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桓武天皇 (737-806) |
葛原親王 (786-853) |
高見王 (???-???) |
平 高望 (???-???) |
平 良文 (???-???) |
平 経明 (???-???) |
平 忠常 (975-1031) |
平 常将 (????-????) |
|
平 常長 (????-????) |
平 常兼 (????-????) |
千葉常重 (????-????) |
千葉常胤 (1118-1201) |
千葉胤正 (1141-1203) |
千葉成胤 (1155-1218) |
千葉胤綱 (1208-1228) |
千葉時胤 (1218-1241) |
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千葉頼胤 (1239-1275) |
千葉宗胤 (1265-1294) |
千葉胤宗 (1268-1312) |
千葉貞胤 (1291-1351) |
千葉一胤 (????-1336) |
千葉氏胤 (1337-1365) |
千葉満胤 (1360-1426) |
千葉兼胤 (1392-1430) |
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千葉胤直 (1419-1455) |
千葉胤将 (1433-1455) |
千葉胤宣 (1443-1455) |
馬加康胤 (????-1456) |
馬加胤持 (????-1455) |
岩橋輔胤 (1421-1492) |
千葉孝胤 (1433-1505) |
千葉勝胤 (1471-1532) |
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千葉昌胤 (1495-1546) |
千葉利胤 (1515-1547) |
千葉親胤 (1541-1557) |
千葉胤富 (1527-1579) |
千葉良胤 (1557-1608) |
千葉邦胤 (1557-1583) |
千葉直重 (????-1627) |
千葉重胤 (1576-1633) |
| 江戸時代の千葉宗家 | |||||||
| 生没年 | 延元2(1337)年5月11日?~貞治4(1365)年9月13日 |
| 父 | 千葉介貞胤 |
| 母 | 曽谷教信入道日礼姪(法頂尼) |
| 妻 | 新田左近衛中将義貞娘 |
| 官位 | 不明 |
| 官職 | 下総権介? |
| 役職 | 下総国守護職 伊賀国守護職:観応2(1351)年免 上総国守護職〔1〕:観応3(1352)年任~文和4(1355)年5月8日免 上総国守護職〔2〕:康安2(1362)年任~貞治3(1364)年免 |
| 所在 | 下総国千葉庄 |
| 法号 | 常珍月渓殿氏徹貴運其阿弥陀仏 |
| 墓所 | 千葉山海隣寺? |
千葉氏十二代。父は千葉介貞胤。母は曽谷教信入道日礼の姪・法頂尼(曾谷氏の項)。
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| 氏胤花押 |
延元2(1337)年5月11日、京都に生まれた。兄の新介一胤が氏胤誕生の前年に園城寺の戦いで戦死してしまったので生まれながら嫡子とされ、先例に従って「千葉新介」を称した。元服時には足利尊氏の偏諱をうけて「氏胤」を称したと思われる。
氏胤は京都で生まれ育ったためか、京都の文化に興味を示し、千葉一族で二条流歌人の東中務丞常顕の弟子となって歌道に執心し『新千載和歌集』に歌が選ばれている。
貞和元(1345)年8月29日、風も穏やかな秋晴れに天龍寺供養が執り行われた。先陣の随兵には「東下総中務丞(東常顕)」と「粟飯原下総守(清胤)」が連なり、後陣の随兵のなかに「千葉新介」の名が見えるが(『結城文書』)、『太平記』によれば「千葉新介氏胤」とある。このとき氏胤はわずかに九歳であったが、この年は下総国では香取社の造営事業があり、父・千葉介貞胤は上洛が免ぜられ(鎌倉時代においても香取社造営時の上洛は免じられた例がある)、代理として在京の氏胤が加わったと考えられる。なお、康永4(1345)年3月の『造営所役注文』によれば、貞胤の所役は「正神殿」「若宮(吉橋郷分)」「一鳥居(印東庄役)」とあり、下総守護職であった貞胤は香取社の中枢、もっとも費用のかかる部分を担当したことがうかがえる。
●天龍寺供養参列者(『結城文書』天龍寺供養日記:『大日本史料』所収) ※千葉一族は太字
| 先陣 | 山名伊豆前司時氏…帯甲冑、後騎三百余騎、各帯甲冑、召具守護分国輩等 |
| 随兵 引馬二疋 ・銀鞍 ・総鞦 |
武田伊豆前司信武、小笠原兵庫助政長、戸次丹後守頼時、伊東大和八郎左衛門祐熈、土屋備前権守教遠 |
| 東下総中務丞常顕、佐々木佐渡四郎左衛門尉秀宗、佐々木近江四郎高秀、大平出羽守義尚、粟飯原下総守清胤、吉良上総三郎、高刑部大輔師兼 | |
| 帯剣(左) | 武田伊豆四郎、佐竹刑部丞師義、小笠原十郎次郎政光、三浦駿河次郎左衛門尉藤村、二階堂美作次郎左衛門尉政直、佐々木佐渡五郎左衛門尉高昌、海老名尾張六郎季直、逸見八郎貞有、設楽五郎兵衛尉助定、寺岡兵衛五郎師春、逸見又三郎師満、小笠原源蔵人、佐々木出羽四郎兵衛尉、富永孫二郎左衛門尉、清久左衛門次郎泰行、曾我左衛門尉師助 |
| 帯剣(右) | 小笠原七郎政経、佐々木信濃五郎直氏、小笠原又三郎宗光、三浦越中次郎左衛門尉、二階堂対馬四郎左衛門尉、佐々木佐渡四郎高秋、平賀四郎忠経、小笠原太郎次郎行継、設楽六郎助兼、設楽二郎、逸見源太郎清重、秋山新蔵人、佐々木近江二郎左衛門尉清氏、宇佐美三河三郎、木村長門四郎基綱、伊勢勘解由左衛門尉貞継 |
| 御兄弟御車 小八葉 |
足利尊氏(将軍家)、足利直義(三条殿) |
| 役人将軍家 | 南遠江守(剣)、長井大膳権大夫(沓)、佐々木源三左衛門尉(調度)、和田越前守(笠) |
| 役人三条殿 | 播磨前司(剣)、長井治部少輔(沓)、佐々木筑前三郎左衛門尉(調度)、千秋三河左衛門大夫(笠) |
| 布衣 | 武蔵守(高師直)、彈正少弼(上杉朝定)、伊豆守(上杉重能)、越後守(高師泰)、伊予権守(高重成)、上杉左馬助(上杉朝房) |
| 随兵 | 尾張左近大夫将監氏頼、千葉新介、二階堂美濃守行通、山城三郎左衛門尉行光、佐竹掃部助師義、佐竹和泉守義長、武田甲斐前司盛信、伴野出羽前司長房、三浦遠江守行連、土肥美濃権守高真 |
| 直垂 | 土佐四郎(高土佐四郎?)、里見民部少輔、安芸守、山城守、大平四郎左衛門尉、摂津右近蔵人、水谷刑部少輔、長井丹後左衛門大夫、長井修理亮、佐々木能登前司、佐々木豊前権守、中条備前守、美作守、町野加賀守、武田兵庫助、武田八郎、大内民部大夫、結城大内三郎、田中下総三郎、狩野下野三郎左衛門尉、島津下野守、土屋三河権守、薗田美作権守、梶原河内守、安保肥前権守、小幡右衛門尉、疋田三郎左衛門尉、寺岡九郎左衛門尉、寺尾新蔵人、須賀左衛門尉、赤松美作権守、須賀二郎左衛門尉 |
| 後陣 | 大高兵庫助…諸人後騎以下各扈従 |
■観応の擾乱
この当時、将軍・足利尊氏と弟の足利直義入道恵源の間で、それぞれを推す重臣層をも巻き込んだ権力争いである「観応の擾乱」が激化していた。「観応の擾乱」の萌芽は、尊氏が征夷大将軍に任じられ、京都に幕府を開いた暦応元(1338)年にまで遡る。
暦応元(1338)年8月11日、尊氏は北朝の光明天皇のもと、正二位征夷大将軍となり、鎌倉幕府討幕以来、つねに副将として支えた実弟・足利相模守直義は同日、従四位上左兵衛督となった。初期の幕府は尊氏が軍権を、直義が行政・司法権を担当する形の二頭体制で運営されていたが、尊氏の腹心で足利家執事の高武蔵守師直や高越後守師泰らと、行政・司法を統括した直義の両腕とも言うべき腹心、上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔直宗らの間に軋轢が生まれていく。
貞和5(1349)年閏6月15日、直義派の強訴により、尊氏は高師直の執事職を解いた。これに対抗し、高師直は諸大名に働きかけ、五万の大軍を以って直義の三条邸を取り囲んだ。一方、急を聞いて直義邸に駆けつけた兵は吉良氏や斯波氏など足利一門の有力者がいたが、その勢はわずかに七千。結局、直義は尊氏の御所に駆け込んだ(『太平記』)。
しかし、高師直の軍勢は御所をも取り囲み、
と、「讒者の張本」である上杉重能、畠山直宗らの引渡しを求めた。これに尊氏は、
と、累代の家人の恫喝に屈するくらいであれば討死しようと甲冑を着込んでいたところ、直義は、
と、家僕に対してわざわざ将軍自ら手を下すことも口惜しく、今は師直の求めに応じるべきであると尊氏を制止し、尊氏も結局折れて、
と師直らに通達。これに師直は満足して囲みを解いた。その後、上杉重能・畠山直宗は越前国へ流され、直義は政権内から干されることとなり、師直の勢力が幅を利かせることとなる。実はこのクーデター劇は、尊氏と師直による政権一本化を図ったものだったともされる(『太平記』)。なお、越前に流された上杉重能・畠山直宗は12月24日に自刃に追い込まれた。
尊氏は直義の担当していた訴訟・政務について、鎌倉にあった嫡男・足利左馬頭義詮に担当させることとし、急遽鎌倉から呼び寄せることとした。同年10月4日、義詮は手勢を仕立てて上洛の途につき、23日入洛した。義詮には「川越、高坂を始として大略送りに上洛す」とあり、河越氏・高坂氏ら「平一揆」の中心者が鎌倉殿=足利義詮直属だったことがうかがえる。義詮上洛に当たっては、多くの出迎えが見られる(『太平記』)。
一方、政権から追い出された直義は、細川兵部大輔顕氏の錦小路堀河邸に入り、同年12月8日、出家して「恵源」と号し、墨染めの衣をまとった。しかし、直義は出家しても自らの思想のためには政権を再びこの手に取り戻すべく、暗躍を始めた。
観応元(1350)年、直義の養嗣子(実は尊氏の庶子)・足利直冬が少弐氏、大友氏らを麾下に従え九州で勢力を拡大していることを憂い、尊氏は高師直を召し具して25日に九州へ出陣する風聞が立った。さらに10月26日夜半、「錦小路左兵衛督入道去夜逐電、就之武門忩々、但不及懸追手、明曉進発延縮」(『園太暦』観応元年十月二十六日条)と、直義入道は石堂右馬助頼房ら少数の腹心を伴って京都を脱出した。
このような混乱の中で観応2(1351)年元日、父・千葉介貞胤が六十一歳で亡くなった。氏胤はわずか十五歳で家督を継承したが、千葉家が引き連れていた兵士は狼藉がひどく、貞胤のころから評判も芳しくなかった。氏胤に家督が継承されてもやはり兵士の乱れは留まらなかったようで、洞院公賢も千葉氏の手勢がとくにひどいと、下記のように二度にわたって日記に認めている。
●『園太暦』観応元年十一月八日条
永福門院(伏見天皇中宮藤原鏱子)が、北小路里辺りに寄宿している「千葉軍勢」の狼藉がひどいため女房たちの一人住まいを物騒に感じ、自らの御所に引き取ったことを記載している。さらに、
●『園太暦』観応二年正月十四日条
など、千葉家の武士による狼藉が続いていたことがわかる。
正月7日、直義の手勢は七千余騎で八幡山に陣取った。そして、正月15日未明、京都に火事が起こった。洞院公賢は起き出して外を見ると、南方に火の手が上がっているのが見えた。これは、尊氏党の高越後守師泰の屋敷を守っていた留守居が屋敷に火をつけたものとされ、宰相中将・足利義詮以下、仁木兵部少輔頼章、仁木右馬助義長、高武蔵守師直も留守居が屋敷を自焼して京都を脱出したとの風聞が流れた。とくに「千葉介又走南方云々」とされ、氏胤は直義のもとに走ったことが伝えられている(『園太暦』観応二年正月十五日条)。
さらに、正月8日、直義党の巨頭で越中守護の桃井刑部大輔直常が能登・加賀・越前の兵を率いて比叡山の麓、東坂本から入京し、仙洞御所に参内した。そして、河原において佐々木道譽の軍勢と合戦して、道譽を打ち破ったものの、道譽に味方する園城寺僧兵と足利義詮、将軍・足利尊氏の軍勢が桃井直常の軍勢に襲いかかったことから、桃井勢は大敗。法勝寺に引き退いた。しかし、16日には小笠原遠江守政長、山名伊豆守時氏、佐々木近江入道善願、千秋左衛門大夫高範らが尊氏から離反してしまい、17日、尊氏は義詮、高師直、仁木頼章、仁木右馬助義長、佐々木道譽らわずか三十騎ばかりを率いて京都を脱出し、丹波国篠村へ落ちていった(『園太暦』観応二年正月十七日条)。
この日、氏胤は直義党に属していた吉良治部少輔満貞・足利修理大夫高経とともに入京した(『園太暦』正月十七日条)。
そして19日、氏胤は斯波高経とともに千余騎を率いて坂本を通って北国へ向けて出陣した。これは、高師直が越前方面へ没落していったという報告があったためである(『園太暦』観応二年正月十九日条)。
その後、尊氏は京都へ向けて引き返すが、東国から攻め上ってきた上杉民部大輔憲顕、細川陸奥守顕氏らの軍勢に阻まれ、2月17日、摂津国打出浜で直義・南朝勢と合戦に及ぶも大敗して兵庫へ退却。直義は高師直・師泰兄弟を出家させることを尊氏に要求して認めさせ、尊氏と和睦する。
25日、和睦の条件を受け入れた高師直、高師泰は摂津国で出家してそれぞれ道常、道勝と号し、尊氏とともに上洛の途に就いたが、武庫川を過ぎる頃には両者は引き離され、武庫川の小堤、鷲林寺前に来たところで、三浦八郎左衛門の中間二人が師直入道・師泰入道のもとに駆け寄り、
と、笠を切り捨てたところ、師直らの顔が現れ、三浦八郎左衛門は、
と、長刀で師直入道の右肩から左脇にかけて斬り下げ、首を取った。また、師直弟の師泰入道は吉江小四郎が鑓で突き殺され、高豊前五郎は小柴新左衛門、高備前守は井野弥四郎、高越後将監は長尾彦四郎、高遠江次郎は小田左衛門五郎が討つなど、高一族・郎従らが次々に殺害された(『太平記』)。なお、高師直らを討ったのは「上杉修理亮」とあるので(『園太暦』)、三浦八左衛門は上杉修理亮顕能の配下か。上杉修理亮は師直によって越前に流され自害させられた上杉重能の子である。
○武庫川で討たれた高党(『園太暦』)
| 武蔵守入道師直 | 越後守入道師泰 | 高刑部師兼 | 武蔵五郎師夏 | 越後大夫将監 師世 | 高備前 | 高豊前五郎 |
| 高南遠江兵庫助 | 河津左衛門尉 | 鹿目左衛門尉 | 鹿目平次兵衛尉 | 彦目 | 文阿弥陀仏 | 正阿弥陀仏 |
27日夜、尊氏は入京して上杉弾正少弼朝定の屋敷に入り、直義入道も八幡から入京して錦小路屋敷に入った。しかし、尊氏は師直ら高一族が殺害されたことに怒りが収まらず、3月2日、師直を誅殺した上杉修理亮顕能の厳罰を主張した。慌てた直義入道がさまざま弁明したことで流罪に落ち着く。これにより、北朝内の騒乱は終ったかに見えた。
3月2日、直義入道は「政務事、宰相中将不可堪之間辞謝、然而禅門同心可扶佐」と、再び幕政に参画することを要求して、政務を見ている義詮の後見人の座につくこととなる(『園太暦』観応二年三月二日条)。
しかしこの直後から、諸大名の領国下向が相次ぐようになる。仁木左京大夫頼章は病と称して有馬の湯へ向った。その弟・仁木右馬権助義長は伊勢へ、細川刑部大輔頼春は讃岐へ、佐々木佐渡判官入道道誉は近江へ、赤松筑前守貞範と甥の赤松弥次郎師範、その弟・赤松信濃五郎範直は播磨へ、土岐刑部少輔頼康は美濃国へ下向した。いずれも京都に近いことがわかる。そして赤松律師則祐は南朝に加担して京都を離れたという。
この状況を見た直義の腹心である石堂入道、桃井直常の両名が直義邸へ駆けつけ、
と語り、7月晦日、直義入道は「さらばやがて下るべし」と、取る物もとりあえず、夜半に邸を抜けて、斯波高経以下有力与党が治める北国へ落ちていった。
しかし氏胤は、そのまま京都に残って尊氏のもとに参じ、直義入道追討軍の一翼を担って鎌倉に攻め下ることになる。それまで直義党として活動していた氏胤がなぜ直義の許を離れたのか、また尊氏に赦された理由はわからないが、尊氏からの御教書が届けられていたのかもしれない。
ただ、氏胤は家督継承後、「下総守護」だけではなく「伊賀守護」にも任じられていたが、この年、尊氏の腹心で一貫して尊氏党として戦ってきた仁木義長と交代されている。南朝の本拠地・吉野と近い伊賀国を経験の浅い氏胤に任せることに不安があることや、氏胤の「観応の擾乱」での行動に関係しているのだろう。
さて、京都を逃れた直義入道は、桃井直常の旧領・北陸を通って鎌倉へ到達。ここで反尊氏の旗を挙げ、京都へ進軍をはじめた。
一方、尊氏勢は京都を出陣して鎌倉に攻め下り、駿河国薩埵山の戦いで直義勢と合戦。直義勢を打ち破り、さらに蒲原郡でも直義方重臣・上杉民部大輔憲顕を打ち破った。上杉憲顕は軍勢をまとめて信濃国に落ちていくが、これを見た血気盛んな十五歳の氏胤はわずか五百騎で追撃したが、敗れたとはいえ大軍を擁していた上杉勢に取り囲まれて駿河国早河尻で打ち負かされ、氏胤は血路を開いて脱出している。
11月4日、尊氏勢はついに鎌倉を攻め落とし、直義入道を捕らえて浄妙寺内延福寺に幽閉した。直義はその後わずか一か月後に鎌倉延福寺で亡くなっていて(享年四十六)、当時から尊氏による毒殺説がささやかれていた。
■守護職をめぐる争い
直義死亡の混乱に乗じた南朝方は、観応3(1352)年閏2月、南朝方に降った上杉憲顕に新田左兵衛佐義興・新田武蔵守義宗・脇屋左衛門佐義治が加わり武蔵国で挙兵した。尊氏は閏2月17日に関東の諸将を率いて武蔵国に展開したものの、敗れて武蔵国石浜(東京都荒川区南千住)に後退。20日、新田義興・脇屋義治によって鎌倉は占領された。これと同じころ、尊氏の嫡男・足利宰相中将義詮が守る京都も南朝の手によって陥落し、義詮は佐々木道誉が守る近江国伊吹庄へ退いた。
◆新田義貞周辺略系図◆
⇒新田貞氏―+―新田義貞―+―新田義顕(越前金ヶ崎で自刃)
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| +―新田義興
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| +―新田義宗
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| +―娘
| ∥―――――千葉介満胤
| 千葉介氏胤
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+―脇屋義助―――脇屋義治
石浜の尊氏のもとへは千葉介氏胤を筆頭に、小山判官氏政、小田少将治久、宇都宮伊予守氏綱、常陸大掾高幹、佐竹右馬助義篤、佐竹刑部大輔、白河少輔、結城判官直光、長沼判官、古屋兵部大輔、土肥次郎兵衛入道、土屋備前前司、土屋修理亮、土屋出雲守、下条小三郎、二宮近江守、二宮河内守、二宮伊予守、二宮但馬守、二宮能登守、曾我上野介師助、海老名四郎左衛門、本間某、渋谷右馬允、曾我三河守、曾我周防守、曾我石見守、石浜上野介、武田陸奥守信武、武田安芸守信成、武田薩摩守公信、武田弾正少弼信明、小笠原政長、坂西某、一條三郎、板垣三郎左衛門、逸見美濃守、白洲上野介、天野三河守、天野和泉守、狩野介、長峯勘解由左衛門ら錚々たる東国の諸大名が集まってきた。その数、『太平記』によれば八万騎とされるほどであった。
石浜で体勢を立て直した尊氏は、鎌倉の新田義興、脇屋義治、三浦介高通らを追い落とすと、一族の名将・仁木左京大夫義長を武蔵野に派遣して新田義宗を打ち破った。また、氏胤率いる千葉勢も閏2月28日、宿敵・上杉憲顕を撃破した。この戦いには下総国から従弟の粟飯原彦五郎基胤が援軍として参加している。
同年7月13日、尊氏は関東の鎮護を祈願して、下総国一ノ宮の香取大社に参詣し、「下総国戸頭郷(茨城県取手市戸頭)」を寄進している。氏胤は武蔵野の戦いの戦功で6月までに「上総守護職」を拝命しており、両総を支配するという千葉氏の悲願が叶った。7月4日、尊氏は鎌倉宝戒寺(北条家を弔うために尊氏が得宗屋敷跡に建立)の造営料として「上総国武射郡小松村工藤中務右衛門跡」「出羽国小田島庄内東根孫五郎跡」を寄進しているが(『足利尊氏寄進状』)、出羽小田島庄内の土地は「長井備前太郎殿」に、そして上総国武射郡は守護である「千葉介殿」にそれぞれ請取状が発給されている(『尊氏判物①』『尊氏判物②』)。
●観応3(1352)年7月4日『足利尊氏寄進状』
●観応3(1352)年7月22日『足利尊氏判物』
なお、尊氏が寄進した「下総国戸頭郷」は、もともと下総相馬氏の所領だったが、相馬胤継の次女がこれを継承し、彼女が嫁いだ摂津氏(中原氏の一族)に受け継がれて、彼女の孫・摂津親秀が建武5(1338)年8月10日、戸頭村の代地として「近江国柏木御厨地頭職」が安堵され、足利尊氏の知行地となっていた。
翌文和2(1353)年7月29日、尊氏は義詮の救援のもとめに応じて鎌倉を発って上洛の途へついた。このとき、関東の主だった大名である、小山氏政・結城直光・小田孝朝・大掾高幹・佐竹義篤・那須資藤らが供奉して上洛しているにも関わらず氏胤は下総国千葉郷に残っており、8月6日に鎌倉に入って鎌倉守護の任についた。その強大な軍事力をもって鎌倉を守らせようという、尊氏の考えだろう。
同年11月21日、氏胤は尊氏より御教書を下され、覚園寺の造営料所とされた「上総国小蓋、八板」の「濫妨人等」の濫妨をやめさせるよう命じられた。氏胤が上総守護として命じられたものである。しかし文和4(1355)年5月8日、氏胤に替えて佐々木導誉が上総守護職に就任することとなった。
●文和4(1355)年5月8日『上総守護職補任状』
もともと幕府から両総の守護職たるべき下文をもらっていた氏胤には、この新しい下文は容認できるものではなく、下総国印西庄・埴生庄、上総国伊北庄へ佐々木家の代官が下ってくるのを実力で阻止した。
道誉は「下総国印西庄、同国垣生庄、上総国伊北庄、上野国多胡庄地頭職事、千葉介并駿河守以下輩令押領云々」と、「千葉介(千葉介氏胤)」と「駿河守(二階堂駿河守行春とされる)」が代官の入部を妨害した旨を将軍・足利尊氏に訴えた。千葉介氏胤は印西庄・埴生庄の地頭職を主張し、二階堂行春も鎌倉期以来の伊北庄地頭職を渡す気はさらさらなかったのだろう。南北朝時代は鎌倉時代の幕府専制政治のころとは武士の考え方も実力も違っている。氏胤、行春は真っ向から幕府の措置に反抗したのだった。
●某年5月18日『足利尊氏書状』
すると尊氏は5月18日、鎌倉の「左馬頭殿(足利基氏)」へ宛てて千葉介たちの押領は「甚不可然」とし、「仮彼等雖帯下文、道誉先日拝領之上者、先可被沙汰付下地於彼代官」と、道誉の言い分を全面的に認めた。さらに「上総国守護職事、千葉介雖申所存、於向後者不可有口入之儀」と、上総守護職のことで千葉介氏胤が何を言おうが関係ないので、「早々下代官可致沙汰」と、道誉に代官を早々に派遣するよう命じた。
●某年5月19日『足利尊氏書状』
しかしながら、上総国の地頭・御家人たちは佐々木道誉の言うことをまったく聞かなかったようで、道誉はまた幕府に泣きついた。この上総国の御家人たちの行動も千葉介氏胤から何らかの指示があったと推測されるが、道誉が氏胤を幕府に訴えたかは不明である。ついに幕府は12月23日、佐々木道誉に充てて「背守護人催促」の者が重ねて命に背き、「若猶不承引者」があれば、罪科に問うべき旨の御教書を発給した(文和4(1355)年12月23日『将軍家御教書』)。
延文2(1357)年10月24日に下総国守護「平(千葉介氏胤か)」は、香取大禰宜へ、香取社の仮殿の上棟以後、作事が行われていないことを聞いてはなはだしかるべからずと怒り、諸神官を差し遣わして、中村入道聖阿ともども譴責する旨を記した『千葉介氏胤奉書』を発給している。
●延文2(1357)年10月24日『千葉介氏胤奉書』(『香取文書』所収)
氏胤の上総守護解任に対する抵抗はかなり執拗であったようで、康安2(1362)年に氏胤は上総守護職に復職した。同年4月25日、関東執事・高散位師有より「上総国二宮庄内庄吉郷細河相模守跡」を「御愛局代」に沙汰付ける施行状を受けている(『円覚寺帰源院文書』)。この「二宮庄内庄吉郷」は同年の貞治元(1362)年12月22日、足利基氏によって御愛局(基氏妻カ)の追善のために円覚寺舎利殿に寄進されている(『円覚寺文書』)。
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| 鎌倉扇谷の浄光明寺山門 |
しかし、それから2年後の貞治3(1364)年には再び上総守護職を解かれ、世良田伊予守義政が守護になっていた。
この年、氏胤が浄光明寺領の「上総国北山辺郡由井郷内越田四段大并給分方田地一町三段小及政所屋敷免」を押領していたことに、浄光明寺雑掌賢秀が訴えを起こしており、4月16日、足利基氏は「伊予守(世良田義政)」に「観応三年十月十五日御寄進状」に任せて浄光明寺領として沙汰すべきことを命じている(貞治3(1364)年4月16日『足利基氏御教書』)。
●貞治3(1364)年4月16日『足利基氏御教書』(『浄光明寺文書』:『群馬県史』資料編所収)
これら上総国をめぐる幕府・鎌倉府との諍いは、千葉介の鎌倉鶴岡八幡宮下宮乱入という事件をも引き起こしたようで、氏胤は上総国をめぐる一連の不祥事を鎌倉公方・足利基氏から叱責されていたと思われ、面目を失った氏胤が下宮に立て籠もっている(『鶴岡諸記録』)。
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| 千葉の来迎寺に残る千葉一族供養塔 |
貞治4(1365)年9月13日、氏胤は美濃国において病死した。享年二十九(『本土寺過去帳』)。法名は常珍月渓殿氏徹貴運其阿弥陀仏。千葉の来迎寺(千葉市稲毛区轟町1)には、氏胤の供養塔をはじめとする一門の供養塔七つが建立されている。
◆千葉介氏胤略系図◆
+―曾谷教信(日礼)――――――伝浄
|(下総国八幡庄曾谷郷の豪族)(平賀六ヶ村を本土寺に寄進)
| ・本土寺の日朗の与力
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+―□□□□――――――――――法頂尼
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∥―――――千葉介氏胤
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千葉介貞胤
家臣 湯浅左兵衛 円城寺大膳 押田 土屋
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