千葉胤正

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉胤正 (1141?-1203?)

生没年 永治元(1141)年4月1日?~建仁3(1203)年7月20日
下総権介平常胤
秩父太郎大夫重弘中女
官位 不明
官職 不明
所在 下総国千葉庄
法号 西岸慶宥院・常仙院殿観宥
墓所 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か)?

 千葉氏三代。父は二代当主・千葉介常胤。母は秩父重弘中娘。通称は太郎千葉新介のち千葉介『千葉大系図』によれば永治元(1141)年4月1日生まれとされるが、不明。

 同じく『千葉大系図』で、弟・相馬師常は元久2(1205)年11月15日に六十三歳で「端座合掌不動揺卒」とあるので、師常は康治2(1143)年生まれとなる。年の差は二歳。しかし『吾妻鏡』によれば師常は元久2(1205)年11月11日に六十七歳で合掌端座して往生しているとあり、逆算すれば保延5(1139)年生まれであるから、胤正は彼よりも後に生まれたことになるため、『千葉大系図』の記載は再考すべきか。

◎千葉・秩父・佐々木系図《■:千葉氏■:佐々木氏■:秩父氏

●平良文―忠頼―+―忠常――――常将――――常長――――常兼―――――――千葉常重――常胤    +―胤正(千葉介)
(五郎)(次郎)|(上総介) (上総権介)(上総権介)(上総権介)   (下総権介)(下総権介) |
        |                                  ∥―――――+―師常(相馬次郎)
        |                                  ∥     |
        +―秩父将常――武基――――武綱――+―重綱―――――+―重弘――+―     +―胤盛(武石三郎)
         (別当大夫)(別当)  (十郎) |(留守所惣検校)|(大夫) |       |
                          |        |     |       +―胤信(大須賀四郎)
                          |        |     |       |
                          |        |     |       +―胤通(国分五郎)
                          |        |     |       |
                          |        |     +―畠山重能  +―胤頼(東六郎大夫)
                          |        |     |(畠山庄司)
                          |        |     |  ∥      
                          |        |     |  ∥――――――重忠
                          |        |     |三浦義明娘   (次郎)
                          |        |     |         ∥    
                          |        |     |         ∥―――――重保
                          |        |     |北条時政―――+―娘      
                          |        |     |       |
                          |        |     |       +―北条義時
                          |        |     |       | 
                          |        |     |       +―娘
                          |        |     |         ∥―――――重政
                          |        |     +―小山田有重―+―稲毛重成      
                          |        |      (別当)   |   
                          |        |             +―榛谷重朝
                          |        |            
                          |        +―重隆――+―能隆――――――河越重頼―+―重房
                          |        |(惣検校)|(葛貫別当)  (惣検校) |
                          |        |     |              +―
                          |        |     +―娘            | ∥
                          |        |       ∥            |源義経
                          |        |      源義賢           |
                          |        |                    +―
                          |        |                      ∥
                          |        +―江戸重継――重長――――――忠重   下河辺政義
                          |               (太郎)    (太郎)
                          |                    
                          +―小机基家―――――河崎重家―+―中山重実 +―重助
                           (六郎)     (三大夫) |(次郎)  |
                                          |      |
                                          +―渋谷重国―+―
                                           (庄司)    ∥
                                                   ∥―――――義清
                                                   ∥    (五郎)
                                                 佐々木秀義
                                                (源三)

 頼朝には流人時代から胤正の弟・千葉六郎太夫胤頼三浦荒次郎義澄が交流を持っており、千葉介常胤一党と三浦大介義明一党は密かに頼朝に援助の手を差し伸べていたのだろう。

 治承4(1180)年8月、頼朝は平家に加担する大庭景親らと相模国足柄郡の石橋山で戦って敗れ、相模湾を小船で渡って安房国に逃れてきた。そして9月4日、頼朝は側近の藤九郎盛長を下総国千葉郷の千葉介常胤のもとに遣わした。

 常胤の邸に到着した盛長は客殿に通されると、胤はすでに座にあって、その傍らには胤正と胤頼が座っていた。常胤は盛長の言を目をつぶって眠るがごとく聞いていたが、胤正と胤頼の二人は、

「武衛、興虎牙跡鎮狼唳給、縡最初有其召、服応何及予儀哉、早可被献領状之奉書」

と常胤に頼朝に協力すべきことを訴えた。常胤も、

「常胤之心中、領状更無異儀、令興源家中絶跡給之條、感涙遮眼、非言語之所覃也」

と協力を約束。盛長を招いた酒宴が行われ、常胤は、

「当時御居所、非指要害地、又非御曩跡、速可令出相模国鎌倉給」

と、源氏の故郷でもある鎌倉を本拠地とすることを勧め、常胤も一門を率いて出迎えのために参向することを約して盛長と別れた。

 9月17日、頼朝は遅れ気味の上総介八郎広常の参上を待たずに安房国を発して、下総国の国府に参着した。一方、常胤も胤正、師常、胤盛、胤信、胤通、胤頼の六人の子と胤正の嫡子・小太郎成胤を伴い、三百余騎を率いて千葉を発し、国府において頼朝と面会を果たした。

 10月3日、胤正は父・千葉介常胤の厳命を受けて、上総国に派遣された。上総国の伊北庄司常仲は、頼朝に敵対して滅ぼされた長狭六郎常伴の外甥だった関係で頼朝から追討の対象とされたようであるが、実は常仲は房総平氏の本嫡流の人物であり、本来であれば上総権介を継承していてもおかしくない人物だった。この追討には少なからず広常および常胤の意向が関係しているのだろう。

 平常長―――+―平常兼――――千葉介常重―――千葉介常胤――千葉介胤正
(上総権介?)|(下総権介?)(下総権介)  (下総権介) (下総権介)
       |
       |              +―長狭常伴
       |              |(六郎)
       |              |
       |              +―娘
       |【上総権介】          ∥――――――伊北常仲
       +―相馬常晴―――平常澄―――+―伊南常景  (伊北庄司)
        (上総権介) (上総権介) |(上総権介)
                      |
                      +―平広常
                       (上総権介)

 この戦いでは葛西三郎清重も上総国に出陣していたことが、文治6(1190)年正月13日の胤正の上申に「葛西三郎清重者、殊勇士也先年上総国合戦之時、相共遂合戦」とあることから想像され、千葉氏と葛西氏はこの頃から交流を持ち始めたのではないだろうか。

 12月12日、頼朝の鎌倉における新造の屋敷が落成し、それまで住んでいた上総権介広常の屋敷から移ることとなった。このとき胤正は父・常胤と弟・胤頼とともに扈従した。

●治承4(1180)年12月12日条(『吾妻鏡』)

先陣 和田小太郎義盛
駕左 加々美次郎長清
駕右 毛呂冠者季光
扈従 北条四郎時政 江間小四郎義時 足利冠者義兼 山名冠者義範 千葉介常胤
千葉太郎胤正 千葉六郎大夫胤頼 藤九郎盛長 土肥次郎実平 岡崎四郎義実
工藤庄司景光 宇佐見三郎助茂 土屋三郎宗遠 佐々木太郎定綱 佐々木三郎盛綱
後陣 畠山次郎重忠

 治承5(1181)年4月7日、頼朝は御家人の中から、とくに弓術に優れ、なおかつ頼朝への忠節深い者を選び、毎晩寝所の近くに伺候すべきことが定められた。胤正もその一人に選ばれている。

●治承5(1181)年4月7日条(『吾妻鏡』)

江間四郎義時 下河辺庄司行平 結城七郎朝光  和田次郎義茂 梶原源太景季  宇佐美平次実政
榛谷四郎重朝 葛西三郎清重 三浦十郎義連 千葉太郎胤正  八田太郎知重   

 胤正は武術と忠節とをあわせもった人物として、頼朝の信任も厚い人物だったことがうかがえる。

伊豆国 伊豆山権現 土肥弥太郎遠平
相模国 筥根権現 佐野太郎基綱
寒川神社 梶原平次景高
三浦十二天 佐原十郎義連
武蔵国 六所宮 葛西三郎清重
常陸国 鹿嶋神宮 小栗十郎重成
上総国 玉前神社 上総小権介良常
下総国 香取神宮 千葉小太郎胤正
安房国 東條寺 三浦平六義村
洲崎神社 安西三郎景益

 そして、政子の着帯のときには、嫡男の成胤とともに帯を持参、寿永元(1182)年7月12日、政子 が比企が谷の館まで移る際には弟・六郎大夫胤頼梶原源太景季とともに警護し、8月11日夜、政子の陣痛が始まると、頼朝は祈祷のために伊豆権現、箱根権現ならびに近国の宮に奉幣の使いを送った。このとき胤正は香取神宮への使者となっている。

 頼家が生まれたのち、8月18日、父母や弟たちとともに武具を持って参上、これを祝った。

 文治元(1184)年10月24日に行われた勝長寿院供養に際しては、随兵十四人として、錚々たる御家人とともに先陣をつとめている。

●文治元(1184)年10月24日条(『吾妻鏡』)

畠山次郎重忠 千葉太郎胤正 三浦介義澄 佐貫四郎大夫広綱 葛西三郎清重 八田太郎朝重
榛谷四郎重朝 加藤次景廉 藤九郎盛長 大井兵三次郎実春 山名小太郎重国 武田五郎信光
北条小四郎義時 小山兵衛尉朝政        

 文治3(1187)年9月27日、畠山次郎重忠が召し捕られ、従兄弟に当たる胤正が預かることとなった。重忠が逮捕されたのは、伊勢神宮の神官・長家綱が重忠の代官・真正が不正を働いたと訴え出たためで、重忠は子細を知らなかったと謝したが、頼朝は重忠を胤正預けとし、所領四箇所を没収した。

●文治3(1187)年9月27日条(『吾妻鏡』)

九月廿七日
畠山二郎重忠、為囚人、被召預千葉新介胤正、是依代官真正之姦曲、
太神宮神人長家綱、訴申故也、代官所行、不知子細之由、雖謝申之、
可被収公所領四箇所云々、

 重忠は胤正邸に預けられると、寝食を絶って身の潔白を主張。これを見た胤正は10月4日、頼朝の御所を訪ねて重忠の様子を頼朝に陳情した。この説得が功を奏し、頼朝も心を動かされ、重忠を許した。

●文治3(1187)年10月4日条(『吾妻鏡』)

十月四日
千葉新介胤正、参申云、重忠被召籠已過七箇日也、此間寝食共絶畢終、又無発言語、今朝胤正、尽詞雖勧膳、不許容、顔色漸変、世上事終思切歟之由、所見及也、早可有免許歟云々、二品頗傾動給、則以被厚免、仍胤正奔帰、相具参上、重忠、著于里見冠者義成座上、談傍輩云、浴恩之時者、先可求眼代之器量、無其仁者、不可請其地、重忠存清潔、太越傍人之由、挿自慢意之処、依真正男不義、逢恥辱畢云々、其後起座、直令下向武藏国云々

 胤正は急いで館に帰ると、重忠を伴ってふたたび御所に参上。重忠は里見冠者義成の上座に座ると、朋輩に対し、「恩を浴すの時は、まずその目代の器量を求めるべきである。その人がいないとするならば、その地を請けるべきではない。重忠は常に清廉潔白を旨としていたにもかかわらず、真正のような不義な男を目代として用い、かかる恥辱を受けてしまった」と言った。頼朝は重忠の罪を許し、武蔵国へ下向せしめた。

 文治5(1189)年6月9日、胤正は父の千葉介常胤のもと、弟の師常、胤信、胤頼らとともに鶴岡八幡宮の御塔供養に参列した。

●鶴岡八幡宮御塔供養列席者(『吾妻鏡』)

導師 法橋観性
呪願 法眼円暁(若宮別当)
行事 三善隼人佐康清、梶原平三景時
先陣
随兵
小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光
御徒 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲)
御後
参列
大内武蔵守義信、安田遠江守義定、伏見駿河守広綱、三河守範頼、大内相模守惟義、安田越後守義資、大江因幡守広元、毛利豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長
後陣
随兵
小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景

 供養ののち、錦を奉納。その後、神馬を奉納する際の引き手は下記の通り。ここに見える「千葉次郎師常」は「相馬次郎師常」のことである。「千葉四郎胤信」は千葉庄田部多村を領して「田部多四郎胤信」を称している。のちの大須賀氏の祖である。

●神馬の引き手

一ノ馬(葦毛馬) 畠山次郎重忠 小山田四郎重朝
二ノ馬(河原毛) 工藤庄司景光 宇佐見三郎祐茂
三ノ馬(葦毛) 藤九郎盛長 渋谷次郎高重
四ノ馬(黒毛) 千葉次郎師常 千葉四郎胤信
五ノ馬(栗毛) 小山五郎宗政 下河辺六郎

 7月17日、頼朝は奥州藤原氏を討つため、兵を奥州へ出立させることを決定。軍勢を東海道、北陸道、大手の三軍に分けて出立することとした。そのうち、東海道の大将軍として千葉介常胤八田右衛門尉知家が任じられ、一族とそれぞれの任国の御家人を率いて出陣を命じられた。

 千葉介常胤は下総国の御家人ならびに一族を率いて、海道を北上。途中で八田右衛門尉知家の手勢と合流(八田知家・朝重は7月19日に頼朝の大手勢に加わって鎌倉を出立している)したと思われるが、すでに合戦の始まっていた8月12日夜、頼朝の大手勢が国府多賀城に入城すると、常胤・八田知家は「千葉太郎胤正・同次郎師常・同三郎胤盛・同四郎胤信・同五郎胤通・同六郎大夫胤頼・同小太郎成胤・同平次常秀・八田太郎朝重・多気太郎・鹿嶋六郎・真壁六郎等」を相い具して阿武隈川を渡って多賀城に参向し、頼朝に閲した。

 奥州における大河兼任の大乱で、胤正は一方の大将軍として出陣している。これより前に父・千葉介常胤が一方の大将として出陣しているにも関わらず活躍がまったく見えず、胤正の活躍が特に目立つ。常胤が鎌倉を出陣したのが文治6(1190)年1月8日、胤正が鎌倉を発したのは、その5日後の1月13日であり、常胤は出陣の直後、何らかの原因(病気か?)で鎌倉に引き返し、代わって胤正が「一方の大将軍を承る」となったのかもしれない。

 胤正はこのとき、頼朝に「葛西三郎清重は殊なる勇士なり。先年上総国合戦の時、相共に合戦を遂ぐ。今度また相具すべきの由、仰せ含められんと欲す」と頼み、頼朝も清重に「胤正に相伴うべし」との書状を遣わしている。この合戦では嫡男・成胤がみずから先頭に進んで活躍、頼朝はこれを賞しながらも、「合戦に先登に進まずして、身を慎むべし」との書簡を送った。頼朝は2月5日、雑色真親・常清・利定・里長らを奥州に遣わして各地で戦っている鎌倉勢の検見させ、胤正のもとにも来て頼朝からの戦略を伝えている。

「合戦の大體、歩兵等に至りては、山沢を踏みてこれを尋ぬるにその便あり。しかれば宗たる敵の在所を求めてこれを襲ふべし。およそ今度の落人等においては、郎党に至るまで皆これを召し進ずるべし。落人の相論、ならびに下人等の事に就きては、傍輩互いに喧嘩あるべからず」

衣川
平泉高舘より衣川を望む

 鎌倉勢が奥州に来た事を知った大河兼任は、一万騎を率いて平泉を発って泉田に向かった。一方、追討使・足利義兼小山宗政・朝光の兄弟、葛西清重などがこれを迎え撃とうと栗原郡一迫に向かったが、夜になってしまったために山越えができず近くの農村に駐屯した。しかし、この間に兼任の大軍は彼らの横をすり抜けて泉田に迫った。これに気づいた胤正は一軍を率いて泉田を出陣し、兼任と激突してついにこれを破った。

 敗走した兼任はなおも五百騎を率いて衣川に陣を張って対抗したが、足利義兼は名誉挽回と意気込んで衣川柵を力攻めで攻略。兼任は逐電したのち、きこりによって殺害された。こうして大河の乱は平定し、2月23日、胤正・葛西清重・堀親家らは奥州平定の旨を使者に託した。

 建久6(1195)年2月2日、頼朝は2月14日の上洛行の路地の沙汰を命じ、2月14日、畠山重忠を先陣に鎌倉を発した。今回の上洛は東大寺供養への参列が目的であった。3月4日、上洛を果たした頼朝は、六波羅邸に入御した。そして五日後の3月9日、奈良東大寺へ向けて出発した。一行は翌日、奈良南東院へ到着。ここで参列にあたって再編が行われ、後陣として数百騎の郎党を率いて、「千葉新介胤正」の名が見える。

●建久6(1195)年3月10日『東大寺参詣供奉人交名』(『吾妻鏡』)

先陣
●各々相並ばず
畠山次郎重忠 和田左衛門尉義盛      
隨兵
●三騎相並ぶ
江戸太郎重長 豊嶋兵衛尉 岡部小三郎 勅使河原三郎有直 熊谷又次郎
大井次郎 足立太郎 小代八郎 浅見太郎 河匂七郎
品河太郎 江戸四郎 山口兵衛次郎 甘糟野次 平子左馬允
阿保五郎 阿保六郎 豊田兵衛尉 真壁小六 下嶋権守太郎
加治小次郎 鴨志田十郎 鹿嶋六郎 片穂五郎 中村五郎
高麗太郎 青木丹五 中郡太郎 常陸四郎 小宮五郎
奈良五郎 小林次郎 太胡太郎 渋河太郎 佐野七郎
三輪寺三郎 小林三郎 深栖太郎 吾妻太郎 小野寺太郎
浅羽三郎 倉賀野三郎 那波太郎 那波彌五郎 園田七郎
皆河四郎 小串右馬允 小室小太郎 春日三郎 小田切太郎
山上太郎 瀬下奥太郎 禰津次郎 中野五郎 志津田太郎
高田太郎 坂田三郎 禰津小次郎 笠原六郎 岩屋太郎
中野四郎 大河戸太郎 下河辺四郎 泉八郎 佐々木三郎兵衛尉盛綱
新田四郎忠常 大河戸次郎 下河辺藤三 宇都宮所 海野小太郎幸氏
新田六郎親範 大河戸三郎 伊佐三郎 天野右馬允 橘右馬次郎
大嶋八郎 藤澤次郎清親 工藤小次郎 糟屋藤太兵衛尉 臼井六郎
中澤兵衛尉 望月三郎 横溝六郎 梶原刑部兵衛尉景定 印東四郎
牧武者所 多胡宗太 土肥七郎 本間右馬允 天羽次郎直胤
千葉次郎師常 広澤与三 梶原刑部丞朝景 和田三郎義茂 河内五郎
千葉六郎大夫胤頼 波多野五郎 土屋兵衛尉義清 和田小次郎 曽祢太郎
境平次兵衛尉常秀 山内刑部丞 土肥先次郎 佐原太郎 里見小太郎義成
武田兵衛尉有義 佐竹別当 関瀬修理亮 下河辺庄司行平 懐嶋平権守景義入道
伊澤五郎信光 石河大炊助 村上左衛門尉 八田右衛門尉朝重 北条小四郎義時
新田蔵人義兼 澤井太郎 高梨次郎 三浦十郎左衛門尉義連 小山七郎朝光
御車 右近衛大将源頼朝        
(一門相並ぶ) 相模守惟義 源蔵人大夫頼兼 上総介義兼    
  伊豆守義範 源右馬助経業      
  因幡前司大江広元 三浦介義澄      
車後一列 豊後前司季光 土肥荒次郎 山名小太郎 那珂中左衛門尉 足立左衛門尉遠元
比企右衛門尉能員 藤九郎盛長 宮大夫 所六郎  
車後隨兵
●三騎相並ぶ
奈古蔵人 南部三郎 浅利冠者長義 後藤兵衛尉基清 稲毛三郎重成
徳河三郎 村山七郎 加々美次郎長清 葛西兵衛尉 梶原源太左衛門尉
毛呂太郎 毛利三郎 加々美三郎 比企藤次 加藤太
阿曽沼小次郎 小山五郎宗政 小山田四郎 波多野小次郎 河村三郎
佐貫四郎広綱 三浦平六兵衛尉 野三刑部丞成綱 波多野三郎 原宗三郎
足利五郎 佐々木左衛門尉定綱 佐々木中務丞経高 沼田太郎 原四郎
長江四郎明義 中山五郎 岡崎四郎 小山田五郎 野瀬判官代
岡崎与一太郎 渋谷四郎 和田五郎 中山四郎 安房判官代
梶原三郎兵衛尉 葛西十郎 加藤次景廉 那須太郎 伊達次郎
岡部小次郎 南条次郎 江戸七郎 横山権守 笠原十郎
佐野太郎 曽我小太郎 大井平三次郎 相模小山四郎 堀藤次
吉香小次郎 二宮小太郎 岡部右馬允 猿渡藤三郎 大野藤八
井伊介 吉良五郎 金子十郎家忠 安西三郎景益 小栗次郎
横地太郎 浅羽庄司三郎 志村三郎 平佐古太郎 渋谷次郎高重
勝田玄番助 新野太郎 中禅寺奥次 吉見次郎 武藤小次郎
天野藤内遠景 長尾五郎 筑井八郎 八田兵衛尉 宗左衛門尉
宇佐美三郎祐茂 多々良七郎 臼井与一 長門江七 金持次郎
海老名兵衛尉 馬場次郎 戸崎右馬允 中村兵衛尉 奴加田太郎
大友左近将監 渋谷弥五郎 猪俣平六範綱 仙波太郎 古郡次郎
中条右馬允 佐々木五郎義清 庄太郎 岡部六弥太忠澄 都築平太
伊澤左近将監 岡村太郎 四方田太郎 鴛三郎 筥田太郎
熊谷小次郎直家 平山右衛門尉 諸岡次郎 伊東三郎 千葉四郎胤信
志賀七郎 藤田小三郎 中条平六 天野六郎 千葉五郎胤通
加世次郎 大屋中三 井田次郎 工藤三郎 梶原平次左衛門尉景高
後陣
●各々相並ばず
●郎従数百騎
梶原平三景時 千葉新介胤正      
最末(相並ぶ) 前掃部頭中原親能 縫殿助      
伊賀前司 遠江権守      
最末(並ばず) 源民部大夫 伏見民部大夫 右京進中原仲業 三善隼人佐康清 三善兵衛尉
平民部丞盛時 越後守義資      

 建久8(1197)年3月23日、頼朝が信濃国善光寺へ参詣した際、先陣の随兵に胤正の弟「千葉次郎(師常)」が加わり、後陣の隨兵として「千葉新介(胤正)」と次男の「千葉平次兵衛尉(常秀)」扈従した(『相良家文書』:「大日本古文書 家わけ五」)

●建久8(1197)年3月23日『右大将家善光寺御参隨兵日記』(『相良家文書』所収)

 
 (前略) 
 隨兵
    先陣
 
 佐原十郎左衛門尉(佐原義連) 長江四郎(長江明義)
 
  千葉次郎(相馬師常)     和田次郎(和田義茂)
 
 武田兵衛尉(武田有義)    平井四郎
 
 (中略)
 
    後陣
 
 千葉新介(千葉胤正)     葛西兵衛尉(葛西清重)
 
 北条五郎(北条時連、のち時房)佐々木五郎(佐々木義清)
 
 千葉平次兵衛尉(千葉常秀)  梶原刑部兵衛尉(梶原景定)
 
 八田太郎左衛門尉(八田朝重) 江戸太郎(江戸重長)
 
 (後略)

 建久10(1199)年10月27日、梶原景時の弾劾状には六十六名の宿老に名を連ね、正治2(1200)年2月26日に頼家の鶴岡八幡宮社参に供奉している。

●建久10(1199)年10月27日『梶原景時弾劾状署名宿老六十六名』(『吾妻鏡』:『全訳吾妻鏡』所収)

千葉介常胤 三浦介義澄 千葉太郎胤正 三浦兵衛尉義村 畠山次郎重忠 小山左衛門尉朝政 小山七郎朝光 足立左衛門尉遠元 和田左衛門尉義盛 和田兵衛尉常盛 比企右衛門尉能員 所右衛門尉朝光 二階堂民部丞行光 葛西兵衛尉清重 八田左衛門尉知重 波多野小次郎忠綱 大井次郎実久 若狭兵衛尉忠季 渋谷次郎高重 山内刑部丞経俊 宇都宮弥三郎頼綱 榛谷四郎重朝 安達九郎盛長入道 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道 稲毛三郎重成入道 足立藤九郎景盛 岡崎四郎義実入道 土屋次郎義清 東平太重胤 土肥先次郎惟光 河野四郎通信 曾我小太郎祐綱 二宮四郎 長江四郎明義 毛呂二郎季綱 天野民部丞遠景入道 工藤小次郎行光 中原右京進仲業 小山五郎宗政 他27名 

 正治2(1200)年、常胤は八十三歳となってようやく胤正に家督を譲った。前年に頼朝が亡くなり、次の代に譲る決意をしたものか。しかし、これ以前に「下総権介」は譲られており、家督を継ぐまでは「千葉新介」を称していた。これ以降、家督を継ぐ前に「下総権介」になったものは「千葉新介」と呼ばれることとなる。このとき胤正は六十歳前後であったと思われる。胤正が「千葉介」であった期間はわずかに三年あまり。建仁3(1203)年7月20日に亡くなったという。享年六十三歳と伝わる。法名は西岸慶宥院・常仙院殿観宥


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