千葉貞胤

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉貞胤 (1291-1351)

生没年 正応4(1291)年12月15日?~正平2(1351)年正月1日
千葉介胤宗
金沢北条越後守顕時娘
曽谷教信入道日礼姪(法頂尼)
官位 不明
官職 下総権介
役職 下総国守護職
伊賀国守護職
遠江国守護職
所在 下総国千葉庄
法号 善珍浄徳院
墓所 千葉山海隣寺?

 千葉氏十代。父は九代・千葉介胤宗。母は北条越後守顕時娘。正応4(1291)年12月15日生まれたと伝わる(『千葉大系図』)。正和元(1312)年3月、父・胤宗の死にともない家督を継いだ。おそらく元服時に得宗・北条貞時の偏諱を受けて「貞胤」を称したと思われる。下総国・伊賀国・遠江国の三国の守護職を兼ねた当主。

貞胤花押
貞胤花押

 後醍醐天皇の密命を受けた河内の国人・楠木兵衛尉正成大和国笠置山に籠って反幕府の兵を挙げると、幕府は追討使を派遣して乱の鎮圧を図った。貞胤も幕命を受けて金沢北条貞冬(貞胤とは従兄弟同士)の手に属して近畿に攻め上った『関東軍勢交名1』『関東軍勢交名2』貞胤はこの笠置攻めに「一族并伊賀国」の配下を率いて出陣していることがわかり、伊賀国の守護権を行使していたことが確認できる。それを裏付けるように、貞胤の代官として伊賀国政を担当していた「平常茂」なる人物が文書に見える。伊賀国黒田庄は東大寺領であり、悪党の濫妨狼藉を受けていた。東大寺から要請を受けた幕府は、守護・千葉介貞胤に悪党の追捕を命じ、嘉暦2(1327)年、平常茂・服部持法が悪党を追捕した。

 元弘元(1331)年9月、幕府は幕府に反抗的な大覚寺統(亀山天皇流)の後醍醐天皇を廃し持明院統(後深草天皇流)の量仁親王(光厳天皇)を即位させ、後醍醐天皇は籠城していた笠置山でついに捕らえられた。その後、持っていた「三種の神器」をやむなく光厳天皇へ引き渡した。

●千葉=北条周辺系図

      天野遠景―政景 +―(葛西朝清の妻)
           ∥  |
           ∥――+―(北条実時の母)
           ∥  |
     三浦介義澄―娘  +―(相馬尼)
                ∥――――――胤村
千葉介常胤―+―相馬師常―義胤―胤綱
      |
      +―千葉胤正―成胤――+―胤綱――+――――――――時胤
       (千葉介)(千葉介)|(千葉介)|       (千葉介)
                 |     |        ∥―――頼胤――――――胤宗
                 |     |+―北条時房――娘  (千葉介)   (千葉介)
                 |     ||                   ∥
                 |     |+―北条義時――実泰          ∥
                 |     |        ∥           ∥
                 |     |        ∥――実時――顕時   ∥―――――貞胤
                 |     | 天野政景―+―娘      ∥    ∥    (千葉介)
                 |     |      |        ∥    ∥
                 |     |      +―相馬尼    ∥    ∥
                 |     |        ∥      ∥    ∥
                 |     | 相馬義胤―――胤綱     ∥    ∥
                 |     |               ∥――――娘
                 |     +―泰胤――――――――――――娘
                 |      (千田次郎)
                 |
                 +―娘(北条時頼の後室・千田尼)

小御門神社 花山院師賢を祀る
小御門神社

 翌元弘2(1332)年3月、後醍醐天皇は隠岐配流とされ、佐々木導譽(京極高氏)・小山大夫判官秀朝千葉介貞胤の三人がその警護の責任者となった。貞胤は彼らとともに隠岐まで先帝一行を護送して京都に戻ると、引き続き「元弘の変」で後醍醐天皇に加担して捕えられた公卿・花山院大納言師賢(正二位)の預かりが命じられたため、帰国に合わせて師賢を同道し、下総国香取郡下総郷(下総町名古屋)に軟禁した。師賢はこの地の生活に慣れなかったか、落胆したのか、同年10月この地で没した。貞胤は彼の屋敷跡に塚を造って手厚く葬った。明治時代になって、この塚脇に「小御門神社」が建てられ、現在でも手厚く祀られている。

 余談だが、花山院師賢の子孫は一貫して南朝方の武将として奮戦しており、師賢の次男・花山院左近衛中将信賢は正平13(1358)年に戦死した。その孫・花山院左近衛中将師重(従三位)は上野国吾妻郡青山郷に拠って北朝勢と戦い、信濃国で挙兵した尹良親王(宗良親王の子)に随って、応永3(1396)年の信濃国浪合の戦いで戦死した。

 師重の子孫は三河国へ逃れ、師重の5代目・青山忠世は松平家に仕えて天文4(1535)年、伊田野で戦死。その孫・青山播磨守忠成は天文20(1551)年、青山喜太夫忠門の嫡子として三河に生まれ、徳川家康の小姓となった。家康が江戸に居城を構えると、江戸町奉行に就任。慶長6(1601)年2月、宿縁の地・両総で1万5千石を与えられ、青山伯耆守忠俊は三代将軍・徳川家光の老職に就任した。

1.鎌倉幕府の滅亡

生品神社
生品神社

元弘3(1333)年5月8日、新田小太郎義貞が打倒幕府の兵を上野国新田庄生品神社で挙げると、貞胤もこれに応じて下総国で挙兵。下総道を通って六浦・材木座方面から鎌倉へ進軍した。

 一方、貞胤は武蔵国へ渡ると、「武蔵国忍岡(台東区上野)」で、御醍醐先帝の護送使として同役だった小山秀朝の軍勢と合流して南下。多摩川を渡り、鶴見で幕府軍・金沢武蔵守貞将の軍勢と戦ってこれを破った。金沢貞将の父・金沢修理亮貞顕貞胤の伯父であり、貞胤と貞将は従兄弟同士の間柄である。

 その後、貞胤と小山秀朝の連合軍は、金沢から朝比奈切通(鎌倉七口の一つ)を通って鎌倉に突入したと思われる。しかし『千葉伝考記』には化粧坂を通って鎌倉へ入ったとされている。また、『房総通史』には巨福呂坂を通って突入したもとされており、いずれも鎌倉の西側から入っとなっている。

 一方、室町期成立の『梅松論』には、千葉介貞胤は武蔵国鶴見の辺で金沢武蔵守貞将(下ノ道大将)と合戦したと記され、『太平記』でも金沢貞将小山判官・千葉介に敗れて、「下ノ道」を通って鎌倉へ退却したとある。鶴見で戦っているのであれば、朝比奈切通しを通って、鎌倉の東側から突入すると考えるのが常識的である。幕府側の備えは、鎌倉の西側の巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂に大兵をつぎこんでおり、東側の備えについてはわかっていない。鎌倉の東部については金沢氏が包括して守備していたのだろう。

 ただし、新田義貞が鎌倉の各切通しを攻め立てていた際、化粧坂を守備していた大将は、鶴見で大敗を喫したはずの金沢貞将であり、貞将は鶴見の戦いののち鎌倉に逃れたものの、朝比奈切通しなどの守備隊がしばらく防いで千葉介貞胤・小山秀朝らは道を西にとって新田義貞の軍勢と合流し、巨福呂坂の外、洲崎の戦い(鎌倉市山崎)で北条守時の軍勢と戦っていたか。

鎌倉地図 新田義貞の経路
▲新田義貞の鎌倉攻め(鎌倉をクリック)

 新田勢は武蔵国児玉郷あたりで 、内々に幕府を裏切っていた幕府重鎮の足利治部大輔高氏(のちの尊氏)の嫡子・足利千寿王(のちの義詮)以下二百騎を加え、これを聞きつけた関東武士が次々に新田勢と合流。その勢は数十万騎にも膨れ上が ったという。これに対し、北条家も大軍を投入することとし、 得宗・北条高時入道崇鑑金沢武蔵守貞将に五万余騎を副えて下総国下河辺へ、武蔵国入間川には桜田治部大輔貞国を大将とし、長崎二郎高重・長崎孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道ら名の知れた将に六万余騎をつけて派遣した。

 新田義貞勢は5月11日、入間川を渡ると桜田貞国・長崎高重の幕府勢に斬り込んだものの勝敗はつかなかった。しかし翌12日の合戦で幕府勢は久米川の戦いに敗れ、分倍河原に退いた。

 この久米川の合戦に敗北したことを受けた得宗・北条高時入道は、剛毅で知られた弟・北条左近将監泰家入道恵性を大将軍に任じ、塩田陸奥守国時入道道祐、安保左衛門入道道堪、城越後守、長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明に出陣を命じた。5月15日深夜に分倍河原に到着したこの援軍に士気を盛り返した北条勢は、明け方に攻め寄せた新田勢を攻め立て、堀金(狭山市堀兼)まで追い落とした。

 手痛い反撃を食った新田勢だったが、5月15日の夕刻、義貞の陣に三浦半島の三浦一族・大多和平六左衛門義勝が松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷ら相模武士六千騎を率いて投降してきた。義貞は彼を先陣として翌16日明け方、分倍河原まで兵を進めると、大勝に油断していた幕府軍を包囲して襲い掛かった。これに驚いた幕府軍は大敗し、鎌倉に退却せざるを得なかった。新田勢はその後、藤沢を駆け抜け、5月18日には鎌倉の手前に陣を進めた。

 このころ有力御家人の大多数は、名越尾張守高家足利高氏に従って西国に出陣していたため、鎌倉には主だった御家人はおらず、北条一門で鎌倉を守るほかなかった。得宗・北条高時入道は執権・北条相模守守時に巨福呂坂口(鎌倉西北の切通し)の守備を命じ、守時はただちに手勢を率いて巨福呂坂を越えると、洲崎(鎌倉市大船)で堀口貞満・大島守之の軍勢に突撃して散々に斬りまわったのち、自害して果てた。千葉介貞胤の軍勢はこの戦いに新田勢の一員として参戦していた。

 同日、幕府は化粧坂・極楽寺坂の切通しに鎌倉残存の大部分の兵を配置し、それぞれ金沢貞将大仏陸奥守貞直を大将として派遣した。これに対して新田勢は、化粧坂口に新田義貞みずから出陣し、極楽寺坂には大館二郎宗氏江田行義を派遣して攻め立てたが、鎌倉七口はいずれも狭く大軍が進めず、いずれもに失敗に終わった。

 極楽寺坂を攻めていた新田勢の一部が18日、稲村ガ崎を廻って鎌倉市街に突入し、由比ヶ浜の在家に放火するなどしたものの、幕府勢に蹴散らされて全滅。戦闘の最中には新田勢の一方の大将、大館宗氏父子が討死を遂げるなど、極楽寺口はまさしく難攻不落だった。さらに化粧坂口の新田義貞も攻めあぐねて撤退。本陣を極楽寺坂の西北・聖福寺へ移した。

材木座海岸
材木座より稲村ガ崎を望む

 しかし、18日の戦いで稲村ガ崎から鎌倉内に入れることを知った義貞は、極楽寺坂へ夜襲をかけて稲村ガ崎へのルートを確保。21日夜半の干潮時(天文学者の試算によれば、22日午前2時58分が稲村ガ崎の干潮)、遠干潟となった稲村ガ崎を真一文字に駆け抜けて鎌倉へ突入した。このため巨福呂坂口・化粧坂口・極楽寺坂口の守備隊も、鎌倉市街への転戦を余儀なくされ、ついに二口も突破されて、鎌倉は火の海と化した。千葉介貞胤も鎌倉に攻め入ったのだろう。

 極楽寺坂口を守っていた大将・大仏貞直は極楽寺坂にて新田勢と斬りむすび、義貞の弟・脇屋二郎義助の軍勢に突撃して討死を遂げた。一方で長崎思元・為基は極楽寺坂から若宮大路へ退きつつも、由比ヶ浜まで新田勢を蹴散らす奮闘を見せた。

 また、化粧坂口から巨福呂坂へ転戦した金沢貞将は全身七か所に重傷を負いながらも、得宗・高時入道の籠もる鎌倉東端・葛西ヶ谷の東勝寺(北条家菩提寺)へ帰ってきた。高時は彼に感謝を申し述べると、今や滅亡してしまった六波羅南北両探題とする旨の御下文を与えた。貞将はこれを拝受すると鎧の継ぎ目に差し入れると、ふたたび鎌倉市街に馳せ戻り、ついに戻ってこなかった。

 元執権の北条前相模守基時入道信忍も化粧坂に攻めのぼるも敵わず自刃を遂げ た。ほかにも塩田陸奥守国時入道道祐・北条民部大輔俊時父子塩飽新左近入道聖遠安東左衛門入道聖秀など名だたる大将も 鎌倉の諸所で自害した。

 一方で、高時の弟・泰家入道は、老臣の諏訪入道直性の一族・諏訪三郎盛高に、兄・高時の二男・亀寿丸を託し、信濃国に落とさせる一方で、みずからも陸奥国のほうへと姿を消した。

 得宗・北条高時にも恐れられた内管領・長崎円喜入道の孫である長崎高重は、分倍河原の戦いに敗れたのち鎌倉へ馳せ戻ると、新田勢をみずから三十二人も斬り払う奮戦を見せて、東勝寺へと帰参した。ここで高重は高時に、「もういちど自分が戻るまでは無分別に自害をしないように」と言い残し、義貞を暗殺するべく旗印をすべて打ち捨てて新田勢に紛れ込んだ。そして義貞のすぐそばまで近づいたとき、義貞の臣・由良新左衛門によって見破られ、高重は数十倍する敵勢相手に縦横に斬り廻り、ついには新田勢の同士討ちを誘い、その隙をついて東勝寺へと退却した。残った騎士はわずかに八騎、みずからも二十三筋もの矢を体中に立てながら、高時の前にいたり「まずは自分がお手本を見せますので、これを肴といたしたまえ」と、大杯三杯を飲干したのち、自刃。続いて北条泰家 入道の老臣・諏訪入道直性が自刃し、高時もついに自刃して果てた。金沢貞顕安達時顕長崎円喜・長高資らも同所で自刃して果て、東勝寺も炎に包まれ、幕府百三十年の歴史に幕を閉じた。

東勝寺
北条氏の菩提寺・東勝寺の跡地

 東勝寺の跡地は「東勝寺遺跡」として、昭和50(1975)年に調査が行われ、北条氏の家紋「三鱗紋」のある瓦、焼けた陶磁器の破片が発見されている。そして、平成9(1997)年1月、国指定史跡をめざしてふたたび発掘調査が進められ、同年6月、高熱に焼かれた土などとともに巨大な建物跡が発見された。この建物には柱が四十本用いられ、東西が8.4メートル、南北が14.7メートル、総床面積が120平方メートルにも及ぶ大きな建築物で、北条高時以下一門が自刃を遂げた東勝寺の本堂と考えられている。

 治承4(1180)年以来、千葉介常胤が幕府創設の第一の功労者であったのに対して、その6代目・千葉介貞胤が幕府討伐の功労者であるのは時代の皮肉か。貞胤は鎌倉を陥落させたののち上洛。鎌倉攻落の功績によって従四位下に叙せられ、下総・遠江・伊賀の守護職に任じられた。

2.建武の新政 

京都御所
京都御所

 元弘3(1334)年春、各地で蜂起していた北条氏残党の調伏の祈祷を行うこととなり、紫宸殿に護摩壇を構え、竹内慈厳僧正をして天下安鎮の法を執り行った。この法を執り行うときには、甲冑の武士が御所の四門を堅め、紫宸殿南庭には武士が左右に立って抜刀し、四方を鎮める必要があった。このとき御所の四門は結城七郎左衛門親光楠河内守正成塩冶判官高貞名和伯耆守長年の四名が堅め、南庭には右に「三浦介高継」左に「千葉大介貞胤」を定めた。はじめ彼らはこの役を受けることを了承していたものの、貞胤は相手が三浦介高継であることを嫌い、対して三浦介高継は貞胤の下位(貞胤が左側で高継が右側)につくことを憤って、それぞれ出仕せずに役を断った。平安時代末期においては両家の関係は良好だったもののは、いつの頃からか両者は互いにいがみ合うようになり、鎌倉時代初期には千葉介胤綱と三浦介義村の幕府内での席次論争という伝えも残すほど険悪となっていたようだ。

 幕府滅亡と同時に後醍醐天皇が推し進めた貴族中心の「建武の新政」は、武家の権益をも奪う強行政治であり、武家階層の批判が急激に高まった。一方、清和源氏の名門で旧北条政権の重鎮であった足利尊氏は、武家の代表者的な人物として、後醍醐天皇や貴族との間に亀裂が生じはじめた。さらに尊氏は同族の新田義貞や、名和長年ら宮方武士の間でも対立しており、尊氏は北条二郎時行(高時の遺児・亀寿丸)が、成良親王(後醍醐天皇皇子)や弟・足利直義の守っていた鎌倉を占領したことを口実に、天皇の勅許を得ずに軍勢を召集し、鎌倉へと攻め下った。そして鎌倉を攻め落とすと、そのまま鎌倉に居座った。こうして足利氏(北朝)と宮方(南朝)との百年以上にもわたる戦いの時代(南北朝時代)へと入っていくことになる。  

 千葉宗家内でも、本来嫡流である千田千葉氏の千葉大隈守胤貞(肥前千葉氏の祖)と下総の千葉介貞胤との間に対立が起こっており、千葉介貞胤は足利尊氏に従わず、宮方の重鎮として京都に駐屯した。年月欠の『洛中宿人在所注文断簡』はおそらくこのころの文書であると考えられ、京極六角にあった了善の一宇「千葉介手者一宮孫太郎」が、四条坊門の石女一宇「千葉介一族大須賀」がそれぞれ陣宿していた。この「大須賀」は時代的に大須賀越後守宗信か? 

室町期の亥鼻城土塁。神社を兼ねていたか
亥鼻城址の土塁(室町期)

 一方、千葉胤貞は尊氏に従って鎌倉の北条時行勢を攻め、足利勢が鎌倉を占領した後は鎌倉に留まり、同じく鎌倉にいた陸奥国小高城の千葉一族・相馬親胤とともに、貞胤が留守にしていた千葉庄に攻め入り、「千葉楯」に猛攻をかけた(『相馬文書』)。この「千葉楯」がどこを意味するのかは不明だが、室町時代後期にいたっても千葉宗家にとってなぜか重要視されていた高品城、もしくは千葉館に近い亥鼻城か?

 建武3(1336)年10月、新田義貞が恒良親王尊良親王を奉じて越前国に向かことになると、貞胤も供奉を命じられ越前へ向かった。しかしその途中、越前国木芽峠で猛烈な吹雪に遭遇し、そこに足利方の越前守護職・足利高経(斯波氏祖)があらわれて貞胤勢をとり囲んだ。温暖な東国に生まれ育った千葉勢の武士は慣れない吹雪の中では戦意を失い、進退もままならず、ついに足利高経に降伏。両千葉家は足利氏に従うこととなり、胤貞も千葉を攻める名分がなくなってしまったため戦闘を中止して上洛。貞胤も胤貞の所領・香取郡千田庄への乱暴を停止し、下総での千葉両統の戦闘は終わった。

 年未詳の「供奉人交名」には「千葉介」「千葉二郎」「粟飯原下総守」の名が見える(『供奉人交名写』:我孫子市史資料〔東北大学日本史研究室保管文書〕)。保管されているの封筒の表書きには「康永四年八月廿九日天龍寺供養・供奉武家行列次第」とあるようだが、記載されている人物の没年や受領名などから、明らかに康永四年以前のものである。おそらく建武4(1337)年9月から建武5(1338)年3月までの間の出来事であると考えられる。この資料には活字編纂の際に括弧にて但書がされていて、それによれば「千葉介(氏胤)」「千葉二郎(不明のため記載なし)」「粟飯原下総守(清胤)」とある。しかし、いずれも誤りであると思われ、「千葉介=千葉介貞胤」「千葉二郎=千葉二郎胤泰か」「粟飯原下総守=粟飯原下総守氏光である。 

 延元2(1338)年正月25日、貞胤は陸奥守・北畠顕家より「令対治彼余賊、忽可企参洛候」との命を受けている。しかし、すでに貞胤は足利方となっており、この命に従った様子はない(『楓軒文書纂』所収白河証古文書「我孫子市史料」)。 

 暦応5(1342)年3月13日、香取社大禰宜・大中臣実行から「年限馳せ過ぎ候といえども、いまだ仰せ出でられ候はずの間」という訴えを受けた貞胤は、鎌倉府の奉行所へ宛てて香取社造営についての書状を提出している。それを受けた鎌倉府は、康永4(1345)年に下総国の地頭等に造営を命じた。康永4(1345)年3月に出された『造営所役注文』によれば、貞胤は「正神殿」「若宮(吉橋郷分)」「一鳥居(印東庄役)」の造営を命じられている。

 貞和元(1345)年8月29日の天龍養に後陣随兵として供奉した「千葉新介」は貞胤の子・千葉新介氏胤と思われ、父・貞胤が香取造営のために下総を離れることができなかったことから、名代となっていたか。氏胤は京都で生まれ育ったようで、歌道にも興味を示すなど教養人として成長していた。この天龍寺供養には千葉一族として東下総中務丞(東常顕)粟飯原下総守(粟飯原清胤)が参列している。

 貞和2(1346)年閏9月27日、足利直義は京都最勝光院領遠江国原田庄内細谷郷の雑掌・定祐の訴えをうけ、同郷の一分地頭・原熊伊豆丸に年貢を納めさせることを「遠江守護職」千葉介貞胤に催促している(『足利直義下知状』)

●貞和2(1346)年閏9月27日『左兵衛督直義下文』(『東寺百合文書』:『大日本史料』所収)

  最勝光院領遠江国原田庄内細谷郷雑掌定祐申年貢事、
 右当郷一分地頭原熊伊豆丸、康永三年以来対捍之由雑掌依訴申、
 仰守護人千葉介貞胤加催促畢、如貞胤執進熊伊豆丸去六月十七日散状者、
 毎年致其弁帯返抄云々、然則遂結解、有未進者可究済者、下知如件、

   貞和二年閏九月廿七日
  左兵衛督源朝臣(花押)

 貞和4(1348)年正月の河内国「四条畷の戦い」では、貞胤は高師直に従って楠木正行を攻め、その翌年に起こった高師直のクーデターでは、師直のもとに参陣して直義失脚に一役買っている。

■観応の擾乱

 この当時、将軍・足利尊氏と弟の足利直義入道恵源の間で、それぞれを推す重臣層をも巻き込んだ権力争いである「観応の擾乱」が激化していた。「観応の擾乱」の萌芽は、尊氏が征夷大将軍に任じられ、京都に幕府を開いた暦応元(1338)年にまで遡る。

 暦応元(1338)年8月11日、尊氏は北朝の光明天皇のもと、正二位征夷大将軍となり、鎌倉幕府討幕以来、つねに副将として支えた実弟・足利相模守直義は同日、従四位上左兵衛督となった。初期の幕府は尊氏が軍権を、直義が行政・司法権を担当する形の二頭体制で運営されていたが、尊氏の腹心で足利家執事の高武蔵守師直高越後守師泰らと、行政・司法を統括した直義の両腕とも言うべき腹心、上杉伊豆守重能畠山大蔵少輔直宗らの間に軋轢が生まれていく。

 貞和5(1349)年閏6月15日、直義派の強訴により、尊氏は高師直の執事職を解いた。これに対抗し、高師直は諸大名に働きかけ、五万の大軍を以って直義の三条邸を取り囲んだ。一方、急を聞いて直義邸に駆けつけた兵は吉良氏や斯波氏など足利一門の有力者がいたが、その勢はわずかに七千。結局、直義は尊氏の御所に駆け込んだ(『太平記』)

 しかし、高師直の軍勢は御所をも取り囲み、

いやいや是までの仰を可承とは不存、只讒臣の申処を御承引候て、無故ク三条殿より師直が一類亡さんとの御結構にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本を給て後人の悪習をこらさん為に候

と、「讒者の張本」である上杉重能、畠山直宗らの引渡しを求めた。これに尊氏は、

累代の家人に被囲て下手人被乞出す例やある、よしよし天下の嘲に身を替て討死せん

と、累代の家人の恫喝に屈するくらいであれば討死しようと甲冑を着込んでいたところ、直義は、

彼等奢侈の梟悪法に過るに依て、一旦可誡沙汰由相計を伝聞き、結句返て狼藉を企る事、当家の瑕瑾武略の衰微是に過たる事や候べき、然に此禍は直義を恨たる処也、然を軽々しく家僕に対して防戦の御手を被下事口惜候べし、彼今讒者を差申す上は、師直が申請るに任せ、彼等を被召出事何の痛候べき、若シ猶予の御返答あらんに、師直逆威を振ひ忠義を忘ば、一家の武運此時軽して、天下の大変親りあるべし

と、家僕に対してわざわざ将軍自ら手を下すことも口惜しく、今は師直の求めに応じるべきであると尊氏を制止し、尊氏も結局折れて、

師直が任申請旨、自今後は左兵衛督殿に政道綺はせ奉る事不可有、上杉畠山をば可被遠流

と師直らに通達。これに師直は満足して囲みを解いた。その後、上杉重能・畠山直宗は越前国へ流され、直義は政権内から干されることとなり、師直の勢力が幅を利かせることとなる。実はこのクーデター劇は、尊氏と師直による政権一本化を図ったものだったともされる(『太平記』)。なお、越前に流された上杉重能・畠山直宗は12月24日に自刃に追い込まれた。

 尊氏は直義の担当していた訴訟・政務について、鎌倉にあった嫡男・足利左馬頭義詮に担当させることとし、急遽鎌倉から呼び寄せることとした。同年10月4日、義詮は手勢を仕立てて上洛の途につき、23日入洛した。義詮には「川越、高坂を始として大略送りに上洛す」とあり、河越氏・高坂氏ら「平一揆」の中心者が鎌倉殿=足利義詮直属だったことがうかがえる。義詮上洛に当たっては、多くの出迎えが見られる(『太平記』)

 一方、政権から追い出された直義は、細川兵部大輔顕氏錦小路堀河邸に入り、同年12月8日、出家して「恵源」と号し、墨染めの衣をまとった。しかし、直義は出家しても自らの思想のためには政権を再びこの手に取り戻すべく、暗躍を始めた。

 観応元(1350)年、直義の養嗣子(実は尊氏の庶子)・足利直冬が少弐氏、大友氏らを麾下に従え九州で勢力を拡大していることを憂い、尊氏は高師直を召し具して25日に九州へ出陣する風聞が立った。さらに10月26日夜半、「錦小路左兵衛督入道去夜逐電、就之武門忩々、但不及懸追手、明曉進発延縮」(『園太暦』観応元年十月二十六日条)と、直義入道は石堂右馬助頼房ら少数の腹心を伴って京都を脱出した。

 尊氏は10月28日明け方、高師直ら五百騎あまりを率いて京都を出陣して西へ向った。その後、京都で夜討ちが発生するなどしたため、11月8日ごろ、尊氏は京都の留守居をしていた嫡男・義詮へ使者を送り、禁中の警固を一層固くするよう指示している。そんなころ、貞胤も留守居の一将として京都にあり、北小路里あたりに軍勢を多く寄宿させていた。そして、彼らが狼藉をはたらいていたため、永福門院(伏見天皇中宮藤原鏱子)は女房たちの一人住まいを物騒に感じ、自らの御所に引き取っている(『園太暦』観応元年十一月八日条)

永福門院自今夕被来、世上物騒之間、女房独住非無怖畏、就中北小路里辺千葉軍勢多寄宿
狼藉之企触耳、仍難治之間、談女房被合宿彼方也…

 11月23日晩、洞院公賢のもとに親承法印が訪れ、

今日向宰相中将許飛脚到来、兵衛督入道降参吉野

 と、直義入道が吉野に降伏したことを伝えている(『園太暦』観応元年十一月二十三日条)。また、公賢は直義入道の南朝降伏と尊氏への敵対は「只師直師泰奇恠之憤許也」と談じている。

 12月に入ると南朝の攻勢が活発化し、近江国や河内国などで戦乱が相次いでいた。このようななか、観応2(1351)年元旦、貞胤は京都で病死した。享年六十一。法名は善珍浄徳院。貞胤は死の直前、嫡男の氏胤千葉山海隣寺に先祖の絵を奉納して一族の廟所とするよう遺言したと伝わり、貞胤以後の千葉氏は時宗を信奉した。

■千葉介貞胤没についての文書■

・〔園太暦〕正月一日、伝聞、今日未時、千葉前介貞胤有事云々、兵革之時分以疫病有事、…
・〔観応二年日時記〕正月一日、天晴、一天風静、四海波収、千葉介年歯満六十、逝去云々、
・〔常楽記〕観応二年辛卯正月一日、千葉介貞胤他界、
・〔本土寺過去帳〕千葉介貞胤 観応二年正月朔、京ニテ卒、六十一

★千葉介貞胤の家臣★

家老 原権太郎 円城寺左衛門尉 木内 鏑木
家臣 湯浅 山梨 押田 布施左京亮 土屋勘解由 大山大膳亮 鈴木刑部少輔 伊藤隼人 土屋内膳

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◎千葉介貞胤の母親◎

 千葉介貞胤の母親は、千田庄内に所領を得ていた北条一族でも名門の金沢越後守顕時(法名・惠日)の娘で、彼女の母親は千葉介成胤の子・千葉次郎泰胤の娘である。建武4(1337)年の「千葉貞胤亡母三十五日表白」(『拾珠抄』)には系譜が併記されていて、貞胤の母についての記述には、

「今聖霊也、母儀千葉次郎泰胤女、三十五歳出家、三十六ニシテ喪」

とあり、貞胤の母親は逆算して文永11(1274)年生まれということになる。

 彼女の父・金沢顕時が安達泰盛の乱(霜月騒動)に連座して、平頼綱(内管領)によって埴生庄に流されたのは弘安8(1285)年であり、それ以前から千葉泰胤と金沢顕時の間に交流がもたれていたことがわかる。顕時は下総国埴生庄地頭職であり、すぐ隣の千田庄の領主である泰胤とは交流があった可能性がある。顕時は正応6(1293)年4月、平頼綱が執権・北条貞時によって討たれたために鎌倉に戻っており、正応6(1293)年の「香取社殿造営負担交名」に見える「埴生西条」「埴生西条富谷郷」「地頭」「越後守」が記されていることから、赦免と同時に顕時が埴生庄の地頭職に復職したと思われる。

 顕時女は延慶元(1308)年以前に夫と別れて35歳で出家、翌延慶2(1309)年、36歳の時に夫・千葉介胤宗を喪ったという。ただ、『千葉大系図』によれば胤宗は正和元(1312)年3月28日に亡くなったとされ、3年の誤差がある。

 千田庄は金沢北条氏との関わりが深く、土橋山東禅寺(香取郡多古町寺作)と金沢北条氏の菩提寺・金沢称名寺は実に密接な関わりを持っており、称名寺の本如房湛睿(のち称名寺三世長老となる)が東禅寺の長老として就任している。

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◎千田庄内の内紛◎

 建武年中、千田庄内において守護方(下総千葉介)と千田千葉氏勢力が対立して争っていた。千葉新介宗胤は母・千葉泰胤から千田庄を継承して以降、千田千葉氏の中心的所領となった。また、肥前に移った千田千葉氏の一族(肥前千葉氏)の重臣には千田庄出身の円城寺氏岩部氏仁戸田氏中村氏がいる。

 宗胤の子・千葉胤貞に継承された千田庄は、建武元(1334)年12月1日、「ひせんの国小城郡下総国千田八幡両庄内知行分のそうりやう職、嫡子たるによりて孫太郎胤平に限、永代所譲渡也」とあり、千葉胤貞の嫡男・孫太郎胤平に継承されたことがわかる。

●千田庄の継承●

⇒千葉介成胤―→千葉次郎泰胤→千葉新介宗胤→千葉大隅守胤貞→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)

島城
千田庄内遠望

 しかし、胤平ののち千田庄を継承したのは胤平の弟・千葉大隈守胤継であり、胤平の子と思われる「瀧楠(胤■?)」某年8月2日付の『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)によれば、「千田孫太郎殿子息瀧楠殿、千葉介殿と一味同心、可落大島之由、依被申下候」とあり、守護方と同心して千田庄大島城を攻め落とした。

 この瀧楠という人物は千葉氏の諸系図には記されていないが、「千田孫太郎殿」の子息であることがわかる。千田孫太郎とは千葉孫太郎胤平のことと思われ、「瀧楠殿」が継承するはずであった千田八幡庄が叔父の胤泰胤継らによって押領されたことから、千葉介貞胤に同心して争ったのだろう。「瀧」は「胤」と崩し字が似ており、「胤」という一字を持った人物であったと思われる。

 建武2(1335)年某月28日の湛睿文書では、千葉侍所・竹元(ササモト)三郎左衛門尉千田庄土橋東禅寺に検断を行っていることから、このころすでに守護勢力の力が千田庄に及んでいたのだろう。

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◎千葉氏の侍所◎

多古の東禅寺
土橋東禅寺境内

 千葉氏は全国の守護ではもっとも早い時期に「守護侍所」を設置していた。とくに関東では千葉家以外に「侍所」を持っていた大名家は見られないため、特殊な例であったことがわかる。その初見は『金沢文庫文書』にみえる建武2(1335)年某月28日『湛睿文書』(『金沢文庫文書』)で、「千葉侍所」竹元三郎左衛門尉「奉行」羽田大弐房が、千田庄内の土橋東禅寺に赴いて僧侶の引渡しを求めた。このころ、上記のように千田庄内で下総守護・千葉介貞胤と千田千葉氏とが争っており、侍所・奉行の行為は内紛に関わりがあるのだろう。また、千田庄内において千葉介の侍所が検断職を有していることから、守護職である貞胤が事実上、支配権を持ったとも考えられる。

 『年月未詳文書断簡』(『金沢文庫文書』)によると、竹元氏岩部中務■(丞?)とともに千田千葉勢力と戦っていた際、大原城に入って国内の武士を集めた。さらに某年8月2日付『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)によれば、「千葉侍所」が7月27日に東禅寺のある土橋城を攻め落とした。竹元氏は守護侍所として千葉家直参の武士たちを統率する役割を担っていたのだろう。そして、竹元氏は千田庄東禅寺や、その本寺・金沢称名寺とも深く関わっており、称名寺の湛睿は某年11月2日付の文書を「竹元殿」に送っている。 

 このように竹元氏は下総守護職の官僚として軍事面・行政面で大きな影響力を持っていたと推測できる。しかしこの後、竹元氏の活躍はさほど見られなくなり、貞和2(1346)年7月23日、千葉介貞胤の代官として香取社造営に関する祭礼の沙汰について指示した「竹元五郎左衛門尉」、応永10年代(1403-1413)の『香取造営料足納帳』「竹元六郎殿」「竹元 田数一町二反大 卅五歩」を担当していることが見られる他は、その活躍を記した文書は残っていない。 

 この竹元氏の出自は不明だが、応永年中の『香取造営料足納帳』「竹元」から「1町2反35歩」を負担していることから、在地の豪族だったのだろう。「竹元」は匝瑳郡匝瑳南条庄篠本(匝瑳郡光町篠本)に比定されており、『年月未詳親真』(『金沢文庫文書』)の発給した文書に「竹元殿」「岩部中務」とともに「サヽ下」の名が見え、竹元氏と「サヽ下」は同族とも思われる。

 千葉氏は直臣に在地の豪族を取り込んでいたようで、千葉介頼胤の代には、下総国府近辺の富木氏・曽谷氏らが官僚的な地位にあって宗家を支えていた。そして、頼胤の嫡子・千葉新介宗胤も千田庄・神保郷を継承すると、在地豪族たちを被官化していったと考えられる。このとき千葉氏の直臣層となったのが岩部氏・仁戸田氏・円城寺氏・中村氏らであったと思われ、彼らは宗胤が九州へ赴いた際に従い、肥前千葉氏の重臣となっている。竹元氏もこのころ召し抱えられた豪族だったのかもしれない。  

●千葉介宗胤系図● 

⇒千葉介成胤―+―千葉介時胤―千葉介頼胤
       |         ∥
       |         ∥――――+―千葉新介宗胤《肥前千葉氏の祖》
       |         ∥    |
       +―千葉二郎泰胤――女    +―千葉介胤宗 《下総千葉氏の祖》
       |
       |
       +―千田尼(北条時頼の後室) 

●千田庄の継承●

⇒千葉介成胤―→千葉次郎泰胤―→泰胤娘――→千葉新介宗胤→千葉大隅守胤貞→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)

●神保郷の継承●

⇒千葉介成胤―→千田尼――→千葉次郎泰胤―→泰胤娘―――→千葉新介宗胤―→千葉弥太郎胤平→千葉胤継(多古千葉氏)

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◎後醍醐天皇の倒幕計画◎

 後醍醐天皇は、平安時代中期の宇多・醍醐天皇当時の「延喜・天暦の治」とよばれる、天皇・貴族が中心として政治を行う政治体制を理想としており、武士は朝廷に侍るべき身分の低い者という感覚を持っていた。そのため、政治を独占する鎌倉幕府を敵視し、元亨元(1321)年に後宇多院政を廃止してからは倒幕の計画を本格化させた。ひそかに花山院師賢・四條隆資・日野資朝・日野俊基・洞院実世ら公家、土岐頼員・土岐頼有・多治見国長・足助重成・足助重範ら武士を集め、倒幕の計画が練られた。しかし、元亨4(1324)年9月19日、土岐頼員が妻に倒幕計画を話したため、妻の父で六波羅探題に出仕する斎藤利行に漏れて計画が発覚。土岐頼員らは館で討ち取られ、日野資朝・日野俊基は捕らえられた。この変を「正中の変」という。 

 しかし、後醍醐天皇は正中の変後も倒幕計画を練り続け、嘉暦元(1326)年、第一皇子・尊雲法親王(護良親王)を比叡山延暦寺の座主(天台座主)につけて比叡山を傘下におさめ、さらに元徳2(1330)年3月、畿内の寺社に行幸して、その勢力を固めていった。しかしこうした倒幕計画は、天皇の身を安じた内大臣・吉田定房によって幕府に密告され、計画の首謀者とされた日野俊基が鎌倉にひき据えられて斬首された。 

 元弘元(1331)年8月27日、後醍醐天皇はついに倒幕計画を実行に移し、密かに京都を脱出して大和国笠置山にのぼり、比叡山には後醍醐天皇に扮装させた花院賢を派遣して比叡山の兵をまとめさせた。さらに天皇は畿内の武士たちに挙兵の密勅を出し、これに応じた楠木正成が河内国赤坂城に挙兵した。 

 幕府はこの報を受け取ると9月、北条貞直金沢貞冬名越高家足利高氏らを大将とした軍勢を上洛させ、9月28日、笠置山を攻め落とした。10月21日には赤坂城も攻め落とし、山中をさまよっていた後醍醐天皇以下公卿衆は捕らえられて、後醍醐天皇は六波羅探題南方に幽閉され、翌年3月7日に隠岐へと流された。 

 しかし、それから2年後、伯耆の豪族・名和長年などの支援を受けて隠岐を脱出した後醍醐天皇は、幕府の滅亡とともに建武の新政をはじめた。 

◎千葉氏周辺の系譜

 千葉介常胤―+―胤正―――成胤――+―時胤――――頼胤  +―宗胤
       |(千葉介)(千葉介)|(千葉介) (千葉介)|(千葉新介)
       |          |       ∥   |
       |          |       ∥―――+――――――――――――――――胤宗
       |          |       ∥   |               (千葉介)
       |          |     +―女   +―――――――――女       ∥
       |          |     |               ∥       ∥
       |          |     |  坊門信清―+―有信―――信通       ∥
       |          |     | (内大臣) |(左中将)(右中将)     ∥
       |          |     |       |               ∥
       |          |     |       +―女―――――――頼仁親王  ∥―――貞胤
       |          |     |       |(後鳥羽院女房)(備前配流) ∥  (千葉介)
       |          |     |       |               ∥
       |          |     |       +―女             ∥
       |          |     |        (源実朝御台所)       ∥
       |          |     |                       ∥
       |          +―泰胤――+――女                    ∥
       |          |(次郎)    ∥                    ∥
       |          |        ∥――――――――――――――――――――女
       |          +―胤綱     ∥
       |           (千葉介)   ∥
       |             ∥     ∥
       |            (?)    ∥
       |             ∥     ∥
       +―女    +――――――女     ∥
         ∥    |            ∥
         ∥――――+―光綱         ∥
      +―光季                 ∥
      |(京都守護)              ∥
      |                    ∥
 伊賀朝光―+―女                  ∥
        ∥――+―政村――――女       ∥
●北条時政――北条義時|(相模守)  ∥―――――――顕時
(遠江守) (相模守)|       ∥      (越後守)
           +―実泰    ∥       ∥――――貞顕
            (浄仙)   ∥  遠藤為俊―女   (修理亮)
             ∥――――実時
       天野政景――女   (宣陽門院蔵人)

●某年「洛中宿人在所注文断簡」(『竹内氏所蔵文書』:『群馬県史』史料編所収)

 …前欠…
 一宇 蔵人右少弁殿以瀧口左衛門尉
 一宇 戒心   宿人富部大舎人頭手者掃部助
   同京極六角以南東頬
 一宇 了善   宿人千葉介手者一宮孫太郎
   四条坊門櫛筍以東北頬
 一宇 楠木判官手者
…中略…

 一宇 石女   宿人千葉介一族大須賀
…後欠…

●暦応5(1342)年3月13日「千葉介貞胤書状」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)

 下総国香取社御造営事、雖年限馳過候、未被仰出候之間、神主実行令参申候、
 厳密可被経御沙汰候歟、以此旨可有御披露候、恐惶謹厳、

   暦応五年三月十三日       平 貞胤(花押)
  進上 御奉行所

●「造営所役注文」(『香取文書』:『千葉県史料』所収)

  注進 下総国香取太神宮廿一ヶ年一度造替諸社役所雑掌人事
 一当国諸御家人勤仕役所

  一宇 正神殿 千葉介貞胤
  一宇 同大床舞殿 当国上猿嶋郡役所 地頭常陸前司跡
  一宇 あさめ殿 当国大戸神崎両庄役所
  一宇 同大床舞殿 同役所
  一宇 仮あさめ殿 同役所
  一宇 内院中門 同北条庄南北役所 地頭飯高彦二郎以下輩
  一宇 楼門 同埴生印西庄役所
  一宇 東廻廊五間 同風早庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 二間廻廊
  一宇 西廻廊五間 同矢木庄役所
  一宇 脇門 印西庄役所
  一宇 不開殿 同小見郷役所 地頭小見四郎左衛門入道跡
  一宇 佐土殿 同北条庄役所 地頭飯高彦二郎
           小鮎猿俣役所 地頭伊豆四郎入道
  一宇 財殿 葛西伊豆入道明蓮
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守跡
  一宇 若宮社 吉橋郷役所 地頭千葉介
  一宇 日御子社 同役所
  一宇 勢至殿 仁保代枝役所 地頭千葉大隈守跡
  一宇 息洲社 同役所
  一宇 南庁 結城山川庄役所 地頭結城七郎跡 山川判官跡
  一宇 北庁 大須賀保役所 地頭大須賀下総前司入道
  一宇 酒殿并高倉 遠山形役所
  一宇 外院中門 印西所役
  一宇 忍男 千田庄役所
  一宇 瞻男
     印東庄役所
  一鳥居 千葉介役所
  二鳥居 葛西伊豆入道明蓮
  三鳥居 当国大方庄役所
 
    已上廿九ヶ所
 一大行事造進所々
  一宇 鹿嶋社
  一宇 脇鷹天神社
  一宇 八郎王子社
  一宇 馬場殿社
  一宇 大炊殿
  一宇 薦殿      一宇 忍男
  六所 雷神社     一宇 瞻男
  一宇 中殿      一宇 返田悪王子社
  一宇 印手社     一宇 又見社
   以上十八ヶ所并諸社四十三ヶ所
 
  此外
   御幣棚  所々玉垣  四面八町釘貫
   内殿アリ
   御輿一基  六所雷神御躰  大楯
   八龍神   獅子      じゅ
 
  色々御神宝物以下調進物 大行事所役也、
 
 右大概粗注進如件、
 
     康永四年三月   日 

●下総香取社遷宮の歴代の担当者

名前 被下宣旨 御遷宮
―――――― 保安元(1120)年〔逆算〕 保延3(1137)年丁巳
―――――― 保延元(1135)年〔逆算〕 久寿2(1155)年乙亥
葛西三郎清基   治承元(1177)年12月9日
千葉介常胤 建久4(1193)年癸丑11月5日 建久8(1197)年2月16日
葛西入道定蓮 建保4(1216)年丙子6月7日 嘉禄3(1227)年丁亥12月
千葉介時胤 嘉禎2(1236)年丙申6月日 宝治3(1249)年己酉3月10日
葛西伯耆前司入道経蓮 弘長元(1261)年辛酉12月17日 文永8(1271)年12月10日
千葉介胤定(胤宗) 弘安3(1280)年庚辰4月12日 正応6(1293)年癸巳3月2日
葛西伊豆三郎兵衛尉清貞 永仁6(1298)年戌戊3月18日 元徳2(1330)年庚午6月24日

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)

       楠木城
   一手東 自宇治至于大和道

  陸奥守(大佛)
  小山判官(小山秀朝)
  佐々木備中前司
  武田三郎(武田政義)
  諏訪祝
  島津上総入道(島津貞久)
  大和弥六左衛門尉
  加地左衛門入道(加地安綱)

  河越参河入道(河越貞重)
  佐々木近江入道
  千葉太郎(胤貞)
  小笠原彦五郎
  高坂出羽権守
  長崎四郎左衛門尉(長崎高重)
  安保左衛門入道
  吉野執行

   一手北 自八幡于佐良□路

  武蔵右馬助(金沢貞冬)
  千葉介(千葉介貞胤)
  小田人々
  伊東大和入道
  薩摩常陸前司
  湯浅人々

  駿河八郎(北条時邦?)
  長沼駿河権守(長沼秀行)
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀)
  宇佐美摂津前司
  □野二郎左衛門尉
  和泉国軍勢

   一手南西 自山崎至天王寺大路

  江馬越前入道(江馬時見か?)
  武田伊豆守
  渋谷遠江権守
  狩野介入道

  遠江前司(名越貞家)
  三浦若狭判官
  狩野彦七左衛門尉
  信濃国軍勢

   一手 伊賀路
  足利治部大夫(足利高氏)
  加藤丹後入道
  勝間田彦太郎入道
  尾張軍勢

  結城七郎左衛門尉
  加藤左衛門尉
  美濃軍勢

   同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参

   同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)


     大将軍

  陸奥守(大佛貞直) 遠江国
  遠江守(名越貞家) 尾張国
  駿河左近大夫将監(北条時邦) 讃岐国
  足利上総三郎(吉良満義)
  長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国
  佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 備前国
  越衆御手 信濃国
  小田尾張権守 一族
  武田三郎(武田政義) 一族甲斐国
  伊東大和入道 一族
  薩摩常陸前司 一族
  渋谷遠江権守 一族
  三浦若狭判官
  佐々木隠岐前司 一族
  千葉太郎(千葉胤貞)

    勢多橋警護

  佐々木近江前司(佐々木貞清)

  武蔵右馬助(金沢貞冬) 伊勢国
  武蔵左近大夫将監(金沢時顕) 美濃国
  足利宮内大輔(足利高氏?) 三河国
  千葉介(千葉介貞胤) 一族伊賀国
  宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国
  小笠原五郎 阿波国
  小山大夫判官(小山秀朝) 一族
  結城七郎左衛門尉 一族
  小笠原信濃入道 一族
  宇佐美摂津前司 一族
  安保左衛門入道 一族
  河越参河入道(河貞重 一族
  高坂出羽権守
  同備中前司
 
  同佐渡大夫判官入道(佐々木高氏)

●某年8月2日付の『小比丘悟円書状』(『金沢文庫文書』)

 並木のふけにて、皆打留候了、不可思議事候之處、千葉侍所廿七日以大勢、土橋城へ打入候て、
 朝より及晩影まて、散々合戦仕候いて、土橋城責落候き、城内人々、力不及候て、敵多打候て、
 十二人打死仕候了、大嶋よりも、岩部よりもなにと存候けるやらん、しりつめも不仕候て、
 此城被打落て候、並木の城も、如本千葉方より、たてつき候よし承候、以此旨可有御披露、
 恐惶敬白、

     八月二日          小比丘悟円(花押)

   進上 称名寺御侍者

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