手賀城沼南町手賀

 原氏の一族・手賀原氏の居城。北に手賀沼を望む断崖の上に位置し、古刹・興福院を城内の曲輪に有した城塞。

 手賀が原氏領となったのは原胤貞(上総介)が千葉介勝胤から相馬郡手賀六百貫を下賜されたのが始まりとされています。ただし、室町時代の応永年中、新田岩松氏が作成した『岩松氏本知行分注文案』によると、手賀、布施 彼両村之事同闕所、泉治部大輔原将監とあり、手賀・布施は闕所として泉治部大輔、原将監の両名によって支配されていたことがわかります。ここに見える泉治部大輔とは隣の泉村を領していた泉相馬氏の一族と思われ、原将監手賀原氏の祖先なのかもしれません。

 天正7(1579)年4月3日、原胤栄(臼井城主)と千葉介邦胤が手賀城の原胤親を攻めた伝承が残っており、胤栄の襲来を知った胤親は、城内の興福院に戦勝祈願をして籠城。さらに小金大谷口城の高城胤辰、我孫子の諸将にも援軍を求めました。胤辰はこの要請にこたえ、救援の軍勢として安蒜安芸守・高柳図書・綿貫大学らに五百名の兵をつけて派遣しています。

 原胤親は、胤栄の来襲に備えて、領内の諸城に重臣を派遣して守らせました。南の押さえとして新たに柳戸城を築いて粟飯原左衛門以下五百名で守らせ、鷲野谷城には原勘解由布瀬城には染谷民部手賀入り江には篠原長門守名内台(白井町)には栗林左衛門手賀城本城原胤親自ら大山佐四郎・湯浅甚七郎(もと千葉氏の直臣か)らと五百人で固め、我孫子と小金大谷口に援軍要請の使者を派遣しました。

 6日、原胤栄は名内台城を攻め落とし、7日、柳戸砦に攻め寄せました。柳戸城将・粟飯原左衛門は胤栄の攻撃に耐えましたが、胤栄は家臣・神保内蔵助を柳戸に派遣して寝返らせることに成功。胤栄は布瀬・手賀・鷲野谷攻撃のため、北部へ回り込みました。

 一方、臼井勢が動いたことを知った手賀沼対岸の荒木三河守(柴崎城主)我孫子五郎右衛門(我孫子城主)河村出羽守(芝原城主)豊島肥前守(布佐城主)ら我孫子の諸将は芝原城に詰めていましたが、そこに胤親からの使者が来るや、総勢千六百人の連合軍を編成し、8日、手賀沼を舟でわたって千葉勢をうしろから突く作戦に出ました。しかし、舟では機敏に動くことはできず、鉄砲を撃ちかけられて百名もの死傷者を出したため、我孫子勢は一旦、沼の半ばまで退きます、そこに小金城主・高城胤則の援軍五百人が駆けつけて胤栄勢に鉄砲を撃ちかけたため、我孫子の諸将も上陸して襲いかかり、胤親も手賀城から攻めかかったことから、胤栄勢は西・南・北の三方向から敵を受けて、ついに壊走しました。

 本佐倉城に逃げ延びた兵士が千葉介邦胤に大敗を注進すると、邦胤は驚いて一族・大須賀尾張守に鷲野谷城攻めを命じ、尚原美濃守(粟飯原美濃守か?)には布佐城(我孫子市布佐)の攻撃を命じました。

 尚原の軍勢が布佐に向かっている知らせを受けた城主・豊島越前守は、香取若狭守とともに布佐城に戻って守りを固めましたが、千葉介邦胤がにわかに倒れ、大須賀・尚原両軍に引き揚げの命を出したため、第二次手賀合戦は行われることはありませんでした。胤親も千葉勢の伏兵を警戒して追撃せず、高城・我孫子勢とともに手賀城にて勝鬨をあげてそれぞれの城に引き揚げていったといいます。

 天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原城攻めの余波を受けて落城。城主・原氏もともに滅びますが、子孫は江戸南町奉行の与力に抜擢され、幕末の最後の与力・原胤昭は明治時代にキリシタンとなり、囚人の待遇改善や身寄りのない人たちのなどの保護など、慈善事業につとめた名士として有名です。

 
 
−手賀城
 
 ▲手賀城の碑
  
 ▲手賀城遠景
 
 ▲森閑とした森の中にある手賀原氏の墓所