| 桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
| 平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
| 千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
| 千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
| 千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
| 生没年 | 元永元(1118)年5月24日?~建仁元(1201)年3月24日 |
| 父 | 下総権介平常重 |
| 母 | 常陸大掾平政幹娘女 |
| 妻 | 秩父太郎大夫重弘中女(円寿院殿) |
| 官位 | 正六位上。のち五位か? |
| 官職 | 下総権介 相馬郡司:久安2(1146)年4月就任 |
| 役職 | 下総国守護職? |
| 荘官 | 千葉庄検非違所? 相馬御厨下司職:久安2(1146)年8月寄進 |
| 所在 | 下総国千葉庄 |
| 法号 | 浄春院殿貞見、涼山円浄院 |
| 墓所 | 下総国千葉郡千葉山(稲毛区園生町か) |
| 1,相馬御厨の強奪 | 2,平治の乱と相馬御厨 | 3,相馬御厨について | 4,権介・海上与一常衡 |
| 5,以仁王の乱 | 6,源頼朝の挙兵と常胤 | 7,木曽義仲・平家との戦い | 8,奥州藤原氏との戦い |
| 9.常胤の死 |
千葉氏二代。初代当主・千葉介常重の嫡男。母は常陸大掾政幹娘。妻は秩父太郎大夫重弘娘。元永元(1118)年5月24日に千葉亥鼻城で生まれたとされている(『千葉大系図』)。官位は正六位上。官途は下総権介。荘官としては相馬御厨下司職。千葉庄検非違所か。
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| 亥鼻城址 |
常胤は千葉氏を地方豪族の地位から、大大名の地位にまで昇らしめた千葉家の太祖ともいえる人物。下総国主・千葉宗家をはじめ、東北は相馬氏や亘理氏といった室町、戦国大名の遠祖であり、岩手県や宮城県などの東北地方に多い千葉家も彼の血を受け継ぐといわれている。常胤以降、千葉氏やその一族は諱に「胤」の一字を用いることが多くなる。
源頼朝の挙兵が成功したのは、千葉介常胤・上総権介広常といった両総平氏の協力が非常に大きい。頼朝は常胤をして「師父」と呼び、弟・範頼に宛てた手紙の中でも「およそ、常胤の大功においては、生涯さらに報謝を尽くすべからざる」ことを申し送っている。また、「千葉介、殊に軍にも高名し候ひけり。大事にせられ候ふべし」と但し書きがなされる(『吾妻鏡』)ほど、戦の上手としても頼朝の信任あつい人物であった。
保延元(1135)年2月、十八歳になった常胤は、父・常重から相馬御厨(相馬郡布施郷)の「地主職」を継承した。ただし、「於地主職者、常重男常胤、保延元年二月伝領」とあることから(久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』)、常胤は地主職のみを継承し、国衙役人としての相馬郡司は常重がそのまま就いていたと思われる。
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| 相馬御厨南端の手下水海(手賀沼) |
翌保延2(1136)年7月15日、国司である下総守藤原親通は、相馬郡の公田からの税が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕した。
その後、常重の身は「旬月(10か月)」の間、牢に押し込められた。その間に、下総守親通の目代である「庁目代散位紀朝臣季経」が「准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸」を徴収し、さらに11月13日、牢に繋がれていた常重から「相馬立花両郷」の新券を発給するという「押書」を提出させて、常重の署名花押を責め取った。こうして、常重は国司へ相馬郷(=布施郷)と立花郷を譲り渡すこととなってしまった。
また、このころ関東地方に勢力を拡げようと画策していた上総曹司源義朝(源頼朝の父)は、おそらく麾下にあった「常澄」の「浮言(常澄が相馬郡の領有権を主張したものと思われる)」を利用して、康治2(1143)年、常重から相馬郷の「圧状之文(無理矢理書かせた譲状)」を取って実質的に押領した。常澄は、相馬郡が父の相馬五郎常晴から甥の常重(常澄の従兄弟にあたる)に譲られたことに不満を抱いていたと思われ、その失地回復とばかりに義朝に訴えたと思われる。
しかし、このとき相馬郷(相馬郡布施郷=相馬御厨)はすでに国司・藤原親通によって奪い取られたあとであり、どういういきさつで常重が相馬郷を義朝に譲る(責め取られる)ことができたのかはわからない。
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| 大庭御厨の鵠沼神明社) |
義朝は天養元(1144)年9月には房総を離れて相模国鎌倉郡に移っており、伊勢神宮の御厨であった大庭御厨に相模国在庁官人・清原安行のほか、三浦庄司義継・義明父子、中村宗平らとともに大庭御厨下司職・大庭権守景宗の館に押し入って、官物・財物をすべて奪い取った。景宗はこの濫妨を伊勢神宮に訴え、朝廷は義朝に濫妨停止および犯人の逮捕の宣旨を発布している。
義朝は神威を恐れたとして、天養2(1145)年3月、相馬御厨の「避状」を伊勢神宮に奉り、大治5(1130)年の常重の寄進に続いて相馬郡を伊勢内宮外宮に寄進することとなる。「重又令進別寄文」(永暦2(1161)年2月27日『下総権介平朝臣常胤解案』)や「重寄進了」(永万2(1166)年6月18日『荒木田明盛請文写』)など、二重寄進の実態がうかがえる。
一方、常胤は康治2(1143)年に「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国庫に納め、久安2(1146)年4月、「其時国司以常胤可令知行郡務」と、常胤は国司・藤原親通から「相馬郡司」に任じられた。このとき立花郷の返還は認められなかったが、相馬郷については「且被裁免畢」と千葉氏のもとへ返されることとなった。
そして8月10日、常胤は相馬郡司として改めて相馬郡を伊勢神宮に寄進した。すでに天養2(1145)年3月、義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じた。
なお、常胤が郡司を務めたころの相馬郡衙は現在の我孫子市日秀に置かれていたと思われる。
◎久安2(1146)年8月10日の『常胤寄進状』に記された相馬御厨領域
1.限東…逆川口笠貫江(茨城県北相馬郡利根町にあった小貝川の河口)
2.限南…小野上大路(常陸からの官道)
3.限西…下川辺境并木崎廻谷(千葉県野田市木野崎付近)
4.限北…衣川常陸国堺(小貝川)
保元元(1156)年7月、京都で「保元の乱」がおこった。保元の乱は、皇位継承問題から発展した紛争で、摂関家内の権力争いも加わって大きな戦いとなった。。
●保元の乱相関図(■:崇徳上皇方、■:後白河天皇方)
|
~皇室~ →宗仁―――+―顕仁――――――重仁親王 |
~摂関家~ →藤原忠実―+―忠通 |
|
~河内源氏~ →源義家―+―義親―――――為義―――+―義朝 |
~伊勢平氏~ →平正盛―+―忠盛――+―清盛 |
保元の乱では、「上総ニハ介八郎弘経、下総ニハ千葉介経胤」(『保元物語』)とあるように、常胤は上総権介常澄の八男・広常(父・常澄の代官として鎌倉に在住)や相模国鎌倉党の大庭景義・景親兄弟らとともに義朝(後白河天皇方)に加わって崇徳上皇(後白河天皇の兄)方と戦い、天皇側を勝利に導いた。この戦いでは、平清盛・源義朝・源義康(足利氏の祖)が天皇側の大将として活躍した。
戦後、朝廷で権勢を握っていた信西に対する反発が生じ、名門貴族の藤原信頼が、知行国の関係でつながりの深かった源義朝を主力として挙兵し、信西を討った。こうして信頼は一時的に朝廷の権力を握ることに成功する。
しかし、信西追捕の際、熊野へ外出中だった平清盛が反信頼派に推されて密かに信頼打倒を模索。後白河上皇を脱出させ、さらに二条天皇を奪取して清盛一門が住んでいた六波羅へ迎え奉ったことで、形勢は逆転し、信頼方についていた同調者も次々と寝返った。信頼・義朝らに対しては追討の宣旨が出され、平治元(1159)年12月、京都はふたたび戦乱に巻き込まれることになった。これを「平治の乱」という。
●平治の乱相関図(■:藤原信頼方、■:藤原信西方)
■藤原家
→藤原鎌足――藤原不比等―+―藤原武智麻呂―…………………………………………………―藤原通憲――――――――藤原成憲
(大職冠) (右大臣) |(左大臣) (少納言入道信西) ∥
| ∥
| 平清盛―――――――+―娘
| |
| |
| +―娘
| ∥
| ∥
+―藤原房前―――……―+―藤原道隆――……藤原忠隆―+―藤原信頼――――――――藤原信親
(民部卿) |(関白) (三位) |(右衛門督)
| |
| +―藤原信説
| |(武蔵守)
| |
| +―藤原基成――娘
| |(陸奥守) ∥―――――藤原泰衡
| | ∥
| | 藤原清衡
| |
| +―――――――娘
| ∥―――――近衞基通
| ∥ (関白)
+―藤原道長――……藤原忠実―+―藤原忠通――藤原基実
(関白) (関白 |(関白) (摂政)
|
+―藤原頼長
(左大臣)
■河内源氏
→源満仲―+―源頼光――…+―…―――源頼政
(摂津守)|(内蔵頭) | (兵庫頭)
| |
| +―…―+―源光保【寝返る】
| |(出雲前司)
| |
| +―源光信――――源光基【寝返る】
| (検非違使) (出羽判官)
|
+―源頼信――…+―…―+―源義朝――+―源義平
(甲斐守) | |(下野守) |(悪源太)
| | |
| +―源義盛 +―源朝長
| (十郎) |(中宮大夫進)
| |
+―…―――源義信 +―源頼朝
(四郎) (右兵衛佐)
■伊勢平氏
→平忠盛―+―平清盛――――+―平重盛
(讃岐守)|(太宰大弐) |(左兵衛佐)
| |
+―平経盛 +―平基盛
|(蔵人) (大夫判官)
|
+―平教盛
|(淡路守)
|
+―平頼盛
(三河守)
「平治の乱」では、常胤は戦いには参加していないようであるが、介八郎広常は義朝に随って上洛し、待賢門の戦いでは義朝の長男・鎌倉悪源太義平に従い、「源義平十七騎」の一騎として平重盛(平清盛の嫡男)を追い回したとある(『平治物語』)。広常は父・常澄の代理として鎌倉に屋敷を構えており、鎌倉を本拠地にする義平とは深く結びついていたのだろう。「平治の乱」は結局、藤原信頼=源義朝側が敗れ、義朝は京都から鎌倉へ逃れる途中、重代の郎党・長田庄司忠致に尾張国内海で殺害され、途中ではぐれた源頼朝は捕らえられて京都に幽閉された。
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| 相馬御厨・立花郷の位置 |
平治の乱後、義朝は「謀叛人」とされ、所領はすべて収公された。そして常胤が相馬郡司・相馬御厨下司職として領有していた相馬郷(相馬御厨)も義朝の所領の一つとして、没収されてしまうこととなる。
相馬郡を失った常胤は永暦元(1160)年に「相馬御厨は千葉氏相伝の所領であり、さらに伊勢神宮の荘園であるから、奉免せらるべきもの」として、その返還を国衙に申請した。しかし、国司・藤原氏(藤原親盛か)が裁決を引き延ばしたため、常胤は、かつて大番役で上洛していたときに関係を持ったと思われる「右大臣殿(藤原公能)」に裁断をもとめた。
しかしこの訴訟の最中の永暦2(1161)年正月、「前左兵衛少尉源義宗」がにわかに相馬郡の領有を主張して、相馬郡を伊勢内外二宮に寄進(源義宗の寄進)した。
この「源義宗」は、常陸国の佐竹昌義の子・三郎義宗のことと考えられる。保延2(1136)年、国司・藤原親通は、相馬郷と立花郷は常重から責め取ったのち「私領」として持ったが、相馬郷については、親通から次男・親盛へ譲り渡され、さらに「匝瑳北条之由緒」により義宗へ「当御厨公験」が譲り渡されたという。「匝瑳北条」とは下総国司の藤原氏のことであり、その血縁であったことを意味するものであろう。
常胤が相馬郡司に任じられた康治2(1143)年から義宗が領有を主張する永暦2(1161)年までは18年もの間、義宗は相馬郷領有権を主張していなかったにも関わらず、突然主張してきた理由は、永暦元(1160)年の源義朝の死であろう。相馬御厨下司職は実質的に義朝にあったと世間では認められていたことを物語る。そして、相馬郷を手に入れるにあたり、主張したのが下総国司藤原家との「匝瑳北条之由緒」による相続であった。
義宗の寄進状には「平常澄、常胤等」は「大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎党等」であり、「凡不可在王土者也」としており、相馬郡の正統な継承資格者である常澄・常胤を、謀反人である義朝の郎党として、彼らも謀反人の一味であることを強調。また、自分は平家の縁戚である下総国司・藤原氏より譲状を得ていると、自分の正当性を強調している。
これに対し常胤も同年2月27日、相馬御厨の寄進に関する解文を伊勢神宮に差し出して、正当性を主張し、国衙への申請および藤原公能への裁断の要請・突然の義宗の寄進行為の違法性などを、伊勢外宮の稲木大夫に訴えている。
この稲木大夫への訴えと、右大臣・藤原公能へのはたらきかけが通じたのか、伊勢外宮は常胤の言い分を聞き入れて、常胤に従来のように御厨下司職を認可した。しかし、常胤は4月になっても供祭料を納めなかった。一方で、義宗からは定められた通りの供祭料が納められたことから、伊勢神宮は一転して常胤の下司職を取り消し、あらためて義宗を「下司職」とし、「預所」も兼任する許可を出し、伊勢外宮の神官・度会神主が領主となった。そして長寛元(1163)年、義宗に対して相馬御厨に関する宣旨が出され、常胤の相馬御厨支配権は完全に喪失した。
◎永暦2(1161)年正月某日の『源義宗寄進状』に記された相馬御厨領域
1.限東…常陸国堺(常陸と下総の国境で、具体的な場所はわからず)
2.限南…坂東大路(「小野上大路」と同意か?)
3.限西…葛飾幸嶋両郡堺(両郡の堺は現在の利根川で、千葉県野田市木野崎・目吹付近か)
4.限北…絹河常陸国堺(小貝川)
相馬御厨は千葉介常胤の父・常重が相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進して成立した寄進地系の荘園である。相馬御厨は千葉介常重、源義朝、千葉介常胤、佐竹義宗、千葉介常胤と、大治5(1130)年から永暦2(1161)年の30年にわたって5回の寄進が行われている。
『下総権介平朝臣経繁寄進状写』によれば、「経繁相伝之私領」である「相馬郡布施郷」を寄進する旨が記され、その「四至」として、東は蚊虻境、南は志子多谷・手下水海、西は廻谷・東大路、北は小阿高・衣川流が記されている。
| 年月日 | 東端 | 南端 | 西端 | 北端 | 文書 | |
| 1 | 大治5(1130)年 6月11日 |
蚊虻境 | 志子多谷并手下水海 | 廻谷并東大路 | 小阿高并衣河流 | 『下総権介平朝臣経繁寄進状写』 |
| 2 | 天養2(1145)年 3月 |
須渡河江口 | 藺沽上大路 | 繞谷并目吹岑 | 阿太加并絹河 | 『源義朝寄進状写』 |
| 3 | 久安2(1146)年 8月10日 |
逆川口・笠貫江 | 小野上大路 | 下川辺境并木崎廻谷 | 衣川・常陸国境 | 『平朝臣常胤寄進状写』 |
| 4 | 永暦2(1161)年 正月日 |
常陸国堺 | 坂東大路 | 葛餝・幸嶋両郡堺 | 絹河・常陸国境 | 『前左兵衛少尉源義宗寄進状写』 |
| 5 | 永暦2(1161)年 2月27日 |
逆川口・笠貫江 | 小野上大路 | 下川辺境并木崎廻谷 | 衣川・常陸国境 | 『下総権介平常胤解案写』 |
<1>蚊虻境 <2>須渡河江口 <3><5>逆川口・笠貫江 <4>常陸国堺
<1>「蚊虻境=蛟蛧境」については、現在の茨城県北相馬郡利根町立木周辺は古代、大蛇=蛟のように川筋が入り混じっていて、一帯は「蛟蛧(こうもう)」と呼ばれていた。延喜式内社として「蛟蛧神社」があり、現在でも台地上に二つの蛟蛧神社がある。とくに「奥ノ宮」と呼ばれる東の神社は台地の最東端に位置しており、平安期にはこのあたりまで「衣川(鬼怒川=小貝川)」が入り込み、常陸国境と接していた。
<2>「須渡河江口」については、現在の茨城県龍ヶ崎市須藤堀町周辺と思われ、「須渡河」の「江口」のことと推測される。「須渡河」は現在の河川には見えないが、おそらく現在の蛟蛧神社の眼前を流れていた小貝川の流れであったと思われる。「江口」は河口につながり、香取海(大きな意味での現在の利根川)に注ぎ込む地点であったと思われる。
<3><5>「逆川口」「笠貫江」については、小貝川の別称「前井川(さきいかわ)」とすると小貝川の河口のことと考えられ、「笠貫江」に関しては、蛟蛧神社の向かい利根町大房にかつてあった「笠貫沼」がまだ小貝川の河口であったころの名称と思われる。「笠貫」は蛟蛧神社の「ミタライ=御手洗」をカサヌキト云フ」という話が『下総国旧事考』に記されていて、蛟蛧神社の面前が「笠貫」と呼ばれていたという。
<1><2><3><5>はいずれも蛟蛧神社の東側を流れる河川によって相馬御厨の境界が定められており、それらはすべて小貝川の河口付近に設定されていて、<4>「常陸国堺」に通じている。
<1>志子多谷并手下水海 <2>藺沽上大路 <3><5>小野上大路 <4>坂東大路
<1>「志子多谷并手下水海」については、「志子多谷」は現在の柏市篠籠田(しこだ)のことで、手賀沼へ流れ込む大堀川の南側にある。「手賀水海」は現在の手賀沼のことで、古代から中世にかけて千葉県北部に広がっていた広大な入江・香取海の一部を形成している。
<2>「藺沽上大路」の「藺沽」は「藺沼(いぬま)」のことで、菅生沼(水海道市菅生町)から利根川に注ぐ「飯沼川」周辺、現在の東海寺(布施弁天)北麓の水田地一帯、取手市・我孫子市・柏市あたりにあった大きな沼地(飯沼=幸嶋広江)と思われる。「大路」は官道を指しており、国府と国府を結ぶ重要な道路であった。相馬郡内には、常陸国府から下総国府へ至る大路が現在の柏市内あたりを通過していたと思われ、その大路を指していると思われる。
<3><5>「小野上大路」については、現在の茨城県取手市井野のあたりを通過していた大路のことと思われ、<2>「藺沽上大路」や<4>「坂東大路」と同じ意味と思われる。井野から水路を経て相馬郡衙=郡庁(我孫子市日秀)に入り、手賀沼をわたって柏市大島田(=大路又:おおじまた)から柏市内へ抜けていたのかもしれない。
<1>廻谷并東大路 <2>繞谷并目吹岑 <3><5>下川辺境并木崎廻谷 <4>葛餝・幸嶋両郡堺
<1><2>「廻谷并東大路」の「廻」は「メグリ」とよみ、境界線を表す。東大路の存在は不明だが、<2>に見られる「繞谷」の「繞」も「メグリ」と読み、同一の地域を指していると思われる。つまり、<1>の「東大路」が走っていたところと「目吹岑」がほぼ同じ地域にあったと思われる。「目吹岑」は現在の野田市目吹付近の「岑」のことと思われ、熊野神社・香取神社などがある丘一帯か。
<3><5>「下川辺境」は葛飾郡下河辺庄の境目である太日川(大井川=江戸川)、「木崎」は現在の千葉県野田市木野崎に相当すると思われ、目吹とは北接している。木野崎は平安時代にはまだ川が流れていたと思われ、南の瀬戸と北の目吹の間に谷を形成して、「廻谷」と呼ばれていたのかもしれない。
<4>「葛餝(葛飾)・幸嶋両郡堺」については、葛飾郡・猿島郡の境であるから、目吹の前を流れる利根川、さらには南に下って下河辺庄との境の太日川、東経139度54分付近が西の境界となっていたか。
<1>小阿高并衣河流 <2>阿太加并絹河 <3><5>衣川・常陸国境 <4>絹河・常陸国境
<1>「小阿高并衣河流」と<2>「阿太加并絹河」については、「小阿高」「阿太加」は現在の茨城県稲敷郡伊奈町足高と推測され、「衣河流」「絹河」は小貝川(=鬼怒川)のことであり、現在の伊奈町城中にある城中八幡神社が中世の陸地の東端であったと推測される。<3><5>「衣川・常陸国境」、<4>「絹河・常陸国境」についても、ほぼ同じく現在の牛久沼の南端を指していると思われる。
| 大治5(1130)年6月11日 |
『下総権介平朝臣経繁寄進状』→相馬御厨の成立 |
| 保延元(1135)年2月 |
常胤、18歳で「相馬御厨下司職」を継承。 |
| 保延2(1136)年7月15日 | 藤原親通、相馬郡司の常重の年貢未進を責めて、常重を逮捕
※常重の下総権介も事実上解任か? その後、親通と親密な海上常衡(常重弟)が下総権介を認められるか? 藤原親通、相馬郷・立花郷を常重より押し取る |
| 康治2(1143)年 | 源義朝、上総権介常澄の「浮言」を理由に、常重から相馬郷を押し取る |
| 天養2(1145)年3月 | 源義朝、伊勢神宮の怒りを買い、神威を恐れて奪い取った相馬郷を伊勢二宮に寄進 |
| 久安2(1146)年4月 | 常胤、国衙に税を納めて、正式に相馬郡司に任じられる(立花郷は返還されず) |
| 8月10日 | 『御厨下司正六位上平朝臣常胤寄進状』→常胤によるはじめての寄進 常胤、伊勢神宮より御厨下司職に改めて任じられる |
| ???? | 常胤、「下総権介」に任じられるか |
| 保元元(1156)年7月 | 「保元の乱」が起こる 常胤、上総介八郎広常(上総権介常澄八男)とともに源義朝の郎党として参戦 |
| 平治元(1159)年12月 | 「平治の乱」が起こる→源義朝、敗れて暗殺される 常胤は参戦せず、広常は義朝長男・悪源太義平の郎党として参戦する |
| 永暦元(1160)年 | 常胤、相馬御厨を「謀叛人・義朝領」として国衙に没収される |
| 某月 | 常胤、相馬御厨は千葉氏相伝の地であって義朝領ではなく、「伊勢神宮領」として国衙に奉免を求める |
| 永暦2(1161)年1月日 | 『前左兵衛少尉源義宗寄進状』→佐竹義宗による突然の寄進 |
| 2月27日 | 『下総権介平常胤解案』 |
| 4月1日 | 常胤、伊勢外宮・稲木大夫に自分の正当性と義宗の非法を訴え、御厨下司を認められる。
『下総権介平申文案』 |
| 4月 | 常胤、年貢未進につき、下司職解任。義宗に下司職・預所職が認められる。 |
| -佐竹家略系図- 千葉常兼――海上介常衡―常幹―――片岡常晴
|
常胤が当時、対立関係にあった下総国司藤原氏は、平治の乱以降、京都で権力を握った平清盛と縁戚となり(藤原下総守親政の妹は平重盛の妾・二条院内侍)、「下総権介」は常重のあとは彼の弟の海上与一常衡が継承していたようである。常胤の叔父にあたる人物である。
常衡の所領である海上郡海上庄は、国司・藤原親政(皇嘉門院判官代)が領家をつとめた「千田庄」に隣接しており、両者は深い交流をもっていたと考えられる。その常衡の孫にあたる片岡太郎常晴は「佐竹太郎(佐竹義政=忠義か)」の聟となっており、頼朝の佐竹氏討伐の際には佐竹氏の一味とされ、追討されたという。
その後、片岡常晴はしばらく名を見せないが、源義経の郎党である「片岡経春」は「常陸国鹿島行方といふ荒磯に素生したる者」として登場しており、彼と「片岡常晴」は同一人物ともいわれている。
-下総藤原氏家系図-
藤原師輔―+―兼家――+―道綱 +―伊周 +―親頼――+―親長 +―親長――――+―宣親
(関白) |(関白) |(右大将)|(内大臣) |(右馬助)|(皇嘉門院判官代)|(皇太后宮亮)|(日向守)
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| +―道隆――+―隆家 | +―親能――――――+―親光 +―忠能
| |(関白) (太宰権帥) | (散位) (延暦寺律師)
| | |
| +―道長――――頼通―――師実―――… +―親方――――――――二条院内侍
| (関白) (関白) (関白) |(下総守) |
| | ↓
+―為光――――公信――――保家―――公基―――伊信―――親通――+―親盛――+=====二条院内侍
(太政大臣)(権中納言)(春宮亮)(周防守)(長門守)(下総守)|(下総守)| ∥
| | ∥
| | ∥――――資盛
| | ∥ (右少将)
| | +―平清盛―――重盛
| | |(太政大臣)(内大臣)
| | |
| | +―娘 +―功徳院快雅
| | ∥ |(延暦寺僧正)
| | ∥ |
| +―千田親政――――+―聖円
| |(皇嘉門院判官代) (延暦寺律師)
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| +―盛光
| |(筑前権守)
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| +―盛保
| |(散位)
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| +―顕盛==日野邦俊――邦行―――種範―――俊基
| | (彈正少弼)(大学頭)(治部卿)(少納言)
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| +―円玄
| |(延暦寺法橋)
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| +―弁然
| (延暦寺)
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+―承元――+―承長
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+―円空 +―覚経
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+―忠顕
(延暦寺阿闍梨)
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◎海上氏略系図◎
⇒千葉介常兼―海上与一介常衡―介太郎常幹―小大夫常親―小大夫次郎常宗
※上記の「介」という称は「下総権介」をあらわしており、「千葉介常胤」であれば「千葉の下総権介平常胤」という意味合いになり、「千葉庄(もと千葉郷)」を本拠とする「下総権介」の「平常胤」ということになる。ただし、この「下総権介」が正しく除目によって下されたものかは不明。
これを常衡以下にあてはめると、
◎海上与一介常衡⇒「海上庄」を領した「下総権介」平氏の11男(与一)の常衡
◎海上介太郎常幹⇒「下総権介」の「長男=太郎」である常幹
◎小大夫常親⇒「従五位下=大夫」である父・常幹の子の「従五位下=大夫」の常親
◎小大夫次郎常宗⇒「小大夫」の常親の「次男=次郎」の常宗
常衡の背景には、下総西部に「下総守」として大きな勢力を築いていた藤原親通―親盛の力が及んでいたと考えられ、さらに下総藤原氏と強い関わりを持つ佐竹氏=常陸大掾家(常陸平氏)とも交流があった。
保延元(1135)年2月、わずか十八歳の常胤が相馬御厨の地主職を継承すると、翌保延2(1136)年7月15日、公田の年貢未進を理由に父・常重が逮捕された。そして庁目代・紀季経をして「准白布七百反」の納付を常重に命じ、さらにそれでも飽き足らず11月13日には、相馬郷・立花郷についての「新券」を無理やりに作らせて進呈させた。
常重はこのとき「下総権介」の肩書を持っていたが、国司による奏請によって事実上解任されたのではないだろうか。そして親通と親密な関係にある海上常衡(常重の弟)が新たな「下総権介」とする旨が申請されたとも考えられる。なお、常胤は久安2(1146)年時点で、「正六位上平朝臣常胤」と官職の肩書きがないことから、まだ下総権介ではないと考えられる。
常衡や常幹の常陸大掾家との関わりを示すものとして「衡」「幹」の字がある。つまり、常陸大掾家と姻戚関係にあった佐竹氏とも深い繋がりがあったと思われる。そして下総守藤原氏=佐竹氏=常陸大掾平氏=下総権介常衡という強固な関係を築き上げたと思われる。また、常幹の子・常親は「大夫=五位」であり、東国の豪族が与えられる官位としては比較的高いものであるが、常胤は寄進状に見るように「正六位上」に過ぎず、「大夫=従五位下」のひとつ下に位置している。その官位は頼朝挙兵ののちもそのままであったと考えられ、頼朝は常胤の六男・六郎太夫胤頼が父よりも官位の高い「大夫=従五位下」であったことから、席次を常胤の対座とした逸話もある。
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5,以仁王の乱
与一介常衡亡きあと、久安2(1146)年から永暦元(1160)年の間に常胤が「下総権介」に就任した。このころ常胤は、国司・下総藤原氏の下知に従っていたと考えられる(『下総権介平常胤解案』)。そして、久安2(1146)年4月、国司の指示によって常胤は「相馬郡司」に就任。「可令知行郡務之旨」が命じられたが、相馬郡とともに没収された「立花郷(現在の東庄町)」については「被拘留立花郷壱處許之故、所不被返与件新券也」とあるように返還はされなかった。立花郷は下総藤原氏がいた千田庄に隣接していることから、藤原氏がみずからの支配としていたか。
千葉氏は常兼・常重のころから「下総権介」として国衙付近(千葉県市川市国府台)に館を持ち、その官牧・国分寺領の支配をしていたと思われる。常胤もこの地を領しており、五男・五郎胤通は国分館に住し、国分五郎を称していた。
また、常胤の六男・六郎太夫胤頼は相模の三浦荒次郎義澄と同じく大番役として上洛しており、胤頼は上西門院統子内親王(鳥羽院の皇女)に仕えて「従五位下」を賜り、「千葉六郎大夫」と称した。そして胤頼・義澄が大番の任期が切れて帰国する予定だった治承5(1180)年5月、以仁王(後白河院の皇子)と源三位頼政入道の乱(源三位の乱)が京都で起こったため、朝廷は大番として上洛している侍の帰国を禁じた。胤頼・義澄も京都守備兵として京都に残っていたようである。この乱の首謀者・以仁王の近侍として、胤頼の兄弟・園城寺律静房日胤がおり、宇治の光明寺鳥居前において戦死した。
乱が収束すると、大番役の任期が切れた侍の帰国が認められ、胤頼・義澄は東国へ帰って伊豆国田方郡北条の頼朝のもとを訪れた。ここで彼らは頼政の挙兵と帰国の遅参を詫びた上で、京都における平氏政権の状態を告げて挙兵をすすめたと思われる。そして胤頼・義澄はそれぞれ郷里に帰り、頼朝は源頼政から遣わされた叔父・新宮十郎行家から「以仁王の令旨」を受け取ると、挙兵の意志を固め、舅・北条時政一族はじめ、伊豆の豪族たちを率いて、伊豆国目代・山木判官平兼隆とその後見・橘遠茂を攻めて挙兵した。時は治承4(1180)年8月17日である。
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| 伝三浦義明墓(材木座来迎寺) |
このころ平家は、伊豆で伊豆前司源仲綱(源頼政の子)の子息が不穏な動きをしていることを察し、相模国の平家党である大庭景親を鎮定のために下していた。ところが、仲綱の子は陸奥国へ逃亡した。
頼朝の挙兵はこのようなときに起こり、大庭景親率いる平家軍と伊豆・相模の国境である「石橋山」で戦い、大敗を喫した。頼朝ら一党は箱根山中に潜伏し、大庭勢に属していながら頼朝に好意を持っていた梶原景時・飯田家義の機転によって命を救われ、真鶴から相模灘へ出帆して海上で三浦郡の三浦氏と合流。安房の洲﨑(上総国猟嶋とも)に上陸して、幼馴染の安西三郎景益を頼った。三浦氏は頼朝に味方した三浦大介義明が率いていたが、義明は子の義澄や孫の和田義盛らに一族を託し、自らはわずかな一族とともに伊豆国三浦郡の衣笠山に籠もり、平家に加担していた秩父党によって討たれた。八十余歳であった。
その数日間のあいだに、三浦義澄の手で安房最大の平家党・長狭常伴を討ち、挙兵の前からよしみを通じていたかつての源氏の郎党、「上総介八郎広常・千葉介常胤」に親書を送った。
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| 亥鼻城の土塁(室町期) |
安房国の頼朝のもとから藤九郎盛長が千葉氏の屋敷に派遣され、常胤と面会した。常胤は頼朝の書状と院宣の写しを見せられ、「この常胤をそれほど期待しておられるのか」と感激する一方で、「上総介とあいはかって返答申し上げる」と答えて盛長を帰した。盛長は返答を持って安房へ戻る途中、馬を走らせていた常胤の嫡孫・成胤とたまたま出会い、これまでの事の次第を告げた。子細を聞いた成胤は盛長を伴って館へ戻ると、常胤に「我々は上総介の家来にあらず、彼の下知に従うことはない」と詰め寄り、常胤は頼朝のもとに参ずることを承知したという。
9月12日、常胤は頼朝を迎えに上総へ向かおうとするが、下総目代が平家方の人物であることから、
「我等が一族、尽く境を出でて源家に参らば、定めて兇害を挿むべし、先づこれを誅す可か」
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| 千葉氏と藤原親正との戦い |
と、六男の胤頼が進言したため、常胤は胤頼と成胤(嫡孫)に目代の追討を命じた。
胤頼と成胤は早速手勢を集めて街道を西へ向かい、翌13日、国府(市川市国府台)の目代館を取り囲んだ。しかし、目代はすでに守りを固めていて胤頼らを寄せつけない。このため胤頼らは戦略を火攻めに切り替え、成胤は夜陰にまぎれて目代館の裏手に火を放った。目代館は混乱し、胤頼は一気に館に斬りこんで目代の首を挙げた。上総へ向かった軍勢の中に、胤頼・成胤のほかに国分五郎胤通(胤頼の兄)の名も見えないため、彼もこの戦いに加勢をしていた可能性もある。
→千葉介常胤―+―千葉胤正――+―千葉成胤
(千葉介) |(太郎) |(小太郎)
| |
+―国分胤通 +―境常秀
|(五郎) (平次)
|
+―千葉胤頼
(六郎大夫)
こうして国府周辺は完全に千葉氏の支配下におさまり、常胤は成胤を千葉庄の守備に残し、胤正・常秀(成胤弟)らをともなって上総国へ向かった。しかしこのとき、平家党の下総守・藤原親政が頼朝追討の兵千騎を率いて上総へ向かっていた。13日、白井庄馬渡郷(佐倉市馬渡)を越えた藤原勢は、翌14日、千葉庄になだれ込んで、留守を守っていた千葉小太郎成胤と合戦となった。成胤は山辺太郎成高、寺山五郎久能入道、神田次郎成利、長峯田所三郎胤行ら家子郎党を率いて結城浜(現在の千葉駅周辺)に繰り出して迎え討つ一方で、上総の祖父に危急の早馬を飛ばすが、兵力において劣る成胤は次第に押され、南に追い立てられいった(『千学集抜粋』)。
そのころ、上総国府で頼朝と面会していた常胤のもとに成胤からの急使が到着。千葉庄に国司が攻め入っていることを知った常胤は 、ただちに麾下三百騎をまとめて千葉に戻り、成胤勢と合流して国司勢を追いつめ、ついに藤原親政は成胤によって生け捕られた。
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| 頼朝の挙兵から佐竹氏討伐までの日程(『吾妻鏡』) |
9月17日、頼朝は下総国府(市川市国府台)に参着。常胤は子息六人(胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼)と成胤に郎党三百余騎を具して出迎えた。頼朝はこの出迎えに感動し、常胤に「須らく司馬(介)をもって父と為す」と言ったという。
その酒宴の席で、常胤は生け捕った国司・藤原親政を頼朝の面前に引き立てた。下総藤原氏と常胤の所領をめぐるいさかいは、親政の祖父・藤原親通が常胤の父・常重から相馬郡などを強奪した保延2(1136)年7月から44年間続いていた根の深い対立であったが、ここに常胤ははじめて勝利を手にした。
「千葉介は子息太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等を相具して下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。常胤先づ囚人千田判官代親政召覧せしめ、次に駄餉を献ず。武衛、常胤を座右に招かしめたまひ、すべからく司馬をもって父と為すべきの由仰せらる」
9月19日、頼朝軍が隅田川畔で陣を張っていると、上総権介広常が、上総国周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の武士団二万余騎を引き連れて参陣した。『吾妻鏡』によれば、頼朝は広常の遅参を叱責し、広常は面食らって遅参を詫びると同時に頼朝を頼むに足る大将とみとめたとされる。
◎頼朝側の主な構成
| 有力在庁 |
平 広常…上総平氏。上総権介。坂東最大級の豪族。 |
| 任官していた 豪族 |
宇都宮朝綱…下野国宇都宮検校。八田権守宗綱の子息。左衛門権少尉。秩父党・稲毛重成の叔父。
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| 荘官 |
下河辺行平…源頼政の郎党・下河辺庄司行義の子で、八条院領・下河辺庄の庄司をつとめた。
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| 在庁官人 |
比企能員…阿波国出身ともされる。頼朝の乳母
・比企尼の甥。
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| 豪族 |
土肥実平、佐々木定綱、…等々。 |
| 平家家人 |
熊谷直実…武蔵熊谷郷の人。一谷で平敦盛を討った人物。伯父との所領問題で遁世し、法然の門人となる。
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| 官吏出身 |
藤九郎盛長…京都にゆかりの人物で、比企尼の聟。頼朝の直臣。足立遠元とは血縁上の関係はない。 |
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| 武蔵国から国府台を望む |
頼朝はその後「鷺沼」に逗留した。「鷺沼」は千葉県習志野市鷺沼とも葛西清重の勢力下であった東京都葛飾区新宿ともいわれているが不明。10月1日に鷺沼旅館で異母弟・醍醐禅師全成(義経の実兄)と「泣いてその志に感じせしめ給う」と対面をすませたあと、翌2日、広常・常胤が調達した舟筏に乗って隅田川を渡り、豊島権守清元・葛西三郎清重・足立右馬允遠元がその麾下に加わった。さらに同日、頼朝の乳母・寒河尼(八田権守宗綱の娘で、小山下野大掾政光の妻)が十四歳になる末子を連れて陣に参じ、頼朝はそこでその少年の烏帽子親として元服式を行い、みずからの一字「朝」字を与えて「小山七郎宗朝(のちの結城朝光)」を名乗らせた。
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→藤原宗円―――八田宗綱―+―宇都宮朝綱 |
3日、常胤は上総国で起こった伊北庄司常仲(広常の甥)の反乱を鎮圧するため、嫡男・胤正らに厳命して上総に派遣。常仲を潰走させた。常仲を討ったかは不明。
常仲は伊南庄から伊北庄にまで勢力を拡げ、伊北庄司となっていた。『吾妻鏡』には、常仲は「長狭常伴の外甥」であるために誅されたとあるが、常伴は頼朝を討とうとした平家党の人物である。常仲の父・伊南新介常景は弟の印東次郎常茂に暗殺され、実質的に上総国を束ねたのはその弟・広常であった。
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| 畠山重忠銅像 |
4日、平家方として戦っていた秩父党の有力者・畠山庄司次郎重忠が頼朝に降参し、さらに、秩父党棟梁・河越太郎重頼や江戸太郎重長が次々に頼朝勢に参加。畠山重忠は、かつて「後三年の役」の時、先祖の秩父武綱が先陣をつとめて戦功を挙げたいわれがあったため、これ以降、戦いには畠山重忠が先陣を、しんがりは千葉介常胤がつとめることとなった。
6日、頼朝軍は畠山重忠が先陣、千葉介常胤が後陣をつとめて相模国に入り、翌7日、鎌倉へ入った。
鎌倉に入った直後、富士川では武田太郎信義ら甲斐源氏の奇襲によって平維盛・平忠度率いる平家正規軍が壊滅。頼朝は逃れる平家勢のあとを追って京都に攻め上ろうとしたが、常胤や広常、三浦義澄ら東国の豪族たちが「常陸にまだ敵方の佐竹氏がいるので、さきにこれを平らげてそれから西へ向かうべきです」と進言したことから、頼朝は彼らの意見を入れて京都へ攻め上ることを断念した。そして相模国府への途中の黄瀬川で、奥州平泉から頼朝を頼って弟・義経が到着。義経の実兄・醍醐禅師全成ともども、「互に往事を談じ、懐旧の涙を催す」出会いをした。
10月23日、相模国府に到着した頼朝は、北条時政以下の諸将に論功行賞をおこなった。そして10月26日、広常に預けられていた宿敵・大庭景親らを片瀬川で処刑した。
10月27日、頼朝は佐竹氏討伐のために常陸国へと下向した。11月4日に常陸国府に入り、上総権介広常・千葉介常胤・三浦介義澄・土肥次郎実平ら宿老を召集し、佐竹氏の縁者である上総権介広常をもって、まず佐竹太郎義政を誘殺し、一族・佐竹蔵人義季を味方に引き込んで金砂城を攻めたため、当主・佐竹秀義は奥州平泉の藤原秀衡を頼って落ち延びていった。常胤ら東国の有力武士たちにとって、旗頭となる存在は大変重要であり、佐竹氏は上総・千葉氏にとっては所領をめぐる敵でもあり、彼らが佐竹氏の追討をのぞんだのは、こういった背景があったとも思われる。
11月17日、頼朝は鎌倉へ帰着。12月12日、上総権介広常の屋敷より新造の邸宅へと移った。北条時政以下、諸将がこれに従ったが、千葉介常胤は、足利冠者義兼、山名冠者義範といった源氏一門のすぐ次に従う栄誉を得、胤正、胤頼が常胤に従った。この中で注目されるのが、胤頼は常胤の六男にも関わらず、嫡子の胤正とともに栄誉に浴しており、ほかの兄たちと比べて優遇されていることがうかがえる。頼朝の挙兵を影から支えていたと思われることや、京都で本所(上西門院)に出仕して位階を得ていることなどがあったのだろう。
治承5(1181)年1月1日、頼朝はこの年初めての鶴岡若宮参詣をおこなった。これを先例とし、鎌倉幕府を通じて元旦をもって奉幣の日と定められた。この時は、三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭平太景義が郎従を率いて辻を警護した。その後、頼朝が騎馬で到着し、神馬一疋を宇佐美三郎祐茂、仁田四郎忠常が引いて奉納した。その後、法華経供養と説教を聞いた後、屋敷へと帰還した。参詣ののち、千葉介常胤が椀飯を献じられた。その後、次第に大規模で形式に固まっていくこの元旦参詣だが、この時は大変おおらかな雰囲気が感じられる。
その後、常胤は一族郎等を率いて木曾義仲との戦いや、平家との戦いに加わって戦功を挙げ、京都でも常胤は下河辺行平と並んでその勇名を知られていた。盗賊が暴れていた京都に常胤・行平が治安維持のために上洛すると、たちまち盗賊らは姿を消したという。養和2(1182)年8月18日の頼朝の嫡男・頼家の御七夜の儀は、常胤が奉行し、妻・秩父重弘娘、子息六人がそれに従っている。
「七夜の儀、千葉介常胤これを沙汰す。常胤子息六人を相具して侍の上に著く。父子白水水干を装ひ、胤正の母、秩父太郎重弘女をもって御前の陪膳となす。又進物あり、嫡男胤正、次男師常御甲を舁ぐ。三男胤盛、四男胤信御馬 鞍を置く を引く。五男胤道御弓箭持ち、六男胤頼御剣を役し、各庭上に列す。兄弟皆容疑神妙の壮士なり。武衛、殊にこれを感ぜしめ給ふ、諸人又壮観と為す」
常胤は、平家との争いでは大手軍の大将・源範頼の軍監として従軍。元暦元(1184)年8月8日、頼朝は九州の豪族を支配下におさめるため、範頼に千余騎を与えて上洛を命じた。このときも常胤は孫の平次常秀らとともに従軍した。軍勢は途中で参陣してくる者を加え、京都につく頃には三万騎を数える大軍となっていた。
●元暦元(1184)年8月8日範頼上洛軍従軍諸士(『吾妻鏡』)
| 北条小四郎義時 | 足利蔵人義兼 | 武田兵衛尉有義 | 千葉介常胤 | 境平次常秀 | 三浦介義澄 |
| 三浦平太義村 | 八田四郎武者知家 | 八田太郎朝重 | 葛西三郎清重 | 長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 |
| 比企藤内所朝宗 | 比企藤四郎能員 | 阿曽沼四郎広綱 | 和田太郎義盛 | 和田三郎宗実 | 和田四郎義胤 |
| 大多和次郎義成 | 安西三郎景益 | 安西太郎明景 | 大河戸太郎廣行 | 大河戸三郎 | 中条藤次家長 |
| 工藤一臈祐経 | 宇佐美三郎祐茂 | 天野藤内所遠景 | 小野寺太郎道綱 | 一品房昌寛 | 土佐房昌俊 |
9月1日、範頼は京都を発して周防に攻めこんだが、範頼があてにしていた現地の米は、彦島に陣を構える平知盛によってすでに刈り取られ、さらに知盛軍による糧道封鎖のために源氏軍はいちじるしい兵糧不足に陥った。さらに九州に攻め入るために必要な舟もすべて知盛が押収していたため、範頼らは九州へ渡海することができなくなった。長門国に終結した鎌倉勢の士気は極端に低下し、侍の多くが鎌倉へ帰る素振りを見せており、進退に窮した範頼は元暦元(1184)年11月14日、物資の救援を頼朝にもとめる使者を遣わした。使者は翌元暦2(1185)年正月6日、鎌倉に参著。範頼の書状を読んだ頼朝は、
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1,九州諸勢は簡単には従わないと思うので、騒がず、くれぐれもくれぐれも、国人に憎まれるようなことはしないこと
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という返書を送った。最後には、「千葉介、殊に軍にも高名してけり、大事にせられ候べし」と、常胤を重く用いるよう指示している。さらに、それに続けてもう一通したため、降伏する国人たちに対する対処や、小山朝政一党を大事にあつかうべきこと、さらに「甲斐の殿原(甲斐源氏)」の中では「いさは殿(石和信光)、か々み殿(加々美遠光)」を大事に用いるべきこと、ただ「か々み太郎殿(武田信義)」は「二郎殿(遠光)の兄」ではあられるが、平家に仕え、また木曽にも仕えるなど心定かでない人なので、重く用いず、弟の二郎殿を重く用いるべきこと、などを申し伝えた。さらに円滑に範頼軍が動けるように、頼朝は九州の武士たちに「参河守(範頼)」の下知に従うべき事を記した書状を遣わしている。そして1月8日、京都に駐屯させていた弟・義経にも出陣を命じた。
●清和源氏略系図(為義を義家の実子とする)
⇒源頼義―+―源義家――――源為義――――源義朝――――+―源頼朝
(陸奥守)|(八幡太郎) (六条判官) (下野守) |(左兵衛佐)
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+―源義綱 +―源範頼
|(加茂次郎) |(三河守)
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| +―阿野全成
| |(醍醐禅師)
| |
| +―源義経
| (伊予守)
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+―源義光――+―武田義清―――逸見清光―――+―武田信義―――石和信光
(新羅三郎)|(三郎) (源太) |(太郎) (五郎)
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| +―加賀美遠光――小笠原長清
| (二郎) (二郎)
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+―平賀盛義―――平賀義信―――+―大内惟義
(左兵衛尉) (武蔵守) |(相模守)
|
+―平賀朝雅
(右衛門権佐)
だが、あいかわらず兵糧も舟も確保できない源氏方の士気はおとろえる一方で、侍を統括すべき立場の和田義盛ですら鎌倉への帰還を願うようになっていた。しかし正月12日、以前から源氏に心を寄せていた豊前宇佐八幡宮司一族の臼杵惟隆・緒方惟栄の兄弟がにわかに範頼に好を通じたため、範頼は彼らに兵船の用意を命じ、26日には八十二艘もの兵船が提供されることとなった。こうして範頼以下三十九人の大将が渡海して豊前に上陸。千葉介常胤も老体をおして孫の境平次常秀とともに渡海している。
●元暦2(1185)年1月26日範頼渡海軍従軍諸士(『吾妻鏡』)
| 北条小四郎義時 | 足利蔵人義兼 | 武田兵衛尉有義 | 小山兵衛尉朝政 | 長沼五郎宗政 | 結城七郎朝光 |
| 武田兵衛尉有義 | 齋院次官中原親能 | 千葉介常胤 | 境平次常秀 | 下河辺庄司行平 | 下河辺四郎政能 |
| 阿曽沼四郎広綱 | 三浦介義澄 | 三浦平太義村 | 八田四郎武者知家 | 八田太郎朝重 | 葛西三郎清重 |
| 渋谷庄司重国 | 渋谷二郎高重 | 比企藤内所朝宗 | 比企藤四郎能員 | 和田小太郎義盛 | 和田三郎宗実 |
| 和田四郎義胤 | 大多和三郎義成 | 安西三郎景益 | 安西太郎明景 | 大河戸太郎廣行 | 大河戸三郎 |
| 中条藤次家長 | 加藤次景廉 | 工藤一臈祐経 | 宇佐美三郎祐茂 | 天野藤内所遠景 | 一品房昌寛 |
| 土佐房昌俊 | 小野寺太郎道綱 |
このとき範頼が周防国の留守を任すべき人物について、
「周防国は、西は宰府に隣し、東は洛陽に近し。この所より、子細を京都と関東に通じて、計略を廻らすべきの由、武衛兼日の命あり。然れば、有勢の精兵を留めて、当国を守らしめんと欲す。誰人を差すべきや」
と諸大将に問うと、常胤が進み出て、
「義澄は精兵たり。また多勢の者なり。早く仰せらるべし」
と三浦介義澄を推薦した。このため、範頼はさっそく義澄に周防国の守護を指示すると義澄は、
「意を先登に懸くるのところ、いたづらにこの地に留まらば、何を以てか功を立てんや」
と、戦いの無い周防を守るのみでは功績をあげることはできないとして、辞退した。しかし、範頼は周防は九州と京都、関東を結ぶ重要地であり、勇敢な者しかその任を任せることができないと、再三に渡って義澄を説得したため、義澄もついに折れて周防国の守備に就くこととなった。
一方、九州に渡った範頼であったが、かねてよりの兵糧不足がよりいっそう深刻化し、ふたたび和田義盛・工藤祐経らが鎌倉への帰還をほのめかしたため、範頼は鎌倉にこの状況を伝え、3月9日、範頼の書状が鎌倉についた。
「平家の在所近々たるにつきて、相構へて豊後国に著くのところ、民庶尽く逃亡するの間、兵粮その術なきによつて、和田太郎兄弟、大多和次郎、工藤一臈以下の侍数輩、推して帰参せんと欲するの間、まげてこれを抑留し、相伴ひて渡海し了んぬ。なほ、御旨を加へらるべきか。継ぎに熊野別当湛増、廷尉の引汲によつて追討使を承り、去ぬる比讃岐国に渡り、今また九国に入るべきの由、その聞えあり。四国の事は義経これを奉り、九州の事は範頼奉るのところ、さらにまた然るごときの輩を抽んでられば、ただ身の面目を失ふのみにあらず、すでに他の勇士なきに似たり。人の思ふところ、尤も恥と為すと云々。」
翌々日の11日、頼朝は使者に返書を持たせて九州へ遣わした。
頼朝は、とくに常胤について言及している。
翌日、頼朝は範頼勢への補給として、兵船三十二艘を伊豆国鯉名・妻郎津に浮かべて兵粮を乗せ、筑後権守藤原俊兼を奉行として西海に派遣した。さらに3月21日には、周防国在庁官人・船所五郎正利がにわかに鎌倉搦手軍・義経に船を献じて源氏に荷担した。そして義経は22日、周防国を守護していた三浦介義澄を先陣に命じて舟を壇ノ浦に進めた。
3月23日、彦島の平知盛と四国屋島から逃れてきた平宗盛ら平家一族が赤間ヶ関沖で合流。24日、赤間ヶ関沖の壇ノ浦で源氏と平家が最後の戦いを繰り広げた。ここで阿波民部重能の水軍に裏切られた平家軍が次第に押され、二位尼(清盛の妻・時子)は、頼朝がなんとしても無事に入手せよと厳命していた「三種の神器」のひとつ、宝剣(草薙剣)を抱き、按察局は安徳天皇を抱いて入水した。安徳天皇御歳八歳であった。
天皇の御母・建礼門院徳子(清盛娘)は入水したものの、源氏方の渡邊源五允によって救われた。また、安徳天皇を抱いて入水した按察局も引き上げられている。しかし、天皇と宝剣はついに浮かび上がってくることはなかった。
4月21日、鎌倉の頼朝のもとに、軍監として従っていた梶原平三景時より戦況報告が届けられた。同時に義経への不満が披露されることとなった。範頼は頼朝の指示をよく守り、大小を問わず常胤・義盛の意見をよく取り入れていたのに対し、義経は「自専の慮を挿み、かえって御旨を守らず、偏に雅意に任せ、自由の張行を致すの間、人の恨を成す、景時に限らず」と、義経は頼朝の申しつけを守らずに独断専行でいていたことが伝えられた。義経はこれに重なって勝手な任官(頼朝の指示もなく、後白河法皇から検非違使尉に任命された)があって、頼朝によって排斥され討手を差し向けられたため、育ちの国・奥州平泉へと落ちていった。
文治2(1186)年1月3日、義経謀反のこともあって、延期されていた頼朝の二位叙爵の御直衣始めの儀が行われた。最前にあるのは、公家で頼朝の義弟にあたる左馬頭・藤原能保であった。
●文治2(1186)年1月3日頼朝鶴岡八幡宮御直衣儀供奉諸士(『吾妻鏡』)
| 一条左馬頭能保 | 前少将平時家 | 平賀武蔵守義信 | 宮内大輔源重頼 | 駿河守源広綱 | 散位源頼兼 |
| 因幡守大江広元 | 加賀守源俊隆 | 筑後権守藤原俊兼 | 安房判官代高重 | 判官代藤原邦通 | 所雑色基繁 |
| 千葉介常胤 | 足立右馬允遠元 | 八田右衛門尉知家 | 千葉散位胤頼 | 武田兵衛尉有義 | 板垣三郎兼信 |
| 工藤庄司景光 | 岡部権守泰綱 | 渋谷庄司重国 | 江戸太郎重継 | 市河別当行房 | 小諸太郎光兼 |
| 下河辺庄司行平 | 長沼五郎宗政 |
源義朝 +―源頼朝――――+―源頼家―――――――――竹御所
(下野守)|(右近衛大将) |(右近衛少将) ∥
∥ | | ∥
∥―――+―源希義 +―源実朝 ∥
∥ |(土佐冠者) (右大臣) ∥
∥ | ∥
藤原範季―――娘 +―娘 ∥
(熱田大宮司) ∥ 【征夷大将軍】 【征夷大将軍】
∥――――――――娘 +―藤原頼経―――――藤原頼嗣
⇒藤原通基―――藤原通重 ∥ ∥ |(権大納言)
(丹波守) ∥ ∥ |
∥―――――一条能保 ∥―――九条道家――+―教実
∥ (左馬頭) ∥ (関白) (関白)
藤原公能―――娘 ∥
(右大臣) ∥
∥
藤原忠通―――九条兼実―――――――――――九条良経
(法性寺関白)(月輪関白) (太政大臣)
参詣ののち、八幡宮にて椀飯が行われた。供奉人として参列した人々が八幡宮庭の左右にわかれて座ったが、このとき胤頼は、父・千葉介常胤に相対して着座した。列した人々は、子が父と同列とはいささか礼を失していると見咎めたが、これは頼朝の指示であった。常胤は胤頼の父であるが、天皇から賜った位は「六位」である。一方、胤頼は子といえども「五位=大夫」の位を賜っていることからの配慮であった。胤頼は頼朝の子息中でもっとも頼朝と深く関わり、三浦介義澄とともに挙兵を勧め、常胤にも参戦を呼びかけた人物である。もっとも大功あるものとして頼朝の信頼は殊に厚かった。
常胤は平家追討の功績として、各地の平家没官領の地頭職を賜ることとなる。南の薩摩国においては、島津庄寄郡内祁答院・甑島没官領地頭、高城郡没官領地頭、入来院内没官領地頭、東郷別府没官領地頭などが与えられている。
常胤はその後、下総国に帰国。留守の一族郎従に平家滅亡の報告がなされたと思われる。しばらく下総国で政務等も行っていたのだろう。ふたたび鎌倉に戻ったのは12月1日であった。鎌倉に戻った常胤は、頼朝の屋敷の西侍に出向いて頼朝と対面。盃酒を賜った。この席には小山朝政、三善善信、岡崎義実、足立遠元、藤原盛長ら宿老たちが列席しており、久しぶりの邂逅に花が咲いたことだろう。たくさんの瓜が出され、宴会が開かれた。常胤は座を起って踊り、三善善信入道は催馬楽を歌った。
文治3(1187)年8月30日、京都で起こった狼藉の糾明や没官領の仕置きなどのため、常胤が使節として上洛を命じられた。本来は27日に下河辺行平とともに上洛する予定であったが、病のために遅れての出立となった。
9月11日に京都に入った行平は、夜に入るとさっそく京都に跋扈していたという群盗を窺い、尊勝寺の辺りに屯していた怪しい男たち八名を搦めとった。彼らは犯行を自供したことから、常胤の入洛を待たずに彼らを処刑した。その後、14日になって常胤が京都に着いた。これ以降、京都に群盗が出没する事はなくなった。
10月3日、下河辺行平、千葉介常胤は群盗の事などの条々を奉聞し勅答を得、その報告が鎌倉に届けられた。そして8日、行平、常胤は京都から帰倉。頼朝の友人でもあった御前に召されてねぎらいの言葉を掛けられている。
文治5(1189)年4月18日、常胤は北条時政の三男の元服式に、嫡孫・成胤とともに列席。三浦義連の加冠によって元服し、偏諱を受けて「北条五郎時連」(のちの北条時房)を称した。
6月9日、常胤は胤正、師常、胤信、胤頼ら子息とともに鶴岡八幡宮の御塔供養に参列した。
●鶴岡八幡宮御塔供養列席者
| 導師 | 法橋観性 |
| 呪願 | 法眼円暁(若宮別当) |
| 行事 | 三善隼人佐康清、梶原平三景時 |
| 先陣 随兵 |
小山兵衛尉朝政、土肥次郎実平、下河辺庄司行平、小山田三郎重成、三浦介義澄、葛西三郎清重、八田太郎朝重、江戸太郎重継、二宮小太郎光忠、熊谷小次郎直家、逸見三郎光行、徳河三郎義秀、新田蔵人義兼、武田兵衛尉有義、北条小四郎義時、武田五郎信光 |
| 御徒 | 佐貫四郎大夫広綱(御剣)、佐々木左衛門尉高綱(御調度)、梶原左衛門尉景季(御甲) |
| 御後 参列 | 大内武蔵守義信、安田遠江守義定、伏見駿河守広綱、三河守範頼、大内相模守惟義、安田越後守義資、大江因幡守広元、毛利豊後守季光、伊佐皇后宮権少進為宗、安房判官代源隆重、大和判官代藤原邦通、豊島紀伊権守有経、千葉介常胤、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元、橘右馬允公長、千葉大夫胤頼、畠山次郎重忠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長 |
| 後陣 随兵 | 小山七郎朝光、北条五郎時連、千葉太郎胤正、土屋次郎義清、里見冠者義成、浅利冠者遠義、佐原十郎義連、伊藤四郎家光、曾我太郎祐信、伊佐三郎行政、佐々木三郎盛綱、仁田四郎忠常、比企四郎能員、所六郎朝光、和田太郎義盛、梶原刑部丞朝景 |
供養ののち、錦を奉納。その後、神馬を奉納する際の引き手は下記の通り。ここに見える「千葉次郎師胤」は「師常」の誤りで「相馬次郎師常」のことである。「千葉四郎胤信」は千葉庄田部多村を領して「田部多四郎胤信」を称している。のちの大須賀氏の祖である。
●神馬の引き手
| 一ノ馬(葦毛馬) | 畠山次郎重忠 小山田四郎重朝 |
| 二ノ馬(河原毛) | 工藤庄司景光 宇佐見三郎祐茂 |
| 三ノ馬(葦毛) | 藤九郎盛長 渋谷次郎高重 |
| 四ノ馬(黒毛) | 千葉次郎師胤 千葉四郎胤信 |
| 五ノ馬(栗毛) | 小山五郎宗政 下河辺六郎 |
文治5(1189)年の奥州藤原氏との戦いでは、常胤は頼朝から軍旗の新調を命じられ、小山朝政から献上された絹を用いて7月8日、一丈二尺の白旗を二幅献上した。旗の形大きさは、「前九年役」の源頼義の旗と同じ寸法で、伊勢大明神・八幡大菩薩、下に向かい鳩を縫い取ったものである。この旗は三浦介義澄の手で鶴岡八幡宮に奉納され、七日間の祈祷ののち、奥州征討の旗とされた。また同日、下河辺庄司行平が新調の鎧を頼朝に献じた。普通は袖につけられる笠標が兜の後ろについているのを見て不思議に思った頼朝は、
「この簡袖に付くるを尋常の儀となすか、如何に」
と行平に問うた。これに行平は、
「これ嚢祖秀郷朝臣の佳例なり。その上、兵の本意は先登なり。先登に進むの時、敵は名謁をもつてその仁を知る。わが衆は後よりこの簡を見て、必ず某先登の由を知るべきものなり。ただし袖に付けしめたまふべきや否や、御意にあるべし。かくのごとき物を調進するの時は、家の様を用ゐるは故実なり」
と答えた。行平の先祖は「承平の乱」で平将門を討った藤原秀郷であり、将門に勝利した先例に習って縁起をかついだものであった。
軍容はできたものの、朝廷よりの承認がおりないため出陣できない頼朝は、7月16日、大庭景義(懐島平太)にこういった場合の故例を問うと、「軍中にては将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず、すでに奏聞を経らるるの上は、強ちその左右を待たしめ給うべからず、随いて泰衡は累代御家人の遺跡を受け継ぐ者なり、綸旨を下されずと雖も治罰を加え給うこと、何事かあらんや、就中、群参の軍士数日を費やすの条、かへって人の煩いなり。早く発向せしめ給うべし」と、戦いにおいては古来より将軍の命が優先されるであるとし、頼朝もこれをうけて後白河院の宣旨を待たずに出陣を決定。翌日には全軍を三手に分けて奥州に発向させた。海道大将軍は千葉介常胤・八田右衛門尉知家の二将。常陸下総の軍勢を引きつれて宇多行方郡を経て阿武隈川に向かった。北陸大将軍は比企能員・宇佐美実政の二将。上野国の軍を引き連れて越後から出羽に向かった。そして大手軍は頼朝が自ら率いて出陣。先陣を畠山重忠がつとめ、大内義信・源範頼・足利義兼・北条時政・新田義兼・小山朝政・三浦義澄・葛西清重・加藤景廉・和田義盛・梶原景時・河野通信・工藤祐経・佐々木兄弟ら錚々たる大将が従った。
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| 平泉の毛越寺跡の池 |
常胤と知家率いる海道軍は、8月12日に多賀城に到着。頼朝も数時間遅れ、同日晩に参着した。奥州藤原勢との戦いは終始優勢に進み、泰衡は郎党に裏切られて殺害された。この戦いの勲功によって常胤は奥州にいくつもの領地を賜り、それを子供たちに分配して、のちの奥州千葉一族の基を築いた。「凡そ恩を施すごとに、常胤を以って初めとなすべし」という先例もつくられた。
しかし、頼朝が鎌倉に帰った直後、奥州藤原氏の遺臣・大河兼任率いる軍勢が反乱を起こし、奥州を統括していた葛西三郎清重からの飛脚がたびたび鎌倉に到着した。清重は平泉に検非違使所を設けて奥州の治安安定に努めていたが、大河軍が蜂起して平泉に迫ったために、さしもの勇将・葛西清重も平泉を放棄して逃れた。こうして頼朝は再び奥州派兵を決定し、文治6(1190)年1月8日、常胤を海道の大将、山道の大将に比企能員を任じて派遣した。しかし、常胤はこの戦いでの活躍が見られず、代わって嫡男・千葉新介胤正の活躍がうかがえる。このとき常胤は七十二歳という当時にしてはかなりの高齢であり、胤正が大将として出陣したと思われる。
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| 平泉高舘より衣川を望む |
建久元(1190)年10月3日、頼朝は上洛の途についた。去る9月15日、畠山次郎重忠が供奉のために武蔵国より鎌倉に到着。先陣隨兵については和田小太郎義盛が奉行し、後陣隨兵の奉行は梶原平三景時が任じられた。そして御厩奉行として、常胤の四男「千葉四郎胤信」が八田前右衛門尉知家とともに任じられた。しかし、その八田知家が遅参した。頼朝は供奉人らと打ち合わせることがあるため、重鎮の知家の参着をかなりの時間待っており、甚だ不機嫌であった。そして昼過ぎになってようやく知家が参上。彼は行縢を着けたまま供奉人の郎従らが居並ぶ南庭を通り過ぎて、御の沓解にて行縢を解き、頼朝の御前に参じた。
頼朝は怒りを抑えて「懈緩の致す所也」と咎めると、知家は所労であったことを告げて詫びるとともに、先陣後陣の人選、頼朝の乗馬は何を用いるのかを問うている。頼朝は、先陣は畠山重忠を起用したものの、後陣の人選に苦慮していることを告げ、乗馬については梶原景時の「黒駮」を用いる旨を伝えた。これに知家は、先陣は畠山次郎重忠で然るべし、後陣については、千葉介常胤を「宿老として奉るべき仁也」と推薦した。このため、頼朝は梶原景時の後陣を止め、常胤を召して、子の六郎太夫胤頼、孫の平次常秀を具して後陣の最末に供奉すべきこととした。そして11月7日、頼朝は上洛を果たした。
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| 鎌倉の伝千葉家邸跡(千葉地) |
建久3(1192)年、頼朝は自らの書判入りの所領安堵状を与えるやり方を改め、官僚機構である幕府に御家人を統括させるため、所領の安堵状は「政所」からの下文にする方針に変えた。しかし、これに反発したのが千葉介常胤・小山朝政ら元有力在庁たちで、自分たちは頼朝個人に仕えているのであり、政所に仕えているのではない、また、政所下文は頼朝の花押がなく、大江広元以下の役人たちの書判のみであって、これでは自らの「所領」安堵についての保証がないとして、頼朝に直談判をした。頼朝もこの常胤らの反発に困り果て、やむをえず常胤に対して特別に従来通りの花押入りの下文を発給し、政所下文に添えた。のち、小山朝政に対しても同様の下文を発している。千葉氏、小山氏といった地方大豪族たちとの頼朝との信頼関係をうかがわせる逸話である。
建久6(1195)年12月12日、常胤は「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した。この中で常胤は「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいる。この「由緒」は定かではないが、遠祖・平忠常が美濃国厚見郡(または不破郡野上、山県郡、加茂郡蜂屋庄)で亡くなったことによるものかもしれない。
結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。これに対し常胤は「太だ落涙」して残念がったが、「今に於いては、その地を賜らずと雖も恨みの限りに非ざる」と返報した。
常胤の死後、承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、常胤の孫にあたる当時の千葉介成胤は下総守護職に就任するにつき、下総国と千葉氏の縁の深さを幕府に主張していた様子が、
「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間、右大将家御時、以常胤、被補下総一国守護職之由申之」
と見え(『吾妻鏡』)、常胤が頼朝より下総国守護職に任じられていたと推測される。
建久10(1199)年1月13日、頼朝が急死するとその嫡男・源頼家が将軍職を継いだが、頼家はわがまま粗暴な性格で、御家人たちからは大変悪評であった。頼家の側近たちは将軍の威光をかさに乱暴狼藉を繰り返し、母の北条政子はついに頼家の政治を停止し、有力御家人十三人からなる合議制政治を行うこととした。この合議制によって幕府は落ち着きを取り戻したが、同時に幕府の権力が将軍家から有力御家人へと移っていくきっかけとなった。とくに将軍の外戚で、主席の北条時政の権力は大変大きくなり、北条体制のはしりともいえる体制になった。
正治2(1200)年1月23日、常胤と並ぶ幕府最長老の三浦義澄が七十四歳で卒去。そして義澄とともに頼朝を支え続けた巨星、千葉介常胤も建仁元(1201)年3月24日、世を去った。世壽八十四歳。次々に大きな力を持っていた長老が亡くなっていく中で、鎌倉幕府は北条一門専制政治へと変わっていく。常胤は下総国千葉郡の千葉山に葬られたと伝えられている。法名は浄春院殿貞見、涼山円浄院。
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| 千葉山の古墳 |
常胤が葬られたとされる「千葉山」については、正確な所は断定されていないが、千葉庄馬加郷千葉山海隣寺(現在は佐倉市)とも、稲毛郷都賀邑千葉山(稲毛区園生町)ともいわれている。後者は現在でも中世につくられた古墳が残っており、この地に葬られた可能性が高いと考えられる。事実、この墳丘墓からは鎌倉時代初期の常滑の骨蔵器が発掘されている。
千葉氏は常胤の死後も鎌倉幕府の中では北条氏に継ぐ大々名として尊重され、常胤の子供たちもそれぞれ独立した御家人として栄えた。
常胤の次男・相馬二郎師常の子孫は下総と奥州とにわかれ、奥州に下っていった相馬氏の末裔である相馬盛胤・相馬義胤は伊達政宗との戦いで有名。子孫は陸奥中村藩六万石の藩主となった。
三男の武石三郎胤盛の子孫も下総と奥州とにわかれ、奥州へ下っていった末裔は「亘理氏」となり、室町時代後期の亘理元宗(元安齋)・亘理美濃守重宗は伊達政宗の一門として活躍した。
四男の大須賀四郎胤信・五男の国分五郎胤通の子孫も下総と奥州とにわかれたが、下総に残った惣領家は千葉宗家とも深く関わっていく国人領主となった。
六男・六郎太夫胤頼の子孫は武士でありながら歌道の道も極め、二条流の歌道を伝えていく。室町中期の東下野守常縁は古今和歌集研究家となり、古今集解釈の奥義を伝える「古今伝授(切紙伝授)」を確立。後の歌道に大きな影響を与えることになった。
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