
| 代数 | 名前 | 生没年 | 父親 | 母親 | 備考 |
| 初代 | 相馬師常 | 1143-1205 | 千葉介常胤 | 秩父重弘中娘 | 相馬家の祖 |
| 2代 | 相馬義胤 | ????-???? | 相馬師常 | ? | 畠山重忠討伐軍に加わる |
| 3代 | 相馬胤綱 | ????-???? | 相馬義胤 | ? | |
| ―― | 相馬胤継 | ????-???? | 相馬胤綱 | ? | 胤綱死後、継母に義絶される |
| 4代 | 相馬胤村 | ????-1270? | 相馬胤綱 | 天野政景娘 | 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる |
| 5代 | 相馬胤氏 | ????-???? | 相馬胤村 | ? | 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う |
| 6代 | 相馬師胤 | ????-???? | 相馬胤氏 | ? | 濫訴の罪で所領三分の一を収公 |
| ―― | 相馬師胤 | 1263?-1294? | 相馬胤村 | 尼阿蓮(出自不詳) | 幕府に惣領職を主張するも認められず |
| 7代 | 相馬重胤 | 1283?-1337 | 相馬師胤 | ? | 奥州相馬氏の祖 |
| 8代 | 相馬親胤 | ????-1358 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 足利尊氏に従って活躍 |
| ―― | 相馬光胤 | ????-1336 | 相馬重胤 | 田村宗猷娘 | 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死 |
| 9代 | 相馬胤頼 | 1324-1371 | 相馬親胤 | 三河入道道中娘 | 南朝の北畠顕信と戦う |
| 10代 | 相馬憲胤 | ????-1395 | 相馬胤頼 | ? | |
| 11代 | 相馬胤弘 | ????-???? | 相馬憲胤 | ? | |
| 12代 | 相馬重胤 | ????-???? | 相馬胤弘 | ? | |
| 13代 | 相馬高胤 | 1424-1492 | 相馬重胤 | ? | 標葉郡領主の標葉清隆と争う |
| 14代 | 相馬盛胤 | 1476-1521 | 相馬高胤 | ? | 標葉郡を手に入れる |
| 15代 | 相馬顕胤 | 1508-1549 | 相馬盛胤 | 西 胤信娘 | 伊達晴宗と領地を争う |
| 16代 | 相馬盛胤 | 1529-1601 | 相馬顕胤 | 伊達稙宗娘 | 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う |
| 17代 | 相馬義胤 | 1548-1635 | 相馬盛胤 | 掛田伊達義宗娘 | 伊達政宗と激戦を繰り広げる |
◎中村藩主◎
| 代数 | 名前 | 生没年 | 就任期間 | 官位 | 官職 | 父親 | 母親 |
| 初代 | 相馬利胤 | 1580-1625 | 1602-1625 | 従四位下 | 大膳大夫 | 相馬義胤 | 三分一所義景娘 |
| 2代 | 相馬義胤 | 1619-1651 | 1625-1651 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬利胤 | 徳川秀忠養女 |
| 3代 | 相馬忠胤 | 1637-1673 | 1652-1673 | 従五位下 | 長門守 | 土屋利直 | 中東大膳亮娘 |
| 4代 | 相馬貞胤 | 1659-1679 | 1673-1679 | 従五位下 | 出羽守 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 5代 | 相馬昌胤 | 1665-1701 | 1679-1701 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬忠胤 | 相馬義胤娘 |
| 6代 | 相馬叙胤 | 1677-1711 | 1701-1709 | 従五位下 | 長門守 | 佐竹義処 | 松平直政娘 |
| 7代 | 相馬尊胤 | 1697-1772 | 1709-1765 | 従五位下 | 弾正少弼 | 相馬昌胤 | 本多康慶娘 |
| ―― | 相馬徳胤 | 1702-1752 | ―――― | 従五位下 | 因幡守 | 相馬叙胤 | 相馬昌胤娘 |
| 8代 | 相馬恕胤 | 1734-1791 | 1765-1783 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬徳胤 | 浅野吉長娘 |
| ―― | 相馬齋胤 | 1762-1785 | ―――― | ―――― | ―――― | 相馬恕胤 | 青山幸秀娘 |
| 9代 | 相馬祥胤 | 1765-1816 | 1783-1801 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬恕胤 | 月巣院殿 |
| 10代 | 相馬樹胤 | 1781-1839 | 1801-1813 | 従五位下 | 豊前守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 11代 | 相馬益胤 | 1796-1845 | 1813-1835 | 従五位下 | 長門守 | 相馬祥胤 | 松平忠告娘 |
| 12代 | 相馬充胤 | 1819-1887 | 1835-1865 | 従五位下 | 大膳亮 | 相馬益胤 | 松平頼慎娘 |
| 13代 | 相馬誠胤 | 1852-1892 | 1865-1871 | 従五位下 | 因幡守 | 相馬充胤 | 千代 |
■二代惣領■
(????-????)
| <正室> | 不明 |
| <通称> | 相馬五郎 |
| <名前> | 能胤 |
| <父> | 相馬次郎師常 |
| <母> | ―――――― |
| <官位> | ―――――― |
| <官職> | 兵衛尉 |
| <役職> | 相馬御厨地頭職・越後国(蒲原庄)守護代、大和国宇野庄地頭職 |
| <法号> | ―――――― |
●相馬義胤事歴●
父は相馬次郎師常。母は不明。千葉介常胤の孫にあたる。通称は五郎。官職は兵衛尉。譲状や下文など公的な書状には「能胤」と署名がなされており、「能胤」が実名かも。
元久2(1205)年正月1日の新年の儀に、従兄弟の東平太重胤とともに出席しているが、これが義胤の初見で、同年11月15日に父・師常が没していることから、これ以前に家督を継承していたと考えられる。父・師常の最後の奉公として名が見えるのが、建久6(1195)年5月20日の頼朝の上洛供奉にともなう天王寺参詣で、師常はこののち出家して法然(浄土宗開祖)の弟子となった。師常の出家の時期は不明だが、建久10(1199)年正月の頼朝の落馬が原因の事故死の頃、または建仁元(1201)年3月の、千葉介常胤の病死に関係があるのかもしれない。この元久2(1205)年の初見を最初に、義胤の活動がはじまる。
元久2(1205)年6月22日、北条時政・牧ノ方(時政後妻)が畠山次郎重忠を討つため兵を挙げた。「畠山重忠の乱」と呼ばれるが、これは牧ノ方の娘婿・平賀武蔵守朝雅と重忠の子・畠山六郎重保の対立が激化し、牧ノ方は時政を篭絡して、朝雅の知行国・武蔵国に強大な力を持っていた畠山重忠を討ち、秩父一党の勢力を殺ぐ目的もあったと思われる。6月22日、鎌倉由比ヶ浜で畠山六郎重保が北条時政の命を受けた三浦介義村によってだまし討ちにあい、重忠も武蔵国二俣川(横浜市旭区二俣川)で謀反の罪を突きつけられ、北条相模守義時率いる幕府正規軍と合戦。親友・愛甲三郎季隆の矢に倒れた。
義胤はこの合戦に出陣しているが、千葉一族は頼朝の挙兵以来、幕府軍の後陣を勤める慣例があり、このときも叔父の大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、従兄弟の堺平次兵衛尉常秀、東平太重胤とともに後陣を固めた。幕府軍総大将の北条相模守義時は重忠とは親友同士であり、この戦いののち重忠の無実を主張して父・時政と牧ノ方を鎌倉から追放してしまった。
◆畠山・相馬氏系図◆
千葉介常胤 +―千葉介胤正―+―千葉介成胤
(千葉介) |(千葉介) |(千葉介)
∥ | |
∥ | +―堺常秀
∥ | (平次兵衛尉)
∥ |
∥―――+―相馬師常――――相馬義胤
秩父重弘―+―娘 |(次郎) (五郎)
| |
| +―大須賀胤信
| |(四郎)
| |
| +―国分胤通
| |(五郎)
| |
| +―東胤頼―――――東重胤
| (六郎太夫) (平太)
|
+―畠山重能――畠山重忠――――畠山重保
(畠山庄司)(畠山庄司) (六郎)
重忠が討たれ、その首が陣頭へ届けられると、親友を討ってしまった義時は「悲涙禁じ難」かったことが伝えられている。義時は鎌倉へ戻ると時政のもとを訪れ戦況を報告した。このとき時政の質問に対して、
「重忠が弟親類は大略もって他所にあり。戦場に相従ふ者、わづかに百余輩也。しかれば謀叛を企つる事、すでに虚誕たり。もしは讒訴によって誅戮に逢へるか。甚だ以て不便。首を斬りて陣頭に持ち来る。これを見るに年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたしと云々。」
と伝えたことが『吾妻鏡』に伝えられている。義胤はこの時の功績によって陸奥国高城保地頭職を認められた。
○畠山重忠追討軍
大将軍:北条相模守義時・北条式部丞時房・和田左衛門尉義盛
先 陣:葛西兵衛尉清重
後 陣:境平次兵衛尉常秀、大須賀四郎胤信、国分五郎胤通、相馬五郎義胤、東平太重胤
諸 将:足利三郎義氏、小山左衛門尉朝政、三浦兵衛尉義村、三浦九郎胤義、長沼五郎宗政、結城七郎朝光、
宇都宮弥三郎頼綱、八田筑後左衛門尉知重、安達藤九郎右衛門尉景盛、中条藤右衛門尉家長、
中条苅田平右衛門尉義季、狩野介入道、宇佐美右衛門尉祐茂、波多野小次郎忠綱、松田次郎有経、
土屋弥三郎宗光、河越次郎重時、河越三郎重員、江戸太郎忠重、渋川武者所、小野寺太郎秀通、
下河辺庄司行平、薗田七郎、大井兵衛次郎実春、品川三郎清実、春日部、潮田、鹿島、小栗、行方、
兒玉、横山、金子、村山党
承久3(1221)年の「承久の乱」では北条泰時の軍勢に従い、子の胤綱・胤継とともに宇治川の戦いで功績をたて、さらに近江国瀬田橋の戦いでも軍功があったと伝わる(『相馬之系図』)。しかし、実際には胤綱と胤継は兄弟ではなく父子であり、この時期に義胤に戦功を挙げるほどの年齢の孫があったとは考えにくく、承久の乱で討たれた「相馬三郎・太郎・次郎」と錯綜しているのかもしれない。『千葉大系図』によれば「胤綱」が承久の乱で活躍したことが記されており、実際は義胤・胤綱父子がこの乱で活躍したと思われる。
「相馬小次郎」は承久の乱の功績で「八幡宮御領・炬口庄(淡路国炬口庄)」の新地頭となっている(『淡路国大田文』)。貞応2(1223)年4月までに石清水八幡宮の訴えによって八幡宮が炬口庄地頭職の任命権を持つことになったため、相馬小次郎は地頭職を解任させられたと思われるが、この「相馬小次郎」は義胤の嫡子・胤綱と考えられる。
また、元仁2(1225)年2月11日の越後国蒲原庄の港湾使用税についての『関東下知状』の中に「前守護代相馬五郎」とあることから、越後国蒲原庄守護代であったと考えられる。時代は下って越後上杉家に仕えた相馬家があった。この家は「越後御譜代」の家柄であり、代々越後にあったことが推測される。また、諱にも「胤」字を用いており、越後と相馬家はこののちも関わりがあった可能性がある。
余談だが、このころの越後守護は名越遠江守朝時(北条義時の三男)である。彼は北陸道諸国守護であったが、建暦2(1212)年に女性問題を起こして将軍・源実朝の勘気に触れて罷免され駿河国富士郡に蟄居した。その翌年、和田義盛の不穏の動きのために鎌倉に呼び戻され、義盛の乱が起こると、義盛の子・朝比奈義秀と戦って賞賛され、幕府に出仕を許された。承久3(1221)年の「承久の乱」では北陸道大将軍として上洛。貞応2(1223)年あたりから越後守護職に就任。嘉禄元(1225)年9月17日に越後守に任じられ、嘉禎2(1236)年7月20日、遠江守となるまで在職していたと思われる。朝時の子孫は鎌倉名越に館があったことから「名越氏」を称した。
●名越北条氏周辺略系図(■:越後守護職)
+―北条時房―――――娘
|(修理大夫) ∥―――――教時
| ∥ (遠江守)
・北条時政―+―北条義時 +――名越朝時
(遠江守) (陸奥守) | (遠江守)
∥ | ∥―――+―江馬光時―時親
∥―――+ 大友能直娘 |(越後守)(右馬助)
∥ |(豊前守) |
・比企朝宗――――娘 | +―時章―――公時―――時家
(内舎人) | (尾張守)(尾張守)(美作守)
|
+――極楽寺重時
(陸奥守)
∥―――――赤橋長時―義宗―――久時――+―守時
平時親卿娘 (武蔵守)(駿河守)(越後守)|(相模守)
|
+―登子
(足利尊氏正妻)
安貞2(1228)年7月23日、四代将軍・藤原頼経が三浦義村別邸へ渡御した際には、千葉一族も供奉。義胤は頼経の駕籠の後ろに「東六郎」とともに従った。この「東六郎」がいかなる人物かは不明だが、叔父の「東六郎太夫胤頼」はすでに出家して「千葉六郎太夫入道法阿」と号して京都にあり、三ヶ月後に七十三歳で没したと伝わっている。嘉禎元(1235)年正月26日条には「東六郎行胤」が見える。「六郎」「行胤」を当時の東一族で探してみると、胤頼の次男・木内下総前司胤朝の子「六郎氏胤」「余一行胤」や海上弥次郎胤方の子「船木六郎行胤」がみえるが、「東六郎行胤」は、おそらく船木六郎行胤のことであろう。
嘉禄3(1227)年9月12日付『高野山福智院文書』によれば、大和国宇智郡の「宇野庄」は福智院の古くからの所領であったが、幕府が「始被補地頭」したため「為大愁」であり、その上、地頭職が「相馬五郎之時」に幕府より「円叡(当時の福智院主か?)并栄成入道之妨」を停止すべしという関東下知状が下され、所領は召し放たれた。その後、「木内次郎之代官山河太郎」が宇野庄に入部し、さまざまな狼藉を行ったという。ここに見える「相馬五郎」とは義胤のことと思われ、義胤は大和国宇野庄の地頭職も務めていたことがうかがえる。また、その後の「木内次郎」とは、義胤の従兄弟にあたる木内次郎胤朝のことか。
○東氏系譜
・千葉介常胤―+―相馬次郎師常――――相馬五郎重胤―――+―相馬左衛門尉胤綱
| |
| +―土用王御前
| ∥
| 岩松遠江守時兼
|
+―東六郎太夫胤頼―+―東平太兵衛尉重胤―+―東中務丞胤行(東素暹)
| |
| +―海上弥次郎胤方―――船木六郎行胤
|
+―木内次郎胤朝―――+―虫幡六郎氏胤
|
+―中須賀余一行胤
同年12月、義胤は娘「とよこせん(土用御前)」に対する譲状(『相馬能胤譲状写』)を発給している。泰時が定めた「貞永式目」によって女子も男子とかわりなく所領を継承されることが認められ、土用御前は行方郡内千倉庄加比草野萱、相馬御厨内手賀、布瀬、藤心、野毛崎を継承し、貞永元(1232)年11月13日発給の『将軍家政所下文』によって、正式に認められた所領は、彼女が新田岩松時兼に嫁ぐ際も彼女の所領として持たされ、嫡子・岩松遠江太郎経兼に譲られた所領以外の一部が、妹の「とち御前(尼真如)」へ継承された。そして、とち御前(尼真如)は、弘安5(1282)年11月12日、「ふち心の郷、■■かうハんふん、東方やなとのむらハんふん(藤心郷、手賀?郷半分、東方柳戸村半分)」を一人娘の「とよわう御せん(土用王御前)」に譲り渡した。
土用王御前には子どもがなく、建武元(1334)年12月21日、従兄弟の岩松下野太郎政経の孫「土用王(岩松直国)」を養子とし、相馬郡の内から「みなみさうまのうちふちこヽろかう、おなしきてかハんふんひんかしかたいひむら、ふせのむら」を譲った。
得川頼有――――――娘
∥
⇒相馬義胤―土用御前 ∥――――岩松政経――――岩松経家――岩松直国
(五郎) ∥ ∥ (下野太郎) (兵部大輔)(土用王)
∥―――+―岩松経兼
∥ |(遠江太郎)
足利義純――岩松時兼 |
(太郎) (遠江守) +―とち御前
(尼真如)
∥
∥―――――土用王御前===直国
∥ (尼妙蓮) (土用王)
藤原某
翌安貞2(1228)年8月23日、「相馬五郎殿(義胤)」に対して相馬御厨の伊勢神宮に対する奉納についての『関東御教書』が下されている。
義胤の没年については伝わっていないが、貞永元(1232)年11月13日発給の『将軍家政所下文』では、「父能胤」とあって、まだ没していないことがうかがわれるが、これ以降の義胤の活動は諸書にも見られず、嘉禎2(1236)年8月4日の将軍・藤原頼経の北条泰時邸渡御の際には嫡男・「相馬左衛門尉(胤綱)」が供奉していることから、義胤は隠居したか没していたと思われる。没年齢、法名等不明。
○相馬義胤より諸子たちに継承された所領の一覧(簡略版)
| 下総国相馬郡 | ||||||||
| 手賀郷 | 土用御前 | とち御前 | 土用王御前 | 岩松直国 | ||||
| 藤心郷 | 土用御前 | とち御前 | 土用王御前 | 岩松直国 | 相馬胤康 | 山名氏 | ||
| 手賀郷柳戸村 | 土用御前 | とち御前 | 土用王御前 | 岩松直国 | 相馬胤康 | |||
| 手賀郷布瀬村 | 土用御前 | とち御前 | 土用王御前 | 岩松直国 | 相馬胤康 | 二階堂山城 | ||
| 箕輪村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 尼阿蓮(胤村妻) | ||||
| 六崎村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 尼阿蓮(胤村妻) | ||||
| 野毛崎村 | 土用御前 | 岩松経兼 | 岩松政経 | 岩松経家 | 岩松直国 | |||
| 黒崎郷下黒崎村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津貞久 | |||
| 発戸村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津貞久 | |||
| 稲村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津貞久 | |||
| 文間郷押手村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津時久 | |||
| 府川村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津貞久 | |||
| 甲斐御坊村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 妙智(島津氏妻) | 島津忠宗 | 島津貞久 | |||
| 横須賀村? | 相馬胤綱 | 足助尼(胤綱長女) | 安達泰盛か? | 北条貞時? | 足利尊氏 | 足利義詮 | 足利氏満 | |
| 戸頭村 | 相馬胤綱 | 胤綱女(摂津氏妻) | 娘(摂津親致妻) | 摂津親鑑 | 摂津親秀 | 足利尊氏 | 大中臣長房 | |
| 佐津間村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | |||
| 粟野村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 相馬光胤 | ||
| 増尾村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 尼阿蓮(胤村妻) | 相馬師胤 駒夜叉 相馬胤実 相馬胤門 |
相馬重胤 ×(争論) 相馬胤実 |
||
| 泉村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 妙悟(胤顕妻) | 相馬胤盛 相馬胤兼 |
専照(胤盛妻) | 相馬胤康 |
| 陸奥国行方郡 | ||||||||
| 千倉庄加比草野萱 | 土用御前 | 岩松経兼 | 岩松政経 | 相馬親胤 | ||||
| 耳谷村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 相馬光胤 | ||
| 小高村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 尼阿蓮(胤村妻) | 相馬師胤 | 相馬重胤 ×(争論) 相馬胤実 |
相馬親胤 相馬光胤 |
|
| 高村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤門 | 相馬重胤 ×(争論) 相馬胤氏 |
相馬親胤 | ||
| 萩迫村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤門 | 相馬重胤 | |||
| 村上浜 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | |||
| 盤崎村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 尼阿蓮(胤村妻) | 相馬胤門 | 胤門後家 | 相馬重胤 | 相馬親胤 相馬光胤 |
| 鳩原村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤門 | 胤門後家 | 相馬重胤 | 相馬親胤 | |
| 目々澤村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 相馬親胤 | ||
| 堤谷村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 相馬親胤 | ||
| 大悲山村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 相馬行胤 | ||
| 岡田村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬師胤 | 相馬重胤 | 行胤妻 | ||
| 小山田村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤門 | 相馬重胤 | 相馬親胤 | ||
| 院内村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 妙悟(胤顕妻) | 相馬胤盛 相馬宗胤 |
||
| 大三賀村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 相馬胤盛 | |||
| 八兎 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 相馬胤盛 妙悟(胤顕妻) |
専照(胤盛妻) | 相馬胤康 | |
| 飯土江狩倉 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 妙悟(胤顕妻) | 相馬胤盛 | 専照(胤盛妻) | 相馬胤康 |
| 矢河原狩倉 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 妙悟(胤顕妻) | 相馬胤盛 | ||
| 長田村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 相馬胤盛 | |||
| 岡田村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 妙悟(胤顕妻) | 相馬胤盛 | 専照(胤盛妻) | 相馬胤康 |
| 大内村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤実 | ||||
| 陸奥国黒川郡 | ||||||||
| 新田村 | 相馬胤康 | |||||||
| 陸奥国宮城郡 | ||||||||
| 高城保波多谷村 | 相馬胤綱 | 相馬尼(胤綱妻) | 相馬胤村 | 相馬胤顕 | 相馬胤盛 | 専照(胤盛妻) | 相馬胤康 | |
| 赤沼 | ? | ? | 相馬胤村 | 相馬胤氏 | ||||
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●貞応2(1223)年4月某日『淡路国大田文』(『皆川文書』:柏市史所収)
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●元仁2(1225)年2月11日『関東下知状』(『後藤文書』:柏市史所収)
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