平常兼

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平常兼  (1045?-1126?)

生没年 寛徳2(1045)年8月15日?~大治元(1126)年3月10日?
別名 経兼(『正六位上平朝臣常胤寄進状』)
平常長
不明
官位 不明
官職 上総権介? 下総権介?(『千葉大系図』)
所在 上総国大椎館(伝)
法号 観宥星浄院
墓所 阿毘廬山大日寺

 良文流平氏七代当主。良文流平氏六代当主・平常長の長男。寛徳2(1045)年8月15日、上総国大椎(千葉市緑区大椎)で生まれたといわれる(『千葉大系図』)。官途は下総権介・上総権介(『千葉大系図』)

 常兼の具体的な活躍は、父・常長同様、文書等には見えないが、系譜には彼の子弟には下総国内に所領を持っていた人物の名が連ねられており(『神代本千葉系図』など)、上総国のみならず下総国にまで進出を始めた房総平氏繁栄の礎を築いた人物なのだろう。

 『千葉大系図』には、東北地方で後三年の役(1083-87)が起こると、これに連鎖して下総・常陸で挙兵した豪族たちを父・常長とともに鎮圧したとされ、奥州でも源義家に従って活躍したという。戦後、義家は父子の活躍を奏上し、常長従五位下・下総権介に任じられたという(『千葉大系図』)。ただ、義家自身この時の官位が従五位下であるため、この奏上については伝承と思われる。

 その後、「下総権介」に任じられ、父から上総国大椎館を受け継いで大椎権介と称した(本拠は大椎のため、大椎権介)という。この「権介」が「上総権介」か「下総権介」かはわからない。ただし、彼が実際に大椎館に本拠を構えていたという明確な証拠は残されていない

 また、常兼千葉大夫」を称したと諸系譜にあるが、これは『吾妻鏡』内の千葉介成胤の発言をもとに記載されたものであろう。承元3(1209)年12月15日、「近国守護補任」について「御下文(政所下文か)」が発せられたが、当時の千葉惣領・千葉介成胤は、

「先祖千葉大夫、元永以後、為当荘検非違所之間」

と言っている(『吾妻鏡』)

 そして、この記述に基づいて常兼を千葉大夫」(『松羅館本千葉系図』)としたり、さらに具体的に元永元(1118)年2月に「補本都検非違使所、依之御厨下司、譲付弟常晴」(『千馬家系図』)としたりしたと思われる。しかし、元永年中(1118~1120)の千葉氏(千葉郷に移っていた房総平氏の一流)当主は時代的にみると、おそらく常兼の子・常重の代に当たると推測され、成胤が千葉大夫」としている先祖は常兼ではなく、常重のことと推測される。なお、元永元(1118)年、常兼の孫にあたる千葉介常胤が誕生している。

平常長―+―平常兼―+―千葉常重(下総権介)
    |     |
    |     +―白井常親(下総国白井庄)
    |     |
    |     +―臼井常康(下総国臼井庄)
    |     |
    |     +―匝瑳常広(下総国匝瑳郡)
    |     |
    |     +―海上常衡(下総国海上郡)
    |
    +―白井常親(下総国白井庄)
    |
    +―鴨根常房(上総国鴨根郷)
    |
    +―相馬常晴(下総国相馬郡)
    |
    +―安西常遠(安房国?)
    |
    +―大須賀常継(下総国大須賀保)
    |
    +―埴生常門(下総国埴生庄)
    |
    +―白井常綱(下総国白井庄)

 大治元(1126)年3月10日、上総国大椎城にて病死したと伝えられる(『千葉大系図』)。八十二歳といわれるが実際のところは不明。

 常兼のあとは常兼の長男・常重が継ぎ、常兼の弟・相馬五郎常晴はみずからの領地である相馬郡を、常重を養子として譲っている(『正六位上平朝臣常胤寄進状』:『鎌倉遺文』所収)。常晴は「上総介」であり、上総国へ移っていったと思われるが、相馬郡を常重に譲った時点で上総介であったかは不明。

 法名は観宥星浄院『千葉大系図』によれば、千葉庄阿毘廬山大日寺に葬られ、日處山満願寺月處山光明寺が建立されたという。

匝瑳常広の子孫―

◎匝瑳八郎常広の子供たちは「匝瑳党」という武士団をつくっていた。

 ⇒匝瑳常広―+―常正――――→「匝瑳党惣領」で、惣社・老尾神社の祭祀を司った
 (八郎)  |(八郎太郎)
       |
       +―鷲尾常定――→「千葉郷」に「鷲宮」を建立して支配したと伝えられている
       |(太郎次)
       |
       +―飯高政胤――胤広――――常道
       |(四郎)  (五郎入道)(弥次郎)
       |
       +―湯浅宗光――宗景――→「下総国熊野神領下司職」
        (兵衛尉)
         ⇒安元年間(1175-77)に紀州熊野の湯浅宗重の養子

◎匝瑳郡は、北条は佐竹氏の影響力をうけており、南条は紀州熊野神領であった。


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