平忠常

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(786-853)
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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
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(???-???)
平 忠常
(975-1031)
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(????-????)
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(????-????)
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(????-????)
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(????-????)
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(1337-1365)
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(1392-1430)
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(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
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(1443-1455)
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(????-1455)
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(1471-1532)
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平忠常  (975?-1031)

生没年 天延3(975)年9月13日?~長元4(1031)年6月6日
別名 忠経(『正六位上平朝臣常胤寄進状』)
平経明(陸奥介平忠頼)
左京大夫藤原教宗娘(伝)
平将門娘(伝)
官位 不明
官職 上総介(『百練抄』『日本紀略』)
下総権介(『応徳元年皇代記』)
武蔵押領使
所在地 下総国(『日本紀略』『左経記』)
法号 常安

 良文流平氏四代当主。平経明の子(系譜では陸奥介平忠頼の子)。母は左京大夫藤原教宗娘とも、平将門娘とも。官途は上総介、武蔵押領使。天延3(975)年9月13日に生まれたと伝わる。

■平忠常の前半生

 忠常の前半生はまったく知られていないが、11世紀初頭に、河内源氏の一族・源頼信「常陸介」のときに戦い、降伏した話が伝わっている(『今昔物語集』巻廿五第九「源頼信朝臣責平忠恒語」)

「下総国に平忠恒ト云フ兵有ケリ、私ノ勢力極テ大キニシテ、上総下総ヲ皆我マゝニ進退シテ、公事ヲモ事ニモ不為リケリ」と、

このころ忠常はすでに下総国を本拠にして、両総に大きな影響力を持っていた様子がうかがえる。

 忠常は常陸国の「左衛門大夫平惟基」と兼ねてから敵対関係にあったようで、忠常は「惟基ハ先祖ノ敵」としている。忠常の父とされる陸奥介平忠頼もまた、惟基の実父・平繁盛から「旧敵」とされていることから寛和3(987)年正月24日『太政官符』、忠頼・忠常と繁盛・惟基(維幹)の対立は二代にわたって続いていたことになる。

 源頼信「常陸介」だった期間は記録が残されていないが、長保元(999)年9月2日に「上野介」として藤原道長に馬を献じており、それ以降、長和元(1012)年 閏10月23日に「前常陸介」とある(『御堂関白記』)までの間が「常陸介」だったのだろう。

 ちょうどその期間である長保5(1003)年2月8日、朝廷は「下総守義行」が言上した「平佐良焼亡府館掠虜官物」について討議している(『百錬抄』)「平佐良」は常陸国の「左衛門大夫平惟基」の弟・上総介平兼忠の子、平維良(平貞盛養子)のことであり、このころ下総国には貞盛流平氏が勢力を持っていたことがわかる。ただ、忠常は「先祖ノ敵」である「惟基」の甥と同国に住んでいながら、維良との争いは伝わっていない。また、維良の父・平兼忠は10世紀末から11世紀初頭に「上総介」として上総国に赴任しているが(『今昔物語集』)、こちらも忠常との間に抗争は見られない。両者と忠常の関係は、維幹との関係ほど険悪ではなかったのかもしれない。

 10世紀末、忠常がどこにいたのかは不明だが、維良が放逐された長保5(1003)年以降、忠常は下総国を本拠に勢力を伸ばし、長和元(1012)年 以前に上総国まで広げたのだろう。また、忠常は公家の日記等に「前上総介」とあることから「上総介」に補任されていたことは確実だが、その時期は不明。維良の父・兼忠が上総介だったのが10世紀末から11世紀初頭であり、忠常はそのあとに「上総介」に補任され、任期満了後も上総国に影響力を行使し続けていたのかもしれない。

■桓武平氏略系図太字は貞盛の子、および養子になったと思われる人物)

 平高望―+―国香―――+―貞盛――――+―維敏
     |(常陸大掾)|(鎮守府将軍)|(肥前守)
     |      |       |
     |      |       +―維将――――維時―――直方
     |      |       |(肥前守) (上総介)(右衛門少尉)
     |      |       |
     |      |       +―維叙――――維輔
     |      |       |(常陸介) (左衛門尉)
     |      |       |
     |      |       +―維衡―――………―清盛
     |      |        (伊勢守)
     |      |        
     |      +―繁盛――――+―維幹―――………―常陸大掾家
     |       (武蔵権守) |(常陸大掾)
     |              |
     |              +―維忠
     |              |(出羽守)
     |              |
     |              +―兼忠――+―維茂
     |               (上総介)|(鎮守府将軍)
     |                    |
     |                    +―維良
     |                     (鎮守府将軍)
     |
     +―良持―――――将門――――――娘
     |(鎮守府将軍)(小次郎)   (忠頼妻?)
     |
     +―良文―――――経明――――――忠常
      (陸奥守)  (=忠頼か)  (上総介)

■平忠常、源頼信と戦う

 忠常と頼信・惟基(平維幹)の争いの原因は、忠常が常陸・下総国境を越えて常陸国へ侵入していたことによるものであった。越境について頼信は忠常に苦情を伝えたが、忠常は「常陸守ノ仰スル事ヲモ、事ニ触レテ忽諸ニシケリ」と、頼信を無視していたようだ。このため頼信は、

「下総ニ超テ忠恒ヲ責メム」 

と逸ったが、これを聞いた「左衛門大夫平惟基」は、

「彼ノ忠恒ハ勢有ル者也、亦其ノ栖、輙ク人ノ可寄キ所ニ非ズ、然レバ少々ニテハ世ニ被責不侍ラ、軍ヲ多ク儲テコソ超サセ給ハメ」 

と大軍を以って攻めることが肝要と説いた。こうして「惟基」三千騎の軍勢を整えて鹿島神社の社前に集結。また頼信「舘ノ者共国ノ兵共」二千人ばかりを集めて「鹿島ノ郡ノ西ノ浜辺」に集まった。

 忠常の当時の本拠は、「…衣河ノ尻ヤガテ海ノ如シ、鹿島梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ顔不見エ程也、而ニ彼ノ忠恒ガ栖ハ、内海ニ遥ニ入リタル向ヒニ有ル也、然レバ責寄ニ、此入海ヲ廻テ寄ナラバ七日許可廻シ、直グニ海ヲ渡ラバ、今日ノ内ニ被責ヌベケレバ…」という位置にあった。

 「衣河(キヌガワ)」とは現在の小貝川(こかいがわ)のことで、この「衣河ノ尻」つまり小貝川の河口部分は、現在の龍ヶ崎市から利根町のあたりで、当時の内海にそそぐ河口部は幾重にも分かれた小川が大蛇のように複雑に入り混じった(蛟蛧:こうもう)湿地に覆われていた。

 『今昔物語集』の記述を見ると、忠常がいた場所は「衣河」の河口がそそぐ「内海(香取海の西にあった内海)」の「遥」かに内陸に入った「向ヒ」にあったとされ、のちに千葉氏や佐竹氏が伊勢神宮に寄進した相馬御厨の東限は、「須渡河江口」など、いずれも現在の龍ヶ崎市須藤堀町周辺であることから、忠常の居住地は、立花郷よりも相馬郡のほうが妥当ではないだろうか。また、香取郡内であるとすれば、「海ヲ廻テナラバ七日許可廻シ」もかからない

(1)相馬郡は大友に比べて下総国府・上総国府ともに近い。
(2)相馬郡は水運も発展していて、陸の官道が通っていた。
(3)房総平氏が代々相馬郡を大変に尊重している。

●房総平氏と相馬氏●

⇒平常長―――+―千葉介常兼―千葉介常重――――千葉介常胤―+―千葉介胤正
(上総権介) |(下総権介)(下総権介)   (下総権介) |(千葉介)
       |       ↑  ↑     ↑     |
       |       |  |     |     +―相馬師常
       |   相馬郡譲渡 対       立     (次郎)
       |   ↑       |
       |   |       ↓
 相馬郡継承⇒+―相馬常晴―――上総介常澄―+―上総介広常
        (上総権介) (上総権介) |(上総権介)
                      |
                      +―相馬常清
                       (九郎)

 さて、軍勢を集めて鹿島神社そばの浜辺に集結していた頼信・惟基の軍勢だが、すでに忠常によって舟が隠されており、内海を渡る術がなくなっていた。このため、頼信は常陸国衙の在庁と思われる「大中臣成平」を召し、彼を使者として忠常のもとに派遣し、

「不戦ト思ハバ速ニ参来、其レヲ尚不用バ否返リ不敢、只船ヲ下様ニ趣ケヨ、其ヲ見テ渡ラム」 

 と最後通牒を送り、不戦で降伏させようと試みた。その後、忠常のもとから戻った成平は、

「守殿止事無ク御座ス君也、須ク可参シト云トモ、惟基ハ先祖ノ敵也、其カ候ハム前ニ下リ跪キテナム否不候マジ」 

と、頼信を尊重しているが、その麾下にいる先祖の敵・惟基の前で跪くことはできないと、降伏を断った。

 そこで頼信は、船はないので内海を廻って攻めるべきだとする軍兵の反対を押し切り、忠常の裏をかいて今日、海を渡って進発することを命じた。船の無い中で海を押し渡ることについて頼信は、

「此海ニハ浅キ道堤ノ如クニテ、広サ一丈許ニテ直ク渡リケリ、深サ馬ノ太腹ニナム立ツルナル、其ノ道ハ定メテ此程ニコソ渡ラメ、此軍ノ中ニ論無ク其ノ道知タル者有ラム、然ラハ前ニ打テ渡レ、頼信其ニ付テ渡ラム」 

と、浅瀬を渡って対岸へ向かうことを提案。ここに「真髪ノ高文」という人物が名乗りをあげ、浅瀬を案内した。二度ばかり泳ぐ箇所があったものの、頼信は軍勢のうち五、六百人あまりとともに下総国へ上陸した。現在でも霞ヶ浦は最大深度が数メートルという非常に浅い湖であり、当時もあちこちに浅瀬があったと推測される。

 このとき忠常は、頼信らは船がないため、陸路を廻ってくるものとして策を立てていたが、郎従らがあわてて忠常のもとへ飛び込み、

「常陸殿ハ此海ノ中ニ浅キ道ノ有ケルヨリ、若干ノ軍ヲ引具シテ既ニ渡リ御スルハ、何カセサセ給ハム」

 と狼狽して言うと、忠常も計画していたことがすべて水泡に帰したことを悟り、

「今ハ術無術無進テム」 

と降伏を決意。「名符」と「怠状」を具し、郎従に持たせて小舟で頼信の陣所へ遣わした頼信「不戦ト思ハバ速ニ参来」という考えであり、降伏したのちは「強チニ責メ可罰キニ非ズ、速ニ此ヲ取テ可返キ也」と言って、軍勢を常陸へ返したという。「名符=名簿」を差し出すことは臣従の意味合いがあり、忠常はこののち頼信の郎従となった可能性がある。そしてその後、北家藤原家の一族・藤原教通の被官となったようである。

 忠常『日本紀略』等の朝廷の記録に「前上総介」とあることや、同族の平政輔(平貞盛の孫)が長元3(1030)年3月29日に「安房守」の除目を受けていることなどから、彼も朝廷から除目を受けて「上総介」に任じられていたと推測されるが、彼も藤原教通に貢物を送り、彼の御給により上総介に任じられた可能性もあるか。

■平忠常、房総に反乱を起こす(長元の乱)

 万寿4(1027)年12月、朝廷の実力者であった藤原道長が死去したこととほぼ時を同じくして、忠常は兵を挙げて安房に侵入して国府を襲い、安房守平惟忠を焼殺した。この年から始まる反乱を「長元の乱」という。忠常の次男で反乱に加わっていた平常近「安房押領使」と記されており(『松羅館本千葉系図』)、もしも彼の「安房押領使」が事実で忠常叛乱以前に就任していたとすれば、常近と安房国府焼打には何らかの関係性があるのかもしれない。

 京都に忠常挙兵が伝えられると、朝廷は忠常追討の詮議を行い、万寿5(1028)年2月21日、維時(平貞盛の孫で養子)の子の右衛門少尉平直方「前上総介忠常の追討使に任じた(『百練抄』)

 高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――――直方――――+―維方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介)  (左衛門少尉)|(蔵人雑色)
     |           |                    |
     |           +=維時                 +―女
     |            (常陸介)                (源義家母)
     |
     +―良文――――経明――――忠常――+―常将―――――常長
      (陸奥守)       (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)
                       |
                       +―恒親―――――恒仲――――――頼任
                        (安房押領使)        (村上貫主)

 しかし2月に決定された追討は6月まで実行されず、6月5日になって初めて「平忠常并男常昌」追討の審議が行われた(『小記目録』)。そして6月21日、ようやく右大臣藤原実資、内大臣藤原教通ほか武官公卿ら十一名が内裏近衛府陣座に列し、「下総国住人前上総介平忠常について二度目の詮議が行われ、正式に右衛門少尉平直方(検非違使)、左衛門少志中原成道らを追討使に決定。東海道・東山道諸国に忠常追討に関する太政官符を発給することとなった(『日本紀略』『左経記』)

●万寿5(1028)年6月21日仗座公卿●

名前 官途 人物
藤原実資 右大臣 従一位・右大臣。藤原斉敏(従三位・右衛門督)の子。『小右記』作者。
藤原教通 内大臣 従一位・太政大臣。藤原道長の子。忠常の私君。
藤原斉信 中宮大夫 正二位・民部卿。藤原為光の子。
藤原能信 権大納言 正二位・権大納言。藤原道長の次男で頼通・教通とは異母兄弟。
藤原兼隆 左衛門督 正二位・中納言。二条関白・藤原道兼の嫡男で、祖父・兼家の養子。
源道方 中納言 宇多天皇皇子・敦実親王の孫にあたる源重信の五男。
源師房 春宮権大夫 村上天皇皇子・具平親王の子。村上源氏の祖。
藤原経通 左兵衛督 正二位・権中納言。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子。
源頼任 右兵衛督  
藤原資平 左近衛中将 正三位・権中納言。権中納言・藤原懐平(実資弟)の子で、叔父・実資の養嗣子。
藤原公成 権大納言 従二位・権中納言。権中納言・藤原実成の子。

 しかし、朝廷が2月の追討決定から6月までの四ヶ月もの間、軍事行動を起こさなかったことや、左衛門少尉・左衛門少志といった左衛門府中の低い職の者を追討使としていることから、百年前に起こった将門の乱と比べて(参議藤原忠文が征東大将軍として派遣されている)朝廷の危機感が薄かったと思われることが『小右記』の記述よりうかがえる。

 追討使副将の左衛門少志・中原成道は風聞などで乱の大きさ等を聞いていたのか、九箇条の申文を提出し、関白の関東下向をも訴えていたが、右大臣藤原実資は、

「於関白下向有何事乎、若有可申請事等、於途中若事発所国言上事由、更何事之有也」

としており、関白下向などは必要はなく、もし戦陣で何事かあるようならばその国から事柄を言上すればよいだけのことである、それほどの事があるとも思えない、と冷たく却下している。さらに朝廷では忌日や日の良し悪し、そのほか手続きで追討使の派遣を延期しつづけており、この事からも朝廷の危機意識が欠如していたことがうかがえる。

 7月13日、平忠常に占領された上総国の国司である上総介縣犬養為政から、馬二疋と手作布四百反が藤原実資のもとへ届けられ、15日には、為政の厩舎人伴友成が実資の屋敷を訪問し、国司の妻子が近日中に上洛することを報告する一方、国人らが国司の言うことを聞かず、すべての権力を忠常が握って、生死も彼の心のままになっていること、さらに忠常の郎党が国司館(千葉県市原市惣社?千葉県長生郡一宮?)に乱入して国司の郎党に乱暴をはたらいた報告がなされた。

 一方、追討使に任ぜられた中原成道は、先日に提出した九箇条の申文のうち、わずか三箇条のみが採択されたことに不満を持ったか、7月25日、「小瘡」に罹ったとして出仕せず、成道の上司にあたる左兵衛督藤原経通(検非違使別当)から「令見気色似遁追討使節」と譴責された。成道は東国下向に消極的になっていたことがうかがえる。

 8月1日、忠常の郎党が京都に侵入したという情報を得た検非違使所は不審な男を逮捕したが、調べてみると忠常の郎党の従者」であって忠常の郎党ではなかった。しかし、忠常の郎党が二名入京していることがわかり、彼らはそれぞれ「運勢法師」「明通朝臣(出羽守藤原明通か?)」のもとにいることがわかった。

 4日、検非違使は内偵捜査を行い、忠常の郎党二名を逮捕することに成功。彼らが持っていた書状四通も押収した。彼らは関白藤原頼通邸に突き出され取調べを受けることとなった。郎党の一人は運勢法師が捕らえた人物であり、頼通は右兵衛督源頼任に書状を読ませた。

 その中には、忠常の「聞可被追討之由可申所々事等云々」という言葉があり、忠常は「私を追討する事を聞きましたが、それについて申すべき色々な事があります」と、関白に追討は不当であることを訴えていた。他の三通はそれぞれ内府(藤原教通)宛・新中納言(源師房)宛・宛先のない一通であり、これらは披かれることなく検非違使へ返された。宛名の一人、藤原教通は忠常の「私君」にあたる人物である。

下総地図

夷隅郡(内のが国府台)

 この忠常の郎党がなぜ京都に入って内府らへ書状を託そうとしたのか、右大臣藤原実資は興味があったらしく、取調べを総括している甥の検非違使別当藤原経通に子細を尋ねている。経通によれば、かの郎党は忠常が派遣した「使者」で、書状(解文)は見ていないが、聞いたところによれば、もし内府から返答の使者を送るようであれば、「伊志み」の山辺まで来るべし、との内容であったという。

 「伊志み」には忠常が「随人二三十騎」を率いて籠っている場所で、彼は内大臣・新中納言へ意見(追討の不当性を訴えたと思われるが)を出していたとみられる(『小右記』)。ちなみに「伊志み」とは、『和名抄』に見える「伊志美」であると考えられ、上総国夷隅郡(千葉県いすみ市)にあたる。忠常がいた具体的な場所は不明だが、いすみ市には「国府台」と呼ばれる渓谷を眼前に控えた要害地(地図)がある。

 8月5日午の刻、忠常追討使の平直方・中原成道は二百余人というわずかな兵を率いて京を出発。房総半島へ向かった。しかし、軍勢は遅々として進まず、数日経ってもまだ美濃国(岐阜県)におり、さらに成道はここで「八十歳になる母親が病を患っている」と訴えて京都に使者を出し、軍勢は美濃に滞陣する。そして8月16日に使者は京都に到着。報告を聞いた彼らの上司・藤原経通(検非違使別当)は、「成道は以前から直方と不和であり、これが故障の原因ではないか」と疑っている。経通は翌17日、成道の母は小康状態になったことを美濃の成道のもとへ伝えた。成道は以前の仮病や今回の故障のように非常に追討に消極的な人物であったことがわかる。

 その後、遺されている文書に忠常追討使に関することがなくなるため、軍勢が関東に到着した日時は不明。そして、長元2(1029)年2月1日、藤原実資は東海道・東山道・北陸道諸国、追討使平直方へ下す忠常追討の太政官符の草案を披見し、2月5日、朝廷は「各道諸国は互いに協力して忠常を追討すべき旨の太政官符」が発給された。さらに追討使の支援のためか、平直方の父・維時上総介に任じ、維時は2月23日、京都を発し、関東へ向かった。

 しかし、追討使に目立った戦功はなく、6月8日、朝廷では追討使を別人に変えるべきか否かの詮議が行われた。また、13日には、京都にあった忠常郎党の住宅を検非違使が家宅捜索している。

 まったく進展のない忠常追討に業を煮やした藤原実資は7月1日、翌2日に行われる岩清水八幡宮奉幣の宣命に忠常調伏を載せるべきであると天皇(後一条天皇)に奏上している。

 追討使が派遣されて1年4ヶ月が過ぎた12月5日、追討使平直方とその父・上総介平維時から、状況を記した解文が京都に届けられたが、一方で中原成道は何の報告もしなかったため、12月7日、追討使・検非違使を罷免。京都への召還が決定した。

 こうしている間にも忠常の威勢は房総を覆い、長元3(1030)年3月27日には安房守・藤原光業が忠常に追われ、国司・公権の象徴である国府の印鑑をも庁府に残したまま京都へ戻ってきた。このため朝廷は29日、上総介平維時の従兄弟にあたる平正輔を新たに安房守としたが、正輔は忠常を追討するには金がかかるとして五百石を要求。朝廷はこれを断るが正輔も引かず、頼通も正輔の要求を認めざるをえなかった。しかし、直方が解文で要請していた「各国の協力を得る太政官符の発給」については、「籠伊志見山随兵減少由所推量」とあって、官符の発給には及ばないとして聞き入れられなかった。

 高望王―+―国香――――貞盛――+―維将――――維時―――直方――――+―維方
(上総介)|(常陸大掾)(丹波守)|(肥前守) (常陸介)(左衛門少尉)|(蔵人雑色)
     |           |                  |
     |           +=維時               +―女
     |           |(常陸介)              (源義家母)
     |           |
     |           +―維衡――――正輔
     |            (常陸介) (安房守)
     |
     |
     +―良兼――――公雅――――致頼――+―致経
     |(上総介) (武蔵守) (散位) |(左衛門尉)
     |                 |
     |                 +―致方
     |                  (武蔵守)
     |
     +―良文――――経明――――忠常――+―常将―――――常長
      (陸奥守) (=忠頼か)(上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)
                       |
                       +―恒親―――――恒仲―――頼任
                        (安房押領使)     (村上貫主)

 一方、5月20日に京都に到着した直方の解文には、忠常が突如出家をとげて常安と号したことが記載されていた。しかし6月23日、右大弁源経頼のもとへ届けられた左衛門少尉平直方、上総介平維時、武蔵守平致方らの解文によって、追討使がいまだ忠常の所在をつかむことができていない状態であることを知った朝廷は、9月2日、直方を「無勲功」として追討使を解任し、召還した。

■平忠常、降伏する

 平直方に代わって、新たに追討使に任じられたのが、かつて忠常を降伏させたた河内源氏の甲斐守源頼信であった。頼信の起用は、忠常追討の実績を買われたものであろう。こうしてて「甲斐守源頼信并坂東諸国司等」に忠常追討令が発給され、9月6日、朝廷は改めて「甲斐守頼信に忠常追討を命じた。

 頼信は関東下向の折、京都にいた忠常の子の「法師」を伴っており、忠常の郎党が京都に屋敷を持っていたことも考え合わせると、やはり忠常は私君である藤原教通と交流を持ち、京都にも所縁があったと思われる。

 忠常は、解任された直方に代わって、頼信が追討使として下ってきたことを知ると、戦わずにみずから甲斐国の頼信のもとに出頭して降伏した。その際、忠常は二人の子(常昌・常近か?)と郎党三人を随えており、頼信はそのことを京都に報告した。

●忠常降伏の理由(想像)

(1)十数年前に頼信によって追討されている経験から、直方らのようには行かないと思った
(2)砦にこもっている兵が少なくなっていた
(3)打ち続いた戦いのために飢饉が続いており、食糧を得ることも難しくなっていた
(4)みずからの病の悪化

 頼信の書状は、長元4(1031)年4月25日に京都へ届いているので、この数十日前に忠常が降伏したと考えられる。書状の中で、頼信は5月中に忠常らを連れて上洛することを朝廷に報告しているが、忠常の病がかなり重篤だったためか、上洛のペースは非常にゆっくりしたもので、6月初めにようやく美濃国に到着した。

 6月7日、朝廷は美濃国大野郡から発せられた頼信の「忠常帰降」の申文をうけとっている。文書には5月28日より忠常の病が悪化して「日来辛苦、已万死一生也」であるとし、頼信は忠常を扶けながら道を進むことが伝えられた。しかし、忠常の病はかなり重篤であり、この申文が京都へ届く一日前の6月6日、美濃国厚見郡において病死した(『左経記』)。没年齢不詳。法号は常安。ただし、死亡した場所については、「美濃国野上と云所」(『左経記』)「美濃国山縣」(『百錬抄』『扶桑略記』)「美濃国蜂屋庄」(『千葉大系図』)とまちまちである。

 ときは160年ほどのちの建久6(1195)年12月12日、千葉介常胤「老命、後栄を期し難し」として「警夜巡昼の節を励まし、連年の勤労を積む。潜かにその貞心を論ずるに、恐らくは等類無きに似たり」と、恩賞を求める「款状」を頼朝に提出した。この中で常胤は「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいるが、常胤が伝えたこの「由緒」は、遠祖・平忠常の死地と関係があるのかもしれない。結局、蜂屋庄は「故院の御時、仰せに依りて地頭職を停止」した荘園であり、頼朝も如何ともしがたい土地である旨を伝え、「便宜の地を以ちて、必ず御計らい有るべきの旨」を記載した書状を遣わしている。

 6月12日、頼信は美濃国司忠常死亡の実検をさせたのち、忠常の首を斬りおとした旨の書状と、美濃国司の返牒が右大弁藤原経任のもとへ届けられた。14日、報告を受けた朝廷は忠常の首を梟首すべきかどうかを審議。その二日後の16日、頼信は忠常の首を持って入京を果たしたが、忠常は神妙に降伏したことが考慮されたのか、梟首されることなく首は忠常の「従類」へ返却された。

 『左経記』には、忠常の子の常昌・常近忠常男常昌常近不進降状」「於男常昌等者未降来」というように、忠常降伏の後も従おうとしなかった様子が見えるが、実際は常昌・常近が「降状」を提出していなかったことで彼らはまだ服従していないと受け取られ、朝廷では右大臣藤原実資を中心に兄弟の追討について詮議がなされた。

 『左経記』の著者としても知られる右大弁・源経頼は追討主張派で、「常昌・常近は許されるべき者ではなく追討すべきであるが、忠常追討では坂東諸国の軍勢が参加したにもかかわらず敗れ、諸国は荒廃してしまった。そこに重ねて常昌・常近追討使を派遣すれば、ますます国は荒れてしまうことが予想され、しばらくは国力を回復させるほうに力を注ぎ、国力が戻ったときに彼らを討てばよい」と主張した。

 しかし、左大弁・藤原重尹は経頼の主張とは異なり、「忠常は首となってすでに帰降し、事実、常昌らもこれに従っており、追討する必要はない」とし、さらに左兵衛督藤原公成「忠常入道常安は帰降しており、その息子達も帰降する気持ちであったが、忠常は上洛の途中で死去してしまった。罪人でも父母の死の際には暇が出るのに、父の忠常が死んで間もなく、未だ罪人でもない常昌らの罪状を問うのはどうか」と追討に否定的な意見を述べた。なぜ朝廷が謀反人とされた忠常一族にここまで寛容になっているのか不明だが、忠常が内大臣藤原教通の家人であったことが関係しているのかもしれない。

 実は忠常の乱(長元の乱)の30年ほど前の長保3(1003)年、忠常の「先祖の敵」にあたる平繁盛の孫・平維良が下総国府を焼き討ちした。維良は朝廷から派遣された追討使によってすぐに追討されて越後国へ逃亡したが、維良はその後も処罰されることなく、長和元(1012)年には「鎮守府将軍」に任じられている。維良は父・平兼忠の代から関白・藤原道長に仕えていた家人であり、そのことが処罰されなかった一因であったと考えられる。

 平高望―+―国香―――+―貞盛――――+―維将――――維時―――直方
     |(常陸大掾)|(鎮守府将軍)|(肥前守) (上総介)(右衛門少尉)
     |      |       |
     |      |       +―維衡―――………―清盛
     |      |        (伊勢守)
     |      |       
     |      +―繁盛――――+=維幹
     |       (散位)   |(常陸大掾)
     |              |
     |              +―兼忠――――維良
     |                     (鎮守府将軍)
     |
     +―良文―――――経明――――――忠常――+―常昌(常将)
      (陸奥守)  (=忠頼か)  (上総介)|(武蔵押領使)
                          |
                          +―常近
                           (安房押領使)

 朝廷での詮議の結果、常昌・常近は追討されることはなく、常昌(常将)「武蔵押領使」となり、弟・常近(恒親)「安房押領使」になったと『松羅館本千葉系図』に掲載されている。系譜で常近の孫にあたる頼任は「村上貫主」とされており、上総国村上郷(市原市村上)に住し、北東1.5キロにある上総国分寺(市原市惣社)の貫主になっていたとも考えられる。

 平良文―――経明―――+―将恒――――…→秩父氏
(陸奥守) (=忠頼か)|(武蔵権守)
            |
            +―忠常――+―常将―――――常長――――+―千葉介常兼―――常重――――常胤
             (上総介)|(武蔵押領使)(武蔵押領使)|(下総権介)  (下総権介)(下総権介)
                  |              |
                  |              +―上総権介常晴――常澄――――広常
                  |               (上総権介)  (上総権介)(上総権介)
                  |
                  +―恒親―――――恒仲――――――頼任
                   (安房押領使)        (村上貫主)

 忠常の兄にあたる将恒(武蔵権大掾)は、おそらく父・忠頼が移住した武蔵国秩父郡の牧を受け継いで秩父を支配したと思われる。将恒の嫡流惣領家・河越氏「武蔵国留守所惣検校職」として、秩父党一族を支配した。秩父党のうち、特に有名な鎌倉武士としては畠山重忠、源義経の舅・河越重頼などがある。

 長元の乱以前の上総国には、22,980余町の公定田があったが、乱後の長元7(1034)年、上総介藤原辰時のときには、18余町にまで激減したと報告されている。

■忠常の官途

 忠常が「上総介」であったことは間違いないが、上総介を辞した後は下総国に移り住んだようである。また、他の古文書に見えない記述として『応徳元年皇代記』には忠常は「下権介」でったと記されている。

●忠常について伝える史書

史書 忠常について 住居
『百練抄』 前上総介忠常  
『小記目録』 平忠常并男常昌等  
『日本紀略』 前上総介平忠常 下総国住人
前上総介平忠常 下総国
『左経記』 平忠経 住下野(下総の誤りか)
『応徳元年皇代記』 下総権介平忠常  

●忠常の所在●

下総国

古代の房総地図(想像)

 下総に移ってのちの忠常の所在については、一般的には、忠常は立花庄大友香取郡東庄町大友)にいたとされており、同地には良文貝塚や忠常の子・常将が建立したという平山寺が残されている。

 忠常以前、良文、忠頼については下総にいたことを示す傍証はない。彼らは武蔵国内での動向が記録に残されていることから、武蔵の軍事貴族であったと考えられる。ただし、久安2(1146)年8月10日『正六位上平朝臣常胤寄進状』の中の記述に、下総国相馬郡について、

「……右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地……」

とあることから、相馬郡は良文、経明(忠頼の初名という)、忠経(忠常)が相伝してきた所領として千葉介常胤(当時29歳)が認識していたことがうかがえる。しかし、立花庄については由来が記述されず、いつ頃の成立か不明。同地には前述のとおり、忠常の子・常将の建立とされる平山寺があり、常将による立庄かもしれない。おそらく立花郷(立花庄)は相馬郷よりも房総平氏と関わるのは後のことではないだろうか。

 立花郷と相馬郷は保延2(1136)年11月13日、国司・藤原親通によって平常重・常胤父子の手から奪われたが、立花郷については取り返すことに執着していないにも係らず、相馬郷については、かなりの執着を見せており、両総平氏にとって相馬郡は立花郷とは比較にならない重要な由緒があったように感じられる。これは相馬郷が良文以来の所領で、遠祖・忠常の下総での住居が相馬郷にあった可能性があるように感じられる。千葉介常胤が建久6(1195)年12月12日に「殊に由緒あり」として「美濃国蜂屋庄」の地頭職を望んでいるのも、忠常の死地として認識していた可能性がある。

●『千葉大系図』忠常の項●

忠常 上総介。武蔵押領使。天延三年九月十三日誕生。居上総国大椎城。長元元年戊辰、依浮説而征討使下向、相闘有年。既而同四年辛未四月、服源頼信之言、棒名符怠状。赴洛途中罹病、同五月十五日、死于美濃国蜂屋庄。年五十六。故嫡子常将蒙勅免矣。


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