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桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
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平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
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千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
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千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
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千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
| 生没年 | 永保3(1083)年3月29日?~治承4(1180)年5月3日? | |
| 別名 | 経繁(『下総権介平朝臣経繁寄進状』) | |
| 父 | 平常兼 | |
| 母 | 鳥海三郎忠衡女 | |
| 官位 | 正六位上 | |
| 荘官 | 千葉庄検非違所 | |
| 官職 | 下総権介 相馬郡司:天治元(1124)年10月就任 |
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| 所在 | 下総国千葉庄 | |
| 法号 | 善応宥照院 | |
| 墓所 | 阿毘廬山大日寺? | |
千葉氏初代。父は平常兼。母は常陸大掾家の一族・鳥海三郎忠衡女。官位は正六位上、官職は下総権介、荘官としては千葉庄検非違所。通称は千葉大夫。永保3(1083)年3月29日誕生と伝えられる(『千葉大系図』)。
母方の鳥海氏は祖の忠頼が「旧敵」としていた平繁盛の子孫であるが、このころには友好的な関係にあったか。または、常陸に勢力をのばしていた清和源氏・佐竹一族との関係上、手を結んだものかもしれない。
元永年中(1118-19)にはすでに千葉郡に住んでいたと思われ、承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、当時の千葉惣領・千葉介成胤は、
「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」
と言っている(『吾妻鏡』)。
この「千葉大夫」は『千葉大系図』をはじめ諸系譜では常兼の事とされているが、時代的にも常重が相当し、成胤は常重のことを指していたと思われる。常重は元永年中(1118-19)に千葉郡池田郷を鳥羽院に寄進して「千葉庄」を成立させ、その荘官となったのだろう。千葉庄はその後、鳥羽院の皇女・八条院に相伝されていく(『吾妻鏡』)。
●久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』(『香取文書』:『鎌倉遺文』所収)
「……其男常重、而経兼五良弟常晴、相承之当初為国役不輸之地、令進退掌之時、立常重於養子、天治元年六月所譲与彼郡也、随即可令知行郡務之由、同年十月賜国判之後、……」
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布施郷(西)・立花郷(東)の大体の位置 |
父・常兼が亡くなる(または隠居)と、長男・常重がその家督を継承するが、天治元(1124)年6月、叔父・相馬五郎常晴は常重を養子とした上で、自らの所領である「国役不輸之地」の相馬郡を譲っている。そして同年10月、国判を以って相馬郡司となった。
相馬郡を譲った常晴は、上総介であり、この当時すでに上総に赴任していたかどうかは不明だが、上総国夷隅郡または下総国印東庄を本拠としたのだろう。
なお、常兼の後、弟の常晴が家督を継いだという説もあるが、その基礎となる『平朝臣常胤寄進状』の上記の記述は、あくまで「相馬郡の継承」についてのものであり、両総平氏の家督問題とは一切関係がなく、常晴が家督を継承したという事実はない。
常重は、相馬郡司となってちょうど六年後の大治5(1130)年6月11日、「正六位上行下総権介平朝臣経繁」の署名で、所領の「相馬郡布施郷」を「伊勢皇太神宮」に寄進し、その下司職に就任することを認められた。
これにより、常重とその子孫は得分として「加地子」を取る権利を得、伊勢内宮禰宜荒木田神主元親とその子孫、また、口入神主の権禰宜荒木田神主延明への上納が義務づけられ、8月、「下総守藤原朝臣」の庁宣によって寄進が正式に認められた。この「藤原朝臣」はのちに常重・常胤と相馬郡をめぐって争った下総守・藤原親通の事と考えられる。
そして保延元(1135)年2月、相馬御厨の地主職は18歳の嫡男・常胤へと継承された。
◎相馬郡布施郷=常重が寄進して成立した相馬御厨
1.限東…蚊虻境(茨城県取手市小文間)
2.限南…志古多谷并手賀水海(柏市篠籠田、手賀沼)
3.限西…廻谷并東大路(千葉県野田市木野崎)
4.限北…小阿高、衣河流(茨城県筑波郡伊奈町足高、小貝川)
しかし、保延2(1136)年7月15日、下総守藤原親通は、相馬郡の公田からの税が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕し、庁目代の紀季経に命じて「准白布七百反」を課したうえ、常重から相馬郷・立花郷の両郷を親通に進呈するという内容の新券(地券・証文)をつくらせ、無理矢理に常重から花押を責め取って、二郷を自らの「私領」としてしまった。相馬郷は次男・親盛に譲られたという。
そして、この内紛に介入してきたのが、上総曹司源義朝(源頼朝の父)だった。彼は上総国在庁官人の上総権介常澄のもとで庇護、養育されていた二十一歳の若者である。常澄はかつて常重へ相馬郡を譲った常晴の嫡子であり、相馬郡を手に入れようと画策をしていたのだろう。また、義朝も独自の勢力を拡大しようとしており、康治2(1143)年には常澄の「浮言(常澄が領有権を主張したものか)」を利用して、常重から相馬郷の譲状(避状)を責め取った。
翌天養元(1144)年9月には、義朝はすでに房総を離れて相模国鎌倉郡に移っており、神宮領の大庭御厨に相模国在庁官人・清原安行のほか、三浦庄司義継・義明父子、中村宗平らとともに大庭御厨下司職・大庭権守景宗の館に押し入って、官物・財物をすべて奪い取る濫妨を働く。景宗はこの濫妨を神宮に訴え、朝廷は義朝に濫妨停止および犯人の逮捕の宣旨を発布している。
神宮の神威を恐れた義朝は、天養2(1145)年3月、相馬郷の「避文」を神宮に奉り、相馬郡(相馬郡布施郷と同意か)を伊勢の内宮・外宮に寄進することとなる。「重又令進別寄文」(永暦2(1161)年2月27日『下総権介平朝臣常胤解案』)や「重寄進了」(永万2(1166)年6月18日『荒木田明盛請文写』)など、常重と義朝による二重寄進の実態がうかがえる。
◎天養2(1145)年3月に源義朝が寄進して成立した相馬御厨領域
1.限東…須渡河江口(茨城県取手市小文間の当時の利根川河口)
2.限南…蘭沾上大路(布施弁天下にあった藺沼に沿った官道)
3.限西…繞谷、見吹岑(千葉県野田市木野崎、目吹)
4.限北…阿太加、絹川(茨城県筑波郡伊奈町足高、小貝川)
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| 千葉神社(千葉妙見社) |
こののち、常重の子・常胤は相馬郡公領の未納分と指摘されていた「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を国衙に納めたことから、久安2(1146)年4月、国司・藤原親通は常胤を相馬郡司職に任じた。同年8月10日の時点で常胤は「正六位上」の相馬郡司、相馬御厨下司を称しており、常重の家督を継承していたと考えられる。
その後、常重が文書等に現れることはなく、『千葉大系図』によれば、治承4(1180)年5月3日、千葉猪鼻城で九十八歳の長寿を全うした。しかし、永暦2(1161)年4月1日の常胤の申状内に「仍親父当国介常重存日」とある(永暦2年4月1日『下総権介平申状案』)ことから、常重は永暦2(1161)年にはすでに亡くなっている。法名は善応宥照院。
久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』では、常胤は「下総権介」の官職を称していないことから、「下総権介」の官途には就いていなかったと思われる。また常重自身もすでに常胤に世を譲っていると思われることから、下総権介職は返していただろう(または逮捕時に免ぜられた可能性も)。
このときの「下総権介」は誰だったのかは不明ながら、やはり先例から千葉一族から出されているだろう。その中で、常重の末弟に「海上与一常衡」がいた。常衡は下総守藤原親通の所領(千田庄)に隣接する海上郡を領しており、親通=平家との縁で下総権介となり、「海上与一介」と名乗ったと思われる。つまり、康治2年から久安にいたる数年の間(1143-1145)に常重は亡くなったのではないか? 親通は康治元(1142)年に下総守を辞し、子の親盛が下総に赴任しているから、このとき常衡も下総権介に就任したかもしれない。
■大治5(1130)年6月11日『下総権介平朝臣経繁寄進状』(『櫟木文書』:『鎌倉遺文』所収)
正六位上行下総権介平朝臣経繁解申寄進私領地壹處事
在下総国相馬郡布施郷者
四至 限東蚊虻境 限南志子多谷并手下水海
限西廻谷并東大路 限北小阿高衣川流
右件地 経繁之相伝私領也 進退領掌敢無他妨 爰為募神威
任傍例永所寄進於伊勢皇太神宮如件 但権禰宜荒木田神主延明為口入神主
於供祭物者 毎年以田畠地利上分并土産鮭等 可令備進 至于下司之職者
以経繁之子孫 無相違可令相伝也 仍勒事状以解
大治五年六月十一日 正六位上行下総権介平朝臣経繁
(経繁判)
就寄文案内 以私地貢進神宮 致供祭之勤 先蹤多存
然則任起請旨 為御厨 以毎年田畠地利上分并土産物等、
可令備進供 祭御贄之件 如件
寄文参通 内一通留宮庁 二通返領并口入神主等之
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 元親
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同経仲
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同元定
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同忠延
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同隆範
禰宜従四位下荒木田神主 (花押) 同忠良
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