金山寺山城(沼南町金山 字根古)

 相馬氏の城塞。城内には愛宕山円林寺が建立されています。

 古代の製鉄所が金山地区の谷津をのぞむ傾斜地に作られており、製鉄遺跡が五ヶ所発掘されました。ここからは製鉄の際に出たと思われる鉄くずのカタマリ(金糞)も発見されていて、製鉄所あとは地元ではカナクソと呼ばれているようです。すでに中世には発見されており、これが「金山:カナヤマ」の語源になったと思われます。

 鎌倉時代には南相馬郡泉村の一部で、泉村を知行していた泉相馬氏が領していました。泉胤顕の後家・尼妙悟が発給した正和4(1315)年8月7日付『尼妙悟譲状』(『相馬岡田文書』)のなかに、「しなんまこ六」いつミのうち、かなやまに二郎太郎かさいけ一けん、■■のた一ちやう」(泉の内、金山に二郎太郎が在家一軒、■■の田一町)が分与されました。「しなんまこ六」とは「次男孫六」のことであり、相馬孫六胤兼のこととなります。陸奥国行方郡岡田村に移ったのちも泉相馬氏は同地を支配したのでした。

 室町時代まで泉胤顕の子孫は金山を支配しましたが、相馬胤繁から嫡子鶴若丸へ所領を譲り渡すとした康暦3(1381)年5月24日付『相馬胤繁譲状の中に「金山」が見えたのち、奥州相馬氏の知行地から下総の地名はふっつりと姿を消します。こののち何があったのかは不明ですが、関東において小山氏の乱などが起こったことや、遠隔の地である下総相馬郡を支配することは、物理的に不可能であったのかもしれません。室町時代中期には、金山一帯は下総相馬氏の砦となったと言われており、実際に兵乱もかなり起こっているようです。

 この円林寺は金山城の出城的な役割を持っており、幾度となく戦火に焼かれ、その都度再興してきました。下総相馬氏の菩提寺である藤ヶ谷登慶山持法院も天台宗寺院である事を考えると、下総相馬氏と深い関わりを持っていたであろうと推測できます。ただし、現在は最近の土砂取りによって破壊されてしまっており、当時の面影を見ることはできません。

 天保14(1843)年の『金山村絵図』(秋谷家蔵)によれば円林寺は村の中心に描かれ、寺院を挟むように愛宕神社、鳥見神社が南北を挟むように位置していました。江戸時代は村人たちの聖地とも言うべき地域となっていたのでした。すぐ南に愛宕神社があり、愛宕大権現(勝軍地蔵)をまつっています。
 
標高 20メートル
比高  
形式 多郭雑型構造

 
 
−金山城
 
 ▲金山城の遠景
 
 ▲天台宗寺院・円林寺山門
 
 ▲香取神社