桓武天皇

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桓武天皇  (737-806) 【桓武天皇以前】【高野朝臣新笠

御諱 山部王⇒山部親王
和風諡号 日本根子皇統弥照尊
生没年 天平9(737)年~延暦25(806)年3月17日
在位 天応元(781)年4月3日~延暦25(806)年3月17日
光仁天皇(四十九代)
高野新笠(天高知日之子姫尊)
官位官職 天平宝字8(764)年10月7日
天平神護2(766)年11月5日
神護景雲4(770)年10月1日
神護景雲4(770)年11月6日
宝亀2(771)年3月13日
宝亀4(773)年正月2日
天応元(781)年4月3日
従五位下
従五位上
従四位下・参議
親王宣下(山部親王)・四品
中務卿
立太子
践祚

 人皇五十代。父は四十九代の光仁天皇。母は高野朝臣新笠和史乙継の娘。はじめ山部王。和風諡号は日本根子皇統弥照尊。漢風諡号は桓武天皇「桓」とは『逸周書』謚法解に曰く「辟土服遠」を表し、「武」とは「剛彊直理」「威彊叡徳」「克定禍乱」「刑民克服」「大志多窮」を表す。陸奥遠征と平安京造営による国力の増大を果たしたことによる諡号であろう。別称は柏原天皇

 聖武天皇の治世である天平9(737)年、天智天皇の孫・白壁王の第一王子として誕生した。父王・白壁王は、聖武天皇の父・文武天皇とは従兄弟の間柄になる。

 天平宝字8(764)年9月11日に鎮圧された「恵美押勝の乱」の翌日の9月12日、父の白壁王「正三位」に叙された(『続日本紀』)。当時、一世王で生存していた人物はなく、二世王は白壁王ひとり、旧二世王は文室真人浄三(智努王)、文室真人大市(大市王)の兄弟のみであった。すでに白壁王は官位においても諸王筆頭であり、キサキは聖武天皇皇女・井上内親王という抜きんでた存在にあった。山部王は庶子とはいえその皇子であった。天平宝字8(764)年10月7日、山部王「詔加賜親王大臣之胤、及預討逆徒諸氏人等位階」として、「无位(無位)」から「従五位下」に叙された。同時に「矢口王、三関王、大宅王、若江王、当麻王、坂上王」が叙位されているが、同年9月の「恵美押勝の乱」の功績によるものではなく「親王」の胤としての叙位だろう。ただ、彼らの系譜は不明。

 天平神護2(766)年11月5日、山部王は「従五位上」に進み、朝廷の官吏としての道を歩み始めた。このころ山部王は「大学頭」となっている。

 しかし、神護景雲4(770)年8月4日、称徳天皇が西宮寝殿で崩御すると、藤原永手・百川らによって称徳天皇の勅として、山部王の父・白壁王を皇太子とする「遺宣」が読み上げられ、白壁王は10月1日に践祚(光仁天皇)した。

⇒斉明天皇―+―天智天皇―+―志貴親王――光仁天皇――桓武天皇
      |      |
      |      |
      |      +―元明天皇
      |         ∥
      |         ∥――――文武天皇――聖武天皇
      +―天武天皇―――草壁皇子

 父・白壁王の践祚に伴ない、山部王従四位下に叙せられ、大学頭を転じて侍従となった。天皇の皇子となったための措置であろう。代わって従四位下吉備朝臣泉が大学頭となる。

■皇后井上内親王の大逆事件

 11月6日、光仁天皇は妃の井上内親王「皇后」と定め、「兄弟姉妹諸王子等悉作親王弖冠位上給治給」と、王子王女らをそれぞれ「親王」「内親王」と改め、叙位を行った。これにより山部王「四品」「山部親王」となった。

無位⇒三品 酒人内親王(母:井上内親王。のち斎王を経て桓武天皇妃)
従四位下⇒四品 山部王山部親王(母:高野新笠。のち桓武天皇)
衣縫女王⇒衣縫内親王(光仁天皇姉妹)
難波女王⇒難波内親王(光仁天皇同母姉)
坂合部女王⇒坂合部内親王(光仁天皇異母姉)
能登女王⇒能登内親王(母:高野新笠。市原王妃)
弥努摩女王⇒弥努摩内親王(神王妃)
従五位下⇒従四位下 桑原王(父王不明)
鴨王(父王不明)
神王(光仁天皇弟・榎井親王の王子)
無位⇒従四位下 浄橋女王(父王不明)
飽波女王(父王不明)
尾張女王(光仁天皇兄・湯原王の王女。光仁天皇妃)

 そして宝亀2(771)年正月23日、「皇后御子」の他戸親王皇太子と定めた。他戸親王は山部親王の異母弟であるが、皇后井上内親王の子であるため皇太子とされた。一方、山部親王の母・和史新笠の地位が低かったことから、異母妹・朝原内親王(母は井上内親王。三品)よりも下位に定められている。

 2月22日、光仁天皇即位に尽力した左大臣藤原永手が五十八歳で亡くなった。天皇は永手を深く信任しており、その死を聞くと大変落ち込み、中務卿文室真人大市、宮内卿石川朝臣豊成を左大臣邸に派遣して詔を遣わしている。

 3月13日、山部親王中務卿に任じられた。このような中、宝亀3(772)年3月2日、皇后・井上内親王光仁天皇を巫蠱していると従七位上裳咋臣足嶋が訴え出たため、井上内親王は大逆罪に問われて廃された。5月27日には連座して他戸親王も皇太子を廃されて「庶民」とされた。「親王」の位もおそらく召し上げられたと思われ、以降は「他戸王」と称されている。

■山部親王の践祚(桓武天皇)

 他戸王が皇太子を廃されたことで、宝亀4(773)年正月2日、山部親王は勅命により「山部親王立而皇太子」と定められ立太子した。皇后の誣告罪は山部親王を擁立するための、藤原永手・百川の陰謀と考えられるが、山部親王は次期天皇としての地位を約束された。

 10月19日、井上内親王は14日に病死した光仁天皇の実姉・難波内親王を厭魅した罪を着せられ、廃太子他戸王とともに「大和国宇智郡沒官之宅」へ移らされた。この井上内親王が幽閉されていた旧宅があったとされている地には「井上院(五條市岡口)」跡が遺されている。そして、宝亀6(775)年4月27日「井上内親王、他戸王並卒」と記録されており、母子は同日に幽閉前で亡くなっている。この死は明らかに不自然であり、自殺や暗殺の可能性が強いか。

 こののち、疫病や落雷、雹、蝗害、旱魃などがたて続けて発生。宝亀8(777)年9月18日には、内大臣藤原良継(式家)が六十二歳で亡くなった。宝亀4(773)年正月2日、山部親王が皇太子となる。このころ藤原良継は娘の乙牟漏山部親王の妃としており、井上内親王の失脚は藤原良継らによる陰謀だったのかもしれない。11月1日には「天皇不豫」、12月25日には皇太子山部親王が病に倒れた。これら天変地異は井上内親王の怨霊の仕業であるとされ、12月28日、井上内親王の遺骨を改葬することを決定。その墓を「御墓」と称させ、守塚を一軒附けるという御陵に准ずる対応とし、さらに宝亀9(778)年1月20日、従四位下壹志濃王、石川垣守を井上内親王の埋葬墓に遣わして遺骨を掘り起こし、改葬した(宇智陵)。

 立太子より九年目の天応元(781)年4月3日、父天皇・光仁天皇が病のために山部親王へ譲位され、山部親王は践祚し(桓武天皇)、弟・早良親王皇太子と定めた。

 翌5月、天皇は後宮を司る中宮職を中務省に編入。宝亀11(780)年8月、光仁天皇より東北地方の蝦夷地平定を命じられていた持節征東大使・藤原小黒麻呂が帰京。12月、父・光仁太上天皇が73歳で崩御した。

 天応2(782)年閏正月1日、「因幡国守従五位下氷上真人川継」が謀反を企てたが、事が露見して京から逃走した。これを「氷上川継の乱」という。天皇はただちに「三関」を固める使者を遣わすとともに、「京畿七道」に川継を捕らえるよう下知。14日、「大和国葛上郡」で捕らえられた川継に対し、「潜謀逆乱、事既発覚」として法に照らして「罪合極刑」、川継の母・不破内親王「反逆近親、亦合重罪」とされた。しかし、光仁太上天皇崩御からまだ年月も経たずに極刑とするのは忍びないとして、川継は死一等を減じて伊豆国三嶋へ配流とされ、不破内親王川継の姉妹淡路国へ流罪とされた。川継の流された三嶋は、父・氷川塩焼の流された地でもある。また、川継は妻・藤原法壱(刑部卿藤原浜成娘)の同道を許されている。氷上川継は宝亀10(779)年正月25日、無位から従五位下に叙されているが、父は天武天皇の孫・塩焼王、母は聖武天皇の娘・不破内親王、伯母は孝謙天皇、井上内親王(桓武天皇の義母)という皇親である。

 +―天智天皇―+―――――志貴親王―――――――――――――――――――光仁天皇―――桓武天皇
 |      |                             ∥
 |      |                             ∥
 |      +―――――元明天皇   +―文武天皇―――聖武天皇    ∥―――――他戸親王
 |      |        ∥   |         ∥      ∥
 |      |        ∥   |         ∥―――+―井上内親王
 |      +―持統天皇   ∥―――+―吉備内親王  光明皇后 |
 |         ∥     ∥      ∥          |
 |         ∥――――草壁皇子    ∥          +―孝謙天皇[称徳天皇]
 |         ∥            ∥          |
 +――――――――天武天皇          ∥          |
           ∥            ∥          +―不破内親王
           ∥――――高市皇子    ∥             ∥
    胸形君尼子――娘     ∥      ∥             ∥―――――氷上川継
                 ∥―――――長屋王            ∥
        天智天皇――――御名部皇女                 ∥
                         天武天皇――新田部親王―塩焼王

 この「氷上川継の乱」に加担したとして、天応2(782)年閏正月18日、大宰府へ勅が下され「員外帥藤原朝臣浜成之女」が川継の妻として謀反に加担したとして、浜成の所帯および参議・侍従職を解いた。また、「正五位上山上朝臣船主」隠岐守へ、「従四位下三方王」日向介へ左遷した。さらに翌日19日、「左大弁従三位大伴宿禰家持」「右衛士督正四位上坂上大忌寸苅田麻呂」「散位正四位下伊勢朝臣老」「従五位下大原真人美気」「従五位下藤原朝臣継彦」の五名が職を解かれ、川継の姻戚や友人三十五名が京を追放された。しかし、氷上川継の乱の余波はこれに留まらなかった。3月26日には、「従四位下三方王」「正五位下山上朝臣船主」「正五位上弓削女王」の三名が川継に加担していたとして、三方王・弓削女王は日向国へ、山上船主は隠岐国への配流とされた。そして6月14日、人臣最高位の「左大臣正二位兼大宰帥藤原朝臣魚名」までもが加担していたとして「免大臣」とされ、その子「正四位下鷹取」石見介に、「従五位下末茂」土左介へ、「従五位下真鷲」がそれぞれ左遷された。魚名自身は大宰帥とされ、赴任の命が下るが、6月28日に摂津国に至って病に倒れ、病が癒えてからの進発とされた。しかし、魚名はその後も快復せず、天皇は延暦2(783)年5月11日、京都へ帰還させるも彼の病は癒えず、容態は悪化の一途をたどった。

 また、延暦2(783)年正月11日、外戚の一族・無位の女孺和史家吉従五位下を授けている。これは外戚和氏の優遇措置とみられる。

 2月7日には「正三位藤原朝臣乙牟漏」「従三位藤原朝臣吉子」夫人とした。藤原乙牟漏は当時隆盛を極めた式家の藤原良継の娘、一方、藤原吉子は藤原家の長男流南家藤原氏の藤原是公の娘だが、すでに式家に勢力は衰退していた。

 蘇我馬子――蘇我倉麻呂――蘇我連子――蘇我媼子    【南家】
(大臣)  (大臣)   (左大臣)   ∥―――――+―藤原武智麻呂―――藤原乙麻呂―――藤原是公―――藤原吉子
                     ∥     |         (武部卿)   (右大臣)    ∥――――――伊予親王
                     ∥     |【北家】                      ∥
              藤原鎌足―+―藤原不比等 +―藤原房前――……→藤原道長           桓武天皇
             (大職冠) |(右大臣)  |                          ∥――――+―安殿親王
                   | ∥     |【式家】                      ∥    |【平城天皇】
                   | ∥     +―藤原宇合―――――藤原良継―――――――――――藤原乙牟漏 |
                   | ∥               (内大臣)                 +―加美能親王
                   | ∥      【京家】                            【嵯峨天皇】
                   | ∥―――――――藤原麻呂
                   | ∥
                   +―五百重娘

 4月14日、第一皇子の小殿親王の名を「安殿親王」と改めた。夫人の藤原乙牟漏との子で、のちの平城天皇である。そして4月18日、「正三位藤原夫人(乙牟漏)」を皇后に冊立した。

 4月20日、「左京人外従五位下和史国守等卅五人賜姓朝臣」とあり、生母・和史新笠の一族三十五人に対して「和朝臣」姓を与えた。

 6月21日、「従四位下多治比真人長野」刑部卿とした。彼の娘・真宗はのちに桓武天皇の夫人となり、桓武平氏の祖となる葛原親王のほか、佐味親王、賀陽親王、大徳親王、因幡内親王、安濃内親王らの母となった女性である。

         桓武天皇
          ∥―――――+―葛原親王―+―平高棟
          ∥     |(式部卿) |(大納言)
          ∥     |      |
 多治比長野―――多治比真宗  +―佐味親王 +―平善棟
(刑部卿)           |(中務卿) |(無官)
                |      |
                +―賀陽親王 +―高見王―――平高望
                |(弾正尹)  (無官)  (上総介)
                |
                +―大徳親王
                |(無品カ)
                |
                +―因幡内親王
                |(無品)
                |
                +―安濃内親王
                 (無品)

 7月19日、「紀朝臣船守」正四位上とした。船守の父は紀猿取または紀諸人とされており、桓武天皇の祖母・紀橡姫とは再従兄弟または兄弟という関係にある。また、船守の娘・紀若子は桓武天皇に召し出され、明日香親王を産んでいる。

 7月23日、天皇は魚名に連座して左遷されていた魚名の子「石見介正四位下藤原朝臣鷹取」「土佐介従五位下藤原朝臣末茂」らを急ぎ京都に召還した。魚名の容態を考慮したものと思われるが、魚名はそれから二日後の25日、63歳で薨去した。7月30日、天皇は詔を発して魚名について、「疇庸叙功、彰于旧典、赦過宥罪」とし、その忠節を賞した上で、「今故贈以本官、酬其先功、宜去延暦元年六月十四日所下詔勅官符等類、悉皆焼却焉」した。「延暦元年六月十四日」の詔勅とは、魚名を氷上川継の加担者として大宰帥へ左遷する旨の勅令である。こうして魚名は名誉を回復した。藤原北家の魚名失脚の後、藤原式家が隆盛していることから、氷上川継の乱は式家の陰謀かもしれない。

 8月27日、母方の出身氏族・和氏の一族である外従五位下和朝臣家吉と、真神宿禰真糸従五位下を授けた。

 11月19日、「田村後宮」に祀っていた今木大神従四位上に叙した。この「今木大神」については後述するが、「皇大御神」とされており、光仁天皇の宮「田村後宮」において、天皇の祖先神を祀っていたものだろう(平野神社について)。 

 12月15日、「大和国平群郡久度神」従五位下に叙して「官社」とした。この神ものちに平安京の平野神社へ勧進され、皇大御神の「今木神」、皇御神の「古開神」とともに祀られることになる(平野神社について)。

■遷都と天変地異、崩御

 延暦3(784)年5月、桓武天皇は遷都を行うべく、藤原種継(式家)を山背国長岡村に派遣。翌月、種継を造長岡京使に任じて長岡宮造営に着手した。そして11月、長岡京はまだ完成していなかったが、遷都の勅令を発布して平城京を廃し、長岡京へ遷都した。

 翌延暦4(785)年7月、長岡京造営のために全国から三十一万四千人もの人夫が徴収され、造営は順調に進むかにみえたが、9月23日夜、造長岡京使・藤原種継が、対立していた大伴継人(大伴家持の父)に射殺されたことによって工事は中断。彼の暗殺には皇太子・早良親王が関わっているとされ、激怒した桓武天皇は早良親王の皇太子を廃して淡路国へ配流とした。早良親王は無実を訴え続けて食事を取らず、淡路へむかう途路で餓死した。わずか三十六歳であった。天皇は11月、第一皇子・安殿親王立太子した。

 すると、蝦夷蜂起や旱魃が発生。延暦8(789)年12月28日には実母・高野朝臣新笠が薨去。さらに皇太子・安殿親王も病で臥せってしまった。

 延暦11(792)年6月10日、陰陽寮にて神卜が行われた結果、早良親王の怨霊のしわざであるとされ、ただちに鎮魂の儀が執り行われた。しかしその後も怪異はおさまらず、延暦19(800)年7月、天皇は早良親王に崇道天皇の称号を与えた。

 また、延暦10(791)年3月23日、太政官は「今国忌稍多、親世亦尽、一日万機、行事多滞、請親尽之忌、一従省除」として、国忌対象の縮小を奏上した(『続日本紀』)。これは『礼記』の「天子七廟、三昭三穆与太祖之廟而七」及び、同じく『礼記』の「舍故而諱新」「舍親尽之祖、而諱新死者」を根拠とし、太祖廟及び「三昭三穆」の七廟を祀ることとするもので、遠き祖を捨て新たに死する者を諱むと説いた。

 一方で、天皇は東北地方平定のために軍勢をたびたび派遣。もっとも著名なのが延暦20(801)年2月に派遣された征夷将軍・坂上田村麻呂であろうか。翌年、胆沢城を築いて多賀城から鎮守府を移し、4月には蝦夷の大首長・大墓公アテルイを打ち破って降伏させ、その翌年には志波城を築いて朝廷の拠点をさらに北進させた。翌年正月、天皇は田村麻呂を「征夷大将軍」に任じ、三度東北へと出征させた。

 また、延暦23(804)年7月6日、肥前国田浦を出帆した第十六次遣唐使(大使:藤原葛野麻呂)には当時、一介の留学僧であった空海・最澄が同行している。

桓武天皇陵
桓武天皇陵

 天皇の治世は、長岡京・難波京などの造営、さらに平安京の造営と遷都、蝦夷地攻め、宗教界の統制強化、勘解由使の設置、勅旨田の設置などさまざまな政治改革がなされている。古い時代の奈良の都を捨てて、天智天皇の都・大津京に近く四神相応の地・平安京で新しい政治を始めたのであった。

 延暦25(806)年3月17日、崩御。御寿七十歳。4月1日、「日本根子皇統彌照尊」の御謚がおくられた。「桓武天皇」の漢風諡号がいつおくられたのかは記録がないが、承和7(840)年成立の『日本後紀』にはすでに「桓武天皇」の記述があることから、天皇の崩御まもなくおくられたのだろう。

 同年5月18日、皇太子・安殿親王が践祚して人皇五十一代(平城天皇)となる。陵墓は山城国紀伊郡柏原陵。現在、宮内庁が比定している桓武天皇陵は伏見区桃山町に存在しているが、それに隣接する伏見城が建つ山が実際の御陵本体とされている。豊臣秀吉によって伏見城が築城されたとき、破壊されてしまったという。

◆古代の天皇~桓武天皇◆

継帯天皇―+―安閑天皇              +―難波皇子―大俣王―栗隈王―美奴王―葛城王(左大臣・橘諸兄)
     |                   |
     +―宣化天皇――石姫皇女        +―莵道磯津見皇女(聖徳太子妃)
     |        ∥          | 
     |        ∥―――――敏達天皇―+―忍坂彦人大兄皇子
     |        ∥          |   ∥――――――――――――+―――――――舒明天皇
     |        ∥          +―糠手姫皇女          |        ∥
     |        ∥          |                |        ∥―――――――+
     |        ∥          +―尾張皇子――位奈部橘女王   +―茅渟王 +―皇極天皇     |
     |        ∥                   ∥          ∥  |          |
     +―――――――欽明天皇 +―用明天皇―――――――――厩戸皇子(聖徳太子)  ∥――+―孝徳天皇―有馬皇子|
              ∥   |                          ∥             |
              ∥―――+―推古天皇                     ∥             |
              ∥   |                          ∥             |
      曽我稲目―+―堅塩媛  +―桜井皇子――――――――――――――――――――吉備姫王           |
           |                                               |
           +―曽我馬子―曽我蝦夷―曽我入鹿                                |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

|                                  和史乙継――高野新笠
|                                          ∥―――――桓武天皇
+―天智天皇―+―施基親王――――――――――――――――――――――――――――光仁天皇
|      |                                   ∥
|      +―――――――元明天皇 +―元正天皇                 ∥―――――他戸親王
|      |        ∥   |                      ∥
|      +―持統天皇   ∥―――+―――――――文武天皇           ∥
|         ∥     ∥   |         ∥            ∥   
|         ∥――――草壁皇子 +―吉備内親王   ∥            ∥
+――――――――天武天皇          ∥      ∥―――聖武天皇 +―井上内親王
          ∥――――高市皇子    ∥      ∥    ∥   |
    胸形君尼子―娘     ∥―――――長屋王     ∥    ∥―――+―孝謙天皇
                ∥             ∥    ∥   |
        天智天皇―+―御名部皇女          ∥    ∥   +――――――――不破内親王
             |                ∥    ∥              ∥
             +―新田部皇女          ∥    ∥              ∥――――氷上川継
                ∥―――――舎人親王    ∥    ∥ 天武天皇――新田部親王―氷上塩焼    
               天武天皇         +―宮子   ∥
                            |      ∥
               藤原鎌足―――藤原不比等―+―――――光明子
                            |
                            +―武智麻呂  +―真楯―内麻呂―冬嗣―良房
                            |(南家藤原氏)|          (太政大臣)
                            |       |
                            +―房前――――+―魚名
                            |(北家藤原氏) 
                            |
                            +―宇合――――+―百川――緒嗣―春津―枝良―藤原忠文
                            |(式家藤原氏)|(左大臣)        (征東大将軍)
                            |       |
                            |       +―清成――種継――――+―仲成
                            |            (造長岡京使)|
                            +―麻呂――――――浜成        +―薬子
                             (京家藤原氏)             (嵯峨天皇女御)

◆桓武天皇の子孫たち◆

桓武天皇の子孫たち



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