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鎌倉時代、相馬氏の祖・相馬師常がはじめて館を建てた所といわれ、東側は手賀沼の入り江に、東・西・南の三方向は天然の急崖で要害を形成していました。
相馬郡各地に建てられた相馬館の一つで、鎌倉後期に相馬胤村の子・相馬胤顕が入って「泉氏」の祖となりました。
応永2(1395)年ごろに作成されたと思われる『岩松氏本知行分注文案』によると、「手賀、布施 彼両村之事同闕所、泉治部大輔、原将監」とあり、手賀・布施は闕所として泉治部大輔、原将監の両名によって支配されていたこがうかがえます。ここに見える「泉治部大輔」とは相馬胤顕の子孫であろうと思われますが、系譜上では不明。延徳5(1493)年正月26日、「道樹 相馬泉殿」が亡くなっており、相馬胤顕の子孫かどうかはわかりませんが、泉相馬氏、もしくは藤ヶ谷相馬氏の一族が移り住んでいたと考えられます(『本土寺過去帳』)。
昭和45年の県の調査ののち城址は土取などのために著しく破壊され、現在は空掘りの一部と土塁跡のみが残されています。
| 標高 |
20メートル |
| 比高 |
15メートル |
| 面積 |
35アール |
| 城郭 |
単郭? |
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