブのDJなのだが、なぜか夢の中では演劇人となっている。)
芝居はどうやら大学の講堂で行われる模様だ。
講堂というか中ホールのようなところ。
芝居のリハーサルが始まる。なんだか意味の分からない前衛的なやつ。
前衛的なものが意味が分からないのではなく、その意味の分からないやつが若干前衛風味なのだ。
ぼ〜っと後ろの方で見ていたら、ステージ上のその知人がこちらの存在に気付く。
手を挙げて舞台を降り、こちらに近づいて来た。
慌てて席を立ち、逃げ去る。どうやら自分はこっそり来ていたらしい。
廊下に出て通路の端まで行くと、ホールから出てきた知人がキョロキョロしている。
まずい、見つかる。
咄嗟に背後の非常扉を開いて外に出た。
石造りの踊り場の端に、同じく石造りの、人一人分通過可能な狭い螺旋階段があった。
そこへ飛び込む。階段を駆け下りる。
ところが!なぜか階段は下に行けば行くほど狭くなっていく。
終いには体が汲々に挟まって身動きがとれなくなってしまった。
どうしよう?!
助かるにはもう一度階段を登らなければならないけれど、まず石に挟まれたこの体を何とかしなければ…!


と、ここで別の知人(大学に通う友人)から電話が入る。語学の課題を手伝えという電話だ。何〜〜っ!?というか、ワシの夢の邪魔をするな〜!ワシの夢の行方を妨げる奴は何人であろうと許さんのだ!

「また寝るの?」の問いに「いやいやもう起きるよ…」などと電話口で生返事を繰り返し、再び夢の中へ。続きを見なければと思って寝たのにも関わらず、案の定別の夢へと切り替わっている。

夜の街を一人彷徨っている。
かなり更けているので、開いている店も少ない。
リストランテ、トラットリア、ピツァリア、カフェ、バール…どこでもいいと、開いていそうな店の看板を探す。
漸く見つけた薄暗い明かりのついているリストランテの中に入る。
中ではこの時間なのにパーティが開かれている。何かの打ち上げパーティのようだ。
プロジェクトの長らしき人が挨拶をしている。
あ!知っている、あの人。たまにテレビに出ていたりするよ。
その人がこちらに気付き、スピーチの途中で突然、私の名前を呼ぶ。
「あそこにおられるのが○○プロジェクトの中でも特に活躍されている××さんです」
っておい!その××さんは同じ××でも全然違う××だよ!

あと敬称が違うし! ○○プロジェクトって、そんな宇宙開発関係に関わったことなんてありませんから!
ロケット打ち上げなんて、はっきり言って全然興味ありませんから〜!

と、ここで再度、先の友人から電話が入る。「まだ寝てたのか」と責められる。「いや、寝てなかったよ〜?」などと誤魔化し、本来なら友人に課せられた課題の内容を一通り聞き終えると、電話の電源を切る。

ところで、ワシはどうなったのだ?20人ほどの著名な知識人の間に宇宙開発の先端技術者として誤って紹介されたワシはどうなるのだ?ワシのもう一つの運命や如何に…?

なぜキミはこうもワシの夢の邪魔をするのだ?もうこうなったら課題レポートと一緒に「ありがとう。面白かった」などと書いたメモを添えてエロ本をポストに放り込んでやるのだ!エロ本を!エロ雑誌を!最も変態的なものを厳選して!!




因みに私は幼い頃自分のことを「ワシ」と呼ぶ可愛くないガキであった。今でも朦朧としている時の一人称はなぜか「ワシ」になってしまう。
こんな下らない夢にアタフタして、こんな下らないイタズラしか思いつかないような小市民ではなく、もっと壮大な理想を掲げたクールなフィロソファーだったはずだよ。。



○月×日 左右の区別

「右も左も分からない」という言葉があるけれど、まさしく右と左の区別がつかない人間は、大の大人でも結構いるのである。
どうやらマイノリティらしいが。

「右」と「左」という漢字が似ているせいだと、ず〜っと思っていた。
しかしこの前、道を訊ねた時に、「Turn right」といいながら、しっかり手はクッと左側を示していた人がいたよ。
「I should turn left, right?」とこれまた紛らわしい確認をしたところ、「Yes, oh, you should turn left, ...no, right, ...yes, left, right」という極度に混乱した返事が返ってきた。
もちろん、その一瞬に熱いシンパシーを感じたわけだけれど。

「右」が「みぎて」で、「左」が「ひだりて」だと覚えるのに相当な努力を要したし、未だに混乱すると、右はみぎてで左はひだりて、と呪文のように心の中で焦りながら唱えたりする。

しかも「みぎて」が箸を持つ方だとか鉛筆を持つ方だとか、「ひだりて」が弦を押さえる方だとかフォークを持つ方だとか教わっても、いまいちピンとこないまま現在に至る。

だから、右脳と左脳の話は何度聞いても、幾度となくメモをとっても、理解はすれども覚えられないのだ。
左手は右脳に通じていて、右手は左脳に通じていたりするんでしょ?
で、その機能は「画像、直感、記憶」と「言語、論理、計算」に分かれてたりするんでしょ?
分かる、分かるよ、何回も聞いた。

でも、どっちがどっちだか分かんないんだよっ!!



○月×日 ポープという名のホープ

幼い頃、それこそ物心ついてから数年ほどしか経っていない頃、一度だけ生Giovanni Paolo IIを見たことがある。

クリスマスだった。

広場にびっしりの人々。
おしくら饅頭というほどではなかったけれど、ほぼ満杯だった。
大聖堂正面に向かって右側の建物の幾つもある部屋のうちの一つの扉が開いて、窓枠か、バルコニーの手すりかに赤い垂れ幕が垂らされた。
最上階から二番目ぐらいの階の、右から二番目ぐらいの扉。
そこから白い服の法王が現れて、数分間、いや、数十秒間かな、手を振っていた。
数万人の人々のどよめき。歓声。ため息。すすり泣き。
跪いて拝んでいる人もいる。ひれ伏している人もいる。

ある意味それが「スター」を見た最初の記憶かもしれない。
数万人規模のロック・コンサートを体験するのは、もっとずっと後のことだ。

その後、歴代法王の肖像が型押しされているコイン・セット(いかにも土産物、という感じの)をなけなしの小遣いで買い、しばらく自分の机の上に大事に飾っていた。
時折ケースから取り出してみては、裏返してみたり、磨いてみたり。
たぶんお気に入りのアイドルのブロマイドよりは丁重にお取り扱いしていたと思う。
しかしそれも、いつしかどこかへいってしまった。

それからまた大分経った頃。
学校の創立何周年か何かの記念式典に、妙に煌びやかに着飾ったある司祭がやってきた。
門から講堂まで真紅の絨毯が長々と敷かれ、その上を金糸や銀糸の刺繍びっしりの巨大な帽子やら豪奢なマントを着けたそいつが、これまた宝飾品でビカビカした十字架を掲げ、御付きの修道士をぞろぞろと従えて練り歩いてきたもんだ。
それだけでも何事かと思ったけれど、その司祭が延々と長い説教の中で何度も「自分はバチカンの法王に認められた数少ない何某」云々と自慢話を挟んでいたのだ。

心の中で、法王はお前なんか認めていないぞ、いや、たとえ法王が認めたとしてもわしゃ認めないぞ、お前なんか認めない、と叫んでいた。
自分の中の、自分だけの「スター」がまだそこにいたんだね、きっと。
お前なんかマガイ物だ、偽者だ、とスターがそこにある現実を否定していたんだろうね。

それからまたまたしばらくすると、教会のことだとか、世界のことだとか、歴史のことだとかを少しづつ知っていって、いつしか権威だとか権力だとかの言葉も覚えて、自分の中のスターもすっかり色を失っていったようだった。

……そんなことを思い出した今日この頃。

どこかの教会で、重厚なパイプ・オルガンの音色と聖歌隊のコーラスが響き渡る中、祭壇に向かって左側の窓から差し込んできた白い閃光。
あの耀きだけは未だに脳裏に焼きついているのだけれど。



○月×日 時間と距離

最近では衛星通信を使った遠隔会議も珍しくない。
何処彼処で実践されているテレコミュニケーション。

相手の表情はほぼリアルタイムで見えるのに、発した言葉への反応は明らかに一人時間差攻撃。
1〜2秒遅れてエコーする自分の声も、うざったい。

この地球半周分の2秒が、どうにももどかしい。

60年前には既に、一瞬で半径2km以内の建物すべてと半径1.2km以内の人々の半分の命を破壊する技術を手にしていたっていうのに。
50年前には既に、10,000km先の500万人超都市を30分以内に破壊するだけの能力を何千回分も手にしていたっていうのに。

なんてこの2秒の距離感は埋めがたいんだろう。

スクリーンの向こうでは昼食後のゆったりとした時間の中で悠長に話が進められる。
こちら側では睡眠時間が削減されることを憂慮しながら、心ここにあらずで空回りするトーク。
「見える/見えない」「聞こえる/聞こえない」を繰り返し、カメラに近づいたり角度を変えたり、ひっくり返したり繋ぎ直したり。
とんちんかんなやり取りの末、結局は次回の日程を決めるだけに終わるのだ。

何処彼処で繰り返される不可思議なディスコミュニケーション。

「仕方がないよ。地球は丸いんだから」

って、いつか観た映画のように達観できればいいのだけれど。



○月×日 幻想の力

時に「幻想」は現実逃避以上の迫力を持って迫ってくる。
幻想の力は現実世界をも凌駕する。

真夜中に遊びまわる人形、鬼の首を獲る美女、老婆を喰らう狼、小人たちに囲われる少女、人に襲い掛かる白鳥、自ら尾びれを裂いた人魚、千と一つの寝物語…。

それらすべては、もう何度となく見聞きしている話であるにも関わらず、さまざまな意匠を凝らして再現されるたびに、異様なまでのリアリティを持って胸に突き刺さってくるのだ。



幻想を体現する肉体が、汗で鮮々と輝いていた。
久々に観たダンス公演の中に、改めて幻想の生々しさを見た。



○月×日 NINとSilverchair

Nine Inch Nailsの「WITH_TEETH」を聴いた。
NINってこんな感じだったっけ?しばらく聴いていなかったから、上手く思い出せない。
とっても懐かしい感じがした。
グランジ好きバンド・キッズの一人遊びみたいな感じ。

ふと思い出したのだけれど、90年代後半、その時点で、マリリン・マンソンとシルヴァーチェアを「なんか懐かしい感じがすると思わない?」と並列に聴いていたのだった。
それまでニルヴァーナなんてなんとも思わなかったのに。
マリマンが受ける理由が分からないままにとりあえずビビりながらかつ半分呆れながらビデオを見たりしていたけれども、割と真剣に聴いていたのはシルヴァーチェアだったの。
だってメロディ・ラインが美しいんだもの。
歌詞が繊細なんだもの。
途中々々に気味悪いバラードが挟み込まれる構成も、グランジというよりゴスな感じがした。

ところで、この手の音って「Post-Grunge」とか形容されるらしいけれど、どこかで「Auggie Rock」というカテゴリーも見たよ。
なんだよ、オージー・ロックって。
肉かよ。

と思ったら、「beefyなリフ」という形容もされていた。
なんだ、やっぱ肉かよ。オーストラリアといえば肉かよ。

…閑話休題。
NINのアルバム、4曲目が好き。このダサ恥ずかしい感じが好き。
久しぶりにペット・ショップ・ボーイズが聴きたくなった。



○月×日 凸凹

ホテルの部屋で呆然とする。
無理やり入れようとしたが、ダメだった。
見た目はピッタリだったのに、入り口は固く閉ざされていた。
見事に騙された。
けれど、この目下の欲望を収めることはどうにもままならない。
要るなのだ、必要なのだ、いま、必要なのだ。
散らかった部屋もそのままに上着を羽織り、財布だけをポケットに突っ込み、フロントにラッシュし(けれど出来るだけ冷静に)、ニヤニヤ顔の坊主に教えてもらった店へ向かう。

しかし800mほど歩いた末に辿り着いたそこで、「うちではその手のものは扱っていない」とあっさり断られた。
その店から紹介された二軒目へとそそくさと足を運ぶ。

二軒目でこちらとしては再度の趣旨を説明すると、店主が呼びかけた店の奥から若い女達が口々に何かを叫びながら現れた。
女達に囲まれた老店主が地図を広げ、現在地と1kmほど離れた地点に印をつける。
とりあえず礼を言い、その店を出て、三軒目を目指す。

1kmほど歩いた末に辿り着いた三軒目では、女主人が客の男と真剣に何かを話し続けている。
ようやく話が途切れた隙に訊ねてみると、その店は一つ裏の通りだと素っ気無く言われ、また議論が始まった。

一つ裏の通りに行くと、四軒目はなぜかタバコ屋だった。
異国情緒漂う食品が店頭に並んでいる。
よそ者に慣れた風情の自身元よそ者らしき客の一人が、ようやく自分にも分かる言葉で懇切丁寧に五軒目を紹介してくれた。

最終的に辿り着いた五軒目の、工場直結卸問屋で薦められたものがこれ。

色々な形の穴がいくつも開いたパーツ1つと、色々な形の突起がついたパーツ4つがセットになったもの。
従業員がパッケージを開け、中身を取り出し、穴の開いたパーツの表側に突起のついたパーツの一つを装着し、裏側の穴に別の突起のついたパーツの一つをしきりに抜き差ししてみせる。
つまり、「これさえあれば君の持つ突起物は世界中のどんな穴にも挿入可能だ」ということを示しているのだ。
組み合わせ自由、全九通り。
四の五の言わずにお買い上げした。
その名も「Universal Adapter with Safety Shutter」。

店の外に出ると陽もとっぷり暮れていた。
急に空腹を感じ、フルに食事を摂った。
酒と夜食を買って帰る。
部屋についた頃には既に数時間前の欲望はどうでもよくなっていた。



○月×日 ヘルツォークとピュアな時間

何年か前のヘルツォークの劇映画「Invincible(神に選ばれし無敵の男)」(2001年)をDVDで鑑賞。
ん?何これ。
面白いか面白くないかと問われれば、たぶん面白くないと答えてしまうと思う。
というか、素人がいかにも素人っぽく演技しているシーンにどうにも耐え難いものを感じるのだから仕方がない。

ヘルツォークといえば、20年前のウェンダースの「東京画」(1985)の中で、たしか「東京を含め我々の知っている世界には ピュアなものは何も残っていない。私はピュアなものが撮れるなら地の果てまでも行きたい」みたいなことを語っていた。
なんだか怒っているようだった。

で、原版では「Trumpet」と「Cello」というタイトルで企画された二本立てオムニバス映画「10ミニッツ・オールダー」 (2002)の中で、ヘルツォークはアマゾンの奥地まで行き、近代化の波に押し流されて消滅寸前の少数民族(原住民)をドキュメンタリーに撮っていた。
これを見た時は、あ〜こういうことだったのね、と思ったけれど。

「Invincible」とドキュメンタリーの方とどちらを先に撮っていたのかは分からないけれど、ヘルツォークは何か「ピュアなもの」を見つけることが出来たのかなあ…?
少なくとも後者の方では、未だ見つけられずに怒っているようだった。

ところで、「Invincible」の中で相変わらずの怪演を披露していたティム・ロス(ハヌッセン役)の科白で、なかなか面白いものがあった。
「予言者はいかにして因果関係の原理、つまり自然法則の調停者と成り得るのか?」とのヒトラーの疑問(を伝えるヒムラーのセリフ)に、ハヌッセンはこんな風な言葉を返すのだ。

「自然は人間の考えていることや人間が当てはめる法則など感知しない。
実のところ、予言者なんてものも存在しない。
なぜなら、私に関して言えば、未来など存在しないからだ。
未来などない。モノと事象の状態があるだけだ。
人はこれまでに存在しなかった世界や、これから生まれてくる世界など想像出来ないはずだ。
各事象は静止した一点に過ぎず、人間はそこを通り過ぎるだけ。
サイコロのように色々な側面を持つ時間というものを考えてみるといい。
普通の人間は一つの側面、手前の面しか見えない。つまり『現在』だ。
予言者はトランス状態になることで裏の側面が見える。それが『未来』だ。
そして現在は未来になる。」

こう言われれば、サイコロのその他の側面が何なのか、どうしても気になるよねえ?



○月×日 Emiliana Torrini

「ビョークのような」と形容される女性アーティストは結構多い。
Emiliana Torriniもたぶんその一人。
まず声が似ている。
歌い方が似ている。
けれど、ビョークほどヒステリックではない。

「リトル・ビョーク」と呼ばれたりする。
エレクトロニックな音の重ね方、エフェクトのかけ具合なんかも似ている。
けれど、壮大なビョークの音世界に比べたら室内楽のような音の構成。

しかも1stアルバム「Love in the Time of Science」はビョークのレーベルOne Little Indianから。
8曲目なんてモロ・ビョーキスティック。(もちろんこんな言葉はない。)
でも、歪んだテルミンのようなノイズがあったり、どの曲も薄暗いメロディだったり、全体的に気だるい雰囲気が漂っていたりで心地よい。

今年Rough Tradeから出た2ndアルバム「Fisherman's woman」は、1stと全く異なりほぼアコギとヴォーカルのみのシンプルなフォークソング集だった。
あまり聴き込んでいないけれど、やっぱり1stの方が好みだな。

ビョークはtoo muchな自分には、この1stアルバムぐらいが丁度いい。
と言っている人が結構いるので、みんな考えることは同じなんだな。大概。

個人的にヒステリックな歌い方(声)が苦手な理由を語るとまた長くなるのだが、それはまた別の話なので。


○月×日 「バーディ」

アラン・パーカーの『バーディ』(1984)。 もう何度も観ているはずなのに、いつもラストが何だったのか思い出せず、ついまた観てしまう作品。

空を飛ぶことを夢見るハイスクール・ボーイ(マシュー・モディーン)とその悪友(ニコラス・ケイジ)の話。
というとまるでピュアな青春映画っぽいのだけれど、要は元祖オタク道まっしぐら少年の話だったりする。
なんたって、夢の中で鳥と交わって初エクスタシーを体験してしまうくらいの鳥フェチ少年なのだ。

活き活きと描かれる回想シーン(廃れた田舎町で混沌とした思春期をヤンチャなノリで乗り切ろうともがいている若者たち)と、閉鎖病棟で展開される至極シュールな心理劇(ベトナム・シンドロームに苛まれる帰還兵が収容されている当局の精神病棟)との対照が印象的な作品。

回想シーンの中で鳥のように宙を飛ぶ白昼夢を見ながらバーディが呟く。
「I wish I could die...」
よくワレワレが仮定法を習う時に使われるフレーズは「I wish I could fly」だったりしたけれど。

戦場での惨禍を目の当たりにした二人の少年to青年は、「I wish I could die」とも「I wish I could fly」とも呟くことが出来なくなってしまう。
バーディの分身としての親友は、「俺たちみたいなのがいいカモだったんだよ」と掠れた細い声で呟く。

・・・・・・・・・・・・・・

今日、散歩をしていたら、川辺でサバイバル・ゲームな格好をしている親子連れを見かけた。
20代後半ぐらいの親父が10歳に満たないぐらいの息子達にエアガンの撃ち方を教えている。
その標的は野鳥。

吐き気がした。

その瞬間、幼い頃、衛兵に銃口を向けられた記憶がフラッシュバックした。
何かを喚きながら血走った目で銃を構える兵士も、それをふざけ半分で苦笑しながら制止する兵士も、今思えばハイティーンぐらいの年頃だった。

「19」(1985)という曲が流行った時期があった。
ベトナム戦争の従軍兵の平均年齢は19歳だった、というモチーフのシンセ・ポップ。
なぜあんなに流行っていたんだろう?



○月×日 躾について

知人がスーパーで買い物をしていた時に見た光景について語る。

若い子連れの夫婦がいたらしい。
3歳ぐらいの娘をカートに乗せ、4〜5歳ぐらいの息子を連れていた。
その息子は号泣しながら父親にこう嘆願していたのだそうだ。

「お父さん、抱っこして〜!ちょっとだけ!ちょっとでいいから抱っこしてー!!」

顔中を涙と鼻水とでぐちゃぐちゃにしながら絶叫していたそうである。

「ちょっとでいいから〜!!」

周囲の注目を集めながらも、父親は「知らんふり」でカートを押し、母親は買い物を続けていたとのこと。

「ちょっとでいいから」ってそんな……。(涙)

「ちょっとだけ抱いてあげればいいじゃない。ねえ?」
「うーん……まあ、なんかこう、教育方針とかじゃないんですかね。ほら、なんか抱きグセ?抱かれグセ?の矯正キャンペーン中とか、なんかそんな感じの」
「そうかもしれないけど!ちょっとだけって言っているんだから、ちょっとだけ抱いてあげればいいじゃない!」

まあ、確かに。
減るもんじゃないし。
税金かかるわけじゃないし。
子育て経験者がそう言うんなら、そうかもしれないです。
少なくとも息子の顔を見て、「ダメ」とか言ったらいいのかもね。
その子は「お父さん、ちょっとでいいから僕を見て」と言っているみたいだから。

ところで、犬のシツケで「無視」作戦ってあるけれど、あれはどのくらい効果的なのか。
「無視しないで一々怒る」作戦より、どのくらい効果があるの?
犬は物事の善悪の判断ができないから、恐怖心と条件反射でシツケるの?
じゃあ、子供は?
大人は?



○月×日 トンネル

トンネルを抜けると、そこは異次元だった。

そんなことを夢想したものだ。
幼い頃、トンネルが大好きだった。

電車に乗っていて、突然周囲の景色が失われ窓外が暗闇になる瞬間にドキッとした。
光源が現れるその時が待ち遠しかった。
車に乗っていて、突然オレンジ色のナトリウム灯に彩られた回廊に突入するとトキメキを覚えた。
できるだけこの時が続きますようにと祈った。

ホワイトホールという仮説。
吸い込まれたものはどこかから吐き出されるのだろうという仮説。

トンネルを抜けると、そこは異次元空間だった。
そんなことを未だに夢想している。