相馬氏惣領 相馬師常

相馬氏

相馬氏惣領


代数 名前 生没年 父親 母親 備考
初代 相馬師常 1143-1205 千葉介常胤 秩父重弘中娘 相馬家の祖
2代 相馬義胤 ????-???? 相馬師常 畠山重忠討伐軍に加わる
3代 相馬胤綱 ????-???? 相馬義胤  
―― 相馬胤継 ????-???? 相馬胤綱 胤綱死後、継母に義絶される
4代 相馬胤村 ????-1270? 相馬胤綱 天野政景娘 死後、後妻・阿蓮が惣領代となる
5代 相馬胤氏 ????-???? 相馬胤村 胤村嫡子で異母弟師胤、継母尼阿蓮と争う
6代 相馬師胤 ????-???? 相馬胤氏 濫訴の罪で所領三分の一を収公
 ―― 相馬師胤 1263?-1294? 相馬胤村 尼阿蓮(出自不詳) 幕府に惣領職を主張するも認められず
 7代 相馬重胤 1283?-1337 相馬師胤 奥州相馬氏の祖
 8代 相馬親胤 ????-1358 相馬重胤 田村宗猷娘 足利尊氏に従って活躍
―― 相馬光胤 ????-1336 相馬重胤 田村宗猷娘 「惣領代」として胤頼を補佐し戦死
9代 相馬胤頼 1324-1371 相馬親胤 三河入道道中娘 南朝の北畠顕信と戦う
10代 相馬憲胤 ????-1395 相馬胤頼  
11代 相馬胤弘 ????-???? 相馬憲胤  
12代 相馬重胤 ????-???? 相馬胤弘  
13代 相馬高胤 1424-1492 相馬重胤 標葉郡領主の標葉清隆と争う
14代 相馬盛胤 1476-1521 相馬高胤 標葉郡を手に入れる
15代 相馬顕胤 1508-1549 相馬盛胤 西 胤信娘 伊達晴宗と領地を争う
16代 相馬盛胤 1529-1601 相馬顕胤 伊達稙宗娘 伊達輝宗と伊具郡をめぐって争う
17代 相馬義胤 1548-1635 相馬盛胤 掛田伊達義宗娘 伊達政宗と激戦を繰り広げる

◎中村藩主◎

代数 名前 生没年 就任期間 官位 官職 父親 母親
初代 相馬利胤 1580-1625 1602-1625 従四位下 大膳大夫 相馬義胤 三分一所義景娘
2代 相馬義胤 1619-1651 1625-1651 従五位下 大膳亮 相馬利胤 徳川秀忠養女
3代 相馬忠胤 1637-1673 1652-1673 従五位下 長門守 土屋利直 中東大膳亮娘
4代 相馬貞胤 1659-1679 1673-1679 従五位下 出羽守 相馬忠胤 相馬義胤娘
5代 相馬昌胤 1665-1701 1679-1701 従五位下 弾正少弼 相馬忠胤 相馬義胤娘
6代 相馬叙胤 1677-1711 1701-1709 従五位下 長門守 佐竹義処 松平直政娘
7代 相馬尊胤 1697-1772 1709-1765 従五位下 弾正少弼 相馬昌胤 本多康慶娘
―― 相馬徳胤 1702-1752 ―――― 従五位下 因幡守 相馬叙胤 相馬昌胤娘
8代 相馬恕胤 1734-1791 1765-1783 従五位下 因幡守 相馬徳胤 浅野吉長娘
―― 相馬齋胤 1762-1785 ―――― ―――― ―――― 相馬恕胤 青山幸秀娘
9代 相馬祥胤 1765-1816 1783-1801 従五位下 因幡守 相馬恕胤 月巣院殿
10代 相馬樹胤 1781-1839 1801-1813 従五位下 豊前守 相馬祥胤 松平忠告娘
11代 相馬益胤 1796-1845 1813-1835 従五位下 長門守 相馬祥胤 松平忠告娘
12代 相馬充胤 1819-1887 1835-1865 従五位下 大膳亮 相馬益胤 松平頼慎娘
13代 相馬誠胤 1852-1892 1865-1871 従五位下 因幡守 相馬充胤 千代

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■初代当主■

相馬師常 相馬氏初代 (1143-1205)

<正室> 不明
<通称> 千葉次郎→相馬次郎(千葉次郎も併称)
<名前> 師胤(『吾妻鏡』数箇所)・胤常(『浅羽本系図』)・胤師(『内閣文庫系図』)
<義父> 相馬中務大輔師国←平将門の子孫というが実在は疑わしい。
<父> 千葉介常胤
<母> 秩父重弘中娘(円壽院善通理體大禅浄尼)
<官位> ――――
<官職> 左衛門尉
<領主> 相馬御厨地頭職
<法号> 常心

●相馬師常事歴●

 千葉介常胤の次男。通称は次郎。母は秩父重弘中娘。「師常」の読みは「もろつね」「かつつね」「のりつね」「みつつね」など。官位・官職は不明だが、弟・武石三郎胤盛多部田四郎胤信国分五郎胤通はいずれも「左衛門尉」に任官していることから「左衛門尉」に任官していたと思われる。

 師常の前名については「師常」の他に「師胤」(『吾妻鏡』数箇所)「胤常」(『浅羽本系図』)、「胤師(『内閣文庫系図』)などが伝わっているが、いずれも裏付のある名ではない。他の兄弟たちの名が「胤正、胤盛、胤信、胤通、胤頼」と「胤」字がいずれも諱の前字であることから、『吾妻鏡』の「師胤」は単なる誤記と思われる。『浅羽本系図』に見える「胤常」についても父・「常胤」の諱を逆転させただけである上、師常の「常」は相馬郡を継承(または非公認で入部)したことによって名乗った一字と思われるため、これも誤伝か。仮にもし師常に前名があったとすれば「胤師(たねのり・たねかず・たねみつ?)」が妥当か。

■相馬御厨寄進騒動

手賀沼
相馬御厨南端の手下水海(手賀沼)
 師常がいつごろ相馬郡に入部したのかは不明だが、平安時代末期、相馬郡内の相馬御厨は権力闘争の渦に巻き込まれていた。騒動は師常の父・千葉介常胤がその父・常重から相馬御厨(相馬郡布施郷)の「地主職」を継承した翌年の保延2(1136)年7月15日までさかのぼる。

 当時の下総守藤原親通は、「公田(相馬郡に限ったものではないだろう)」からの税が国庫に納入されなかったという理由で、下総権介常重を召籠に処した。こののち、常重(または常胤)が「経旬月之後」に准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸を勘負したが、これでは未進分にはとても足りなかったと思われ、親通は11月13日、庁目代の紀朝臣季経に命じて常重から相馬郷・立花郷の「両所私領弁進之由」の新券の押書に署判を責め取り、二郷を私領化した。公田からの税未進が常重の責任となるということは、彼は親通以前の遙任国司在任中も下総権介という任用国司ということもあり、徴税等の現地責任者でもあったのだろう。しかし、親通は下総守となるにおよんで調査を行った結果、未進分が発覚したのだろう。

 その後、下総権介となったと推定されるのが、常胤の叔父に当たる海上常衡である。彼は、親通が常重から官物未進の代償として責め取った相馬郷・立花郷のうち、返されなかった立花郷に隣接する海上郷を領有しており、こうした関係から常衡は常重流平氏の対抗馬として親通流藤原氏に担がれた可能性もある。常衡はその地理的条件の中、内海(香取海)を通じて隣り合う常陸大掾家とも縁戚関係にあったと推測され、「常衡」や「常幹」の片諱である「衡」「幹」の字もそれをうかがわせる。上流貴族とはいえない親通流藤原氏は、国司の肩書のもと、地方の有力豪族と関係を深め、大国下総国内に地盤を築こうとしていた様子が垣間見える(親通の孫・藤原親正は皇嘉門院判官代となり立花庄に隣接する皇嘉門院領千田庄を支配した)。

 そして、この紛争に介入してきたのが、上総国にいた上総曹司源義朝(源頼朝の父)だった。彼は上総権介常澄のもとで庇護、養育されていた二十一歳の若者である。常澄はかつて常重へ相馬郡を譲った平常晴の実子であり、相馬郡を取り戻そうと画策したのだろう。また、義朝も坂東に独自の勢力を拡大しようとしており、康治2(1143)年には常澄の「浮言」を利用して、常重から相馬郷の避文を無理やり書かせて責め取った(ただし、のちに圧状と認定されて否定されることとなる)。ただ、常重はすでに親通に相馬郷の新券を押書しているにもかかわらず、義朝へも圧状とはいえ相馬郷を避り渡す文書を渡せた理由は不明。

烏森神社(鵠沼神明社)
大庭御厨の鵠沼神明社)

 翌天養元(1144)年9月には、義朝はすでに房総を離れて相模国鎌倉郡に移っており、相馬郡と同様、神宮領の大庭御厨に相模国在庁清原安行のほか、三浦庄司義継・義明父子中村宗平らとともに大庭御厨下司職・平景宗の館に押し入って、官物・財物を奪い取るという濫妨を働く。景宗はこの濫妨を神宮に訴え、朝廷は義朝に対して濫妨停止および犯人の逮捕の宣旨を出している。

 その翌年の天養2(1145)年3月11日、義朝は「管相馬郡」の「相伝領知」を伊勢皇太神宮に寄進することとなる。この土地は常重が寄進した布施郷と同一と思われる地域のため、義朝が常重から押し取った圧状に記されていた私領は布施郷だろう。「重又令進別寄文」(永暦2(1161)年2月27日『下総権介平朝臣常胤解案』)「重寄進了」(永万2(1166)年6月18日『荒木田明盛請文写』)など、常重と義朝による二重寄進の実態がうかがえる。

 しかし「自神宮御勘発候之日、永可為太神宮御厨之由、被令進避文候畢者」とあるように、義朝は神宮から譴責を受け、同年中に「避状」を奉って一切の権利を放棄した。つまり、一説に言われているような、義朝が御厨下司職となった事実は存在せず、もちろん上総氏系の代官(相馬九郎常清)が置かれた事実もないだろう。なお、平治2(1160)年、義朝が「平治の乱」で追捕され、相馬郷が義朝の領知として国衙に没収されたのち、常胤が相馬郷は義朝の領知ではない旨を国司源有通に訴え出た際、有通も「雖然非彼朝臣所知之由、証文顕然候之上」としていることから、常胤が有通に提出した証拠書類の中に義朝の避状に関する何らかの書類も含まれていたのかもしれない。

 義朝が避状を提示したのち、常胤「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国衙に納めたことから、久安2(1146)年4月、下総守(藤原親方?)は相馬郷の券文を常胤に返還し、国判を以て常胤を相馬郡司職に任じた。ただし、このとき立花郷の返還は認められず、支配権が戻るのは約四十年ののちのことになる。返還されなかったのは、親通流藤原氏が領家判官代を務めることとなる千田庄(この時点で皇太后宮領だったかは不明)や、匝瑳北条庄に隣接する地域であって、常胤に返還されなかったのは、親通流藤原氏の地縁的理由が考えられる。

伊勢内宮
伊勢内宮
 8月10日、常胤は相馬郷については「且被裁免畢」として、改めて皇太神宮(内宮)に寄進し、「親父常重契状」の通り領主の荒木田正富(荒木田延明の仮名)に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝され、「預所職」「本宮御牒使清尚」の子孫に相承されるべきことの新券を奉じた。この時点で常胤は御厨下司正六位上」を称している。

 しかし、この寄進は「平治の乱」ののちの騒動で、再び否定されてしまうことになる。

 平治元(1159)年12月、名門公家の藤原信頼が後白河院の側近で権勢を誇った入道信西を追討したことが発端となって起こった「平治の乱」は、その後、後白河院や天皇を自邸に保護した平清盛一統が主導権を握り、入道信西を討った藤原信頼とその麾下の源義朝らを追討。信頼や義朝は敗北を喫することとなる。この結果、信頼や義朝は「謀叛人」とされ、信頼は降伏して斬首、義朝は東国に逃れる途中に、家人の長田庄司忠致尾張国内海で殺害されるという結末を迎える。

 乱後、義朝の所領はすべて収公された。相馬郷も義朝の所領の一つとみなされ、没収されてしまうこととなるが、永暦元(1160)年秋、「守殿」は、相馬郡について「非彼朝臣所知之由、証文顕然候之上、如本可被放免立券候之旨」を告げ、在庁に実地調査を命じた。これは常胤が訴え出たことによる成果と思われる。当時の下総守源有通(三条源氏)は常胤の言い分を認めたことになるが、永暦2(1161)年初頭頃になっても音沙汰がなかったことから、常胤は千葉庄(千葉市)から下総国府(市川市国府台)に参上し、国吏に子細を尋ねたが、「国吏裁定不早候之歟」という状況だったことから、常胤はらちがあかないと判断し、中央の「権門」に訴え出たところ、「右大臣殿」より計らい沙汰すべき旨の指示が「祭主殿」に出された。当時の右大臣は藤原公能、当時の伊勢祭主は正月までは大中臣親章、その後は大中臣為仲、大中臣師親と相次いで変わっている。

■伊勢祭主(『祭主補任』:「神道大系」)

祭主名 最終官途 在任 備考
大中臣朝臣親章 従三位 保元2(1157)年8月13日〜永暦2(1161)年正月25日(薨去 五十七歳)
大中臣朝臣為仲 正四位下 永暦2(1161)年正月30日〜同年9月19日停任 元待賢門院侍
大中臣朝臣師親 正四位上 永暦2(1161)年9月19日〜永万元(1165)年5月4日停任

伊勢外宮
伊勢外宮
 この「国吏裁定」が遅れた理由は記載されていないが、音沙汰が無かったまさにその時期と重なる永暦2(1161)年正月某日、「正六位上前左兵衛少尉源義宗」がにわかに相馬郷(布施郷と同意か)の領有を主張して伊勢内外二宮に寄進(源義宗の寄進)した。国吏裁定が遅れたのは、この源義宗による突然の寄進で国衙での確認事務が発生したためかもしれない。しかし、常胤はこうした義宗の寄進の事実を知らなかったとみられ、2月27日の解でも義宗の寄進について何ら触れられていない。

 源義宗が相馬郷を領有した正当性は、保延2(1136)年、下総守藤原親通が常重から「官物負累」を理由に責め取った相馬郷が親通から次男・親盛へ譲り渡され、さらに「匝瑳北条之由緒」により義宗「当御厨公験」が譲り渡されたとしたことにある。「匝瑳北条」とは下総守の藤原氏のこととすれば、その血縁であったことを意味するものか。義宗がいつ親盛から相馬郷を譲り受けたかは定かではないが、義宗の突然の相馬郷領有権の主張は、親盛の背景にあって強力な軍事警察権を確立しつつあった平清盛・重盛との血縁関係のほかに、永暦元(1160)年の源義朝の死も無関係ではないと思われる。ただ、源義宗と藤原親盛の間にどのような関係(血縁関係含め)があったのかは、系譜や文書上で知ることはできない。

相馬郷と立花郷
相馬御厨・立花郷の位置

 義宗の寄進状には「平常澄、常胤等」「大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎党等」であり、「凡不可在王土者也」としており、相馬郡司である常胤を謀反人である義朝の年来郎党として、彼らも謀反人の一味であることを強調。また、自分は藤原親盛から譲状を得ていると、自分の正当性を強調している。また、寄進先については「元一宮御領」皇太神宮(内宮)と豊受太神宮(外宮)の二宮に改めるというもので口入神主も内宮禰宜俊定・外宮禰宜彦章とした。

 しかし、この義宗の寄進状が提出されたのちも、しばらく棚上げされたようで、これは右大臣から伊勢祭主へ指示した調査による影響かもしれない。2月27日、これまでの内宮一宮への寄進から皇太神宮(内宮)と豊受太神宮(外宮)の二宮に改める旨の解状を神宮庁に提出。結局、常胤の相馬郷の領有権に関する訴えは認められ、「件相馬御厨、任申請旨、為二宮御領」として供祭上分を納めるべき旨の文書に判が捺され、常胤による再寄進が完了した。

 しかしこの直後、正月に義宗が提出した寄進状について、再度勘案されたのか、伊勢庁は「抑件御厨依下総権介平常胤寄文、近日雖成与二宮庁判、如今寄文者、理致分明之上、不知子細之旨常胤誓言状具也者、毀先判改与判如件」として、「近日」に「下総権介平常胤」に与えた二宮庁判を捺した先券を破棄し、義宗に改めて与えることを決定する。この常胤の寄進状が覆された事件はおそらく3月初旬〜中旬初めの出来事と思われる。これにおいて、常胤は相馬御厨の権利を失ってしまうこととなる。どういった理由によって常胤寄進状が破棄されたかはわからないが、判が捺されてわずか数日のうちに覆っており、政治的な圧力があった可能性が強い。藤原親盛の子の藤原親正(皇嘉門院判官代)は国家的な軍事警察権を握った平清盛の義弟(平忠盛女婿)であり、親正・義宗ともに在京していたと思われるため、迅速な対応をしたのかもしれない。

五十鈴川
伊勢内宮を流れる五十鈴川
 この判が破棄された報告を受けた常胤は、4月1日、伊勢の「稲木大夫殿(荒木田明盛)」に宛てて、相馬郡の成り立ちから領有の経緯、寄進の経緯などこれまでの経緯を説明。右大臣から伊勢祭主への指示があった旨も記載し、伊勢祭主より「若令尋申給事候者、得其御情、可然之様可御沙汰候也」と懇願しているが、どうやらこの願いは実らなかったようで、長寛元(1163)年、宣旨によって相馬御厨は「源義宗沙汰」と決定され、常胤は政治的は敗北を喫することとなる。しかし、常胤は相馬御厨の権利は失ったものの、相馬郡司として健在であり、相馬郡の郡務担当者であることは変わりがなかった。そして、源義宗が相馬御厨下司職を維持できた期間はそう長くなかったであろう。

 治承4(1180)年8月の源頼朝挙兵の時点で相馬御厨の下司職等がどのように変化したのか詳細はわからないが、千田庄の藤原親正の没落と寿永2(1183)年8月6日の平家一門解官によって、義宗の寄進自体も否定されたのかもしれない。明徳5(1394)年2月の相馬御厨雑掌徳弘の申状では、相馬御厨は「当国権介平朝臣常重、同男常胤、去大治、久安、永暦自奉寄 二所太神宮御領以来、為一円神領」とあって、義宗の永暦の寄進について触れられていない。そして、仁安2(1167)年6月14日の荒木田延明の文書によれば、親通が責め取った文書は「圧状」とされている。もしこの「圧状」が認められて、常胤が権利を主張した場合、義宗の下司職には大きな影響が出るものと思われる。しかし、その伝は伝わらない。

 文治2(1186)年3月12日の時点では相馬御厨は後白河院の「院御領」とされている(『吾妻鏡』)。ただし、室町時代に至るまで伊勢外宮渡会家が御厨の口入職等の権利を継承していることから、どういった支配体系となっていたかは不明。

 建久3(1192)年8月5日、「下総国住人常胤」は政所下文の通り「仍相伝所領、又依軍賞充給所々等地頭職」を頼朝から認められており(『金沢文庫』:「鎌倉遺文」所収)、おそらくこの「相伝所領」の中には相馬郷ならびに立花郷が入っていたものと思われる。師常の相馬郷入部はこののちのことと推測される。

■師常の活動

 師常は、千葉介常胤の子の中で「胤」字を名乗っていない唯一の人物である。そのため師常には「師胤、胤常、胤師」などといった前名があったともされている。師常が「常」字を称したのは、おそらく相馬郡を領したという理由によるものだろう。相馬郡は房総平氏にとって先祖伝来の地であり、代々の惣領家が継承する土地だったのだろう。それ故に常澄は父・相馬五郎常晴が相馬郡を甥の平常重に譲ったことに我慢がならず、常胤と紛争を起こしていたのかもしれない。

 常胤は、嫡男・千葉太郎胤正には本貫地の千葉郡などを継承させ、次男・師常には父・常重が公式に継承した父祖伝来の地・相馬郡を継承させるべく、相馬郡に入部させたのかもしれない。ただし、こちらも相馬郡の権利を主張する惣領家・上総権介常澄との妥協も必要だったのかもしれない。義朝のもとで常清・師常による相馬郡の分割統治が行われていたのかもしれない。

 寿永元(1182)年8月18日、頼朝の嫡男・頼家の御七夜の儀に際して、父の千葉介常胤がその奉行をつとめ、母・秩父氏と兄弟とともに御七夜の沙汰している。胤正・師常らは白水干を着て頼朝のもとに出仕したが、庭に列した千葉六兄弟を見た頼朝は「殊にこれを感ぜしめ給」い、諸人も「壮観」と賞した。

○御七夜之儀 

・千葉介常胤   …奉行 
・胤正之母    …秩父大夫重弘の娘で畠山重忠の叔母。北条政子の陪膳をつとめる。胤正以下6人兄弟の母親。
・千葉太郎胤正  …千葉介常胤の嫡男。千葉宗家の祖。弟・師常とともに鎧をかつぐ。
・千葉次郎師常  …千葉介常胤の次男。相馬一族の祖。
・武石三郎胤盛  …千葉介常胤の三男。武石一族の祖。弟・胤信とともに鞍付馬を曳く。
・多部田四郎胤信 …千葉介常胤の四男。大須賀氏の祖。
・国分五郎胤通  …千葉介常胤の五男。国分一族の祖。弓を持つ。のちに地頭職として香取神宮と所領争いを繰り広げる。
・千葉六郎大夫胤頼…千葉介常胤の六男。東一族の祖。剣を奉じる。

 木曽義仲、そして平家一門との戦いでは、頼朝の弟・蒲冠者源範頼の大手軍に従って出陣し、寿永3(1184)年2月5日、父・千葉介常胤や弟・国分五郎胤通東六郎太夫胤頼とともに摂津国に着し、7日には一ノ谷の戦いで活躍。元暦2(1185)年3月24日、長門国壇ノ浦での平家一門との海上戦(壇ノ浦の戦い)で平家一門が滅びると、千葉一族は鎌倉へ帰還し、文治元(1185)年10月24日の勝長寿院供養の際に、奉納する神馬を印東四郎(房総平氏一族)とともに曳いた。 

 文治5(1189)年6月9日、鶴岡八幡宮の御塔供養が終わったのち、寄進の馬のうち、「四御馬黒」を曳いた人物として「千葉次郎師胤 同四郎胤信」の名が見える。しかし『吾妻鏡』古写本のひとつ『吉川本吾妻鏡』によれば、「千葉次郎師常、同四郎胤信」とある。おそらくこの「師胤」は誤記と思われる。 

 文治5(1189)年、奥州藤原氏との戦いに参戦。街道筋大将軍の一人となった父・千葉介常胤の手に属して東北へ攻めのぼった。海道筋を領する岩城則道を破って岩城城を占領し、多賀城で頼朝と合流したのちに平泉に攻め込み、泰衡の部将で剛勇の誉れ高い由利宗平をからめ取る功績を挙げる。戦後、頼朝は千葉一族の軍功を賞し、常胤に奥州五郡を分かちあたえた。『吾妻鏡』に見られるこの事項については、五郡すべてが常胤に与えられたわけではく、五郡内に多くの所領が与えられたとの意味だと思われるが、常胤はこの所領を子息たちに分配し、師常には行方郡が与えられた。ここを拠点に鎌倉時代末期から奥州相馬氏が勢力を広げていく。 

相馬天王社
鎌倉相馬館跡(相馬天王社)

 平泉平定ののち、奥州御家人の沙汰など警察・裁判権を有したと思われる「奥州惣奉行職」葛西三郎清重を、内政職である「陸奥国留守職」伊澤左近将監家景を任じて奥州の沙汰をさせていたが、奥州平定の翌年、泰衡の遺臣であった大河兼任が突如反乱を起こした。葛西三郎清重は拠点の平泉を出て大河軍を迎え討ったが、大河兼任はすでに藤原氏の遺臣たちを糾合した大軍を率いており、無勢の清重は鎌倉の頼朝に救援を求める使者を発し、平泉を捨てて南へ逃れた。 

 頼朝は清重の急使から救援を訴える書状を受け取るや、御家人を召集。奥州再派兵の軍を編成した。このとき、千葉介常胤はふたたび海道筋の大将軍に任じられ、師常はその先鋒を命じられたが、この出兵に際して常胤の活躍はなく、かわって師常の兄・千葉新介胤正の活躍が目立ち、葛西三郎清重を自らの指揮下に加えていること、頼朝が「胤正以下」に書状を送っているように、胤正が老齢の常胤の代将として討伐軍の大将を務めていた節がうかがわれる。この討伐軍に大河兼任はやぶれ、山中に隠れていたところを木こりに殺された。 

巽荒神
巽荒神 

 師常はこの奥州再征の功績によって、頼朝から「八幡大菩薩」と書かれた白旗を賜った。「鎌倉幕府」が成立すると、師常はほかの兄弟たちとともに頼朝の側近として仕え、鎌倉今小路千葉介邸の北相馬屋敷(現在の巽荒神前)を構え、屋敷内に相馬郡から勧請した八坂神社を建立した。現在、鎌倉扇ヶ谷の壽福寺の隣にある「相馬天王社」はその神社が現在地に移されたものである。

 建久4(1193)年11月27日、永福寺薬師堂供養の際には甥・千葉小太郎成胤が剣を持ち、師常後陣の随兵として従った。翌建久5(1194)年8月8日の頼朝の相模国日向山参詣に際しても後陣随兵として従った。 

 建久6(1195)年3月10日の頼朝上洛時には、弟・東六郎太夫胤頼ほか、臼井六郎・印東四郎・天羽次郎ら房総平氏一族とともに先行随兵として供奉。後方随兵として弟の大須賀四郎胤信・国分五郎胤通が、後陣には梶原平三景時千葉新介胤正が郎従数百騎を率いて供奉した。3月12日には、東大寺供養には先陣随兵の兄・千葉新介胤正とともに後陣随兵として参列。5月20日の天王寺参詣の先陣随兵として、従弟の畠山次郎重忠らとともに供奉した。  

 建久10(1199)年の建久10(1199)年3月24日『相馬御厨上分送状写』には、相馬御厨の地主として「平」という人物が見えるが、このころの相馬御厨の地主は師常であろうと考えられることから、この「平」とは師常のことであろう。  

相馬師常墓
鎌倉扇谷の伝相馬師常墓

 元久2(1205)年正月1日の新年の儀で、「相馬五郎」=相馬五郎義胤の名があらわれており、これ以前に師常は嫡子・相馬五郎義胤に家督を譲ったと思われ、出家した後は法然上人の弟子となった。出家時期は不明だが、建仁元(1201)年3月24日、父・千葉介常胤が没していることから、これがきっかけであったのかもしれない。そして義胤の初見から11か月後の11月15日、師常は鎌倉屋敷で端座念仏しながら亡くなった。67歳と伝わる。このとき、鎌倉の民衆たちは念仏行者の彼の亡骸を一目拝もうと相馬邸に集まってきたと伝わっている。 

中村神社
師常を祀る中村神社

 師常の墓といわれるヤグラは旧相馬屋敷の北、数百メートルにある浄光明寺の崖を挟んだ反対側の崖下にある。浄光明寺のすぐ裏手だが、道は通っていないので寺から行く事はできない。このヤグラは中世からすでにその存在が知られていたもので、師常が自邸内に祀っていた八坂神社の祭神・牛頭天王が室町期にはこの窟内にあったことから、師常の墓とされたようである。

 明治12(1879)年、奥州中村藩の居城・中村城の本丸跡に、師常を祀る「相馬神社」がが建立された。毎年7月23日から行われる相馬野馬追大祭では、総大将を務める相馬中村藩主家・相馬家が率いる宇多勢はここに参拝し、大祭に臨む。

◎『吾妻鏡』元久二年十一月十五日条 

相馬次郎師常卒す。年六十七。端坐合掌せしめ、更に動揺せず。決定往生敢へてその疑ひ無し。これ念仏行者也。結縁と称して、緇素挙りて集まり、これを拝す。」 

●建久10(1199)年3月24日『相馬御厨上分送状写』(『鏑矢伊勢方記』:『我孫子市史』所収) 

 下総国相馬御厨
 
   運上 二所太神宮例進御上分布事 
 
   合
 
  四丈准白布陸百肆拾二段内
 
   …〔中略〕…
 
 右、建久九年御上分布、任先例、附宮掌今元運上如件、
 
  建久十年三月廿四日
                 田所  伴(花押)
                 案主散位橘(花押)
                 地主  平(花押)

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