| 代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
| 初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
| 2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
| 3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
| ―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
| 4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
| 5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
| 6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
| ―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
| 7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
| 8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
| ―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
| 9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
| 10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
| 11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
| 12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
| 13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
| 14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
| 15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
| 16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
| 17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
| 3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
| 4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
| 7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
| ―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
| 8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
| ―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
| 9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
| 10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
| 13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■七代惣領家■
(1283?-1337)
| <正室> | 泉五郎胤顕の娘? |
| <後室> | 田村三河前司入道宗猷の養女・藤原子女 |
| <幼名> | 松鶴丸 |
| <通称> | 孫五郎 |
| <父> | 相馬彦次郎師胤 |
| <母> | 不明 |
| <官位> | 無位 |
| <官職> | 無官 |
| <家督> | 永仁4(1296)年~建武4(1337)年 |
| <法号> | 興国寺殿実厳天叟 |
| <墓所> | 増尾山少林寺(千葉県柏市増尾) |
●相馬重胤事歴●
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| 重胤花押 |
父は相馬彦次郎師胤。母は不明。父・師胤は相馬家嫡男が継承していた「左衛門尉」に任官した形跡はなく、重胤も無位無官であったと思われる。
重胤は生涯の大半を幕府や相馬一族との訴訟問題に費やし、東北地方へ移ったのちも南北朝の争いに巻き込まれ、足利尊氏方の武将として、北畠顕家と鎌倉で合戦して自刃を遂げるといった悲劇的な人物。奥州相馬氏の始祖として、東北相馬では今でも尊敬されている人物である。
重胤は下総国相馬郡増尾村(千葉県柏市増尾)で生まれ育ったと思われるが正確な生年は不明。正応2(1289)年2月20日、父・師胤から『譲状』をうけて師胤妻分と叔父・胤門分を除いた「相馬御厨内増尾村粟野薩摩、陸奥州行方郡内小高村耳谷村■■村上浜」を継承した。このとき重胤はまだ「松鶴丸」と呼ばれており、元服前の少年だったことがうかがわれる。師胤はまだ幼少の重胤に家督を譲らざるをえないほどの大病を患っていたのかもしれない。
+―相馬胤氏――――相馬師胤
正室 |(次郎左衛門尉)(五郎左衛門尉)
∥ |
∥―――――+―相馬胤重
∥ (六郎左衛門尉)
∥
相馬胤村―――+―相馬胤顕――――相馬胤盛―――泉胤康――→[子孫は岡田家、泉家(中村藩御一家)]
(五郎左衛門尉)|(五郎) (小次郎) (五郎)
∥ |
∥ +―相馬有胤
∥ |(十郎)
∥ |
∥ +―相馬胤朝
∥ (孫九郎)
∥
∥―――――+―相馬師胤――+―相馬重胤―+―相馬親胤――→[子孫は中村藩主]
∥ |(彦次郎) |(彦五郎) |(孫次郎)
尼阿蓮 | | |
+―相馬胤実 +―娘 +―相馬光胤
|(孫四郎) ∥ (弥次郎)
| ∥
| ∥――――――大悲山朝胤――→[子孫は大悲山家(中村藩士大悲山家)]
+―相馬通胤――――相馬行胤 (又五郎)
|(与一) (孫次郎)
|
+―相馬胤門
(彦五郎)
師胤没後、叔父・相馬彦五郎胤門の養子となった。胤門は永仁2(1294)年8月22日の『関東下知状』によれば陸奥国高村・萩迫の安堵を受けており、重胤は永仁4(1296)年8月24日の『相馬胤門和字譲状』で義父・胤門からこれらの所領を継承した。
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| 増尾の伝相馬家屋敷跡(妙見堂跡) |
おそらく重胤が胤門から所領を譲られた直後、永仁4(1296)年秋、大田村、北田村に隣接する重胤の所領である高村堰澤の稲を刈り取った。
相馬家嫡流である伯父・相馬次郎左衛門尉胤氏の系統は、胤氏(次郎左衛門尉)―師胤(五郎左衛門尉)とあるように、左衛門尉の任官が見られ、幕府では長男の胤氏の系統を相馬惣領家と認識していたと思われる。
重胤の父・相馬彦次郎師胤がおそらく母・尼阿蓮(相馬胤村後室)とともに「当腹嫡子」として相馬惣領家を継ごうと企てたことから、相馬家は分裂。しかし、その企ては失敗したのか彦次郎師胤・孫五郎重胤父子は惣領とは認められなかったと思われ、叙位任官もなされていない。ただ、師胤は「当腹嫡子」として相馬郡内の所領を多く得たと思われ、伯父・胤氏は奥州行方郡の所領を多く手に入れたようだ。
結局、胤氏は幕府からは相馬家嫡男という扱いを受けてはいたものの、胤村の死後、逸早く動いた後家尼一派との論争に敗れ、下総国の胤村遺領はほとんど譲られることなく、奥州の相馬領である行方郡太田村、吉名村(『相馬一族闕所地置文案』)、高村、北田村、赤沼の分与で妥協をさせられたのだろう。しかし、所有権を強く主張していたと思われる高村については一部のみ(高川北)しか認められなかったようだ。
このことに胤氏は納得せず、永仁4(1296)年秋、大田村、北田村に隣接する重胤の所領である高村堰澤の稲を刈り取る乱暴をはたらいたと思われる。胤氏はすでに下総国に所領はなかったため、この頃には奥州行方郡に下っていたのだろう。この高村堰澤は、前年の8月24日に叔父の相馬胤門から重胤へ譲られた所領であり、高村の重胤代官頼俊は胤氏の押領を幕府へ訴え出た。
「行方郡高村堰澤」は永仁4(1296)年8月24日の『相馬胤門和字譲状』を通じて相馬彦五郎胤門から重胤に相続された所領であり、この「濫妨」に対して永仁5(1297)年5月頃、重胤の代官「頼俊」(高村に派遣されていた代官か)が幕府に訴えた。重胤代頼俊の訴えを受けた幕府はたびたび胤氏を召喚したが、胤氏はこれを無視。重胤はさらに訴え出て裁許を求めたが胤氏はこれをも無視した。その結果、永仁5(1297)年6月7日、幕府は「此上不及異儀」として、重胤の高村堰沢の知行を認めた(永仁5(1297)年6月7日『関東下知状』)。その後、胤氏の活動は見られなくなる。
当面の敵であった胤氏が没落したことによって、重胤の周辺はいったんは平穏を取り戻したが、翌永仁6(1298)年はじめ、こんどは叔父・相馬孫四郎胤実の代官「忠■」が「下総国相馬御厨内益尾村、陸奥国小高村并盤﨑村内釘野」について幕府に訴えたことから、ふたたび相論となった。
相論のきっかけはおそらく尼阿蓮の死後まもなくおこったものと思われ、師胤・胤実・胤門の兄弟はそれぞれ「弘安八年六月五日阿蓮譲状」を持参して、増尾村の田在家について争ったと思われる。そして師胤が没し、嫡男・重胤が叔父・相馬彦五郎胤門の養嗣子となり、永仁4(1296)年に胤門の譲りを受けるに及んで、重胤が継承した所領について異議を唱えた胤実が訴訟を起こしたようだ。結局、幕府は尼阿蓮の譲状に従って相論を停止する『関東下知状』を正安2(1300)年4月23日に発給して終決している。
この孫四郎胤実は行方郡八兎村・大内村をめぐっても相馬小次郎胤盛(泉五郎胤顕の子)と争っており、応長元(1311)年8月7日に『関東下知状』によってそれぞれに知行が安堵され、これ以上の違乱・訴訟は相互に罪科に問うとしている。
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| 陸奥国行方郡小高 |
重胤の養父・胤門は弘安8(1285)年では「乙鶴丸」という幼名で呼ばれていることから、永仁4(1296)年8月24日に養子・重胤に家督を譲った当時は、まだ十代後半から二十代前半の青年であったと思われる。さらに正安2(1300)年4月23日の『関東下知状』によれば、永仁6(1298)年始めにはすでに没していることがわかり、重胤に家督を譲ったのは病のためであったのかもしれない。
嘉元元(1303)年には、この養父・彦五郎胤門の実娘・彦犬、つまり重胤には義姉妹の女性との相論も起こっている。胤門は永仁4(1296)年の『相馬胤門和字譲状』の譲状の中で「女子分」を女子が亡くなった後は重胤が知行する事と定めているが、胤門娘はこれに反発して訴訟を起こしたか。このとき彦犬はまだ十代前半と思われることから、胤門家内での重胤への反発が訴訟に発展したのかもしれない。結局、この相論は嘉元元(1303)年12月の『和與状』によって解決し、重胤への所領相続が正当なものと認められた。
|
| 太田村から高村方面を望む |
ところが同じ頃、惣領家・相馬五郎左衛門尉師胤(相馬次郎左衛門尉胤氏の子)がなんらかの咎のために、所領のうち三分の一を収公された。師胤がなんの咎をもって所領三分一を収公されたかは不明だが、「御成敗式目」三十一条に「依無其理不関裁許之輩、為奉行人偏頗之由構申之条、甚以濫吹也、自今以後、構不実企濫訴者、可被収公所領三分一」(理由もなく裁許に従わない輩や奉行人を偏頗と言う者が、不実を構えて濫訴した場合は、所領三分の一を収公する)と規定されていて、所領をめぐって訴訟を繰り返した結果だろう。得宗家御内人がその強権政治の中で、師胤領について介入していたのかもしれない。『取手市史』においては、高村に関して納得のいかなかった師胤が再審理を求めたため、それが「濫訴」とされて規定通り収公の憂き目をみたとされているが、高村についての重胤と胤氏の訴訟はこの事件の起こる20年も前のことであり、それが延々と引っ張られていたとは思えず疑問がある。
元亨元(1321)年10月、幕府から打渡のため岩城次郎・結城上野前司宗広が使者として奥州に下向している(『長崎思元代良信申状』)。なお、打渡の使者となった「岩城次郎」はその名字から奥州岩城郡の岩城氏と思われ、「上野前司宗広」は奥州白河郷の結城上野前司宗広のことである。結城宗広はこの十二年後、新田小太郎義貞とともに幕府を滅ぼし、南朝の忠臣として活躍した人物だが、このころは鎌倉幕府内で内管領・長崎氏の命に従う一御家人に過ぎなかった。
この打ち渡しの際、岩城・結城両人は師胤所領の北田村三分の一を収公したが、そこは重胤の所領である高村とも隣接し、おそらく重胤は幕府の言う「北田村」を「高村」の一部と主張し、幕府打渡使が収公した「北田村」は「高村自高河北」であるとし、10月の打ち渡しの直後、「北田村=高村自高河北」に乱入して稲を刈り取る濫妨を行った。現在の磐城太田駅周辺一帯と考えられる。重胤はそのまま北田村に居座ったようだ。
この「北田村」は、12月17日、御内人(北条得宗家直臣)である長崎思元入道が拝領することとなったが、重胤は譲らず、同日、「停止長崎三郎左衛門入道思元押領」を幕府に言上した(元亨元年十二月十七日『相馬重胤申状案』)。しかし、幕府は12月25日、岩城・結城両人を再度打ち渡しの使者として派遣している(元亨2(1322)年『長崎思元代良信申状』)。
その後、重胤は「陸奥国行方郡北田村田在家事」について訴えを起こし、幕府は長崎三郎左衛門入道思元に出頭を命じた(元亨2(1322)年閏5月4日『関東御教書』)。これに対して思元側も、自分が拝領した所領は相馬五郎左衛門尉師胤の罪科によって収公された所であり、重胤の濫妨のことこそ停止されるべきものだと訴えた(元亨2(1322)年『長崎思元代良信申状』)。これをうけた幕府は、7月4日、重胤の出頭を命じた(元亨2(1322)年7月4日『関東御教書』)。
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| 小高城跡(小高妙見)と妙見橋 |
『相馬重胤申状案』には「今年元亨元十月打渡之刻、重胤以下総国相馬郡居住」とあるように、元亨元(1321)年10月の時点において重胤は「下総国相馬郡に在住していた」とし、その後の文字が一部欠損しているため詳細は不明だが、おそらく重胤が留守にしていたばかりに「■■■等令引汲思元、以彼高村自高河北田在家三分一分付于思元之」と、何者か(岩城・結城か)が思元の肩をもって「高村自高河北田在家三分一」を思元のものとしたとしている。
一方、思元は「爰重胤任雅意、去年元亨元年十月以数多人勢押入■■■作毛、追捕民屋、致押妨狼藉之條、希代之所行也」(元亨2(1322)年『長崎思元代良信申状』)と、重胤は「元亨十年に多くの人数を引き連れて、我意に任せて北田村に乱入した」とする。これらの文書は裁判でそれぞれが提出した文書であるため、どちらの言い分が正しいかは不明だが、御内人の意向を受けた岩城・結城両名との画策であろうかと推測される。
この裁判の結果を示す文書は残っていないが、室町時代初期に相馬親胤が作成した『相馬一族闕所地置文案』には師胤の大田村六十貫文・吉名村四十貫文、先代被闕所(胤氏の闕所地)が思元入道の拝領地とされており、そこに「北田村=高村自高河北」については触れられていないため、重胤の言い分が通った可能性もある。
●『相馬一族闕所地置文案』
相馬
五郎左衛門尉 二郎左衛門尉 五郎左衛門尉
胤村―――――+―胤氏―――――――師胤 一分跡、行方郡大田村土貢六十貫文、
| 又同郡吉名村土貢四十貫文、
| 先代被闕所、長崎三郎左衛門入道拝領之
|
| 彦次郎 孫五郎 出羽権守
+―師胤―――――――重胤―――――親胤 訴人
|
| 十郎
+―有胤 子息等御敵也、彼跡等
| 高平村五十貫文、稲村十五貫文
|
| 孫四郎 六郎
+―胤実―――――――胤持 大内村十貫文、長田村五十貫文
|
+―女子 高城保内根﨑村三十貫文、鳩原村弐十五貫文
|
+―女子 牛越村三十貫文
重胤が下総から奥州へ移った時期は、この長崎氏との相論の最中であったろうと推測される。相馬中村藩の伝承によれば、重胤の下向は元享3(1323)年4月21日のことで、下向先は行方郡太田村(福島県原町区中太田)の三浦左近国清の館(現在の太田妙見社)であるとされる(『奥相秘鑑』)。ただし、元亨2(1322)年7月時点で重胤は「小高孫五郎殿」と幕府から呼ばれていることから、この時点ですでに行方郡小高村に拠点を移していたことが推測される。
また、重胤と同時代の元応2(1320)年6月25日の『関東下知状』(『小野文書』:『我孫子市史』所収)には、出雲国大野庄内和田垣助宗守延名田畠についての相論で「相馬八郎次郎胤時」の名を見ることができる。この相馬胤時はいかなる人物か不明だが、相馬一族には間違いない。
■奥州下向後の相馬重胤
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| 太田の相馬孫五郎重胤の碑 |
『奥相秘鑑』によれば、重胤は元享3(1323)年4月21日に下総国流山(千葉県流山市)から奥州行方郡太田村(福島県原町区中太田)に移り、太田村の三浦左近国清の館(太田妙見神社)に入ったとされる。しかし『奥相秘鑑』は、さまざまな箇所で誤記が目立つ。下記はそのうちのいくつかを挙げてみた。
1.「岡田小次郎胤盛」が重胤の下向に従ったとあるが、胤盛は正和4(1315)年~元応2(1320)年の間で没しているため下向に従うことはできない。
2.「備中守」「伊予守」「豊前守」などを名乗る人物が従っている。
→鎌倉時代に官途名を自由に名乗ることはない。
3.「相馬孫次郎行胤」が鎌倉で北畠顕家の軍と戦って戦死した。
→相馬行胤は北畠顕家が京都へ上洛した後を追撃する重胤とともに関東に下るが、重胤の命によって小高に返され、その後も活躍している。
4.室町中期の岡田氏・大悲山氏の養子縁組が混乱して記されている。
→大悲山氏と岡田氏を取り違えている。
このように重要な部分の誤記があることから、本書を全面的には信用することはできない。元弘3(1333)年7月17日の『後醍醐天皇綸旨』(1)に付けられた「別紙」に「元亨三年四月従総州転於奥州行方郡居館」と、『奥相秘鑑』と同じ様な記述もあるが、これは後に付されたものであることから、これを重胤奥州行の時期の根拠とすることはできない。
●奥州下向に従ったとされる武士(総勢八十三騎)
岡田小次郎胤盛・泉五郎胤康・堀内掃部頭常清・伊奈五郎有村・木幡周防守範清・木幡蔵人盛兼・木幡紀伊守胤清・木幡三郎左衛門定清・木幡四郎左衛門兼清・須江備中守時胤・青田孫左衛門祐胤・茅原越中守・猿島豊前守・牛来玄蕃允・北氏・般若氏・遠藤氏・今野氏・薩間氏・筒戸氏・増尾氏・岡部氏・伏見氏・他60騎
『奥相秘鑑』によれば、一族・家子郎従を率いて奥州行方郡太田に入った重胤は、下総から鳳輦に奉ってきた妙見・塩竃・鷲宮の三神をここに勧進したのち小高村に移り、城を築いて本拠としたという。
文書上、元亨2(1322)年以降、幕府が混乱する元弘3(1333)年までの十年あまり、重胤の名は見えなくなるが、重胤の妻は陸奥国田村郡三春領主の田村三河前司入道宗猷の養女・藤原氏女で、重胤が下総相馬郡に住んでいた頃に田村氏と交流があったとは思われず、婚姻があったのは重胤の奥州下向後のことと思われる。
元弘3(1333)年5月、鎌倉は上野国の御家人・新田小太郎義貞を主将とする反幕府勢によって攻められ、執権・北条守時は戦死。得宗・北条高時入道以下、北条一門は菩提寺の東勝寺にて自害し、鎌倉幕府は滅亡した。この鎌倉の戦いでは、重胤と相論した長崎三郎左衛門入道思元は子息・長崎勘解由左衛門尉為基とともに極楽寺坂を守って新田勢を撃退する奮戦ぶりを見せ、その後、新田義貞本隊と戦って戦死を遂げたという(『太平記』)。
●長崎氏略系図●
平資盛―関盛国―国房―?―盛綱―――+―平頼綱――――+―宗綱 +―高綱―――+―高貞――――――高重
(左少将) (左衛門尉)|(左衛門尉) |(平左衛門尉) |(円喜入道)|(四郎左衛門尉)(次郎)
| | | |
| +―飯沼資宗 +―高頼 +―高資――――――高直
| (判官) |(兵衛尉) (新左衛門尉) (新左衛門尉)
| |
+―光盛―――――+―光綱―――――――+―真弓盛親―――盛勝
(次郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉) (織部正) (織部正)
|
+―高泰―――――――――泰光
|(勘解由左衛門尉) (四郎左衛門尉)
|
+―高光―――――――――為基
|(三郎左衛門入道思元)(勘解由左衛門尉)
|
+―師家
(九郎左衛門尉)
■重胤、行方郡奉行となる
鎌倉幕府が滅亡すると、6月、後醍醐天皇は京都に戻り、大塔宮護良親王を征夷大将軍に任じた。倒幕の功労者である源氏の棟梁・足利治部大輔高氏を警戒した措置ともされているが、権力を皇族・貴族に集中させる意味合いが強かったのかもしれない。
7月には、北条氏与党の武士の所領を安堵する旨の綸旨を発給。重胤もこの恩恵にあずかっており(元弘3年7月17日『後醍醐天皇綸旨』)、10月に義良親王(のちの後村上天皇)と北畠顕家が「陸奥国司・鎮守府将軍」として多賀城に入ると、12月、重胤は嫡子・相馬孫次郎親胤を代理としてに多賀城に派遣して所領安堵の「国宣」をもとめ、12月22日、『陸奥国宣』が出されて所領安堵された(『相馬重胤代親胤申状』)。
このころ、陸奥国府では式評定衆・引付・政所執事・評定奉行・寺社奉行・安堵奉行・侍所といった小幕府的な政府が作られ、「式評定衆」には8人のうち、白河上野前司宗広入道・白河三河前司親朝・二階堂信濃守行朝入道行珍・二階堂山城左衛門大夫顕行・伊達左近蔵人行朝の5人までが奥州の有力者で占められている。北畠陸奥守顕家らは奥州の武士たちを統率する上で、彼らに偏諱を行っていたとも思われ、白河親朝・相馬親胤は北畠親房から、二階堂顕行は北畠顕家からそれぞれ名乗りをもらっているのかもしれない。
●陸奥国府職制●
| 職 | 名前 | 説明 |
| 宮 | 義良親王 | 後醍醐天皇の皇子。のちの後村上天皇。下向時6歳。 |
| 国司 | 北畠顕家 | 従三位・陸奥守・鎮守将軍。北畠親房卿の嫡男で、下向時16歳。 |
| 式評定衆 | 冷泉源少将家房
式部少輔英房 内蔵権頭入道元覚 結城上野入道 信濃入道行珍 三河前司親朝 山城左衛門大夫顕行 伊達左近蔵人行朝 | 近衛少将。北畠氏と同じ村上源氏の一族と思われる。 式部少輔。 内蔵権頭。 白河宗広。はじめ鎌倉幕府官僚だったが、滅亡後は朝廷に忠実に服す。伊勢で没する。 二階堂行朝。のち室町幕府最初の政所執事。 結城親朝。結城宗広の嫡男。のち北畠氏と対立し、足利方に下る。 二階堂顕行。二階堂行朝の嫡男。 伊達行朝。南朝の忠臣として活躍。 |
| 引付衆一番 | 信濃入道
長井左衛門大夫貞宗 近江二郎左衛門入道 安威左衛門入道 五大院兵衛太郎 安威弥太郎 椙原七郎入道 | 二階堂行朝。 長井貞宗。 五大院兵衛入道玄照。 |
| 引付衆二番 | 三河前司
常陸前司 伊賀左衛門二郎 薩摩掃部大夫入道 肥前法橋入道 丹後四郎 豊前孫五郎 |
結城親朝。 |
| 引付衆三番 | 山城左衛門大夫
伊達左近蔵人 武石次郎左衛門尉 安威左衛門尉 下山修理亮 飯尾二郎 斎藤五郎 | 二階堂顕行。 伊達行朝。 |
| 政所執事 | 山城左衛門大夫 | 二階堂顕行。 |
| 評定奉行 | 信濃入道 | 二階堂行朝。 |
| 寺社奉行 | 安威左衛門入道
薩摩掃部大夫入道 | |
| 安堵奉行 | 肥前法橋
飯尾左衛門二郎 | |
| 侍所 | 薩摩刑部左衛門入道 | 子息・五郎左衛門尉親宗が勤める。 |
建武2(1335)年6月3日、『陸奥国宣』によって重胤は行方郡奉行職を拝任し、同日付『陸奥国宣』によって「陸奥国伊具・亘理・宇多・行方郡、金原保」の検断職を武石上総権介胤顕とともに任命された。
こうして武石氏とともに陸奥国海道四郡の実権を握った重胤は同年7月3日、さっそく従弟の相馬孫次郎行胤に対して出された『陸奥国宣』(行方郡大悲山村安堵)に従い、『相馬重胤打渡状』を28日に発給している。行胤は重胤の従弟というだけではなく、行胤の嫡子・相馬五郎朝胤と重胤娘が結婚している関係から、大悲山相馬氏に対する重胤の信頼ぶりは群を抜いており、親胤の嫡男・松鶴丸(相馬胤頼)は朝胤と重胤娘の子という説もある。
●相馬重胤周辺系図
・相馬胤村―――+―師胤―――重胤――+―親胤――――松鶴丸(胤頼)
(五郎左衛門尉)|(彦次郎)(孫五郎)|(孫次郎)
| |
| +―光胤====松鶴丸(胤頼)
| |(弥次郎)
| |
| +―娘
| ∥―(?)―松鶴丸(胤頼)
+―通胤―――行胤――+―大久朝胤
(与一) (孫次郎)|(五郎)
|
+―鶴夜叉===松鶴丸(胤頼)
同じく7月、関東では北条時行(最後の得宗・北条高時の遺児)が信濃国諏訪で挙兵し、足利直義(尊氏弟)が守る鎌倉を攻め落とすという事件が起こった。この叛乱を「中先代の乱」という。このとき直義は、足利家を敵視して後醍醐天皇から更迭された大塔宮護良親王を預かっており、鎌倉陥落のどさくさに紛れて宮を暗殺し鎌倉から脱出した。一方、鎌倉危うしの報を受けた足利尊氏(後醍醐天皇の御諱”尊治”の一字を賜って、高氏を尊氏に改名)は、鎌倉の賊軍追討のために「征夷大将軍」の職を要求したものの、天皇は尊氏の幕府創設を恐れて許可しなかったことから、尊氏は勅許を得ずに独断で在京の武士を率いて鎌倉へ攻め下った。途中で三河国に勢力を持っていた吉良氏、今川氏など三河足利党、鎌倉から落ち延びてきた直義らを加えて8月、鎌倉を奪還することに成功した。
天皇は尊氏の功績を誉めて京都へ戻るように勅使を送るが、尊氏はこれを無視。独断で「奥州総大将」として若き十五歳の一門・尾張弥三郎家長(斯波家長)を奥州に派遣して陸奥国府に対抗させた。そして10月、朝廷は勅命を無視した尊氏を「逆賊」と定め、新田左衛門佐義貞を総大将とする尊氏討伐軍が鎌倉へ派遣された。しかし、尊氏は箱根竹之下において朝廷軍にいた佐々木道誉・塩谷高貞ら佐々木一族を内応させて朝廷軍を壊滅させ、その勢いのまま尊氏は京都へ攻め上った。この足利勢に嫡子・相馬孫次郎親胤が従っている。
そして、重胤もこの直後、奥州探題・斯波家長を亘理郡川名村に出迎え、新政府に反旗を翻した。後醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇・村上天皇の頃の中央集権制を目指し、武士に対しての扱いが等閑になっていて、諸国の武士の反発は日増しに強くなっていた。重胤もそんな考えを持っていたのかもしれない。
奥州では朝廷方の鎮守府将軍・北畠陸奥守顕家と足利方の奥州総大将・斯波家長が激しく対立していたが、北畠顕家は12月末、勅命によって上洛することとなり(新田義貞が箱根で足利尊氏に大敗したため)、結城上野前司宗広入道・伊達左近蔵人行朝らを率いて多賀鎮守府を出陣した。
顕家出陣の報を受けた斯波家長は、北畠顕家追撃の軍勢を集めたが、重胤は自分の討死を考えたのか、出陣の直前の11月20日、「次郎」「松犬」「大悲山五郎殿女房」の三人の子に譲状を発給した(『相馬重胤譲状』)。さらに一族の相馬五郎胤康・相馬七郎胤治の兄弟へも譲状を遺した(『相馬胤康譲状』・『相馬胤治譲状』)。もし足利方が不利と伝わってきても決して朝廷方につくことはせず、弓箭の名を重代に遺すように命じており、強い反朝廷の意志が感じられる。
●建武2(1335)年11月20日『相馬重胤譲状』の処分内容
| 人物 | 所領 | 詳細 | 除外分拝領 |
| 次郎(相馬親胤) | 陸奥国行方郡小高村
高村 目々沢村 堤谷村 小山田村 堰沢村 盤﨑村 下総国相馬郡増尾村 | 九郎左衛門尉の給分の田在家一軒(除外)
矢河原の後家尼の田在家一軒(除外) 彦三郎入道の居内の田在家一軒 (除外) たかの蔵人の後家尼の田在家一軒(除外) もんまの孫四郎の居内の田在家 (除外) さうきやう房か田在家(除外) ―――――――――――――――― とう三郎の田在家一軒(除外) ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― 釘野の田在家(除外) かくまさわの伊予房が屋敷田在家一軒(除外) 彦四郎の給分の田在家一軒 (除外) いやけんし入道か田在家一軒(除外) | →大悲山五郎殿女房
→弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →弟・相馬光胤 →※ |
| 松犬(相馬光胤) | 陸奥国行方郡耳谷村
村上浜 盤﨑村釘野内 高村 小高村 鳩原村 下総国相馬郡粟野村 薩間村 | ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― かくまさわの伊予房の屋敷田在家一軒 孫四郎の給分関根の屋敷田在家一軒 矢河原十郎後家尼の田在家一軒 彦三郎入道の居内の田在家一軒 ―――――――――――――――― ―――――――――――――――― 山ふしうちの田在家一軒(除外) | →※ |
| 大悲山五郎殿女房 | 陸奥国行方郡小高村 | 九郎左衛門給分田在家一軒 |
※…相馬(岡田)胤家が、嫡子・五郎胤重に宛てた『貞治2(1363)年8月18日・相馬胤家譲状』のうちに
・下総国薩間村内やまふし内の田在家一軒
・下総国増尾村のいやけし入道の田在家一宇
合わせて二宇が手継證文とともに譲り渡されたとある。同日付の譲状は合計四つ(下図参照)。
譲状一…譲る知行地すべて
譲状二…一の所領のうち、岡田相馬氏に代々伝えられてきた所領
譲状三…一の所領のうち、もともとは相馬本宗家の所領だったところ
譲状四…建武4(1337)年頃に安堵された「院内村三分一」について記されており、新給知行地。
これらは知行ルートの違いがあり、そのルートごと、手継證文ごとにまとめられて作られた譲状だったのだろう。「薩摩村」の「やまふし内の田在家」、「増尾村」の「いやけし入道田在家」については、重胤から親胤への譲状で除かれているため、おそらく建武2(1335)年11月の時点で相馬胤家(岡田氏祖)に譲られたのだろう。
●『相馬胤家譲状』の処分内容
| 譲状 | 所領 | 譲状の性質 |
| 『相馬胤家譲状』 一 | 陸奥国行方郡岡田村
八兎村 矢河原村 上鶴谷村 院内村 飯土江狩倉 高城保波多谷村 下総国相馬郡泉村 薩間村やまふし内の田在家一軒 増尾村いやけし入道の田在家一宇 | 譲渡の所領すべて |
| 『相馬胤家譲状』 二 | 陸奥国行方郡岡田村
八兎村 矢河原村 上鶴谷村 院内村 飯土江狩倉 高城保波多谷村 下総国相馬郡泉村上柳戸 金山 船戸 | 岡田相馬氏伝来分 |
| 『相馬胤家譲状』 三 | 下総国相馬郡薩間村やまふし内の田在家一軒
増尾村いやけし入道の田在家一宇 | 相馬惣領家伝来分 |
| 『相馬胤家譲状』 四 | 陸奥国行方郡院内村上下田在家 | 新給知行分 |
■相馬重胤討死
![]() |
| 増尾少林寺の重胤供養塔 |
重胤は次男・相馬弥次郎光胤・相馬五郎胤康(岡田祖)・相馬孫次郎行胤(大悲山祖)らを率い、奥州総大将・斯波家長に従って鎌倉へ向かい、顕家が鎌倉を発つとたちまち鎌倉を占領し、彼の再下向にそなえた。しかし、家長と重胤は奥州の足利勢力を維持するためか、小高城の留守として光胤ら相馬一族を小高に返す指示を出し、この際に行胤に渡された『相馬重胤定書』写しが遺されている。
建武3(1336)年正月13日、北畠顕家は比叡山麓坂本において新田義貞・楠木正成・千葉介貞胤らと合流し、16日、足利方が占領していた京都に攻め入った。戦いは足利方の惨敗に終わり、尊氏は摂津から播磨へ逃れ、九州へと落ちていった。しかし、逃れながらも中国・四国地方には赤松円心・細川定禅ら、足利方の諸将を配置していくという周到振りだった、九州へ向かったのは義弟・赤橋英時(九州探題)の勢力下であった九州御家人層を味方につける目的であった可能性がある。
京都を平定した北畠顕家は3月、義良親王を奉じてふたたび奥州に下向し、4月16日、鎌倉郊外の片瀬川において、斯波家長勢と北畠顕家勢は激戦を繰り広げた。この戦いで、斯波家長に属して戦った相馬勢だったが、相馬胤康や文間胤往らが討死を遂げている。重胤はからくも鎌倉まで逃れたが、北畠勢が鎌倉に乱入するに及び、逃れられないことを悟り、法華堂において自刃を遂げた。没年齢不詳。重胤の墓と伝えられる遺跡が千葉県柏市増尾の少林寺に遺されている。
■相馬重胤の奥州下向と結婚、親胤・光胤のこと
重胤の妻は三春庄の「田村三河前司宗猷」の娘(養女)で、重胤と結婚したのは重胤の奥州下向後と思われる。重胤の奥州下向は、嫡男・親胤(孫次郎)の活躍時期を考えると、重胤と彦犬(胤門娘)の相論の和與状が発給された嘉元元(1303)年12月から数年間あたりとも思われる。元弘3(1333)年7月17日の『後醍醐天皇綸旨』の別紙には、
「相馬孫五郎重胤妻、奥州三春前領主田村参河前司入道宗猷女子実藤原氏女父姓名未考知、父没後母嫁宗猷、故実父領知伊達、信夫、安達郡之内、于重胤賜之 綸旨如左」
とある。これは「別紙」であるため、当時のものかどうかは不明ながら、藤原氏女=重胤妻の母は夫の死後、田村入道宗猷に嫁したとされ、藤原氏女の実父は「伊達・信夫・安達郡」に所領を持っていた藤原氏を称する人物、つまり伊達氏の事と思われる。
建武3(1336)年3月3日の『相馬光胤着到状』には北畠顕家に備えるために小高城籠城に参じた相馬一族が記され、その中に「伊達与一高景」「伊達与三光義」の二名の伊達氏が記されている。彼らと光胤の母は親戚の可能性もあり、同じく「新田左馬亮経政」は、相馬義胤の娘・土用御前が「陸奥国行方郡千倉庄」を持参して嫁いだ「新田岩松時兼」の子孫であろう。観応2年11月26日『吉良貞家奉書』には「陸奥国行方郡千倉庄内闕所分 新田左馬助当知行分除之」とある。
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