千葉頼胤

千葉氏 千葉介の歴代
桓武天皇
(737-806)
葛原親王
(786-853)
高見王
(???-???)
平 高望
(???-???)
平 良文
(???-???)
平 経明
(???-???)
平 忠常
(975-1031)
平 常将
(????-????)
平 常長
(????-????)
平 常兼
(????-????)
千葉常重
(????-????)
千葉常胤
(1118-1201)
千葉胤正
(1141-1203)
千葉成胤
(1155-1218)
千葉胤綱
(1208-1228)
千葉時胤
(1218-1241)
千葉頼胤
(1239-1275)
千葉宗胤
(1265-1294)
千葉胤宗
(1268-1312)
千葉貞胤
(1291-1351)
千葉一胤
(????-1336)
千葉氏胤
(1337-1365)
千葉満胤
(1360-1426)
千葉兼胤
(1392-1430)
千葉胤直
(1419-1455)
千葉胤将
(1433-1455)
千葉胤宣
(1443-1455)
馬加康胤
(????-1456)
馬加胤持
(????-1455)
岩橋輔胤
(1421-1492)
千葉孝胤
(1433-1505)
千葉勝胤
(1471-1532)
千葉昌胤
(1495-1546)
千葉利胤
(1515-1547)
千葉親胤
(1541-1557)
千葉胤富
(1527-1579)
千葉良胤
(1557-1608)
千葉邦胤
(1557-1583)
千葉直重
(????-1627)
千葉重胤
(1576-1633)
江戸時代の千葉宗家  

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千葉頼胤 (1239-1275)

生没年 延応元(1239)年11月20日?~建治元(1275)年8月16日
幼名 亀若丸
千葉介時胤
北条時房娘
千葉次郎泰胤娘
官位 不明
官職 下総権介
役職 下総国守護職?
所在 下総国千葉庄
法号 常善法慶院・長春常善院
墓所 阿毘廬山大日寺?

 千葉氏七代。父は六代千葉介時胤。母は北条時房娘(『桓武平氏諸流系図』:『奥山庄史料集』所収)。幼名は亀若丸。妻は千葉次郎泰胤の娘。延応元(1239)年11月20日に生まれた。妹は藤原信通の妻

*千葉介頼胤の後見人一覧*(丸は千葉介、四角は後見人)

頼胤後見人

 父・千葉介時胤が仁治2(1241)年に急死したために、数え三歳で家督を継いだ。まだ幼い亀若丸には後見人がつくこととなった。(左図参照)。

 はじめ、亀若丸には大叔父にあたる千葉八郎胤時千葉介胤正九男)が千葉介代として幕府に出仕し、諸行事を行っていたが、すでに老境であった胤時はしばらくの後に役を退くこととなり、代わって叔父の千葉次郎泰胤が諸役に携わるようになる。

 一方、上総国の上総権介秀胤(亀若丸の祖父・千葉介成胤の甥)は、千葉一門最大の権力者であり、実質的な千葉一門の代表者となっていた。秀胤は寛元元(1243)年7月、幕府の行政最高機関である評定衆の一員に抜擢された。評定衆は執権を補佐する機関で、幕府の中でも北条一門ほか名門御家人から選ばれていた。評定衆に選ばれることは、その一族にとっても大変名誉なことであった。

 上総千葉氏は境平次常秀の代から上総国北部、下総国埴生庄などを領しており、上総南部を領していた幕府重鎮である三浦介義村の娘を妻に迎えて、その威勢は千葉惣領家をしのぐほどになっていた。

●千葉介頼胤周辺系図●

 北条時政―+―義時――+―泰時――+―時氏――+―経時
(遠江守) |(相模守)|(相模守)|(修理亮)|(武蔵守)
      |     |     |     |
      |     |     +―娘   +―時頼
      |     |       ∥    (相模守)
      |     +―名越朝時――光時
      |      (遠江守) (越後守)
      |             
      +―政子  +―頼家――+―壱幡  
      | ∥   |     |
      | ∥―――+―実朝  +―公暁
      |源頼朝
      |
      +―時房――――娘
       (修理大夫) ∥―――――頼胤  +―宗胤
              ∥    (千葉介)|(大隈守)
 千葉介胤正――成胤――+―時胤    ∥   |
(千葉介)  (千葉介)|(千葉介)  ∥―――+―胤宗
            |       ∥   |(千葉介)
            +―泰胤――――娘   |
            |(次郎)       +―亀姫
            |
            +―千田尼(北条時頼後室)

 寛元4(1246)年3月、執権の北条経時が亡くなると、経時の幼少の子供たちを抑えて、弟の北条時頼が執権に就任した。

 時頼が北条家の家督を継いだことに不満を持ったのが、北条一門・名越越後守光時であった。光時は義時の孫にあたり、叔母の夫に当たる人物である。彼は前将軍・九条頼経と結んで実権を取ろうと謀るが、計画は事前に漏れ、時頼は光時を捕らえて伊豆国江馬郷へ配流とし、頼経については京都に送り返した。そしてこの事件に上総権介秀胤、前佐渡守後藤基綱、前太宰少弐狩野為佐、前加賀守町野康持らが関わっていたことが発覚。6月7日に評定衆から除かれた。さらに秀胤は13日に上総国に追放された。これら一連の事件を「寛元政変」という。

宝治合戦
宝治合戦当時の鎌倉

 その翌年の宝治元(1247)年5月21日、時頼は、「寛元政変」に三浦泰村の弟・三浦能登前司光村が関わっていた事を理由に三浦氏討伐を計画。そのことを知った泰村は6月4日、大倉幕府跡西門脇にあった三浦邸に一族を招集した。

 しかし翌日早朝、時頼の弟・北条時定を大将とした軍が三浦邸を襲って放火。泰村らは頼朝の御影を祀っていた法華堂に立てこもり防戦した。泰村の弟・光村は東の永福寺惣門内に籠っていたが、すぐさま兄の元に駆けつけ、法華堂内で一族郎党五百余人が自刃して果てた。光村は自らの顔面を削ぎ落とし、誰だかわからないようにしてから自害したと伝わる。これら一連の事件を「宝治合戦」という。

 その翌日、上総に蟄居を命じられていた上総権介秀胤に対する追討令が下った。この追討軍の総大将に任じられたのが、事もあろうに同族の大須賀左衛門尉胤氏東中務胤行入道素暹であった。彼らは幼主・亀若丸の後見人でもあり、さらに東素暹の娘秀胤の子・上総五郎左衛門尉泰秀に嫁いでおり、大変関わりの深い親戚であった。これは三浦氏に次いで大きな勢力を誇った千葉一族を弱体化させる意味合いが強い。

 大須賀胤氏東素暹は6月7日、郎党を率いて秀胤上総一ノ宮大柳館に攻め寄せた。しかし、彼らは事前に秀胤と連絡を取っていたようで、大須賀胤氏東素暹の軍勢が館を囲むと、館の周りに積み上げていた薪に火をかけ、四人の子息や郎党百六十三人とともに自害して果てた。このとき、埴生庄を兄・秀胤に押領されて仲違いしていた埴生時常も秀胤のもとに駆けつけ、邸内でともに自刃した。このほか、秀胤に味方した下総三郎(東胤行の従弟?)・大須賀重信(大須賀胤氏の叔父)は戦死し、三浦一族の三浦行泰の娘を妻としていた大須賀範胤は戦場を逃れて宇都宮頼綱(叔父・時綱は三浦泰村とともに鎌倉で討死)を頼って下野国君島村に逃れ、子孫は君島を称した。後見人の一人、白井八郎胤時も乱に連座して領地を没収されている。

 こうして千葉一族の代表であった上総権介秀胤が討死、有力後見人の千葉八郎胤時が失脚するなど、千葉一族の権勢は衰えていった。幼少の亀若丸を支えていたのは叔父(伯父?)の千葉次郎泰胤であり、彼が千葉介代役を務めていたと思われる。しかし、泰胤の叔母(姉妹とも)は北条時頼の後室(千田尼となるなど千葉氏は優遇され、こののちも三浦氏や和田氏のように一族を根絶やしにされることはなかった。三浦氏・和田氏などはそれぞれ惣領家が強大な力を持っていた反面、その惣領一人に一族の命運がかかっていたが、千葉一族、特に千葉六党(千葉氏、相馬氏、武石氏、国分氏、東氏)はそれぞれが独立した一党として勢力を持ちながらも、千葉惣領家を協力して支え(後見人制度)ており、その強固な体制が北条家をしても滅ぼすことはできず、時頼としても味方につける有益性を選んだと思われる。しかし、秀胤については三浦氏と縁戚である上に、評定衆の要職にあり、千葉惣領家を動かしうる立場であったため、彼が幼少の亀若丸を奉じて(または自ら千葉一族を率いて)三浦氏と結んで挙兵した場合、幕府(と北条一門)の命運に関わる大乱になることを恐れ、三浦氏ともども討ち取ったのかもしれない。

 東素暹は、秀胤との戦いののち、外孫にあたる上総五郎泰秀の男子(一歳)のほか、秀胤の末子(一歳)秀胤の長男・政秀の二人の子(五歳、三歳)秀胤の弟・埴生時常の男子(四歳)の助命を、自分の戦功に代えて時頼に申し出て許された。その後、東素暹が預り育てたとも、陸奥国五戸庄へ落としたとも言われる。

 宝治元(1247)年12月29日、京都大番勤仕の事についての結番が決められた。各々三か月を限って在京し、京中所々を警固すべきことが命じられ、八番の所役が「千葉介」と定められた。このころには亀若丸は「頼胤」を称して元服を済ませていたのだろう。「頼胤」の「頼」は執権・北条時頼からの偏諱であろうと推測される。同じような元服の例として、同年12月3日、佐々木壱岐前司泰綱「小童」(九歳)の元服式が、時頼の屋敷で執り行われた。連署・北条陸奥守重時安達秋田城介泰盛らが参会し、式から引き出物にいたるまで、美を極めたものとなった。この「小童」は「佐々木三郎頼綱」を称していることから、おそらく時頼を烏帽子親として「頼」字を給わったと推測され、頼胤についても同様の元服式が執り行われたのだろう。

 建長2(1250)年11月28日、陸奥・常陸・下総の三か国で隆盛していた双六博打の取り締まりを、陸奥国留守所(留守兵衛尉)、常陸国主(宍戸壱岐前司)、下総国主(千葉介)へ命じている。

 一方で、元服したとはいえ頼胤はまだ歳若く、後見人の千葉次郎泰胤はその後も幕府へ出仕しており、建長2(1250)年12月の「将軍近習結番交名注文」でも「千葉次郎」の名が見え、泰胤は将軍近習の勤めを果たしていたことがうかがえる。

 建長5(1253)年8月15日、頼胤ははじめて鶴岡八幡宮放生会に参列した。千葉介常胤以来の後陣の供奉の一人として千葉介頼胤の名が見える。

 建長6(1254)年7月20日、来月15日に行われる鶴岡八幡宮放生会の供奉催促で、供奉することができないことを訴えた人々の交名が示され、隨兵として「千葉介」が故障を訴えている。

万満寺(馬橋)
馬橋の大日寺(法王山萬満寺)

 成長した頼胤は、下総守護職の「守護所」を、それまでの国分寺から国分川対岸に位置する真間山市河に移した。真間山のふもと、谷中・曽谷郷は中世には八幡庄と呼ばれていた。八幡庄には守護所に出仕していた千葉家被官・富木五郎常忍と、問注所の役人・大田左衛門尉乗明がおり、富木常忍は毎朝、真間の守護所へ出仕していた。

 建長8(1256)年、「小金城主」の千葉介頼胤馬橋村(松戸市馬橋)に真言宗・大日寺(現在の法王山万満寺)を創建しており、その北に小金屋敷(松戸市三ヶ月)を建てた。大日寺はその後、千葉介貞胤によって千葉に移され、馬橋の大日寺は千葉介満胤の代、臨済宗・万満寺と改められたと伝わる。

 正嘉2(1258)年3月1日、将軍・宗尊親王の二所詣に随兵として、「千葉介分 六郎子息千葉太郎左衛門尉」が従った。この千葉太郎左衛門は具体的に不明だが、千葉七郎太郎師時の子・千葉太郎左衛門尉師重のことか。

◎正嘉2年3月1日条(先陣十二騎部分)


壱岐六郎左衛門尉跡  三田小太郎跡子息云々  大胡太郎跡     小林次郎跡子息云々
 葛西四郎太郎     三田五郎        胡掃部助太郎    小林小三郎

木村五郎跡子息云々  佐貫左衛門尉跡子息云々  那須肥前々司分子息云々  足利向田太郎分云々
 木村四郎左衛門尉    安芸大炊助        肥前七郎         向田小太郎

河越掃部助跡     足立木工助跡     千葉介分六郎子息    相馬左衛門尉跡
 香山三郎左衛門尉   瀧口左衛門尉     千葉太郎左衛門尉    天野左衛門尉


 御引馬 三疋
 御弓袋差  丸嶋弥太郎久経
 御甲着   伊豆藤三郎保経
 御冑持   門居弥四郎行秀
 御小具足持 弥三郎守近
 御調度懸  又鶴丸
 御油
 御先達   権少僧都善道
 
●御駕(御浄衣)
周防五郎左衛門尉忠景 薩摩七郎左衛門尉祐能 武藤左衛門尉頼泰 加藤左衛門尉景経
肥後三郎左衛門尉為成 山内三郎左衛門尉通廉 小河新左衛門尉  肥後四郎左衛門尉行定
鎌田三郎左衛門尉義長 鎌田新左衛門尉    渋谷太郎兵衛尉  鎌田次郎兵衛尉行俊
土肥四郎実綱     平賀新三郎維時    狩野四郎景茂
 
●御後騎(楚鞦)
土御門中納言顕方卿
  
武蔵前司朝直     中務権大輔家氏    陸奥七郎業時
越前守時広      備前三郎長頼
内蔵権頭親家     太宰少弐景頼     参河前司頼氏
筑前次郎左衛門尉行頼 安藝左近大夫親継   肥後次郎左衛門尉為時
阿曽沼小次郎光綱   伊勢次郎左衛門尉行経 山内籐内左衛門尉通重 善五郎左衛門尉康家
采女正忠茂朝臣    前陰陽大允晴茂朝臣  参河前司教隆      大隅修理亮久時

●小侍所司
平岡左衛門尉実俊
北条武蔵守長時    北条相模太郎時宗
 
●侍所司
平三郎左衛門尉盛時
 
●後陣随兵十二騎
行方太郎跡
 行方中務五郎    真壁孫四郎
 
豊嶋兵衛尉跡     中村甲斐前司跡
 豊嶋四郎太郎     内匠蔵人太郎

大河戸兵衛尉分子息と 伊北三郎跡
 大河戸兵衛太郎    伊北小太郎

国分五郎跡      大井品河人々分
 国分彦五郎      品河右馬允

多故宮納左衛門尉跡  鬼窪左衛門入道跡
 多比良小次郎     民部太郎子と鬼窪又太郎

永野刑部丞跡     自身
 永野次郎太郎     忍小太郎

 某年4月29日の『平頼胤請文』「千葉四郎太郎入道」の名が見え、某年7月19日の『平某書状』の宛名は「千葉九郎殿」とあり、いずれも頼胤が幕府から命を受けて発給した文書と思われる。このことからも、頼胤は守護として政治を執り行っていたことがうかがえる。なお、ここに見える「千葉四郎太郎入道」立沢四郎太郎胤義のこと、「千葉九郎殿」はかつての後見人・千葉八郎胤時の子、白井九郎胤定のことと推測される。

◎千葉頼胤周辺系譜

 千葉介胤正―+―千葉介成胤――千葉介時胤――千葉介頼胤―+―千葉新介宗胤
(千葉介)  |(千葉介)  (千葉介)  (千葉介)  |(亀若丸?)
       |                     
       +―三谷胤広―――千葉胤義         +―千葉介胤宗
       |(四郎)   (四郎太郎)         (亀弥丸?)
       |
       +―白井胤時―――千葉胤定
        (八郎)   (九郎)

 文永8(1271)年9月、幕府は元寇の備えのために、九州に領地を持つ御家人の九州下向を命じた(異国警護番役)。千葉氏も肥前国小城郡晴気庄を所領としていたため、頼胤も警備のために自ら在地に向かうこととなった。このとき、頼胤が率いていった中に千葉六党や親族は加わっておらず、主に下総国千田庄の一族(円城寺氏、原氏、岩部氏、中村氏、仁戸田氏など)を従えていたと思われる。これは千葉六党や親族は惣領家を支える一族であり、守護に随う下総の御家人であったが、各個が独立した御家人である上、九州に所領を持たなかったことから召集されなかったのであろう。一方で千田庄の千葉一族は千葉宗家の被官(直臣)であったために、肥前に随っていったと考えられる。

 博多で行われた蒙古軍と日本軍の戦いで、頼胤は防御線の石塁を越え、海岸付近の箱崎松原まで繰り出して元軍と衝突したが、このときの合戦で頼胤は蒙古軍の毒矢をうけて退却。小城郡で疵の治療に当たったが、建治元(1275)年8月16日、三十七歳の若さで亡くなった。法名は常善法慶院・長春常善院

 彼の死が下総国に伝えられると、八幡庄にあった十二歳の長男・宗胤が九州肥前への出陣を命じられ、弟・胤宗が下総の留守を守ることとなった。のち、宗胤亡き後、胤宗は幼少の宗胤嫡子・太郎千葉大隈守胤貞)を差し置いて家督を継承。胤宗の系統が下総千葉介となり、太郎胤貞は父の遺領であった八幡庄・千田庄を本拠として従兄弟の千葉介貞胤と抗争することとなる。

 幕府の官僚・三善家の一族で、美作国布施郷地頭であった布施隼人佐康清の五代の子孫・布施右馬允政康は、千葉介頼胤の娘を正妻に迎え、子息の布施太郎左衛門尉康長は暦応2(1339)年2月10日に亡くなった。法名は宥禅。その子・布施太郎左衛門尉胤康、布施孫三郎胤雄はいずれも諱に「胤」字を用いていることから、千葉氏との深い関わりを見ることができる。

 胤康の孫・布施藤左衛門尉藤常は永享11(1439)年2月10日、鎌倉公方・足利持氏(左兵衛督)が鎌倉の報国寺で自刃した際にともに亡くなった。四十一歳。その子・布施藤左衛門尉康晴は文明3(1471)年、おそらく千葉介孝胤に属して、伊豆国堀越に本拠を構えていた足利政知(将軍・義政の弟)を討つべく相模に出陣していた。孝胤は古河公方・足利成氏を自分の領内に庇護していた経緯もあり、小山下野守持政らとともに、幕府の指示を受けて関東に下った足利政知を関東から追放しようと画策していたようである。しかし、古河公方勢は伊豆国三島で打ち破られ、孝胤「高浜六郎」という人物に敗れ、布施康晴は常陸国へ逃れた。

●布施氏略系図

 +―源頼朝乳母                          +―胤宗―――貞胤―――――氏胤
 |                                |(千葉介)(千葉介)  (千葉介)
 +―妹                              |
   ∥―+―康信――町野康俊──康持─―――政康   千葉介頼胤―+―娘
   ∥ |(善信)(加賀守) (散位)  (加賀守)(千葉介)    ∥――――康長―――――+―胤康
   ∥ |                              ∥   (太郎左衛門尉)|(太郎左衛門尉)
⇒三善康光+―康清===布施康定――康高――――康重――――康秀――――政康          |
(山城介) (隼人佐)(左衛門尉)(左衛門尉)(太郎左) (孫太郎) (右馬允)        +―胤雄――+
                                                 (孫次郎)|
                                                      |
               +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+
               |
               +―胤定――――藤常――――――康晴―――――康兼
                (孫藤太) (藤左衛門尉) (藤左衛門尉)(隼人佐)

◆頼胤の居城について◆

本福寺
礼拝山敬恭院本福寺

 頼胤は下総守護として、国府(市川市国府台)に近い守護所に館を構えていたと推測され、頼胤曽谷教信、大田浄明などの在地豪族を官僚として召抱えていったのでした。

 頼胤は守護所の北6キロほどにある「小金」という台地上に館を築き、ここを拠点としました。西には太日川(江戸川)に面した湿地帯が広がり、急崖の下には入り江が入り込んでいたようです。国衙とは舟を用いて連絡していたと考えられます。現在、城跡には「明治神社」とよばれる妙見神社があり(失火で焼失し、再建中)、所々に土塁が残っています。また、松戸市内唯一の時宗の寺院・礼拝山敬恭院本福寺があり、同寺に伝わる鉦鼓に陰刻された年号によって、嘉元元(1303)年の創建と伝わります。同寺の梵鐘には「六崎」という刻字があり、本土寺の梵鐘と同様、印旛郡六崎(佐倉市六崎)で鋳造されたものとわかります。

 館のすぐ北には菩提寺として、鎌倉極楽寺住持の良観房忍性を開山に迎え、大日寺(現在の法王山万満寺)を建立しています。館は頼胤の跡を継いだ宗胤千葉介胤宗千葉介貞胤千葉介氏胤らも使用したと思われますが、貞胤は大日寺を千葉の北斗山金剛授寺(現在の千葉神社)に移し、千葉介満胤の代に馬橋の旧大日寺を、鎌倉公方・足利氏満の「満」字を賜って「万満寺」と改称したそうです。

◆千葉氏の政務官僚たち◆

 このころの千葉氏には、官僚的な立場にいたと思われる人物の名前がいくつか見ることができます。とくに著名な人物としては、中山法華経寺の根本の一つである「法華寺」を建立した「富木常忍」がありました。そのほか、やはり法華経寺の基となった「本妙寺」の前身の館にんでいた「大田乗明」、そして、古文書には出なかったものの、困窮していた千葉家の財政を切り盛りして、必死に奔走していた「法橋長専」なる人物がありました。

富木常忍(1216-1299)


 建保2(1216)年、因幡国法美郡富城郷に生まれる。中原氏の一族と思われる。父は中太入道蓮忍。通称は五郎。名字は「とき」とよむ。実名は「常忍」と書いて「つねのぶ」か。日蓮の最古の檀越。のち出家して「日常」と号した。

 父の中太入道蓮忍が富木郷の所領争いのために下総国へ下ったと思われ、常忍は下総国八幡庄谷中郷若宮戸村に住した。そして、千葉氏の知遇を得た常忍は千葉氏の被官となり、建長5(1253)年ごろに鎌倉へ下ったおりに、日蓮と出会う。その後、日蓮は幕府に『立正安国論』を提出したことから、幕府から迫害を受けることとなり、このとき常忍が日蓮をかくまっており、日蓮の絶大な信頼を得ていた。さらに日蓮から『観心本尊抄』などの保管を求められる学識者でもあった。

 建治2(1276)年3月の日蓮の書状『忘持経事』(『日蓮聖人遺文』)のなかに「朝出でて主君に詣で、夕に入りて私邸に返る」とあることから、現在の市川市内にのどこかに館を持っていた千葉氏(千葉介頼胤)のもとへ出仕し、夕方になってから若宮の方に帰宅したと考えられる。

富木常忍廟所
奥之院日常廟

 日蓮の死後、子の日頂と対立して出家し、「常修院日常」と号した。そして自邸の法華堂を改めて「法華寺」と号し、邸域を寺地としている(現・奥之院)。この寺院がのちの中山法華経寺の根本となり、日常は下総の門徒を指導して日蓮宗中山門流の基礎を築いた。さらに晩年、千葉介家でともに仕えていた同僚・大田金吾乗明の子である日高(本妙寺住持)を弟子に迎え、永仁7(1299)年3月4日、『置文』を制し、日蓮の教えを守ることを伝えた。

 6日、各地から収集した日蓮遺文を目録化して『常修院本尊聖教事』を作り、同月20日、法華寺とこれら文書を中山本妙寺の日高へ、真間山弘法寺を日揚へそれぞれ付して、互いに融和すべきことを指示したのち示寂。84歳。

大田乗明(????-????) 


 千葉家の有力被官。発祥地などは不明だが、下総国八幡庄谷中郷の中山館に住んでいた豪族。武蔵国の太田氏との関係も不明。名字は「大田」が正しいか。通称は金吾。「金吾」は「衛門府」の別称である事から、「右衛門尉」「左衛門尉」などに任官していたと思われ、御家人であろう。一説には幕府問注所・太田氏の子とされる。

大田乗明
大田稲荷(大田乗明館跡)

 大田氏は、北部の大野(市川市大野)にも館を持っていたと伝えられており、八幡庄曾谷(市川市曽谷)の『長谷山安国寺縁起』によれば、文安元(1264)年の記述として「大野の城主、太田左衛門尉」という名が見える。「太田左衛門尉」つまり、「太田金吾」であり、「太田(大田)金吾乗明」とも何らかの関係があったか。

 彼の子・日高は正嘉元(1257)年に生まれた。通称は伊賀公と称している。日蓮の没後は身延守塔輪番の一人に選ばれた。永仁7(1299)年には師匠・日常から若宮法華寺を受け継ぎ、『日常置文』をよく守り中山門流を運営していく。日高は父・大田乗明の館跡を「本妙寺」に改め、自ら初代住持となっていた。さらに若宮法華寺を受け継いだことから、法華寺の住持も兼帯することとなり、「本妙・法華両寺一主の制」をはじめている。

 千葉大隈守胤貞(のち、肥前千葉氏当主)は、父・千葉新介宗胤の居館(八幡庄曾谷にあったと思われる)にあったと思われ、本妙・法華寺とも何らかの関わりを持つようになり、胤貞は日蓮宗に帰依。日高も胤貞をパトロンとして経済的な基盤をはじめ、寺院としての地位を高めていったと考えられる。そして日高は胤貞の養子となっていた日祐(浄行院)を弟子とし、正和3(1314)年、17歳の日祐を本妙・法華両寺の主に定めたのちの4月26日、58歳で示寂。

法橋長専(????-????)


 千葉家の財政担当の被官。出身などは一切不明。通称は越前法橋房富木常忍と同じく、その能力を買われて千葉家の被官となった人物で、古くからの千葉家臣ではない。いつごろ千葉家へ仕えたかも定かでないが、頼胤の父・時胤あたりからか? 

 主に富木常忍がやり取りした私信など、保存不要と判断され廃棄となった紙の裏を、日蓮が再利用した文書が『日蓮遺文』の中に四冊ほど残されているが、その再利用された文書の表側の方に記されていた人物名。ただし、日蓮が紙背を再利用した際に、利用するサイズに裁断されたり、複数の紙にまたがる文書がバラバラになったりして、全体像はつかみにくくなっている。ただし、本来は廃棄されてしまう文書が再利用されたことによって、歴史に名を留めないような人物が、実は必死に千葉家の財政を支えていたことがわかる。そして、その人物が親友・富木常忍にのみ洩らした、率直な感情の吐露まで窺い知ることができる。幕府有数の裕福な御家人として知られていた千葉家であったが、その財政はいつしか逼迫し、当然のように商人や高利貸しから借金をして、長専は担当官僚として常に彼らの矢面に立たされていた。 

 宝治2(1248)年6月2日、「ぬきなの御局」と連署にて「たいふ明仏」のおそらくは所領問題と思われる訴訟について、反論する陳状が出されている。ここに見える「ぬきなの御局」は不明だが、千葉氏の被官である長専と名を連ねていることから、地位の高い女性であったと思われる。「ぬきな」については、遠江国貫名の領主・貫名氏があるが、貫名氏の一族である貫名重忠(日蓮の父)は安房国小湊へ配流されており、この人物とも関係があるのかもしれない。 

◆貫名氏略系譜(『日本系譜総覧』) 

⇒井伊共直―+―貫名政直――行直―+―重実――――重忠―――――日蓮
      |          |
      +―赤佐俊直     +―石野直友
      |
      +―井伊盛直――良直―――弥直――+―泰直―――+―行直――…―井伊直政→《彦根藩主井伊家》
                       |      |      (兵部少輔)
                       +―田中直家 +―直助
                       |
                       +―井平直時
                       |
                       +―谷津直村
                       |
                       +―石岡浄寛

 建長元(1249)年11月20日、主の命を伝える『法橋長専奉書』「六崎殿」へ宛てており、何ごとか「いそぎ」の「御ようい」するよう指示している。系譜上に見える六崎胤朝の子孫へ宛てての文書か。年未詳ながら10月10日、「胤氏」なる人物が蓮華王院造営の段銭として、六崎・篠塚両郷分(両郷とも現在の佐倉市内)三貫八百文のうちから三貫二百文を納める旨の文書を「法橋御坊」に宛てて提出している。このとき、長専の主と思われる千葉介頼胤は11歳。 

 蓮華王院は建長元(1249)年3月に焼失し、九条道家(関白)によって建長3(1251)年8月に上棟されていて、その際、千葉介頼胤三百貫の分担金を求められており、その一部を「胤氏」が負担していたことがわかる。「胤」という字から千葉一族であろうと推測され、さらに六崎・篠塚という隣接した地域を領している人物ということで、六崎氏のことであろうと思われる。以降は想像だが、建長元(1249)年10月10日、六崎胤氏は3貫800文のうち3貫200文を納めたが、いまだ600文が未納であったため、11月20日、長専が「六崎殿」へ急ぎの用意をするよう指示したのではなかろうか。 

⇒千葉介常胤―+―千葉介胤正―+―千葉介成胤―――千葉介時胤――――千葉介頼胤
       |       |
       |       +―上総介常秀―――上総権介秀胤
       |       |
       |       +―六崎胤朝――――兵衛尉(胤氏?)―兵衛太郎
       |        (六郎)
       |
       +―国分胤通――――国分常義――――胤実―――――――胤長
       |(五郎)    (六郎)    (六郎太郎)   (六郎)
       |
       +―東 胤頼――+―東 重胤――→《美濃・下総東氏》
        (六郎大夫) |
               +―木内胤朝――――下総胤時―――――小見胤直―――――胤義――泰義
               |        (四郎)     (弥四郎左衛門尉)(六郎)(彦六)
               |        
               +―小見胤光――+―六郎太郎
                (六郎)   |
                       +―六郎四郎

 そして建長3(1251)年2月20日には、「かとりのとうへい四郎(香取の藤平四郎)」「弥五郎すけよし男」「藤入道」の訴訟について、千葉介と思われる人物から命を受け、「ときの五郎殿」「にへた殿」「さとう中務殿」に宛てて『長専奉書』出されている。この中に見られる「ときの五郎殿」は富木五郎常忍のことで、「にへた殿」は「仁戸田殿」か? 仁戸田氏は岩部氏と同族で、のちに肥前国の小城千葉氏の重臣となっている。「さとう中務殿」については不明。 

 建長4(1252)年3月28日、長専は「富城殿(=富木常忍)」に宛てて『長専書状』を発給しているが、鏑木郷よりの御公事用途銭一貫六百文を受けとった事を報告し、さらに「六郎殿」からの依頼である馬のことも了解したことを記している。ただし、最近は葦毛の馬がよいと思うが、二疋のうちから一疋、良いほうを「のぼせ=差上げる?上方へ向わせる?」ようと思うものの、鹿毛の馬もいいし、さらには去年までここにいた鬣のしだれた白馬ならばよかったのだが、などと記されている。

 ここに見える「六郎殿」とはいかなる人物か実名は不明だが、「殿」がついている事から主君・千葉氏の一族にあるような人物と思われる。『中山法華経寺史料(中尾堯氏著:吉川弘文館)によれば、伊賀国久吉名の地頭である「おみの六郎」という人物がこれらが記されている紙背文書群に見える。「おみの六郎」は「小見六郎胤光」のことか?ただし、系譜に見える小見胤光は世代的に難しいか。もうひとり、小見六郎胤義なる人物はあるが、こひれは世代的に千葉介頼胤よりもあとになってしまう(上記系譜参照)。また、千葉介頼胤の後見人の一人に、「国分六郎胤長」がいる。 

 なぜ広大な所領を持ち、御家人きっての裕福者といわれた千葉家が鎌倉中期に至って赤字を出すほどの財政難に陥ったのかは文書からはうかがえないが、幕府による次々の負担要求と、下総国特有の香取神宮への出費などが大きいと考えられる。 

 建長元(1249)年2月1日、京都閑院内裏が炎上し、「千葉亀若丸(頼胤)」が西対の造営を担当することとなっている。さらに5月27日付『平亀若丸請文案』によれば、「至亀若丸者、僅雖有嫡家相伝之名」といい、さらに所領は一族たちに分与されて自分が有する土地は少なく、しかも大番役の年である事から金銭的にも苦しいため合期致し難いことを幕府へ訴えている。また、建長元(1249)年3月、京都蓮華王院が焼失、建長3(1251)年8月に上棟されているが、千葉介も三百貫文の負担を強いられており、その財政赤字は膨らむ一方だった状態がよくわかる。 

 その後も長専が千葉家に仕え続けていたのかなどの行方は不明。 

●某年4月29日「平頼胤請文」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  上総国南郷住人極弘重申節女母子事、任被仰下之旨、相尋子細候之處、
  千葉四郎太郎入道如此令言上候者也、仍為御披見、
  訴陳状進上之、以此旨、可有御披露候、恐惶謹言、

     四月廿九日         平頼胤 請文

請文…散状。上司もしくは身分の上の者から受けた命令文書について、履行を誓う文書。
   署名のあとに「請文」と記す。もしくは書状の裏に花押を書き入れる方式を取る。

●某年7月19日「平某書状」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  僧了尊申夜討之間事、就白状、相尋子細之處、生口等之申状、
  参差之處、更以難是非候者也。仍須仰上裁之由、
  令申候了、毎事期後信候、恐々謹言、

     七月十九日    平(花押)※←頼胤の花押と同一
  謹上 白井九郎殿

●某年9月15日「平頼胤請文」(『金沢文庫文書』:『鎌倉遺文』所収)

  下総国寺崎郷住人末弘申六郎太郎男并稲事、任被仰下候之旨、
  早速可令糺返之旨、国分四郎左衛門尉季行下知仕候畢、
  以此旨、可有御披露候、恐惶謹言。

     九月十五日     平頼胤 請文

●文永8(1271)年の香取社遷宮についての『造宮記録』の抜粋

              ・
              ・
              ・
 勢至殿一宇 一間 葦葺 在金物
  作断官米三十石
   神保郷本役也 仍地頭千田尼造進□
 若宮社一宇 一間 葦葺 在金物
  作断官米五十石
  萱田郷本役也 仍地頭千葉介頼胤造進□
              ・
              ・
              ・

●文永8(1271)年の香取社殿の造営負担交名(『市川市史 第二巻』)

所領名 人名

負担(石)

不明 葛西経蓮 1,050
上野方郷 辛島地頭等 150
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 70
印西条 地頭越後守(金沢実時:北条一族) 180
小見郷 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東 一族) 170
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 30
神保郷 地頭千田尼 30
大戸庄
神崎庄
地頭等(国分胤長?:国分一族)
   (神崎景胤?:千葉一族)
100
猿俣郷 地頭葛西経蓮 60
平塚郷 地頭越後守実時(金沢実時:北条一族) 60
風早郷 地頭左衛門尉康常(風早康常:東 一族) 70
矢木郷 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) 70
萱田郷 地頭千葉介頼胤 50
結城郡 地頭上野介広綱(結城広綱) 120
埴生西条 地頭越後守実時 50
河栗遠山方 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) 100
大須賀郷 地頭等(大須賀宗信?:大須賀嫡流)
行事所沙汰
行事所沙汰
100
30
30
遠山方二丁
葛東二丁
千葉介頼胤 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
吉橋郷 地頭千葉介頼胤 30
埴生西条富谷郷 地頭越後守実時(金沢実時:北条一族) 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
行事所沙汰
行事所沙汰
30
30
30
印東庄 地頭千葉介頼胤 100
葛西郡 地頭葛西経蓮 100
大方郷 地頭諏訪真性
行事所沙汰
100
30
国分寺 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) 60
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
行事所沙汰
50

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